八木田杏子 09年10月24日放送
「ココ・シャネル」
シャネルの創始者ガブリエル・シャネルは、
お針子をしながら歌手になることを夢みて
キャバレーで歌っていた。
舞台に立っていたときの持ち歌は
「Ko Ko Ri Ko」
それから
「Qui qu’ a vu coco」
そのタイトルにちなんで、ファンは
「ココ!!」と呼んで声援を送った。
歌うことを諦めたあとも、ガブリエルはずっと、
その呼びかけを愛した。
自分の足で立とうとしたときに
拍手と一緒にもらった名前「ココ」
シャネルはそれを一生使いつづけた。
「シャネル・スタイル」
孤児院で育ったココ・シャネルが
社会へ一歩踏み出したとき
最初に首をかしげたのは
ドレスの長い裾、フリルやリボンなどの過剰な装飾。
本当に必要なのは
着飾るための服ではなく
生活するための服ではないかしら。
そう信じたシャネルは、
当時、下着の素材だったジャージーを使って
大胆なドレスを発表する。
そのドレスは
女性のカラダを動きやすく解放した。
そのドレスには短い髪とシンプルな帽子が似合った。
シャネルのファッションは
女性の生きかたに影響を与えはじめる。
「シャネルの解放」
どんなに苦しい時代でも、
女はファッションを諦められない。
戦争がはじまって戸惑う女性を、
シャネルは、ファッションでリードする。
身分のある女性が、負傷兵の看護をするために
品のいい看護服を仕立てあげた。
ドレスの紐をしめるメイドがいなくなったから、
コルセットのいらないドレスをつくった。
自動車や馬車ではなく、自分の足で歩くために、
踵を隠していたスカートも短くした。
誰の手も借りずに服を着て、
颯爽と街を歩くようになったパリジェンヌ。
第一次世界大戦が終わると、
その姿は世界中に知れ渡る。
「シャネルの恋」
打算のない恋をするためには、
女は自立しなくてはならない。
ココ・シャネルは、そう信じていた。
恋人の援助で仕事をしていることが、もどかしかった。
「僕をほんとうに愛している?」と彼に聞かれると、
シャネルはこう答えた。
それは私が独立できたときに答える。
あなたの援助が必要でなくなったとき、
私があなたを愛しているかどうかわかると思うから。
恋人と肩をならべて歩くために、
シャネルは仕事に生きる女になる。
彼がほかの女性と結婚したあとも
再び彼女のもとへもどってきたときも
そして、彼がシャネルを残して亡くなってからも…
仕事に支えられたシャネルは、
彼を愛しつづける。
「シャネルの恋のおわり」
シャネルは女友達にこんなアドバイスをしている。
愛の物語が幕を閉じたときは、
そっと爪先だって抜け出すこと。
相手の男の重荷になるべきではない。
終わりかけた愛情を、友情に変えるために。
シャネルは、きっぱりと言い切る。
男とはノンと言ってから本当の友達になれるもの。
もしかしたら
彼女は恋のいちばん美しい部分だけを
相手の記憶にとどめたかったのかもしれない。
シャネルのように恋を終わらせるのは度胸が必要だ。
もしかしたら、これが本当の意味で
自分を捧げるということなのかもしれない。
「シャネルの親友」
ココ・シャネルの一生の親友は
パリの社交界の女王、ミシア・セールだった。
惹かれあいながらぶつかりあうふたりの関係を
シャネルは、こう語る。
わたしたちは二人とも他人の欠点しか
好きになれないという共通点をもっている。
口当たりがいいだけでは、
一生の友情はつくれない。
「シャネルのカムバック」
退屈しているときの私って、千年も歳をとってるわ。
ココ・シャネルは、仕事のない人生に飽きていた。
大きくなり過ぎた店は
第二次大戦の直前に閉めていた。
シャネル自身も引退したつもりだった。
それなのに
70歳の彼女は、また服を創りはじめた。
15年ぶりのコレクションは、酷評されたけれど
その1年後
酷評された服がアメリカで大ブームになった。
女性の社会的進出がめざましい国で
シャネルは再び受け入れられたのだ。
それから87歳までシャネルはブティックに立ち続け
こんな言葉を残した。
規格品の幸せを買うような人生を歩んではいけない。
