熊埜御堂 由香 10年05月09日放送
走る人 角田光代
彼女は、32歳で大失恋した。
切れた電球を変える気力もなくなった。
だから、髪を切るわけでもなく、
次の男を焦って探すでもなく、
ボクシングをはじめた。
強くなりたかったから。
女心の機微を描き続ける作家・角田光代。
失恋からたちなおっても、運動する習慣は残った。
角田は忙しい暮らしの合間にランニングを続ける。
いま、若い女性にマラソンが流行しているのも、
からだとこころがつながっていることを
実感しやすいスポーツだからかもしれない。
きっと、今日も、いろんな思いを抱えて、走るひとがいる。
角田光代のある小説の主人公が、こうつぶやく。
道ってのはどこまでも
続いているもんなんだねえ。
坂本和加 10年05月08日放送
かつてココ・シャネルが、
下着素材のジャージで
動きやすいドレスを作ったように。
いつの時代も、働く女性は、
ファッションを変え、
モードを生む。
越原春子もそのひとり。
大正時代、女学校設立のために
ひどく多忙な日々を送っていた越原は、
ある日、長すぎる帯を
ばっさりと切った。
正装ではなく普段使いの、短めの帯。
名古屋帯は、そうして生まれた。
この帯が、その後一般化したのは、
簡略化されても、その美しさが
損なわれていなかったからだろう。
美しく、ときに大胆に。
働く女性はいまも昔も、変わらない。
着物で、でかけたい。
けれど着物って、面倒なルールが
きっとたくさんあるんでしょう?
と言うひとがいる。
明治に生まれ、
前衛的なデザインや着こなしを
着物に提案しつづけた宇野千代は、
こんな風に言っている。
着るもののことで
いっぺん笑われたら、
あとは笑われた者の得。
昭和32年、宇野千代は、
アメリカで着物ショーを行った。
足元にヒール。モデルたちの
しなやかな身体のラインを
隠さず活かした着物姿の
なんと、斬新なことか。
着物はその人らしく楽しめばいい。
宇野千代は、いいお手本を
私たちに教えてくれている。
アンティーク着物が、
若い女性の間で人気だ。
なかでも、大正から昭和初期の、
銘仙と呼ばれる着物が。
はじめ、銘仙は、
例えるならジーンズのような
カジュアルな普段着だった。
それがアールヌーボーと融合し、
華やかな大正ロマンの代名詞になった。
大流行した銘仙の反物は、
1億反も売れた。
水谷八重子は
そんな時代に生きた女優。
駆け出しの頃は、
銘仙のイメージガールもやった。
けれど戦後、洋服の時代がやってきて、
気づけばあれほどあった着物は
箪笥からあとかたもなく消えていた。
水谷八重子は、
そのことを、こんなふうに回顧する。
日本人特有の、あの細やかな
つつましさをも、捨てた自分に気がついた。
20世紀を代表するフランスの画家、
バルテュスは少年時代から
東洋的なものを
こころから愛した。
日本人形との出会いは、14才。
その息をのむ美しさに驚いた。
つぎの出会いは、59才。
こんどは本物の日本人形、
当時二十歳の学生だった節子を
見初め、妻にむかえた。
バルテュス自身もよく着物を着た。
日本人は、反物や帯に、
あらゆるものを文様化する。
バルテュスは、その鋭い感性を
高く評価していたのだ。
着物を着るひとが少なくなって久しい。
その感性が、いま鈍ってやしないか。
感性は身につけるもの。
バルテュスも言っている。
日本人には、着物がいちばん美しい。
着物は、風で、洗うもの。
だからこそ和服は
傷みにくく、昔から
世代を超えて
受け継ぐものだった。
東京下町生まれの作家、
幸田文もまた、
着物をよく愛した。
娘の青木玉は、
そのほとんどを継いだ。
文のいくつかの着物は、
ほどかれ、こんどは風でなく水に洗われて、
色を染め直され、生まれ変わった。
幸田文は、粋で個性的に
