薄景子 09年11月15日放送
山田洋次と黒澤明
78歳にして現役。映画監督、山田洋次は、
48作品に及んだ「男はつらいよ」終了後も次々と新作にとりかかる。
「好奇心がある限り、映画を作り続ける」
彼の信条に大きな影響を与えたのは、晩年の黒澤明監督だった。
それは、山田監督が黒澤監督の別荘に訪れたときのこと。
できたてほやほやの、「まあだだよ」の脚本を
読むかい?と言われ、山田監督は大興奮。
部屋にこもって一心不乱に読みふけていると、
すーっと扉があいては、黒澤監督が覗きにくる。
「どこまでだい?」「ここまでです」
短い言葉のやりとりを何度か重ねた後、
ここぞという瞬間を見計らって
黒澤監督はラジカセのスイッチを押した。
流れてきたのは、イタリアのカウンターテナーの美しい歌声。
「その辺からな、この音楽が入るんだ」
敬愛する監督の無邪気な笑顔が、後輩の脳裏に焼きついた。
いくつになっても映画少年のままだった大巨匠。
世界のクロサワが残したのは、
偉大なる映画史と、永遠の映画少年たち。
熊埜御堂由香 09年11月15日放送
センセイと乙羽さん
老人だけがでてる映画なんてウケるかしら・・・
女優、乙羽信子は、不安だった。
夫である新藤兼人監督が、
老いをいかに生きるかをテーマにシナリオに書き上げた
「午後の遺言状」
80歳の新藤監督、主演女優は89歳の杉村春子。
70歳の乙羽信子も出演する予定だった。
新藤監督もまた不安だった。
撮影がはじまる直前に、乙羽信子は、肝臓がんの手術をする。
余命は1年か、1年半か、といわれた。
病状をはっきりしらない本人を前に、
映画の製作を進めるべきか新藤監督は悩んだ。
そして、だした答え。
僕らは40年以上、映画を通じで行動を共にしてきた「同志」だ。
別れにのぞんで、何をすべきか、
彼女の女優としての最後の場をととのえるべきだ。
スタッフだけの完成試写をしてから、乙羽信子は静かになくなった。
出会ってから、別れるまで、
ふたりは、どんなときでも、お互いをこう呼び合った。
センセイ、乙羽さん。
字幕屋の妙
「君の瞳に乾杯」
映画「カサブランカ」の名台詞だ。
いや、字幕屋「高瀬鎮夫」の名字幕といったほうが正しい。
もともとは
Here’s looking at you, kid
「お嬢さん、君を見つめて乾杯」というような意味だ。
字幕は1秒につき3〜4文字。
制約が、言葉を磨き上げ、
日本中を魅了する台詞を残した。
押井守と宮崎駿
「映画を発明する」
といい、実験的なアニメに挑む、押井守。
「映画の奴隷になる」
といい、子供にも愛されるアニメを追及する宮崎駿。
日本アニメの力を世界に知らしめた、ふたり。
押井は宮崎を「宮さん」と呼び親しくしていた。
会うと、話がとまらないくせに
周りが喧嘩かと心配するほど意見があわない。
押井守が若い人に希望を伝えたいと「柄にもない」ことを言って
撮った映画がある。「スカイクロラ」
インタビューで押井は言った。
宮さんみたいに、正座してオレの話をきけって言うんじゃなく、
後ろからそっと語りかけることなら、僕にもできる気がしたんだ。
反発しあいながらも、意識する。
このふたり、似たもの同士の親父と息子みたいだ。
石橋涼子 09年11月15日放送
岡本喜八
映画監督 岡本喜八は、
撮影現場でじっとしているのが嫌いだった。
ディレクターズチェアに座らないので、
見学者に「監督はどちらですか?」と
尋ねられたこともある。
そのときはとぼけた顔をして照明監督を指差した。
彼は、自身のこだわりを、こう語った。
「一流は嫌い。自由がきかないから。僕は二流がいい。」
超二流監督を自称する岡本の作品は
いつでも、古い常識をぶち壊すパワーに満ちていた。
古澤憲吾