薄組・熊埜御堂由香 09年10月18日放送
せつない時計
同じテンポで時を刻んでいたふたつの時計がズレはじめ
やがて、どちらかが先に止まる。
アーティスト、フェリックス・ゴンザレス・トレスの代表作、
「パーフェクト・ラバーズ」。
どんなに完璧な恋人たちも、ずっと一緒にはいられない。
時間の残酷さを、時計は告げる。
ありきたりな掛け時計なのに
止まった時計の隣で動き続ける姿はせつなくて
恋人に先立たれたトレスの心と重なる。
旅する時間 気休めの薬
自分の体重とぴったり同じ重量のキャンディが床に
散りばめられている。
フェリックス・ゴンザレス・トレスの
「気休めの薬」という作品だ。
来場者は、ひとりひとつ、キャンディを持ち帰ることができる。
そのキャンディがポケットの中で旅する時間も、
どこかの国で、誰かの口の中でとけていく時間も、
彼の作品の一部なのだ。
常に持ち去られ補充されるキャンディは
彼の作品を継続させようとする人々の意思によって
作者の死後も、活発に活動している。
薄組・石橋涼子 09年10月18日放送
時を越える アントニオ・ガウディ
人は2つのタイプにわかれる。
ことばの人と行動の人だ。
私は後者に属する。
そう語ったのは、スペインの建築家
アントニオ・ガウディ。
そう、あのサグラダ・ファミリア教会の設計者。
幼いころから手先が器用だった彼は
自らの手で作りながら設計することを好んだ。
一方で、自らの考えを伝えたり、
他人の理解を得るために
文章や図面を書くことは大の苦手。
おかげで、着工から120年という膨大な時間の経つ
サグラダ・ファミリアは、今もまだ建築中だ。
なにしろ、ガウディ先生は
たった一枚のスケッチしか
ヒントを残してくれなかったのだから。
晩年、完成までの年月を聞かれるたびに、
彼はこう言ったのだった。
神様は完成をお急ぎではないよ。
きっと、人は2つのタイプにわかれる。
時間に囚われる人と
時間を越える人。
そして、後者にだけ与えられるのが、
未来に遺せる創造力なのだろう。
400年前からの手紙 俵屋宗達
琳派(りんぱ)の創始者であり、
国宝「風神雷神図」を描いた、俵屋宗達。
その生涯は
自伝もなく、日記もなく、謎に包まれている。
自筆で残されているのは筍のお礼状一通だけだ。
醍醐のむしたけ、五本送り下され、かたじけなく存じ候
彼が生きた時代から約400年。
自分の記録を残さず、作品のみを残した俵屋宗達が
いっそ潔く見えてくる。
愛の賞味期限 鈴木三重吉
愛情は最高の調味料。
食べ物に対する愛情もその料理をおいしくする。
作家 鈴木三重吉の
湯豆腐に対する愛情は半端なものではなかった。
レシピを訊ねる友人に
4メートル近い巻物に
延々と湯豆腐へのこだわりを書いて送った。
そこまで愛情をそそがれたら、
湯豆腐だってとびきりおいしくなる以外に道は無い。
止まっている時間 遠藤新(あらた)
1923年9月1日午前11時58分32秒。
その日、そのとき
後に関東大震災と呼ばれるマグニチュード7.9の揺れが起こった。
そして、その日、その時。
帝国ホテルの竣工記念パーティーが
まさに始まろうとしていた。
避難しようと慌てふためく人々の
悲鳴と怒号が飛び交うなか
ひとり、時間がとまったかのように、
ホールで大の字になって寝ている男がいた。
遠藤新。
天才建築家フランク・ロイド・ライトの片腕として
また、ライトが去った後の総責任者として
帝国ホテルを完成させた男である。
彼は言った。
この広い東京のなかで、今、最も安全な場所がここだ。
事実、崩壊と復興でめまぐるしい東京の街に
毅然と建ち続ける は
そこだけ時間が止まっているようだった。
薄組・薄景子 09年10月18日放送
魂の待ち時間 ミヒャエル・エンデ
時間どろぼうを描いた「モモ」で知られる、
ドイツ人作家、ミヒャエル・エンデ。
彼のコラムに、インディアンの興味深い話がある。
中米奥地の発掘調査団が
荷物の運搬役としてインディアンのグループを雇ったときのこと。
初日からすべり出し好調。
作業は予想以上にすすむが、
5日目、インディアンたちは地べたに座り込み、