着物を着こなす洒落人だった。
だから玉には着こなせないと
思うものも多かった。
けれど、そこは親子。
文の着物は年を重ねた玉に、似合うようになる。
それも着物の、おもしろさ。
ビルにはさまれた東京で。
「トントンからり」と聞こえてくる。
それは、
着物の反物の織り職人、
よしだみほこさんの
仕事部屋からやってきた音。
わたしのつくりたいものは
着る人のほしいものの、中にある。
だから、織るものに
なるべくわたしを入れたくない。
そう、きっぱりと言う
みほこさんから生まれた反物は、
やさしい、檸檬畑の風のよう。
きょうもまた、「トントンからり」。
じんざもみ、きくじん、
なつむしいろに、ひわいろ。
日本の色の表現は、
数百種と言われるけれど、
そのほとんどは、
平安の時代に生まれた。
清少納言は枕草子に、
着物の色あわせについて
宮中でのやりとりを
にぎやかに、書いている。
春先、紅梅の上着のインナーには、紫。
でももう、萌黄の季節かしら。と。
みな着物を来ていた時代に、
そのひとのセンスや品を
伝えるのは色だった。
ときには色で、こころを伝えた。
ひとのこころは、複雑なもの。
着物と共に生まれ、
伝えられてきた色を思うと、
その数の多さも、わかる気がする。
蛭田瑞穂 10年05月02日放送
知られざる発明家たち①「ナイロン」
合成繊維「ナイロン」を発明したのは、
ウォーレス・カロザースという研究者。
しかし、1939年にナイロンが発表された時、
彼はもう、この世にいなかった。
「ナイロン」という名前の由来は“no run”。
「伝線しない」という意味。
ほかの候補に“ワカラ(Wacara)”という
変わった名前があった。
“a tribute to Wallace Carothers”を略して「ワカラ」。
「ウォーレス・カロザースに捧ぐ」
という意味が込められていた。
知られざる発明家たち②「合成ゴム」
1844年、アメリカ人の発明家、
チャールズ・グッドイヤーは合成ゴムを考案した。
しかし、彼の人生にとって、それは早すぎる発明だった。
合成ゴムの特徴は強い耐久性。
だが当時の社会にはその特徴を活かす製品がなかった。
1860年、グッドイヤーは多額の負債を抱えたままこの世を去る。
合成ゴムが本当に必要になるのはそれから数十年後。
自動車が発明されてから。
現在、世界有数のタイヤメーカーに
「GOODYEAR」という名前の会社がある。
しかし、それはチャールズ・グッドイヤーが
つくった会社ではない。
彼の功績を讃え、グッドイヤーの名を社名につけたのだ。
知られざる発明家たち③「ポスト・イット」
1969年、アメリカの化学メーカーに勤める技術者、
スペンサー・シルバーが接着剤の開発をしていると
粘着力は強いのに、すぐに剥がせてしまう
変わった性質の接着剤ができあがった。
完全な失敗作だったが、
不思議な可能性を感じたシルバーは、
サンプルをつくって社内に見せて回った。
そのサンプルを見た者の中に、
アート・フライという技術者がいた。
5年後のある日曜日。
フライが教会で賛美歌を歌っていると、
歌集に挟んであったしおりが床に落ちた。
その瞬間、フライの頭に浮かんだのが
シルバーのつくった接着剤。
あの接着剤を使えば、落ちないしおりがつくれるはずだ。
こうしてできあがったのが「ポスト・イット」。
今やどのオフィスでも見かける世界的ヒット商品。
「失敗は成功のもと」というけれど、全くその通り。
知られざる発明家たち④「万年筆」
現在の万年筆の原型をつくったのは、
ルイス・エドソン・ウォーターマンというアメリカ人。
保険の外交員をしていた彼は、
ある時、ペンから漏れ出したインクで、
契約書を汚してしまう。
大口の契約を取り逃がした彼は、
これをきっかけにインクの漏れない
万年筆の開発に乗り出す。