「なんでもいいから、キャメラを回せ!」
それが、映画監督 古澤憲吾の口癖だった。
派手な身振り手振りで演技指導をし、
フィルムが空でもカメラを回させた。
思いつきで撮影しているかのような演出に
真剣に悩んだ女優には、
「なにも考えなくていいんだ!」
と叫んだという。
ハイテンションでほら吹きで、自信家で、間違いなく変人だけど
妙にポジティブな古澤監督のキャラクターは、
そのまま、
植木等が演じる日本一の無責任な主人公となって
60年代の日本に元気を与えた。
水谷八重子
新派を代表する女優、初代 水谷八重子。
彼女は新人のころ、岡鬼太郎(おか おにたろう)という劇評家に
「こんな女優は一生大根で終わるだろう」と新聞に書かれた。
その悔しさから、切り抜きを
定期入れに入れて何十年も持ち続けたという。
大スターになった八重子は
基本を大切にしなければ舞台に上がる資格はない
と言い続けた。
悔しさも、芸のこやし。
それが本物の女優。
.ジャック・プレヴェール
詩人であり、脚本家でもあった
ジャック・プレヴェール。
映画『天井桟敷の人々』の名シーンは、
彼が書いた詩的なセリフから生まれた。
「次は、いつ会える?」
「近いうちに。縁があればね」
「しかし、君、パリは広いよ」
「愛するもの同士には、パリも狭いわ」
学校嫌いだったプレヴェールが
ことばを学んだのは劇場やカフェだった。
ある批評家はこう言った。
彼は街から来たのだ。決して文学から来たのではない。
エンドロールでのプレヴェールの肩書きは、
いつでも「脚本とセリフ」だった。
名雪祐平 09年11月14日放送
リチャード・カールソン
テレビはしゃべる。
大変だ、大変だ、大変だ。
新聞は書く。
考えろ、考えろ、考えろ。
友だちは打ち明ける。
困った、困った、困った。
アメリカの心理学者、
リチャード・カールトンのアドバイスは、こうだ。
1.小さいことにくよくよするな。
2.全ては小さいことだ。
こんな、
かんたんな法則があるなんて。
徳川光圀
水戸黄門こと徳川光圀は、
グルメな殿様だった。
生類憐みの令を馬鹿にしながら、
牛や豚、羊の肉を好んで食べた。
ラーメン、チーズ、餃子を
日本で最初に食べたともいわれる。
ただ、自分の誕生日には、
白粥と梅干しですませた。
その日は、お産で
母親に最も苦労させた日だから。
母親の恩を忘れないように、という
粗末な食事。
それも、きっと、深い味。
高橋慶一郎
21世紀に、
どんどん信者を増やした宗教。
その名は「スピード」
もっと早く。
ビジネスは、スピードいのち。
遅ければ負ける、つぶれる。
そんな、呪文たち。
ユニチャームの創業者、
高橋慶一郎は違った。
人が1時間ですませるものを、
考えに考えて2時間かけてみよう。
そうやって、オムツは
やさしく出来あがるのかもしれない。
オグ・マンディーノ
生命保険を売る男が、
自殺を決意した。
質屋のウィンドウに29ドルのピストル。
しかし、思いとどまり、
気がつくと図書館の前にいた。
図書館で、自己啓発本を手にしたことで、
男は甦った。
生命保険で見事な営業成績をおさめ、
やがて自らも自己啓発本を書いた。
作家、オグ・マンディーノはこうしてデビューし、
これまでに作品は3500万部を売り上げた。
こんどはその本が、世界のたくさんの命を
救っているのかもしれない。
ジョーン・ロビンソン
経済学者は、
リーマン・ショックを防げなかった。
イギリスの経済学者、ジョーン・ロビンソンは、
かつてこんな皮肉を言った。
経済学を学ぶ目的は、
経済学者にだまされないためである。
経済学者が、
小さい政府とか、大きい政府とか、
論じることがもう
政府中心の考え方かもしれない。
人間中心の経済学者、求ム。
ジャンヌ・エビュテルヌ
