熊埜御堂由香 10年06月20日放送
5.おもしろい夜 忌野清志郎
やってみようじゃないか。おもしろい夜になりそうだぜ。
ロックミュージシャン・忌野清志郎は言った。
2003年、はじめての「100万人のキャンドルナイト」で、
東京タワーのライトダウンイベントに誘われ、すぐさまOKした。
NGOナマケモノ倶楽部が日本ではじめたこのイベント、そのきっかけは
あるアメリカ人から1通の「おもしろい」メールが届いたから。
件名は「ひとりひとり暗闇で手をつなごう」。
ブッシュ元大統領の石油エネルギー政策に抗議する
そのメールは世界中に転送された。
それは声高に環境保護を訴えるものではなかった。
夏至の日の夜、電気を消し、暗闇の時間を自分の感性で
楽しもうというメッセージ、だから世界に広がった。
そして今夜は8年目のキャンドルナイト。
静かな闇の中だから浮かんでくる気持ちが
誰の中にもあるはず。
清志郎も歌っていた。
暗い暗い夜はいつでも
甘い甘い夢が暖めてくれるさ。
6.父にならなかった男 ウィルヘルム・ブッシュ
父親になることは難しくないが、
父親であることは極めて難しい。
近代漫画の始祖と言われたドイツ人
ウィルヘルム・ブッシュは言った。
1865年にブッシュが発表した絵本、
「マックスとモーリッツ」は、
ふたりのいたずら小僧が主人公だ。
ブラックユーモアに満ちた内容で、
最後にはふたりは臼で潰されて、
アヒルの餌にされてしまう。
気難し屋のブッシュは生涯独身だった。
父親らしくあること、その難しさを
躊躇せずに、彼が父親になっていたら?
常識破りの面白い親父になっていたかもしれない。
7.父の存在 日本中のおとうさん
ある小学校6年生がこんな詩を書いた。
おとうさんのあとに風呂にはいった。
底にすこし砂があった。ぼくたちのために働いたからだ。
おとうさんが家族を守っている。
いつもは目に見えないその事実に、
思いがけず、気づく瞬間がある。
口に出して言ってみる。
おとうさん、ありがとう。
今日は、父の日。
8.出生の秘密 ジョン・ブルース・ドット夫人
母の日はあるのに、どうして父の日はないんだろう。
1909年、アメリカ。
ジョン・ブルース・ドット夫人という女性が、
ふと思った。
前年に母の日が設立されたばかりだった。
ドット夫人の父は、男手ひとつで6人の子どもを育てた苦労人。
ひとり娘のドット夫人は特に可愛がられた。
亡き父のため、「父親を尊敬し、称え祝う日」の設立を聖職者同盟に嘆願。
そして、7年後の1916年に「父の日」は設立された。
けれど母の日は1914年には、祝日になったのに、
父の日は、なかなか昇進できず、約60年後の
1972年にようやくアメリカで祝日になった。
ひとり娘が父を想い、
苦節の末、誕生した父の日という祝日。
母の日の2番煎じか、
なんて、へそ曲げないでね、お父さん。
小宮由美子 10年06月19日放送
観客も、ピッチに立っている。
78年のワールドカップ。
地元アルゼンチンは、オランダとの決勝戦に勝ち進み、
スタジアムの熱気は最高潮に達していた。
しかし、試合終了間際に同点ゴールをゆるし、
手中にしかけていた優勝は、一気に遠ざかる。
沈む選手たちを鼓舞したのは弱冠34歳の監督、メノッティの言葉だった。
「回りを見渡してみろ。
われわれは8万人、相手はたったの11人じゃないか!」
選手たちの顔に、輝きが戻り、
ベンチのあちこちから、自然に声があがった。
延長戦、アルゼンチンは2つのゴールを叩き出し、
オランダを圧倒。
国中の人々と、勝利の美酒に酔いしれた。
イタリアが生んだサッカーの至宝、
ロベルト・バッジョ。
彼がスーパープレイヤーだからこそ、
94年のワールドカップ決勝戦でのPKの失敗は、衝撃的だった。
98年、ワールドカップ準々決勝。
ふたたびPK戦にもつれこんだイタリア。
最初のキッカーとなったバッジオは、
4年前の悪夢を振り払うかのように、ゴールを決める。
だが、歴史は繰り返す。
最終キッカー、ディビアッジョが、PK失敗。イタリアは敗北した。
そのとき、誰よりも先にディビアッジョに駆け寄ったのが、バッジョだった。
「PKを外すことができるのは、
PKを蹴る勇気を持った者だけだ」
成功も、失敗も知っているバッジョの言葉は
いまも重く響く。
ワールドカップ。
数々のドラマが生まれる夢の舞台で、
人々に感動を与えるのは、勝者だけではない。
スコットランド・グラスゴーにあるパブ
『アイアンホース』の壁に掲げられたサッカーユニフォームには、
次のような言葉が書かれているという。
スコットランド、
我々のもっとも大きな誇り、
それは決して倒れないことではない
倒れるたびに起ち上がる、
それが誇りだ
数々の激闘を繰り広げ、負けてもなお、挑み続ける。
その選手たちの姿こそが、
祖国の人々の魂をふるわせ、明日への力を与えている。
ワールドカップ。
ごく一握りの、選ばれた者だけにゆるされた最高の舞台。
そのピッチに立つ選手たちの矜持を、