そして1883年に毛細管現象を応用した
ペン芯を考案する。
「必要は発明の母」とは、こういうこと。
知られざる発明家たち⑤「ゼムクリップ」
第2次世界大戦中、ドイツ占領下のノルウェーでは
服に付けられたゼムクリップが
国民団結のシンボルだった。
なぜゼムクリップなのか。
それは、ノルウェー人ヨハン・バーラーが
ゼムクリップを考案したことに由来する。
ところが。
誰がゼムクリップを発明したのか、
実ははっきりしない。
古代ローマの時代にすでに存在していたという話もある。
しかし、それはそれ。
ノルウェーの人々にとって、
ヨハン・バーラーは特別な存在。
戦後、彼の功績を讃え、首都オスロの郊外に
巨大なゼムクリップのオブジェがつくられた。
知られざる発明家たち⑥「カッターナイフ」
戦後間もない大阪。
印刷会社の社員田岡良男は
いつものようにカミソリの刃で
紙を裁断していた。
しかし、カミソリの刃はすぐにボロボロになる。
ボロボロになった刃は捨てるしかない。
この無駄をどうにかできないか。
その時、田岡の頭に、
進駐軍の兵士からもらった板チョコが浮かんだ。
駄目になった刃を、板チョコのように折って使えばいい。
こうして世界で初めて、
刃を折って使う仕組みのカッターナイフが生まれた。
知られざる発明家たち⑦「消しゴム」
1770年、イギリス人のジョゼフ・プリーストリーが、
ゴムに鉛筆の字を消す性質があることを発見した。
これが消しゴムの始まりといわれている。
消しゴムが可能にしたのは、
単に字を消すことだけではない。
人の誤りを訂正し、
書きなおせることも可能にしたのだ。
佐藤延夫 10年05月01日放送
秘剣「一の太刀」で
212人を手にかけたと言われる剣豪、塚原卜伝。
剣術は言うに及ばず、
心理戦も、また巧かった。
長い太刀を使う相手には、その欠点を説いて聞かせ、
片手突きを得意とする者には、
そんな見苦しい手はやめろと
門弟を遣わし、何度も申し入れた。
データ収集も忘れない。
相手が右太刀か左太刀か、癖は何かを
必ず調べさせてから勝負に臨んだという。
剣豪という域に達するには、
実力だけでなく、駆け引きも大切。
人生50年の戦国時代で
83歳まで生きるのだから、
塚原卜伝という男、
人生の術も心得ていたに違いない。
戦国時代、一刀流を極めた剣豪、伊東一刀斎。
若かりし頃、
剣の師匠に向かって、こう言った。
悟りとは、修業期間の長さではありません。
一瞬のものです。
そうして三度立ち合い、三度とも師匠を打ち破る。
諸国修業の旅に出て、三十三戦負け知らず。
鬼夜叉の異名で恐れられた一刀斎、
生まれの地には諸説あり、
幼少期のエピソードはほとんど残されていない。
一説によると、94歳まで生きたという。
謎が多いほど、人は伝説に近づく。
肥前の国、第10代藩主だった松浦静山は、
剣術のひとつ、心形刀流(しんぎょうとうりゅう)の修業に心血を注いだ。
幼少から病弱だった静山、
剣術を始めたきっかけは、体質を改善するためだった。
心形刀流を極めたのちに
こう語っている。
剣術を学ぶ者は、
たとえその奥義に至らずとも
養生のためにこれを修していくべきである。
静山は33人の子をもうけ、81歳まで生きている。
なるほど、剣術は滋養強壮に活かすこともできるのか。
斬るか斬られるかの世界にも、
“いい人”はいるものだ。
直心影流(じきしんかげりゅう)の剣豪、男谷信友。
性格は極めて温厚。
声を荒げることなど一度もなかったこの男、
三本勝負の他流試合では、
必ず一本、相手に勝ちを譲った。
それはもちろん、残りの二本は必ず取れるという腕前があったから。
ひとたび本気を出すと、
竹刀が生き物のように動き
相手を身震いさせたという逸話も残っている。
趣味は読書と絵画。
暇があると筆をとり