無言のまま、ぴたりと動かなくなった。
叱っても、脅しても、全く動じない。
調査団も根をあげたその2日後、彼らは突然立ち上がり、
荷物を担ぎ上げ、予定の道を歩き出したという。
ずっと後になって、
インディアンのひとりが初めて答えを明かした。
「わしらの魂があとから追いつくのを、
待っておらねばなりませんでした」
スピード化、効率化、24時間営業。
次なる便利を求めて、前へ走り続ける文明社会に
もはやゴールは存在しない。
エンデが空想した「時間どろぼう」が
現実となった今。
私たちが、腰をすえて
置き去りにした魂を待つには、果たして何年かかるだろう。
見つかる時間 森 瑶子
あの17年間は、なんだったんだろう。
与えられたレールにのって
大嫌いだったヴァイオリンを
泣きながら練習した日々。
しかしこの先、一生ガマンすることに耐え切れず、
17年のヴァイオリン人生を捨てる。
その後、彼女は
誰からも教えられたことのない小説を
すらりと書き上げた。
森瑶子38歳。
処女作「情事」、すばる文学賞受賞。
彼女は言う。
「何かを好きで好きでたまらないほど、
好きになれるのは、天賦の才なのだ」
その「何か」が見つかるまでの時間は、
人それぞれ、
寿命のように定められているのかもしれない。
坂本和加 09年10月17日放送
タンデムストーリーズ①「ガストン・ライエ」
身長は、たった163センチ。
そのハンデをもろともせずに、
パリダカの二輪部門で2度の優勝歴を持つ、
小さな巨人、ガストン・ライエ。
誰もが、そんな足の着かないバイクで
いったいどうやって? と、不思議がる。
ガストン・ライエの答えは、至ってシンプル。
だったら、どうやったら足を着かないで、走りきれるかを考えたのさ。
現役引退後も、みんなと同じようにバイクを楽しみ、
世界中のバイク乗りに愛されたライダーだった。
タンデムストーリーズ②「マックス・フリッツ」
BMWという名車を語るなら、
そのエンブレムがプロペラに由来していることよりも、
そのオートバイの生みの親、
マックス・フリッツという男を知っている方がかっこいい。
エンジニアであった彼の最大の功績は、
水平対向2気筒、通称ボクサーツインと呼ばれる
エンジンを完成させたこと。
そのスタイルは、
1923年の初号機から今に続くビーエムだけのもの。
ドイツ、ミュンヘンにはBMW本社併設の博物館があるが
展示のほとんどをバイクが占める。
ビーエムのカーオーナーたちが、
ちょっとがっかりするくらいに。
タンデムストーリーズ③「ビバンダム」
ことしで111才になる。
世界的に有名な彼の名前は、ビバンダム。
そのからだは、うずたかく積み重なった
白いタイヤでできている。
創業者である、
ミシュラン兄弟のユーモアから生まれた
彼の名前は、「ヌンク・エスト・ビバンダム」という
ラテン語で書かれた最初のポスターから。
「今こそ飲み干すとき」という意味がある。
白いタイヤ男は、
生まれたときからからマーケットを飲み干す勢いで、
現在も世界トップシェアに君臨する。
タンデムストーリーズ④「チェ・ゲバラ」
23才の医学部生、エルネスト・ゲバラは
友人とふたりで一台のバイクにまたがり旅に出た。
アルゼンチンからチリ、ペルー、
そしてベネズエラへ。
相棒になったバイクは、英国製のノートン500。
タフなヤツというあだ名だったけれど
実際はひどいポンコツで、旅の間に壊れて鉄くずになった。
本当の旅がはじまったのは、それからだった。
バイクは、彼らが経済的に恵まれていることの象徴だった。
その垣根がなくなったとき
はじめて人々はゲバラに心を開いた。
百万長者よりも、文盲のインディオの方が好きだと言うゲバラが
旅行中に記した日記は、こう締めくくられている。
この流浪は、僕を想像以上に変えた。
僕は人民のために生きるだろう。
タンデムストーリーズ⑤ 山村レイコ
80年代は、バイクに乗る女の子、
ただそれだけで珍しがられる時代だった。
山村レイコが、そうだった。
バイクで旅する楽しさを伝えたいと、
彼女はエッセイストになった。
パリダカを走る国際ラリーストにもなった。