かつてイングランド代表のストライカーだった、
アラン・シアラーの言葉があらわしている。
「イングランド代表の白いシャツは、お金では買えない」
祖国への誇りを胸に戦いに挑む、
すべての選手に、幸あれ。
「泣かないで、お父さん」
1950年、地元ブラジルが
まさかの逆転劇で優勝を逃した、ワールドカップ最終戦。
いわゆる、「マラカナンの悲劇」。
打ちひしがれ、涙を流す父親に、9歳の息子は、こう言ったという。
「泣かないで、お父さん。
僕が大きくなったら、ワールドカップをとってあげる」
8年後。
17歳になった少年は、本当にワールドカップの舞台に立ち、
5本のシュートを決めて活躍。
ブラジルをワールドカップ初優勝へと導き、
父親との、あの日の約束を現実にした。
少年の名は、ペレ。
その後、ブラジルを3度の優勝へ導いた、
サッカーの歴史に名を刻む英雄。
ワールドカップは、たくさんの夢物語を生む。
未来の英雄は、今年も
世界中の街のどこかで誕生しているかもしれない。
中村直史 10年06月13日放送
登場人物たち/ホールデン・コールフィールド
(JDサリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』)
この小説の主人公は、自分なのではないか。
生きた時代も、場所も違う。
へりくつの多い困ったヤツなのに、
やっぱり自分と同じような気がしてしまう。
60年以上もの間、
世界中の人をそんな気分にさせてきた少年、
ホールデン・コールフィールド。
小説「ライ麦畑でつかまえて」の主人公だ。
ホールデン少年は、やりたい仕事について夢想する。
それはお医者さんとか、パイロットとか
そういったたぐいのものではない。
たくさんの子どもたちが駆け回る
広いライ麦畑で、ただただ、子どもたちを守る仕事。
僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、
その子をつかまえることなんだ。
2010年1月、「ライ麦畑でつかまえて」の作者
サリンジャーは、91歳でこの世を去った。
けれど、ホールデン少年は年をとることもなく、
世界中の人の心の中で生きつづけている。
登場人物たち/混沌
(中国に伝わる神話)
中国に伝わる神話に、
こんなお話がある。
地球がまだ赤ん坊だったころのこと。
「混沌」という名前の神さまがいた。
混沌の顔は
のっぺらぼうだったため、
これはいけない、と思ったほかの神さまたちが
目、鼻、口となる
5つの穴を、その顔に開けた。
すると、そのとたん、混沌は死んでしまった。
自然に手を加えてはいけない
と読み取るか。
自然に手を加える誘惑から逃れることはできない
と読み取るか。
混沌は、私たちに、
何を伝えようとしているのだろう。
三島邦彦 10年06月13日放送
登場人物たち/パン屋さん
(レイモンド・カーヴァー『ささやかだけれど、役に立つこと』)
名前を持たない登場人物が、
世界を少し救ってくれることもある。
アメリカの作家、レイモンド・カーヴァーの小説
『ささやかだけれど、役に立つこと』。
そこに登場するパン屋さんが
子どもをなくしたばかりの夫婦にこう言った。
こんなときには、ものを食べることです。
それはささやかなことですが、助けになります。
パン屋さんは、作ったパンで、世界を助けている。
登場人物たち/ハムレット
(シェークスピア『ハムレット』)
生きるべきか。死ぬべきか。
悩み多き青年ハムレット。
シェークスピアが描いたこの有名な主人公は、
自分の身の振り方を悩んでいるだけではない。
劇中、ハムレットは旅芸人に演劇論を語る。
そのセリフの中には、
この『ハムレット』を演じる世界中の役者たちへの演出ともとれる言葉が
含まれている。
動作をセリフに合わせ、セリフを動作に合わせるのだ。
その際特に注意すべきは、自然の節度を越えないこと。
何であれやりすぎれば、芝居の目的に反する。
自分がどう演じられるのかまで心配をする。
ハムレットの悩みは、深い。
登場人物たち/ヴラジミール
(サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』)
ドラマティックな仕事。
ドラマティックな友情。
ドラマティックな恋愛。
ドラマのような出来事なんて、そうめったには起こらない。
けれども、主人公が最初から最後まで退屈をし続けるドラマも、この世にはある。
ノーベル賞作家、サミュエル・ベケットは、最初から最後まで
暇をもてあます二人の劇を描いた。
それは、演劇の世界に、不条理劇という新しい概念をもたらす静かな革命だった。
演劇『ゴドーを待ちながら』。
主人公ヴラジミールとエストラゴンは、ただひらすら、ゴドーという人物を待ち続ける。
そして、ゴドーは結局最後まで現れない。
ヴラジミールは言う、
運悪く人類に生まれついたからには、
せめて一度ぐらいはりっぱにこの生き物を代表すべきだ。どうだね?