仲間や弟子に贈っていたそうだ。
本当に強い人、というのは
驚くほど柔らかな生き方をしている。
その後、江戸幕府の要職に招かれたのも
頷ける話だ。
江戸時代、明眼(みょうがん)の達人と言われた剣豪、浅利又七郎。
試合になると、
相手に隙が見えても突くことをしない。
そして「私が勝ちました」と言い放つ。
相手が納得しないと
たちまち強烈な突きを繰り出し倒したという。
晩年、一度倒した剣豪、山岡鉄舟が
再び試合を申し込んだとき、
その構えを一瞥して竹刀を引いた。
あなたの剣は極到に達せられた。
もはや私の遠く及ばぬところです。
違いの分かる男とは、彼のことを言う。
幕末の剣豪、山岡鉄舟は、
苦悩の中で悟りを得た。
剣を捨て、剣に頼らぬ者こそ
真の剣の達人である。
それが、刀を持たない「無刀の真理」だった。
無刀流の極意とは、
春風を斬るようなものだという。
5月の春風に手を伸ばしてみよう。
何か悟りを得るかもしれない。
北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)の開祖、千葉周作は
道場の運営に成功した剣豪だ。
武者修行から戻り
日本橋に道場を建てた途端、
多くの門弟とスポンサーが集まった。
三年後には神田の一等地に道場を移し、
近くにあった塾を買収。
敷地を広げた揚げ句、
客人たちの宿舎まで設け、
江戸一番の道場にしてしまった。
気は早く 心は静か 身は軽く
目は明らかに 業は激しく
このわかりやすい指導法も評判だった。
晩年まで剣の腕前も一流だった千葉周作。
その経営手腕も、また一流。
今の厳しい世の中でも、きっと生きていけるだろう。
名雪祐平 10年04月25日放送
尾崎豊
尾崎豊の歌なんて、
好きじゃない。
そんな人もいるかもしれない。
でも。
好きでも、嫌いでも、
人の意識に
いまも棲み続けている。
彼の歌がもつ魔力は、
たしかにある。
生きていれば今年45歳。
この時代を
どんな歌にしただろう。
4月25日は、
尾崎豊の命日。
二葉亭四迷 1
文学を志すことを
反対した父親から、
「くたばってしめえ」
と罵られた。
そこで、若者は
自分のペンネームを
くたばってしめえ、
「二葉亭四迷」にしたという。
当時、画期的だった
話し言葉を用いて
処女小説『浮雲』を
書き始めた。
無名の24歳が、
ひょいっと、
近代文学の扉を開けたように
思えた。
二葉亭四迷 2
近代文学を一新させた
小説『浮雲』が
未完のまま、挫折。
作家、二葉亭四迷は
次にロシア文学の翻訳にとりかかる。
ツルゲーネフの小説では、
「愛しています」に変わる
すばらしい名訳を残した。
「死んでもいいわ」
しかし、文学のリアリティを
どこかで信じ切っていなかったのか。
官僚に就職してしまう。
貧しい人々の救済を考え、
そして、貧困の町で
出会った娼婦と結婚。
明治時代の官僚が
周囲のモラルとは関係なく、
娼婦を妻にすること。
そのリアリティこそが
彼にとっての
文学だったのだろうか。
レオナルド・ダ・ヴィンチ
画家、
彫刻家、
建築家、
土木設計者、
解剖学者、
天文学者、
それらを一人でやってのけた、
レオナルド・ダ・ヴィンチ
ほんとうに彼は
一人だったのだろうか。
10人くらい、いたのでは。
そう疑ってしまうほど、
凄すぎる。
アル・パチーノ
この男こそ。
『ゴッドファーザー』の
コッポラ監督が惚れ込んだのが、
イタリア系の小さな身体の俳優、
アル・パチーノだった。
映画は記録的な大ヒットとなる。
ところが、けっきょく、
彼にはギャラが
手に入らなかったという。
『ゴッドファーザー』出演によって、
別の映画の契約が破棄になり、
ほとんどを違約金にとられてしまった。
不器用な男の、不器用な結末。
でも、
1本の映画でスターの座を射止めた。