その魅力は、やっぱり書くことで伝えた。
そしてロハスが流行るずっと前に、
酪農や農業をして生きようと決めた。
大好きなバイクが自然との距離を近くしたから。
生きること、楽しむこと、働くこと
山村レイコのなかで
この三つは、いつも同じこと。
タンデムストーリーズ⑥浮谷東次郎
浮谷東次郎は14才のとき、バイクで1500キロを旅した。
とにかくよく飛ばす男は、カーレーサーになった。
けれど、最初は群を抜いて遅かったという。
のちの、最後尾からのゴボウ抜き逆転優勝は、
彼が理詰めで勝ち取ったもの。
そんな浮谷東次郎を語る言葉がある。
カッコよく革ジャンを着ていました
そうか、こういう人がカッコいいんだ。
タンデムストーリーズ⑦ 藤沢武夫
昭和24年、真夏の阿佐谷で
本田宗一郎と藤澤武夫が出会い、
「技術の本田、経営の藤澤」の伝説が生まれた。
ホンダが、世界のホンダと称される由縁は、
原動機付き自転車「カブ号」の爆発的ヒットにある。
そのカブ号に目をつけ、
抜群のセンスで売り込んだのが藤澤だ。
「自分に似た人間なら、2人いらない」
そう断言する本田が、選んだ相棒だった。
神話のような本田の決断の数々も、
必ず藤沢の意見があった上でのこと。
「ホンダの社長は技術畑でなくては」、
という藤澤哲学にもとづいて
つねに経営がシナリオを書き
技術が主役をつとめるホンダのサクセスストーリーは、
いまや、MBAの教科書になった。
名雪祐平 09年10月11日放送
宇野千代
ラブレターを書こう。
とても上手に。
そんなとき、
恋に生きた作家・宇野千代の
アドバイスが助かる。
私はあなたが好きです。
こういう書き出しが、いちばん。
かんたんで、わかりやすくて、
使い慣れた飾り気のない言葉ほどよい。
恋に、文章に
生涯をかけてきたからこそ言える、
シンプルな教え。
お試しあれ。
サルバドール・ダリ
幼い息子が死んだ。
両親は悲しみ、その子と同じ名前を
次に生まれた弟にも名付けた。
やがて少年となった弟。
ある日、兄の墓を見て、衝撃をうける。
墓に刻まれていたのは、
まちがいなく自分の名前。
サルバドール・ダリ
自分は生きているんだ!
そう証明しなければ。
死への強烈な抵抗。
それが天才画家ダリの作品にほとばしる
生命力の源かもしれない。
ジョーン・バエズ
プロテストソングを歌い、
ボヴ・ディランがカリスマになった60年代。
女性フォークシンガーの代表は、
ジョーン・バエズ。
ベトナム戦争の底なし沼に
アメリカがどっぷりはまっていたころ、
彼女はこんな発言をした。
私は過去3年間、
所得税のうち40%しか払っていません。
国家予算の60%は軍事費ですから。
歌と行動。
ただごとではない覚悟が、そこにある。
さて、プロテストソングが
あまり聴こえない近ごろは、
60年代より平和なのだろうか。
松下幸之助
経営の神様、松下幸之助。
昔、彼が採用面接をしていた頃、
必ずした質問が、
あなたの人生は、
いままでツイていましたか?
ツイていません。と答えると不採用。
はい、ツイていました。と答えれば全員採用。
物事は自分の力だけじゃない。
ツイています、と言える人には
周りへ感謝する才能があり、
いい人材に育つのだという。
神様の質問は、やっぱり、意味深。
ガルリ・カスパロフ
史上最強のチェスの王者、
ガルリ・カスパロフ
彼の前に、怪物が現れる。
IBM製スーパーコンピュータ「ディープ・ブルー」
1997年、世紀の決戦は、
「人間 対 機械」という哲学の現場になった。
世界が息詰まる大接戦。
機械の、圧倒的な分析力。
冒険しないぶん、リスクもすくない。
結果は1勝2敗3分けで、人間の敗北。
それでも、人間の王者は誇らしくこう言った。
人間に直感が備わっていてよかった。
たしかに。分析力だけなら、
機械の圧勝だったろう。
でも、冒険しないゲームなんて、ゲームじゃない。
淡谷のり子
ぜいたくは敵だ。
ドレスなど、もってのほか。
そんな戦時中にも、
ブルースの女王・淡谷のり子は
歌うためのドレスを絶対に脱がなかった。
ステージを見張る憲兵に、
もんぺをはけ!と怒鳴られても、
ドレスは私の戦闘服よ!