ヴラジミールとエストラゴン。
この二人の登場人物は、今日も世界のどこかで、
人類を代表して暇をつぶしている。
登場人物たち/ジュリエット
(シェークスピア『ロミオとジュリエット』)
数え切れない物語があって、
数え切れない登場人物たちがいる。
彼らは数え切れない恋をする。
けれど、恋する主人公の女性代表は、今も昔もジュリエット。
おおロミオ!どうしてあなたはロミオなの?
名前が一体なんだろう?
私たちがバラと呼んでいるあの花の、名前がなんと変わろうとも、
香りに違いはないはずよ。
恋におちると、人は哲学をはじめる。
どんなに若い二人でも。
三國菜恵 10年06月13日放送
登場人物たち/源静雄
(藤子・F・不二雄『のび太の結婚前夜』)
夜、ひとりでいると、
さびしさがふっと訪れる。
源静雄(みなもとしずお)は、
結婚式を明日にひかえ、
自分と離れることをさみしがる娘にこう言った。
少しぐらいさびしくても、思い出があたためてくれるさ。
娘に言っているのか、
自分に言っているのか、わからなかった。
次の日、娘は、おさななじみの、のび太くんと結婚した。
登場人物たち/安倍昌子
(いくえみ綾『私がいてもいなくても』)
人気漫画家・いくえみ綾(りょう)が描いた
「私がいてもいなくても」。
その主人公、18歳の安倍昌子(あべしょうこ)は
タイトルを体現したような女の子だ。
昌子は偶然再会した同級生・真希の仕事を手伝うことになる。
フリーターの自分。売れっ子漫画家の彼女。
サイン会でたくさんの人が押し寄せる中
昌子は思う、
真希がまぶしい。自分にはなんもない。
二人は大きなケンカをした。
そして気づく。
昌子は真希の才能がうらやましかった。
真希は昌子の明るさがうらやましかった。
昌子は思う、
私は 欲しいものだらけだったけど
知らないうちに
誰かに 何かを
与えているのかもしれない
「私がいてもいなくても」
なんて思っている人は、きっと間違っています。
小山佳奈 10年06月12日放送
詩人、立原道造。
たった24年と8カ月の人生に
紡ぎ出された彼の詩は
どこまでも青く甘く切ない。
「裸の小鳥と月あかり
郵便切手とうろこ雲
引き出しの中にかたつむり
影の上にはふうりんそう
僕は ひとりで
夜は ひろがる」
恋は人を詩人にするとはよく言うけれど
立原道造ははじめての恋がきっかけで
そのまま、本物の詩人になってしまった。
立原道造が初めて恋をしたのは14歳のとき。
相手は親友の妹で
人一倍おくての立原は
あふれる思いを歌に託した。
「片恋は 夜明淋しき
夢に見し 久子の面影
頭にさやか」
彼女を想う詩が山と積もる頃、
少年の恋は静かに終わり
詩人としての人生が始まった。
東大の建築科に通う学生になった立原道造は
ある日、大学の正門前で
太宰治にばったり会った。
「浅草にでも行かないか」と誘う太宰。
太宰の目当てはもちろん遊郭。
そんな目的を知ってか知らずか
立原は恥ずかしそうに顔を赤らめ
設計図を引くための大きな三角定規を片手に
そそくさとその場を立ち去る。
どこまでもきまじめな、立原。
すでに無頼を地でいく、太宰。
昭和十年。
まだ日本が戦争へと駆け出す前の
文学者たちの青春がそこにある。
詩人であり建築家でもあった
立原道造。
大学を出て
建築事務所に勤め始めた彼は
そこで19歳のタイピスト、
水戸部アサイと出会う。
二人の恋はどちらかといえば
消極的なものだった。
デートといえば
なぜか同期の武(たけ)さんが
いつもついてくる。
難しい文学論や自作の詩を
延々と語り続ける立原を
アサイは黙って聞いている。
ただの一度も「愛してる」とは言わなかった。
ただの一度も「愛してる?」とは聞かなかった。
病に蝕まれていく体が告げる
そう長くない将来。
言葉にすることの重さを
詩人は誰よりも知っていた。
出征する兵士たちを
戦地へ見送る万歳三唱がこだまする
昭和13年の暮れ。
立原道造はすでに結核におかされていた。
絶望と病苦の中で、
立原道造は長崎に旅に出る。
「しづかな、平和な、光にみちた生活!