この男こそ。
こんどは、世界中の人々が惚れ込んだのだ。
4月25日。
アル・パチーノの誕生日。
70歳になり、
次はどんな演技を観せてくれるだろう。
スタール夫人
フランスの批評家、
スタール夫人。
ナポレオンを
目の敵にするほど、
激しい野心があったという。
そんな彼女が結婚について
こう語った。
私は男でなくて幸せだ。
もし男だったら、
女と結婚しなければならないと
思うから。
さすが優れた批評家。
自己批評もできていた。
マルキ・ド・サド
人生の後半のほとんどを
牢獄と精神病院にいながら、
作品を書き続けた
サド侯爵。
サディズムとは何か。
18世紀にあなたが示した
肉体的快楽の謎を
人間たちは
今夜も解こうとしている。
宮田知明 10年04月24日放送
チャールズ・リンドバーグと春
飛行機の窓から見える景色は、
80年前は、まだ当たり前ではなかった。
チャールズ・リンドバーグが、
人類史上初めて大西洋単独無着陸飛行を達成したのは、
1927年の春のこと。
スピリッツオブセントルイス号に乗って
青空に浮かんでいるとき
リンドバーグの脳裏に浮かんだのは
こんな言葉だった。
「何事が起ころうと、この瞬間、生きているだけで充分だ!」
いろんなことに行き詰まったとき。
窓を開けて、ちょっと青空を見上げてみませんか。
渋谷三紀 10年04月24日放送
100回目の春
百歳にもなればその道が見えてくる。
人生も季節と同じで
過ぎてみてはじめて春夏秋冬があることがわかる。
こんなことをおっしゃっているのは
100歳のおばあちゃん、矢谷千歳さん、
終わらない冬はない。
けれど、春だって
いつまでも止まっていてはくれない。
ひとつひとつの季節を
噛み締め、味わって生きましょう。
与謝野晶子の春
こころが浮き立つのは
春だから。
理由なんて、それだけで十分。
歌人与謝野晶子の春の歌に
こんな一首がある。
清水へ祇園をよぎる桜月夜
こよひ逢ふ人みなうつくしき
月の美しさ、桜の美しさ
そして、夜桜を見に出て来た人まで美しく見えるのは
春だから、自分の心が浮き立っているから
そして、恋をしているから。
このとき、与謝野晶子は
大阪の老舗の和菓子屋の娘で
与謝野鉄幹の弟子のひとりに過ぎなかったけれど
心には消えることのない恋の灯がともっていた。
清水へ祇園をよぎる桜月夜
こよひ逢ふ人みなうつくしき
こころが華やぐのは
恋をしているから
理由なんて、それだけで十分。
京都は結婚前の与謝野鉄幹と晶子が
忍び逢った町でもあった。
スヌーピーの春
世界一有名なビーグル犬、スヌーピー。
チャーリーブラウン少年の家に来るまえ、
別の飼い主に捨てられた過去があることは、
案外知られていない。
よく犬なんてやってられるね。
そんな問いにスヌーピーはこう答える。
配られたカードで勝負するしかないのさ。
それがどういう意味であれ。
現実から目をそらしたり、自分の境遇を嘆いたり、
人間みたいなことはしない。
上を向き続ける。それが人生のコツさ。
そうつぶやく犬小屋の上のスヌーピーみたいに、
空をながめてすごす春の一日も悪くない。
山村暮鳥の春
詩人山村暮鳥作、「風景」。
そこにはただただ同じことばが並ぶ。
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
そこにはただただ同じけしきが広がる。
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
ときにことばは、
どんなハイビジョンより
ほんものの春を映し出す。
宮田知明 10年04月24日放送
城山三郎と春
「そんな人は、うちにはおりません。」
作家・城山三郎に春を告げたのは、
妻のそんな声だった。
城山はそのとき風呂に入っており