と啖呵を切った。
何度も、何度も書かされた始末書。
それは、歌うことに一切妥協しない
自分への勲章でもあった。
ドヴォルザーク
作曲家ドヴォルザークは、
鉄道オタクでもあった。
作曲以外の時間は、
機関車の模型作りに没頭するか、
町の操車場で、
何時間も飽きずに機関車を眺めていた。
♪ユーモレスク〜
このユーモレスクの調べも
汽車に揺られながら思いついたとか。
無料の高速道路もいいけれど、
鉄道の旅がしたくなりました。
小山佳奈 09年10月10日放送
司馬さんとみどりさん 「原稿用紙」
作家、司馬遼太郎と、妻みどりさん。
二人は職場恋愛だった。
同じ新聞社の同じ部で
向かい合わせに座る二人。
かぎつけるのが仕事の記者たちの中で
ひそひそと恋を育んだ。
連絡はいつも机の隙間からするりとすべり込む
原稿用紙の切れ端。
サントス亭で待ってます。
原稿用紙から始まる作家の恋なんて
順当すぎてつまらないけど、
司馬さんとみどりさんには
ことのほか似合っている。
司馬さんとみどりさん 「四天王寺」
作家、司馬遼太郎と、
妻みどりさんがまだ恋人だった頃。
四天王寺をそぞろ歩きながら
司馬さんはこんなことを言った。
僕たちは弱点で結ばれたんだから、
壊れることはないよ。
そうして37年。
たしかに二人は歩き続ける。
一瞬も一片も壊れることなく。
司馬さんとみどりさん 「ピーマンの皮」
作家、司馬遼太郎と、妻みどりさん。
みどりさんは料理がさっぱりできない。
晩ご飯にバナナを一房だけ買ってくる。
ピーマンの皮をむいたら
中に何も入ってないと騒ぎ出す。
そんなみどりさんに司馬さんはプロポーズする。
「そんなことはどうでもいい」。
そういえば
司馬さんの小説に出てくる女性たちも
みんな男まさりでおてんば。
司馬さんの好みは
一貫している。
司馬さんとみどりさん 「風邪」
作家、司馬遼太郎と、妻みどりさん。
司馬さんは風邪をこの世で一番怖がった。
みどりさんは、夫が風邪を引くことを
この世で一番怖がった。
たった36度5分で
司馬さんは暴君のようになった。
そばにいれば「あっちへ行け」
あっちにいると「何してるんだ」
あげくお医者さんには
「大した風邪でもないのに
うちの家内が騒ぐもので」。
やれやれ。
新型インフルエンザなんて聞いたら
司馬さんの前にみどりさんが卒倒する。
司馬さんとみどりさん 「結婚記念日」
作家、司馬遼太郎と、妻みどりさん。
二人は晴れがましいことが大の苦手。
結婚式は本当に内輪で済ませたし
結婚記念日なんて祝うどころか
思い出すことすらしなかった。
ただ一度、何十回目かのその前の日、
ソファに寝転がりながら司馬さんが呟いた。
そうか、明日は俺たちの日なんだ。
たった一言が
何十年分の愛。
司馬さんは、ずるい。
司馬さんとみどりさん 「21世紀」
1996年。
夫の司馬遼太郎が亡くなっても
妻のみどりさんは泣かなかった。
蔵書を整理し記念館をつくり財団を立ち上げ、
息つく間もなく迎えた2001年のお正月。
21世紀に酔う街並を見て
みどりさんは唐突に司馬さんを思った。
この瞬間、いっしょにいたかった。
司馬さんが、愛し、憂えたこの国の21世紀を、
二人で見たかった。
みどりさんはその日、
司馬さんが亡くなってから
初めて泣いた。
司馬さんとみどりさん 「呼び方」
作家、司馬遼太郎の妻みどりさんは、
一度も夫を「主人」と呼ばなかった。
「司馬さん」。
それがみどりさんの呼び方。
ただ司馬さんが亡くなってから
ごく近い人にごくたまに
ちがう呼び方をしてみる。
「あのひと」。
そう呼ぶと少しだけ甘い気分になれるから。
そう呼ぶと少しだけあの日に帰れる気がするから。
「あのひと」。
そう呼んだ日は
少しだけ泣きたくなる。
細田高広 09年10月4日放送
斉藤茂吉と鰻
歌人斉藤茂吉の好物は、うなぎだった。
皆でうなぎを食べる時、
弟子たちは気をつかって、
いちばん大きなものを茂吉の前に置く。
茂吉は真剣な眼差しで鰻の大小を比べ、