そのとき僕が文学者として
通用しなくなるのなら
むしろその方をねがう。」
芥川も、中也も、
みんないなくなってしまったけれど、
夭折の詩人、なんて死んだ後に称賛されるより、
たとえ詩が書けなくなっても
いま生きてることの方が素晴らしい。
立原はただ生きたかった。
生きてやりたいことが
もっともっとあった。
昭和14年、3月。
詩人、立原道造は、
結核の療養所にいた。
食欲はとうになかったけれど
見舞いに来た友人たちに
何が食べたい?
と聞かれた立原はこう答えた。
「五月のそよ風をゼリーにして
持って来てください。」
それは
中原中也賞を受賞したばかりの
24歳の詩人の最後の言葉として
伝えられている。
立原道造が亡くなって70年。
初めての恋人であり
最後の恋人であったアサイさんは
いま長崎に住んでいる。
そこは
立原が死の病をおして
たどり着いた最後の場所。
当時のことはよく覚えていないんだけど、
と笑うアサイさん。
ツイードのジャケットに白いシャツ、
すらりと伸びた長い指と物憂げな表情。
アサイさんの手には今でも
立原から送られた15通の手紙が
そっと握られている。
「夢みたものは ひとつの愛
ねがつたものは ひとつの幸福
それらはすべてここに ある と」
ふたりは結婚することはなかったけれど
立原道造のそばには最後までアサイさんがいた。
蛭田瑞穂 10年06月06日放送
ブライアン・ウィルソンとペット・サウンズ①
ビーチ・ボーイズのリーダー、ブライアン・ウィルソンと
ポール・マッカートニーにはいくつかの共通点がある。
才能あるメロディーメーカーであること。
ベースを担当していること。
そしてふたりとも1942年の6月に生まれていること。
互いに影響を与え合い、ロックの歴史を変えた
ブライアン・ウィルソンとポール・マッカートニー。
この一致は偶然か、それとも必然か。
ブライアン・ウィルソンとペット・サウンズ②
ビーチ・ボーイズのリーダー、ブライアン・ウィルソンは
初めてビートルズを見たときのことをよく覚えている。
それは1964年2月9日のことで、ビートルズはテレビ番組
「エド・サリバンショー」に出演していた。
ブライアンにとってビートルズのすべてが衝撃的だった。
音楽性もステージ衣装もファンの熱狂も。
このときの衝撃がブライアンとビーチ・ボーイズの音楽性を
大きく変えることになる。
それはカリフォルニアの陽気なポップスグループが
音楽史に名を残す偉大なロックバンドに変わった瞬間だった。
ブライアン・ウィルソンとペット・サウンズ③
1966年の初め、ビーチ・ボーイズのリーダー、
ブライアン・ウィルソンのもとに友人が訪ねてきた。
「このアルバムを聴いた感想を聴かせて欲しい」。
それはビートルズのニューアルバム『ラバー・ソウル』だった。
そのときのことをブライアンはこう振り返る。
感想を言うのは簡単だった。
ただただ感激した!