玄関では妻が文学界新人賞受賞の電報を届けにきた配達員を
追い返そうとしていた。
妻は夫が城山三郎というペンネームで
小説を書いていることを知らなかった。
城山三郎が「輸出」という小説で
第四回文学界新人賞を受賞したのは1957年の春。
駆け出し作家の貧乏生活を支える妻は
夫のペンネームを知る余裕はなかったのだ。
けれど、その次の年。
直木賞発表の夜、妻はお風呂を湧かして知らせを待っていた。
新人賞のときは城山が入浴中に受賞の電報が来たので
縁起をかついだらしかった。
待っていた電報は来なかったけれど
近所の八百屋の電話が鳴って、直木賞受賞を知らせた。
そんな妻が亡くなって
城山三郎は一冊の本を書いた。
「そうか、もう君はいないのか」
それはスター作家城山三郎ではなく
本名杉浦英一の妻だった女性に宛てた恋文だった。
中村直史 10年03月18日放送
イグノーベル賞/マーク・エイブラハムズ
ノーベル賞と同じノーベルの
名を持ちながら
全く権威のない賞がある。
その名を「イグノーベル賞」。
創設者、マーク・エイブラハムズ。
「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる研究」に対して贈られる賞だ。
権威がないといっても
あなどれない。
だって
世界で最も人を笑わせ、
考えさせてくれる研究って
気になるでしょう?
イグノーベル賞/アイヴァン・シュワブとフィリップ・メイ
なぜリンゴは地上に落ちるのか?
万有引力を発見した
ニュートンのように
科学における発見は
「よくよく考えてみると不思議」
を解明することでなされてきた。
そう考えれば、
人々を笑わせ、考えさせてくれる研究
に与えられる「イグノーベル賞」も
すばらしい発見を後押ししている、と言える。
2006年、イグノーベル鳥類学賞。
受賞者はカリフォルニア大学の
アイヴァン・シュワブとフィリップ・メイ。
研究内容は
「なぜキツツキは頭痛を起こさないのか」
だった。
イグノーベル賞/井上大祐
人々を笑わせ、
そして考えさせてくれる研究に
贈られる偉大な賞
イグノーベル賞。
2004年には
日本人が「イグノーベル平和賞」を受賞した。
その人は、
カラオケの発明者
井上大祐(いのうえ だいすけ)さん。
授賞理由は、
「他人の上手くもない歌を聞かなければならないことで養われる寛容な気持ち」
を世界中に根づかせたこと。
受賞会場の観客はスタンディングオベーションで
井上さんを称えたが、本人はいたって謙虚で。
僕へのスタンディングオベーションじゃなくて、カラオケに対してやと思いますよ。
井上さん、
受賞スピーチの後には
ちゃっかり歌も披露した。
イグノーベル賞/ジャック・シラク
人々を笑わせ、
考えさせてくれる研究に
与えられる「イグノーベル賞」。
1996年、その平和賞は
フランスのジャック・シラク元大統領に
贈られた。
受賞理由は、
広島への原爆投下から
50周年にあたる年に、
半年で6回もの核実験を行ったこと。
ときに強烈な皮肉を込めるのも
イグノーベル賞のやり方。
イグノーベル賞/アストルフォ・ゴメス・デ・メロ・アラウージョ
ジョゼ・カルロス・マルセリーノ
世界の歴史は
アルマジロによって
書きかえられている。
そんなバカな、
とも言えない話らしい。
ブラジルはサンパウロ大学の
アストルフォ・ゴメス・デ・メロ・アラウージョと
ジョゼ・カルロス・マルセリーノのふたりは
アルマジロの活動が遺跡発掘現場において
いかに遺物の順序を滅茶苦茶にするか、
またそのことで
どのように人類の歴史が書き変えられてしまうか
を調査した。
この功績により、
2008年、イグノーベル考古学賞を受賞。
あなたが知っている
世界の歴史にも
あのノソノソした生き物が
関与している。