「そっちの方が大きい」とダダをこねては
何度も交換した。
鰻はあちこち移動し、結局、最初の並びに戻ったという。
ゆふぐれし机のまへにひとり居りて、鰻を食ふは楽しかりけり。
食欲の秋は、創作の季節でもある。
梅田晴夫 料理と浮気
今、結婚する3組に1組が
離婚に至るという。
結婚の難しい時代と言われるが、
結婚を続けるのはさらに難しいようだ。
生涯に6度の結婚を経験した劇作家、梅田晴夫。
彼は離婚のプロとして、
夫婦円満の秘訣をこう説いている。
料理のうまい女の亭主は、生涯浮気をしない。
毎日のご馳走が食べられなくなる。
そんなリスクを犯してまで、
他の女に手を出す男はいない。
なんでも美味しく感じる食欲の秋は、
夫婦円満の季節かもしれない。
コレット 料理は魔法
産地や、調理法や、歴史や。
薀蓄を知り、薀蓄を語り合うことで、
料理は一層味わい深いものになる。
私たちは料理を食べながら、知識を食べている。
その半面、度を過ぎた知ったかぶりや
知識のひけらかしには辟易してしまうもの。
もし、そんな人とレストランで
同席することになったとしたら。
グルメで知られるフランスの女流作家コレットは、
こう言ってたしなめる。
魔法が使えないのなら、
料理に余計な口を出すには及びませんよ。
料理は、ひとつの魔法だから。
客は黙って術にかけられればいいのだ。
料理を美味しくする秋。
魔法の季節の、到来です。
幸田露伴とファストフード
幸田露伴は、生粋の食いしん坊だ。
人に会えば、挨拶代わりに
「なにかうまいものに出くわしたかね」
と聞いた。
牛タンの塩茹でを愛する美食家でありながら、
合理的な面も持っていた露伴は、
明治時代にあって、こんなことを書いている。
清潔で、迅速で、上品で、少しの虚飾も無く
単に食事を要領よく出す。
こういう店を多くつくればいい。
まさに、現代のファストフードの予言である。
島崎藤村
しなびたりんご。
冷たくなった焼き味噌。
寂しい時雨の音を聞きながら飲む酒。
島崎藤村は、料理をまずそうに書く天才だった。
名をなして多額の印税を手に入れ、
ご馳走を食べていた彼が、何故、
まずそうなものをたくさん書いたのか。
料理の味は「いつ、どういう状況で食べるか」
に大きく左右される。
祝いの席で飲む酒はうまいが、
別れの席で飲む酒はわびしい。
藤村は、あえてまずい食を書くことで、
人の孤独や寂しさを書こうとした。
どんなご馳走だって、
ひとり思い悩んで食べたら、美味しくないもの。
さて、食欲の秋。
あなたは、誰と食べたいですか。
北大路魯山人と食器
プラスチックのパックをお皿代わりに
お惣菜や、サラダを食べる。
日本の家庭では、もう驚かない風景になりました。
食器は料理の着物である。
と言ったのは北大路魯山人。
料理の風情を美しくあれと祈る。
それは、美人に良い衣装を着せてみたい心と同じだ、
と魯山人は説きます。
食器と料理を鑑賞するなんて、
他の国には、あまり見られない
食の楽しみ方だから。
たまには食器にも少しこだわって、
見た目から味わってみませんか。
食欲の秋も、芸術の秋も、一皿に。
タレーランの外交術
外交の天才、タレーラン。
40年にわたってフランス外交の中心に君臨した彼は、
今でも
「交渉の場で卓越した存在」
の代名詞になっているという。
そのタレーランが、
外交の秘訣についてこう語っている。
外交官にとっての最高の助手とは、
間違いなく彼の料理人である。
食欲の秋は、ビジネスチャンスだ。
サヴァラン 美味礼賛
19世紀のはじめ、
料理を学問として研究した美食家、ブリア=サヴァラン。
新しい星を発見するより、
新しい料理を発見する方が幸せになれる。
そう信じて来る日も、来る日も、
食を考えているうちに、彼はふと気が付いた。
自分が、人間を研究しているということに。
著書、「美味礼賛」の冒頭で彼はこう言っている。
ふだん何を食べているのか教えてごらん、
どんな人だか当ててみせよう。
欲張りな人。品のいい人。