18歳の春、運命の出会い。
パリで絵を学ぶジャンヌ・エビュテルヌは、
画家モディリアーニと恋におち、同棲する。
20歳の秋、長女を産む。
21歳の冬、最愛のモディリアーニが死ぬ。
肺結核と、大量の酒と、薬物依存による病死。
2日あと、ジャンヌ自殺。
自宅の窓から身を投げる。
1歳の長女を残して。
妊娠中の二人目の子と一緒に。
絶望には、色があるのだろうか。
それとも、闇か。
細田高広 09年11月8日放送
The Rolling Stones 1
だれもが「まさか」と思った。
2004年、ザ・ローリング・ストーンズの
ミック・ジャガーがナイトの称号を与えられたのだ。
使い切れない大金と最高の名誉を手に入れて、
これ以上何を望めるだろう。
しかし、盟友キース・リチャーズは言う。
幸せな人生とは言えないな。
99パーセントの人間は憧れるだろうけど、
あいつはミック・ジャガーであることに、
満足していないんだ。
勲章で満たせる程度の渇きなら、
46年もストーンズを続けちゃいない。
The Rolling Stones 2
バンドなんて、気晴らしさ。
イギリスの名門大学で
経済学を学ぶ息子がロックバンドを始めたとき、
両親はその言葉を信じた。
いずれは一流のビジネスマンになる。そう疑わなかった。
しかし彼は、気晴らしのはずだったバンドを
46年経った今も続けている。
ミック・ジャガー。
彼は経済学の知識を活かして
誰よりも早く印税を計算したし、
マネジャーが不穏な動きを見せようものなら、
帳簿を自ら調べ、横領らしきものは徹底的に洗い出した。
彼は、超一流のビジネスマンとなったのだ。
ロックスター、という名の。
The Rolling Stones3
ローリングストーンズは、
人気よりも悪名が先行していた。
何よりも世間から反発があったのは、その長い髪。
当時、ストーンズを真似たヘアスタイルを理由に、
少年たちが相次いで停学処分になったほどだ。
実際に数多くのトラブルを起こしたストーンズ。
弁護士も、相当、手をやいたのであろう。
法廷で苦し紛れにこんな弁護をした。
皇帝シーザーは、
長髪であるにも関わらず、
数々の功績をあげました。
そんなエピソードひとつひとつも、
さらなるバンドの向かい風になる。
有名になるのはちっとも構わないんだ。
でも、法廷ではそれが裏目にでる。
キースリチャーズは、実に悔しそうに言った。
The Rolling Stones 4
囚人番号7855。
麻薬所持で服役中のキース・リチャーズは
さすがに落ち込んでいた。
ある日、
刑務所内の作業場へと向かう途中で、キースは
ラジオからストーンズの曲が流れてくるのを耳にする。
その瞬間、刑務所中の囚人の口から
建物を揺るがすような歓声が上がった。
絶望は、勇気に変わった。
The Rolling Stones5
どこで間違って、
あんな薄汚れた奴らが
若者たちのヒーローになったのか。
イギリスを飛び出し、アメリカでも
人気に火のついたローリング・ストーンズを、
良く思わないメディアは多かった。
だいたい、肝心な演奏だって上手いとは
言えたものじゃない。
そんな批判に対して、ミック・ジャガーは言うのだ。
俺たちは、ノイズを出してるだけだ。
それを音楽と呼んでくれたら有り難いね。
内面を表現するためなら、楽譜なんて関係ない。
それが、ストーンズの信条。
実際、彼らが汗を流し音を出しさえすれば、
それが上手いか下手かを気にするものなんて、
一人もいなかった。
The Rolling Stones6
就業時間が待ち遠しい。
ロックンローラーだって、
そう思うときはあるらしい。
ロックンロールが全てなんて馬鹿げてるよ。
誰だって仕事が全てだなんて思ってないだろう?