そう考えたらワクワクしませんか。
イグノーベル賞/渡辺茂・坂本淳子・脇田真清
人々を笑わせ、
考えさせてくれる研究に
与えられる「イグノーベル賞」。
受賞した研究の数々を
「バカバカしい」と一蹴する人もいるけれど・・・
1995年のイグノーベル心理学賞を
受賞した渡辺茂・坂本淳子・脇田真清さんの授賞理由は
「ピカソとモネの絵画を見分けられるようにハトを訓練し、成功したことについて」
もしかすると
人間の、鳥に対する見方さえ
変えてしまうような
すごい話。
イグノーベル賞/中松義郎
突拍子もない研究に
エールを送りつづける
イグノーベル賞。
突拍子もないといえば、
代名詞みたいな日本人がいます。
ドクター中松こと、中松義郎。
と思ったら
やっぱり受賞していました。
2005年、イグノーベル栄養学賞。
「34年間、自分の食事を欠かさず撮影し、
食べたものが脳の働きや体調に与える影響を
分析し続けたこと」に対して。
・・・恐れ入ります。
小山佳奈 10年04月17日放送
山口小夜子
1972年。
切れ長の目におかっぱ頭で
パリのランウェイを颯爽と歩く
一人の日本人女性がいた。
彼女の名は、山口小夜子。
「ニューズウィーク」で
世界のトップモデル6人に選ばれ
小夜子のマネキンがロンドンの
ショーウィンドーを飾った。
しかし
彼女は言う。
「本当にやりたいことが
できるようになったのは
50を過ぎてからよ」
人生の濃度は
名声とも年齢とも
関係ない。
ニール・ヤング
001年9月11日。
世界を揺るがせたあの事件の直後
アメリカの大手ラジオ局が
放送自粛の曲目リストをつくった。
その中にはジョン・レノンの
「イマジン」も入っていた。
ほどなくして放送された
犠牲者追悼のチャリティー番組。
おもむろに登場した二―ルヤングは
一分の迷いもなくイマジンを歌った。
「想像してごらん
国や宗教が存在しない世界を」
世界中の戦闘機が
パトリオットミサイルの代わりに
このメロディーを積んでくれたなら。
阿久悠
作詞家、阿久悠について。
生涯で5000曲以上も書いた
怪物作詞家の別名は
「アナログの鬼」。
パソコンなんて無粋なものは使わない。
原稿用紙に100円のフェルトペンで
キュッキュッと小気味よい音を立てながら
一気に書きあげる。
「原稿は縦書きですから
読んでいる人は自然に頷くんです。」
たしかに彼の歌には
意味もなく頷いてしまう
強さがある。
「人間の心はアナログですから。」
バディ・ホリー
何ごとにもはじまりがあるように、
ロックにだってはじまりがある。
ロックの父といえば、
バディ・ホリー。
ボブ・ディランがギターをにぎったのも
ジョン・レノンが眼鏡をかけたのも
キース・リチャーズは3コードをおぼえたのも
みんなバディ・ホリーになりたかったから。
ありがとう。
あなたがいなかったら
世界はなんとつまらなかったんだろう。
渥美清
風天の寅さんこと、渥美清。
彼の本名は田所康雄という。
素顔の田所は風天どころか
よく本を読み、よく映画を観る勉強家。
何事にも緻密な計算を立てる
完璧主義者だった。
私生活は一切みせず
家族も家から出さなかった。
車寅次郎を知らない人はいない。
渥美清を知らない人はいない。
田所康雄を知る人はほぼ、いない。
だから寅さんは
あんなに朗らかで
少し寂しい。
桜を見ると
江戸川堤にたたずむ
寅さんの横顔を思い出す。
マーク・ボラン
TREXのマーク・ボラン。
彼は若いころオカルトに凝っていて
魔女と同棲をしていたという噂もあった。
魔女はひとつ予言をした。
「あなたは大成功をおさめるが
30になる前に血まみれになって死ぬ。」
マーク・ボランはその言葉どおり
30歳になる2週間前に
交通事故で亡くなってしまった。
おぼろにかすむ春の宵は
おぼろな話が気にかかります。