見栄っ張りな人。真面目な人。面倒くさがりな人。
食事には、その人の人となりが出てしまう。
食欲の秋。
鏡より、お皿を覗く方が、自分は見える。
佐藤延夫 09年10月3日放送
信濃の秋/平畑静塔 杉田久女
壺の国 信濃を霧の あふれ出づ
信濃を「壺の国」と表現したのは、
明治生まれの俳人、平畑静塔だった。
山国、信濃は盆地の中にあり、深い霧に包まれやすい。
その形をぼんやり想像すると、
たしかに、壺から煙が出ているように見える。
信濃では、こんな句も生まれている。
同じく明治生まれの俳人、杉田久女によるものだ。
紫陽花に 秋冷(しゅうれい)いたる 信濃かな
秋になってもここでは、
紫陽花が凛として咲いている。
俳人たちも、この幻想的な土地に訪れると
いつもより筆が動くのだろう。
甲州の秋/飯田蛇笏
甲州地方の山々を愛した、
明治生まれの俳人、飯田蛇笏。
彼の句は、
自然と対話するなかで磨かれていった。
くろがねの 秋の風鈴 鳴りにけり
蛇笏はこの句を詠んだあと、
あまりに簡潔すぎるので
他者の共感が得られるか、思い悩んでいたそうだ。
静けさがなおも深まる山。
風鈴の音もしない、くろがねの秋。
十月の山梨を、覗いてみたくなる。
大和の秋/阿波野青畝
アキノキリンソウ、
ヨシノアザミ、
ツルリンドウ。
今ごろ、
奈良県の葛城高原(かつらぎこうげん)では
秋の花が、そっと咲いている。
明治生まれの俳人、阿波野青畝が愛した
大和地方の山々。
この地に生まれた人だから、なのか。
俳句の中に、崇高な世界観が垣間見える。
秋の谷 とうんと銃(つつ)の 谺(こだま)かな
耳を澄ませば、遠くから聞こえる猟銃の音。
そしてまた静寂が包み込む。
奈良の秋は、神々しく深まっていく。
鴨川の秋/鈴木真砂女
千葉県、鴨川に行けば
俳人、鈴木真砂女の句に会うことができる。
あるときは 船より高き 卯波(うなみ)かな
真砂女の人生もまた、波乱に満ちたものだった。
22歳で恋愛結婚をするも、夫は博打に入れ込み、蒸発。
急死した姉の代わりに、旅館の女将となる。
人に勧められるまま、亡き姉の夫と再婚するも心を許せず、
30歳で、旅館にやってきた海軍士官と不倫。
全てを捨て、思うまま、身を投じた。
銀座一丁目の路地裏に小料理屋を開き、
それでも俳句を読み続けた真砂女は、
96歳まで生きて、ゆっくり目を閉じた。
来てみれば 花野(はなの)の果ては 海なりし
どこに居ても心に浮かぶのは、
穏やかな鴨川の秋だったのかもしれない。
草城の秋/日野草城
柿食えば、鐘が鳴るなり・・・という有名な俳句があるけれど、
俳句の中に柿を登場させた数で言えば、
明治生まれの俳人、日野草城に分があるかもしれない。
岡寺の 大きな柿を 買ひにけり
小包を 解くやころころころと柿
食ふまでの たのしさ尽きず 寒の柿
柿を 食ひをはるまで われ幸福に
いつのまにか、柿の甘さが頭の中を駆け巡っている。
そういえば草城は、こんな句も詠んでいた。
秋の夜や 紅茶をくぐる 銀の匙
この人は、紅茶もお好きだったようだ。
放哉の秋
結婚するはずの女性と別れる。
会社をひと月で辞める。
酒癖の悪さに、禁酒を命ぜられる。
朝鮮半島に渡る。
禁酒の戒律を破る。
サラリーマンに嫌気がさす。
妻と別れる。
いくつかの寺に世話になる。
小豆島に辿り着く。
そこが終の棲家となる。
自由律の俳人、尾崎放哉は
生き方まで自由だった。
ひとりで生きることを望み、それに苦しみ、
ただ海を見つめ、言葉を残した。
菊 枯 れ 尽 し た る 海 少 し 見 ゆ
枯れ果てた菊の花と、
その向こうに見える海。
孤独を噛みしめたいときは、
冬の近づく海辺で、放哉の句を呟くといい。
山頭火の秋
孤独の俳人、尾崎放哉が世を去った三日後、
流転の旅に出たのが、種田山頭火。
放哉と同じ、自由律というスタイルだった。
それなのに
ふたりの生き方は、あまりにも対称的で・・・。
放哉は、海を愛し
山頭火は、山に魅せられた。
放哉は、孤独に苦しみ