『ラバー・ソウル』を聴いた彼は
ビーチ・ボーイズの最高傑作をつくることを決意し、
すぐに制作に取りかかる。
そして1966年5月、ニューアルバムをリリースする。
ロック史に燦然と輝くアルバム、
『ペット・サウンズ』の誕生である。
ブライアン・ウィルソンとペット・サウンズ④
ビーチ・ボーイズの最高傑作『ペット・サウンズ』は
リーダーのブライアン・ウィルソンが、
ほとんどひとりでつくりあげたアルバム。
彼は言う。
僕はそのアルバムに魂を注いだ。
心の痛み、喜び、葛藤、悲しみ、愛を。
その音楽は僕のすべて、生身の僕自身だった。
ブライアン・ウィルソンという人間のすべてが
むき出しで表れる『ペット・サウンズ』。
その音色は透き通るほどに無垢で美しい。
ブライアン・ウィルソンとペット・サウンズ⑤
1966年、ビーチ・ボーイズが発表したアルバム『ペット・サウンズ』。
その中に収録された「God Only Knows」というラブソング。
この曲にはポピュラーミュージック史上初めて、
「God」という言葉が使われたと言われている。
作曲をしたブライアン・ウィルソンは最初、
その言葉を使うのをためらった。
「神」という単語が入っている曲を、
ラジオ局が流さないのではないかと。
しかし、歌詞を書いたトニー・アッシャーは、
「アートとは妥協するものではない」と断固として譲らなかった。
のちにロックの名曲と呼ばれ、ポール・マッカートニーが
「実に偉大な曲」と賛辞を贈った「God Only Knows」。
もし、この曲に「God」という言葉が使われなかったとしても、
やはり同じような評価を受けただろうか?
それは、神のみぞ知る。
ブライアン・ウィルソンとペット・サウンズ⑥
ビーチ・ボーイズのアルバム『ペット・サウンズ』。
作曲を手がけたブライアン・ウィルソンは
作詞をトニー・アッシャーというコピーライターに依頼した。
彼だったら自分の感じていることを
的確に歌詞に表現してくれると思ったのだ。
承諾したトニー・アッシャーはアルバムの制作に参加する。
ただし、当時彼は広告会社の社員。
会社には3週間の休暇届けを提出した。
ブライアン・ウィルソンとペット・サウンズ⑦
1966年、ビーチ・ボーイズが発表したアルバム『ペット・サウンズ』。
作曲を手がけたブライアン・ウィルソンはアルバムの中で
「テルミン」という電子楽器を取り入れた。
それだけではない。
彼はなんと自転車のベルの音まで楽器代わりに使ってみせた。
天才の創造性。
それはあらゆるものの可能性を簡単に広げてしまう。
ブライアン・ウィルソンとペット・サウンズ⑧
1966年、ビーチ・ボーイズが発表したアルバム『ペット・サウンズ』は、
リーダーのブライアン・ウィルソンがほとんどひとりでつくりあげた作品。
レコード会社はそれまでのビーチ・ボーイズとは
イメージが違いすぎるという理由で「失敗作」と評価した。
しかし2003年、ローリングストーン誌は
史上もっとも偉大なアルバムの第2位に『ペット・サウンズ』を選ぶ。
ブライアン・ウィルソン。
彼は早すぎる天才、だったのかもしれない。
厚焼玉子 10年06月05日放送
ぷりりぷりりと震えるウメバチソウ
サァン、ツァンと揺れる竜胆の花
しゃりんしゃりんとそよぐ鈴蘭。
そしてツリガネソウは
カンカンカン、カエコカンコカンと響き合う。
宮沢賢治はもの言わぬ植物から歌を聴いた。
どっどど どどうど、と風が鳴る。
ツンツンツンと月は明るい。
宮沢賢治にとって
この星の天と地の間にあるものはすべて生きているのだ。
生きているから歌を持っているのだ。
ルルルルル、とハチスズメが飛ぶ。
ギュッギュッ、ギッギッと蛙が鳴く。
私たちもこの星の歌に耳を澄ませよう。
一本の木に鳥が来て、一輪の花に虫が来る。
ひとしずくの水にだって無数の微生物が棲んでいる。
小さな命の歌と歌が
美しく響き合う地球であるように。
野口種苗研究所の野口勳さんは野菜の種と苗を売っている。
その種は固定種と呼ばれるもので
親の種を取って撒くと親と同じ野菜が生えてくる。
種を撒いたら生えてくるのは当然のようだが
いまの野菜の多くはF1と呼ばれる種からできている。
F1は一代雑種で大量生産には便利だけれど
その種から同じ野菜はできない。
野口勳さんは大学の頃から手塚治虫の大ファンで
念願の虫プロに就職して「火の鳥」の初代編集者になった。
手塚治虫の生涯のテーマは