大金とセレブリティの称号を
手に入れたミックジャガーにとって、
音楽はあまりに商売になり過ぎた。
やっつけでこなしたライブやレコードは、
徐々に評価を失っていく。
ロックンロールに未来はない。
そう語るとき、
ロックンロールとは、
自分のことを意味してた。
The Rolling Stones 7
1989年、事実上の活動休止期間を終え、
ザ・ローリング・ストーンズが
再び始動し始めたとき、
メンバーは40代の半ばを迎えていた。
ミックはしわだらけになり、
キースは広がった額をバンダナで隠した。
それでも威勢だけは、20代のころのままだった。
ローリングストーンズは
長い長い全盛期を、今も確かに続けている。
The Rolling Stones 8
「もう若くないから」という言葉を
口にしかけたとき、思い出す顔がある。
ザ・ローリング・ストーンズだ。
俺たちは、間違った考えと闘ってるんだ。
ロックンロールは、若造のやるものだと
みんな思ってやがる。
彼にとって歳を重ねることは、失うことではない。
むしろ、全てを手にすることのよう。
長生きの秘訣は何ですか?
という記者の質問には、
ストーンズのメンバーになることさ。
と答えて笑うキース・リチャーズ。
なるほど。
ヤンチャな顔は20代の頃と全く変わらない。
中村直史 09年11月7日放送
「草花になった人/藤原定家」
死ぬほど好きだ。
という言葉はよく耳にするが
死んでも好きだ。
という人はあまりいない。
歌人、藤原定家(ふじわらのていか)。
長く仕えた式子内親王(のりこないしんのう)への恋心は
死してなお収まることなく
式子の墓に「かずら」となって巻きついた…
こんな物語が元になって
木や岩にしがみつき這い登る植物に
「定家葛(ていかかずら)」という名前がついた。
冬になっても葉は緑のままで
からみつく相手がいないと
地面さえ覆いつくす定家葛。
面倒なのに逃れられない。
そんな恋心を見るようで、
少し、恐い。
「草花になった人/武蔵坊弁慶」
何十本もの矢を体に受けても
決して倒れなかった男。
死ぬときも仁王立ちのままだったという武蔵坊弁慶。
その弁慶が、
じつはいまも生きつづけているという。
野山やご近所の庭で。
不死身の弁慶にあやかった「弁慶草(べんけいそう)」
分厚い葉を持ち、
切られてもなかなか枯れず
土にさせばぐんぐん新しい根を生やす。
勇ましく。たくましく。
弁慶は、野原のかたすみや、鉢植えの中から、
「負けるなよ、日本人」
と語りかけているのかもしれない。
「草花になった人/平敦盛」
北国の、夏でも涼しい高原に
赤い頬をした
美しい少年がうつむきぎみに立っていた。
薄紅色の袋のような花を背負ったその花の名前は
「アツモリソウ」という。
16歳の初陣で、
潔く敵方の武士に
首を差し出した笛の名手、平敦盛(たいらのあつもり)。
何百年もの時をへた今も、
毅然とした姿で
逃げも隠れもせず
高原の風に吹かれている。
「草花になった人/熊谷直実」
城を捨て、船で逃げようとする平家の軍勢を追う
ひとりの武将がいた。
「敵に背を向けるつもりか、我の名は熊谷直実(くまがいなおざね)」
その声を聞いて引き返したのはまだ16歳の少年、
名だたる平家の武将のなかでも
とりわけ血筋正しい貴公子で笛の名手、平敦盛。
まだあどけなさの残るその顔を見て
熊谷直実は同じ年の息子を思い出す。
助けたいと申し出る熊谷に、
少年はただ「切れ」と言った。
何百年もの間、
人々の涙を誘った平家物語の一場面。
熊谷直実と平敦盛は、
「クマガイソウ」と「アツモリソウ」という野草の名前になった。
茶会ではこの2つの花が
一緒に活けられるという。
戦のない世界で、
ふたり静かに語り合っているのだろうか。
「草花になった人/静御前」
静御前(しずかごぜん)が囚われの身となり、
義経の兄、
頼朝の前で舞を舞わねばならなくなったとき。