「生命の尊厳と地球環境の持続」
これに感銘を受けた野口さんは家業の種苗店を継いだとき
日本の伝統的な固定種を扱うことに決めたのだ。
種を撒いたら親と同じ野菜が生えてくる。
こんな当たり前のことを守っていくのも
地球に生まれた生命の尊厳と地球環境の持続だと思う。
森は海を 海は森を恋いながら 悠久よりの愛紡ぎゆく
この美しい言葉は宮城県の歌人熊谷龍子さんが詠んだ歌。
熊谷さんは森のなかの家に住み
山から海を考えたことはあったけれど
海から山を見たことはなかった。
誘われて海へ行った。
海の水で洗っただけのまっ白な牡蠣を食べた。
その牡蠣は森の恵みだと教えられた。
びっくりした。
森の落ち葉が腐葉土になり
森に降った雨が腐葉土にしみ込んで
その養分を川に運ぶ。
その川はやがて海につながっていくのだ。
海と森には深い絆がある。
太古からの地球の営みのなかで
海と森はつながっている。
森は海を、海は森を恋い慕っている。
この言葉を忘れないようにしよう。
宮城県気仙沼の海が茶色になったのは
昭和40年代から50年年代にかけてのことだった。
その原因は多過ぎるほどあった。
工場排水、一般家庭からの排水、農薬に除草剤、
手入れのされない針葉樹林からの赤土…
気仙沼で牡蠣の養殖をしていた畠山重篤さんは
まっ白なはずの牡蠣の身が赤くなったことに驚き
ヨーロッパまで視察に行って勉強をした。
いままでの海を取り戻すには何をすればいいのだろう。
海ばかり見ていたのではダメなんだ。
海には植物プランクトンの森がある。
海の森を育てるのは山の森だ。
山の森の養分を川が運んで海の森を育てることがわかった。
いま、畠山さんは「森は海の恋人」というNPO法人の代表として
海に生きる人たちの手で山の森を育てる活動をしている。
木を植え、森を育て、里山をつくり
気仙沼の海は少しづつキレイになっている。
「森は海の恋人」という言葉は歌人熊谷龍子さんの歌からもらった。
森は海を 海は森を恋いながら 悠久よりの愛紡ぎゆく
美しい言葉に負けない美しい海を…
マレーシアの、
再生不可能と言われた熱帯雨林をよみがえらせ
万里の長城の壊滅した森も復活させた。
2006年には地球環境に貢献したことが認められ
ブループラネット賞を受賞した宮脇昭さん。
宮脇さんが木を植えるときは
その土地にもともと生えていた木をさがして植える。
しかし、たとえばいまの日本でその土地本来の森は
0.06%しか残っていない。
困ったとき、宮脇さんは鎮守の森の木を調べる。
鎮守の森は神さまの領域なので
昔から木を伐られることがあまりないからだ。
宮脇さんの森は人の管理を必要としない。
地球の太古の森がそうだったように
自然にまかせておけば元気に生きている。
人は自然をもっと信じて生きなければ。
かつて200種類を超える野鳥が棲み
バードアイランドと呼ばれた三宅島。
噴火直後は小鳥の声も聞こえなくなったといわれたけれど
10年たったいまでは賑やかなさえずりが聴こえる。
海では魚と伊勢エビが増えている。
三宅島に住んでいた世界環境保護スペシャリスト
ジャック・モイヤー博士は
島に帰る日が来る前に亡くなってしまったけれど
博士が教えてくれたことは、いまも三宅島に生きています。
5,500トンのゴミが地球の周囲をまわっている。
その内容は人工衛星やロケットの残骸から
宇宙飛行士が落とした手袋や工具まで。
これらをまとめてスペース・デプリと呼ぶ。
日本語で言うなら宇宙ゴミ。
宇宙ゴミは活動中の人工衛星と衝突することがある。
たとえば1996年のフランスの軍事衛星は
10年前のロケットの破片と衝突して損傷を受けた。
直径10センチのゴミで宇宙船ひとつが破壊されてしまうというから
宇宙のゴミは危険物そのものなのだ。
アメリカの航空宇宙局NASAには宇宙ゴミ問題の主任科学者がいる。
お名前はニコラス・ジョンソン。
ジョンソン氏は宇宙ゴミ国際調整会議の米国代表団の団長をつとめ、
国際宇宙科学学会の宇宙ゴミ小委員会の共同議長、
さらに米国航空宇宙学会の宇宙ゴミ標準化委員会の委員も兼ねている。
また1995年には国際宇宙ステーションの
宇宙ゴミ安全管理委員会の委員でもあった。
地球は宇宙へつながっている。
地球環境はもう地球だけの問題ではなくなってしまったようだ。
頭の痛い宇宙ゴミ問題に取り組むジョンソン氏を
心から応援したい。
名雪祐平 10年05月30日放送