彼女は、義経への一途な想いを歌った。
吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
早春に咲く
「一人静(ひとりしずか)」という植物は
静御前がそのときかぶっていた烏帽子(えぼし)に似ている。
実は生きながらえたという
伝説の多い義経。
どこか隠れた里山で、
彼のために舞う
この花を見ただろうか。
「草花になった人/紫式部」
花は白みを帯びているのだけれど
実を結ぶとなんとも艶っぽい紫色になる。
そんなわけでつけられた名前が「紫式部」。
秋を代表する植物のように思われているのも
きっとその名前のおかげだ。
ところで、紫式部を小さくしたような植物に
小式部(こしきぶ)がある。
誰が名付けたのだろう。
小式部は紫式部ではなく和泉式部の娘なのに。
「草花になった人/千利休」
「利休草(りきゅうそう)」という植物がある。
なにげない草だけれど、
茶室に活けたとたん、
すっと存在感を出す。
利休が見出したわけでも、
利休が名づけたわけでもない。
なにしろ利休草が中国から渡来したのは江戸時代。
利休はその存在も知らずに亡くなっている。
でも、その繊細な姿が気に入られ
どうしても茶室に活けたいと思う人があらわれて
茶花にふさわしい名前をつけてもらった。
利休草。
茶道の世界でこれ以上いい名前はない。
遅れてスタートしたくせに
トップを走っているランナーのようだ。
佐藤延夫 09年11月1日放送
サイレンススズカと武豊1
「もしも、あの馬が無事に走っていたら」
今でも競馬ファンが、そう考えてしまうレースがある。
平成10年、11月1日。天皇賞。
一番人気で先頭を走っていたサイレンススズカは
レース中に左前脚を骨折、安楽死となった。
ジョッキーの武豊は語る。
「夢が一瞬にして消えてしまった。」
11年前の天皇賞の話になると
悲しそうな顔をする人は多い。
サイレンススズカと武豊2
1997年、2月1日。
京都競馬場。
芝1600mの新馬戦。
サイレンススズカのデビューは、
強烈なものだった。
スタート良く飛び出したら、
そのままゴールまで影も踏ませない。
騎手は道中、慌てず騒がず、
手綱さえ動かさなかった。
まるで他の馬は歩いているようだ、と誰かが言った。
終わってみれば、7馬身差の圧勝。
競馬場は、溜息に包まれた。
「凄い馬が出た。」
別の馬に乗っていた武豊は、
初めて見るサイレンススズカのスピードに舌を巻いた。
サイレンススズカと武豊3
スピードは速いけど、誰も制御できないクルマ。
4歳当時のサイレンススズカは、まさにそんな馬だった。
幼さと気性の激しさが悪い方向に傾くと、
ことごとくレースを台無しにした。
弥生賞では騎手を振り落とし、ゲートをくぐり抜けてしまう。
ダービーは、ちぐはぐな競馬で惨敗。
秋のマイル戦も、見せ場すら作れなかった。
その年の12月、
香港遠征で、初めて武豊に身を任せる。
5着に敗れはしたものの、
気持ち良さそうにターフを駆ける姿は、
関係者を唸らせた。
持ち前のスピード、ダイナミックな足の運び、後半の粘り。
並の馬ではない。
一流馬となる素質は、随所に感じられた。
レース後、武はぽつりと言った。
「恐ろしい馬になるかもしれない。」
その予言は、思うより早く現実のものとなる。
サイレンススズカと武豊4
多くの競走馬は、自分のスタイルを持っている。
逃げ、先行、差し、追い込み。
宿命的に「一か八か」という言葉がつきまとうのは、逃げ馬だ。
たとえば2000mのレースで、
1000mを通過するタイムが
58秒というのは明らかにオーバーペースであり、
やがて後続の馬に一気に追い抜かれてしまう。
でもサイレンススズカに限っては、それがマイペースだった。
栗毛の逃亡者。
音速の貴公子。
異次元の快速馬。
のちに、さまざまな異名がつけられた。
サイレンススズカと武豊5
1998年。
5歳になったサイレンススズカは、
圧倒的な強さを見せつける。
2月のバレンタインステークスを皮切りに、
中山記念、小倉大賞典でも勝ち星を重ねた。
圧巻だったレースは、5月の末、中京競馬場で行われた金鯱賞(きんこしょう)。
スタート直後に飛び出したら、最後まで一人旅。
どの馬も、彼のペースについて行けなかった。
去年負かされたライバルたちは、遠くに霞んで見えるだけ。
4コーナーを過ぎると、観客は拍手を送り、
ゴール前では、笑いがこぼれた。
誰もがその強さに呆れてしまうようなレースだった。
終わってみれば、2着に11馬身の差をつけて圧勝。
レコードタイムを軽々と塗り替えていた。
これで、年が明けて4連勝。
武豊は語る。
「今日のサイレンススズカなら、どんな馬が来ても負けない。」
慎重な彼がこんなに強気な発言をするのは、珍しい。
サイレンススズカと武豊6
1998年、7月。
サイレンススズカは無傷の4連勝で、
春競馬最後のGI(ジーワン)レース、宝塚記念に挑む。
このときに限り、武豊には先約があり、
南井(みない)騎手に乗り替わった。
距離の延長が不安視されたが、
始まってしまえばいつも通り。
最後までどの馬も、並ぶことさえできなかった。
武は、エアグルーヴに跨がり3着。
サイレンススズカの後ろ姿を見つめるだけだった。
レースを終えて、南井騎手は言う。
「この馬の能力は、ナリタブライアンに匹敵する。」
それはかつて、怪物と言われた馬だった。
サイレンススズカと武豊7
1998年、秋。
天皇賞の前哨戦、毎日王冠は
東京競馬場で行われた。
サイレンススズカは、
淡々と自分のペースを守り、レースを進めていく。
しかしリードはそれほど大きくない。
最後の直線、他の馬が近づいたところで、一気に引き離した。
「これが理想だと思いました。」
武豊は、誇らしげに言う。
サイレンススズカがスターホースになった瞬間だった。
サイレンススズカと武豊8
やけに数字の1が目につく日だった。
平成10年11月1日の第11レース、秋の天皇賞。
サイレンススズカは、1枠1番にゲートインした。
芝が西日を浴び、ターフは黄金色に輝く。
彼はいつものように、後続に大差をつけて逃げる。
府中名物、大欅(おおけやき)を越え
まもなく第4コーナー、というあたりで躓くように失速。
左前脚の粉砕骨折。
この日が、サイレンススズカの命日となった。
翌年の7月11日、宝塚記念。
実況アナウンサーは、レースが始まる前に言った。
「あなたの夢は、スペシャルウイークか、グラスワンダーか。
私の夢は、サイレンススズカです。」
人々の記憶の中で、彼は走り続けている。
保持壮太郎 09年10月31日放送
河井寛次郎
河井寛次郎は
仕事に生きた人だった。
暮らしは仕事。仕事は暮らし。
そう言いながら彼は
日々土をこね
木を削り
真鍮を磨き
あるいは筆をとり
そして
たくさんの作品をのこした。
ワークライフバランスなんて
言葉を握り締めて
月曜日の憂鬱と
金曜日の恍惚を
繰り返しながら生きる
僕たちに向けて、彼は言う。
新しい自分が見たいのだ。
―――――――仕事する。
カイル・マクドナルド
わらしべ長者は、
本当に可能か。
という問いには
すでに答えが出ている。
米国モントリオールに暮らす
カイル・マクドナルド。
彼はたった1個のペーパークリップから
14回の物々交換をへて
2階建ての一軒家を手いれた。
ペーパークリップなら
あなたのデスクにも
山ほどあるだろう。
可能性とはつまり
そういった類のもので。
さっそく明日から
億万長者を
めざしてみるのも悪くない。
甲本ヒロト
はじめてパンクロックを
聞いたのは
14歳のときだった。
そのときの感想を
甲本ヒロトはこう語る。
こんなの新しくもなんともねえ。
やがて彼は、
マイクを握り
ステージに立った。
♪
僕が言ってやる
でっかい声で言ってやる
ガンバレって言ってやる
聞こえるかい ガンバレ!