山田無文
人生の目的は
人格の完成にある、という。
ただ、
昭和の禅の名僧、山田無文は
こう続ける。
その人格は既に生まれた時に
完成されている。
すると、修行とは
生まれたままの姿に近づくこと。
赤ん坊は、無心で
南無阿弥陀仏
と、泣いているのだろうか。
寺山修司
僕は物語を中断してしまわないと気が済まない。
完結してしまうと観客の中に余白が残されない。
常に物語は半分作って、
あとの半分は観客が作って一つの世界になっていく。
そう。
寺山修司は見事なまでの劇作家だった。
47歳で世を去り、わたしたちは観客のまま
余白を生きている。
いつまでも完結できない物語のなかで。
いまこそ寺山に批評して欲しくて
たまらない。
劇のような、いまの世を、鋭く。
藤間紫
日本舞踊家、藤間紫。
12歳で日本舞踊藤間流に入門。
天才少女と呼ばれた。
21歳には名取となり、
24歳年上の師匠と結婚。
40歳を過ぎ、
16歳年下の歌舞伎俳優・市川猿之助と
暮らし始める。
二人が正式に結婚できたのは、
紫76歳、猿之助60歳の時だった。
インタビューで
紫が言った言葉がある。
それは人生後半の言葉だが、
生涯を精いっぱいに生きてきた彼女なら、
何歳であっても、
この言葉を美しく言っただろう。
女の幸せは今なんです。
市川猿之助
12歳の少年の初恋は、
28歳の人妻だった。
歌舞伎の市川猿之助と、
日本舞踊家の藤間紫。
大人になった猿之助は
別の女性と結婚するが、
心には紫があり、極秘に交際を始める。
やがて30年以上が過ぎ、
それぞれの離婚を経て、
やっと、やっと、二人は結婚する。
夫60歳、妻76歳。
9年後、妻が85歳で亡くなった時、
しみじみと猿之助は語った。
紫さんは少女のようでした。
初恋の人は、
ずっと初恋の人であり続けたに
ちがいない。
グレダ・ガルボ
もの凄い美貌の女優が
魅力的に笑う。
世界中の男たちは、イチコロ。
けれど、
「笑わない女優」と呼ばれながら
ミステリアスな美貌で人気をあつめた
伝説的女優がいた。
グレダ・ガルボ
彼女が20数本目の映画で、
始めて笑顔を見せたとき、
こんなキャッチフレーズが採用された。
「ガルボが笑う」
しかし、その後ほどなく36歳で引退し、
84歳で亡くなるまで
マスコミを嫌い、一切の姿を現さず、
公の場から消えた。
笑顔も、キャッチフレーズも、何も残さずに。
山田太一
「うん」
山田太一脚本のドラマで、
印象的に使われる、相づち。
「うん」
迷いや抵抗も含みながら、
でも、相手との関係をつくろうと
声を出しているようにも聞こえる。
「うん」
短い間だれかに夢中になれるということは
だれにでもある。しかし、
長くひとりの人間を愛しつづけるということは、
ほっといてできることではない。
山田のこんな言葉が響くのは、
それがあたりまえでなくなったからだろうか。
とりあえず、相づちから始めるのも
きっといい。そう思う。
前畑秀子 浅田真央
日本女性初のオリンピック金メダリスト、
前畑秀子。
ベルリン大会
水泳女子200m平泳ぎ。
日本を熱狂させた「前畑がんばれ!」
しかしその4年前のロサンゼルス大会で
前畑が同種目で
銀メダルは獲得していたことは
今ではほとんど知られていない。
2014年オリンピックはロシア・ソチ大会。
浅田真央の記憶を刻みたい。
彼女の素晴らしい功績を
100年後に人々にも伝えたいから。
最期の言葉
アイスクリームを食べたい。
国木田独歩
なにか飲物をくれ。
ピカソ
もっとシャンパンを飲んでおけばよかった。
ケインズ
最期の言葉は、これでいいのだと思う。
偉い人も、そうでもない人も
名言を残さなくていい。
これまで、たくさん良い言葉を
もらったのだから。
厚焼玉子 10年05月29日放送
野口雨情が残した2000余りの詩のなかで
北海道から九州まで、全国の風景や風物をうたった
いわゆるご当地ソングといわれるものは300を超えている。
ご当地ソングをつくるのはなかなかむづかしい。
誰がきいてもわかりやすく、歌いやすく
そして、その歌を聴いた人が
その土地の代表的な風景を思い描ければ成功といえる。
野口雨情の上州小唄は
五月の赤城山が眼に浮かぶ。
赤城山から風が吹き出して 風で蝶々が飛ばされる
そういえば、今日は野口雨情の生まれた日でした。
1931年5月29日
開港間もない羽田空港から
小さなプロペラの複葉機が飛び立った。