とてつもなく
新しいパンクが、
そこにはあった。
タヴィ・ジェヴィンソン
ファッションウィークの
見ものはランウェイの
上だけではない。
フロントロウに陣取る
セレブリティの顔ぶれにも
毎年注目があつまる。
2009年
マークジェイコブスのコレクションで
フロントロウに腰をおろしたのは
まだ13歳のタヴィ・ジェヴィンソン。
彼女は、
女優でも、歌手でも、
スポーツ選手でもない。
ただ、数年前に彼女が始めた
ファッションブログが評判を呼び
フロントロウへと招かれた。
VOGUEの名物編集長
アナ・ウインターの横に座る
13歳のブロガー。
その鮮やかすぎるコントラストは、
ことしのコレクションの
一番のニュースとなった。
ハイ・ファッションとメディア。
寄り添いながら歩んできた
二つの権威は、今、変わりつつある。
カール・ユング
僕らは
完璧な人間ではないから
たくさんの
コンプレックスと共に
生きていくことになる。
たとえば
完璧な人間がいたとしても
彼は彼で、
完璧であるという
コンプレックスを抱えている。
つまり僕らはもう
カール・ユングという人の言葉を
信じて生きるしかない。
コンプレックス
それは偉大な努力を刺激するものであり、
そしてたぶん、新しい仕事を遂行する
可能性の糸口でもあるのだ。
ウォーレン・バフェット
世界で
もっとも成功した
投資家のひとり、
ウォーレン・バフェット。
彼を
世界一の金持ちへと導いた
投資のルールは
驚くほどにシンプルだ。
ルール1:絶対に損をするな。
ルール2:絶対にルール1を忘れるな。
簡単なルールほど実践するのはむずかしい。
宮本茂
かつて
ポール・マッカートニーが
来日したとき。
まっさきにディナーに誘い
サインをねだった
一人のサラリーマンがいる。
宮本茂。
ドンキーコング
スーパーマリオブラザーズ
ゼルダの伝説
これらは
彼の仕事の
ほんの一部だ。
宮本は言う。
アイデアとは、複数の問題を一気に解決するものだ。
最近彼が手がけた
Wii Fitというツールは、
体重計に乗ることを
ゲームにした。
なるほど
彼のアイデアは
わたしたちの健康問題まで
解決してくれている。
渋谷三紀 09年10月25日放送
パブロ・ピカソ
生涯に15万点近くの作品を残したピカソは、
世界一多作な芸術家として
ギネスブックにも記されている。
晩年はますます自由で大胆な作風になり
87歳でこんなことを言っている。
この歳になって、やっと子どもらしい絵が描けるようになった。
一人の天才が一生をかけてたどりついた「子供らしさ」を
じっくり鑑賞してみたい。
今日はピカソが生まれた日。
岡本太郎
1960年、大阪万博のテーマは「人類の進歩と調和」。
シンボルタワーのデザインを引き受けたとき、
岡本太郎は言った。
馴れ合いの調和は卑しい。
ぶつかり合って生まれるものが、本当の調和だ。
太郎がデザインしたのは、
先に計画された建物の大屋根を突き破る、
高さ七十メートルの太陽の塔。
万博は終わり、建物は取り壊された。
でも太陽の塔だけは大阪のシンボルとして
今日も空に両手を突き上げている。
葛飾北斎
江戸の浮世絵師、葛飾北斎は、九十まで生きた。
人生四十年の時代に、異例の長寿である。
北斎が脚光を浴びたのは四十代も後半。
滝沢馬琴とのコンビでベストセラーを連発した。
しかし彼に言わせれば、
七十までに描いた作品はとるに足らないもの。
であるらしい。
その言葉どおり、かのゴッホにも影響を与えた代表作
「富嶽三十六景」を完成させたのは、七十五歳のとき。
年を取っても絵に対する意欲は衰えることがなかった。
七十九歳で火事に遭い、すべての写生帳を失っても
まだ絵筆が残っていると言い
八十九歳にしてなお気迫に満ちた極彩色の竜を描いている。
その北斎が息を引きとる間際に残した言葉がある。
あと五年生きられれば、本当の絵描きになれるのに。
まったく…
天才はどこまで行くつもりだったのだろう。
岸田劉生・麗子
子どもが子どもでいる時間はみじかい。
だから親はそのあいらしい瞬間を残そうと、躍起になる。
岸田劉生もまた
70点を超える娘の肖像を描いた。
娘の名前は麗子…
5歳から16歳まで
油絵、水彩画、また日本画やデッサンとして
さまざまな麗子像が描かれた。
麗子像を説明するのはむづかしい。
ときには肩幅ほどもある大きな顔
あるときは怒ったような表情。
どの絵も暗く、ねっとりと濃厚で湿っている。
子供の頃に怖かった暗がりを見る心地がする。
でも、それこそが
劉生が「デロリの美」と名づけ、極めようとした美の世界。
麗子像について当の麗子はこう語っている。
あの絵は、私を通して違うものを描いているの。
なるほど、麗子は画家の娘であった。
伊藤若冲
色鮮やかな花鳥画で知られる画家、伊藤若冲。
若冲は肉を一切口にしなかった。
仏教を篤く信仰していた彼は、
頭も丸く剃っていた。
ある日のこと。
肉屋ですずめが売られているのを見つけた若冲は、
数十羽すべて買いとり、庭に放してしまう。
その節はありがとうございました。
美しい娘に姿を変えたすずめが、若冲の前に現れた。
なんて後日談は、残念ながらないけれど。
若冲の絵には
群れをなしてうれしそうに空に飛び立つすずめの絵がある。
もしかしたら、この絵のアイデアが
すずめの恩返しだったのかもしれない。
宮田知明 09年10月25日放送
古今亭志ん生
五代目、古今亭志ん生。
高座に座る姿そのものが、一枚の絵であり、
落語である、と言われた名人。
彼はこんな言葉を残した。
他人の芸を見て、
あいつは下手だなと思ったら自分と同じくらい。
同じくらいだなと思ったら、かなり上。
うまいなあと感じたら、とてつもなく先へ行っている。
「芸」という文字を「仕事」に置き換えると・・・
なるほど、と思う。
市川崑
ビルマの竪琴、野火、炎上、おとうと、
黒い10人の女、犬神家の一族・・・
長編映画だけでも70本を越える作品を残し、
短編やテレビ、CMに舞台と、
さまざまなジャンルで活躍した映画監督、市川崑。
2006年、その市川崑が、
犬神家の一族のセルフリメイク作を発表したときの、
記者会見の言葉がある。
もう少し長生きして、もうちょっとちゃんとした映画を作りたい。
90歳のこの謙虚さに
映画に対する執念を感じてしまう。