その飛行機の名前は「青年日本号」
地図と羅針盤だけをたよりにシベリアからウラル山脈を越え
ヨーロッパを目指した法政大学航空研究会の飛行機だった。
操縦士はもちろん学生である。
この飛行機はドイツ、イギリス、フランスなどを
親善訪問しながら
無事に目的地であるローマに到着。
世紀の快挙として日本中が沸き立つニュースになった。
ところで、この飛行計画を立案、実行したのは
当時法政大学の教授で航空研究会の航空部長でもあった
内田百閒先生。
「青年日本号」が出発した5月29日は
百閒先生の誕生日でもありました。
世界一贅沢なバースデーソングを歌ってもらった人は
アメリカのジョン・F・ケネディ大統領だろう。
1962年、マジソンスクウェアガーデンで開かれた
大統領45歳の祝賀会で
ハッピーバースデーを歌ったのは、マリリン・モンロー。
モンローはこの短い曲を歌うために映画の撮影をすっぽかし
後々訴訟問題に発展したと言われている。
ハッピーバースデー、ミスタープレジデント
マリリン・モンローのささやきのような
バースデーソングは1万7千人の観客を魅了し
拍手はいつまでも鳴り止まなかった。
今日はジョン・F・ケネディの生まれた日。
イギリスの国王チャールズ二世は
リチャード三世ほどの悪役ではないし
ヘンリー八世ほどわがままでもなかった。
ウイリアム一世ほど英雄でもないが
エドワード六世のような子供でもなかった。
チャールズ二世の評価は人によって違うかもしれないが
誰もが共通して語ることがある。
それは、女性に弱いということだ。
チャールズ二世は国王になる以前
フランスやオランダで亡命生活を送っていたが
行く先々で恋人を見つけては子供をつくった。
イギリスに戻り、国王になって結婚してからも
愛人はたくさんいた。
チャールズ二世は、愛人との間に生まれた子供を
14人まで認知しているが
王妃との間にはひとりも子供ができず
国王の血は絶えたかに思われたが…
現在、イギリスのウイリアム王子とンリー王子は
チャールズ二世の血を引いている。
愛人の子供たちによってチャールズ二世の血は
イギリスの貴族に受け継がれ
ダイアナ妃もその子孫のひとりだったからだ。
チャールズ二世は1630年の今日生まれた。
「もしもこの世にマッチが発明されなかったら
私たちはいまでも火を起こすのに苦労しているかもしれない。
人類が火を使いはじめたのは100万年以上も昔だが
マッチの発明からは200年足らずしかたっていない。
マッチの発明者はジョン・ウォーカー。
イギリスの科学者であり発明家でもあった。
彼は1826年にマッチを発明し翌年に販売を開始した。
火種を絶やさないように苦労していた生活から
すぐに火のつく暮らしになったありがたさを
私たちは忘れてしまったかもしれないけれど
近ごろでは
マッチは環境にやさしいということが
見直されはじめている。
今日はマッチの発明者ジョン・ウォーカーが生まれた日。
アメリカのコメディアン、ボブ・ホープは
生きている間に二度も自分の死亡記事を読んでいる。
最初は1989年、AP通信社による誤報で
このときはアメリカ合衆国下院で追悼演説まで行われた。
二度めのときは
あらかじめ準備しておいた有名人の死亡記事が
間違ってケーブルテレビのウェブサイトに掲載された。
今日はボブ・ホープが生まれた日
ボブ・ホープは
2003年、100歳の誕生日を祝った2ヶ月後に亡くなっている。
昭和25年5月
小学校を卒業したばかりの美空ひばりは
日系二世米国人部隊に招かれ
人気ボードビリアン川田晴久とともにハワイ公演に出発した。
この頃のひばりと川田晴久は、まるで親子のようだった。
デビューしてもなかなか売れないひばりを
川田は自分の一座に加え、スターへの道を着々と準備していたし
そんな川田をひばりは本当の父のように慕っていた。
そのハワイでの出来事だった。
表の通りで起こった自動車事故をのぞき見るために
窓から顔を出そうとしたひばりを
川田はたしなめた。
人気ものがうっかり顔を出すと余計騒ぎになる
川田は美空ひばりがスターになる道を準備すると同時に
スターとしての教育も忘れてはいなかったのだ。
美空ひばりがブレイクしたのは
帰国後第一作めの映画「東京キッド」から。
この映画で川田はひばりのためにギターを弾いている。
今日は美空ひばりが生まれた日
生きていてくれたら、もう73 歳になっていた。