山頭火は、孤独を笑い飛ばした。
だから、こんな句ができた。
も り も り も り あ が る 雲 へ 歩 む
昭和十五年、十月。
彼の辞世の句には、
ひとりの寂しさなど微塵も感じられない。
孤独を楽しみたいときは、
山に向かい、山頭火の句を呟くのが良さそうだ。
厚焼玉子 09年9月27日放送
ワーズワースの家
湖の詩人ワーズワースが生まれたのは
イギリスの湖水地方、
川や森に囲まれたコッカマスの町。
その目抜き通りに面した家を見学に行くと
なんだかいい匂い。
キッチンでミートパイを焼いている最中です。
庭では野菜を収穫しています。
お父さんの書斎や客間の道具に
手を触れることはできませんが
子供部屋の家具やおもちゃはご自由にどうぞ。
ただ家を眺めるだけでなく
当時の暮らしぶりも見ることができる。
ワーズワースの家はまだ生きて呼吸しています。
ワーズワースの落書き
湖の詩人ワーズワースは8歳で母親に死に別れます。
裕福な法律家だった父は
幼いワーズワースを湖水地方中部の村
ホークスヘッドのグラマースクールに送りました。
9歳の少年が下宿生活をしながら
学校に通ったのです。
その学校は小さかったけれど
16世紀に創立した伝統ある学び舎でした。
白い壁に木の床、細長い木の机に
椅子は背もたれのない木のベンチ。
机のひとつには
ワーズワースの名前が刻まれていました。
少年ワーズワースが
小刀で刻んだいたずら書きです。
ワーズワースとアンおばさん
湖の詩人ワーズワースが
母の死をきっかけに
ホークスヘッドで学校生活を送っていたころ
その下宿先のおかみさんにアンおばさんと呼ばれる人がいました。
アンおばさんは孤独な少年に愛情を注ぎ
少年も母のようにアンおばさんを慕いました。
ワーズワースが大学生になった夏休み
なつかしいアンおばさんに会うために
ホークスヘッドを訪れたときの詩があります。
ヒースの野を越え
牧場の丘からウィダミア湖へ駆け下り
大声で渡し船を呼んで湖を渡ると
また丘を駆け登ってホークスヘッドへ向う…
その飛ぶような足取りとはやる心を
その詩はうたっています。
丘から見える湖は青く輝き
その湖の向こうになつかしいおばさんがいる。
ワーズワースがその詩のなかで
アンおばさんを表現した言葉「kind and motherly」は
湖水地方の風景そのものでした。
ワーズワースのクリスマス休暇
13歳のワーズワースは
クリスマス休暇で家に帰るために
迎えの馬車を待っていました。
待ち切れず、原っぱに駆け出し岩山に登り
吹きさらしの風のなかで
草の上にしゃがみこんで馬車が来る道を眺めていました。
それほど待ちかねたクリスマス休暇の最中に
ワーズワースの父は亡くなり
馬車を待っていたときの風の声、森や水のざわめきは
ワーズワースの心の中に暗く沈みます。
その風景は一生ワーズワースにつきまとい
常に警告を発するブレーキの役割を果たしました。
ワーズワースの散歩
大学から湖水地方を離れていたワーズワースが
再び湖のそばに戻って来たのは1799年のことでした。
グラスミア湖のほとりの
もとは宿屋だったというダヴ・コテージを借りて
妹のドロシーと一緒に暮らしはじめます。
家は湖に面し、小さな果樹園と庭がありました。
バラとスイカズラが白い壁を彩っていました。
この頃の生活の中心は散歩。
ふたりは昼でも夜でもかまわず歩きまわりました。
5キロ離れた隣の町などは散歩のうちにも入らないくらい
20キロ先の友人の家でも気軽に歩いて遊びに行きます。
けれども、本当に好きなのは山や谷、森に湖。
ここにはワーズワースの作品のテーマが
すべてそろっていました。
大自然こそ自分の書斎と言い切るワーズワースにとって
山や湖を歩くことは
感性を研ぎすまし、詩の風景をさがすことでもありました。
そんな詩人の心中を知らない村の人々は
ワーズワースのあまりに長い散歩の理由がさっぱりわからず
ときには、こんな愉快な噂もあったようです。
「フランスのスパイかしら?」
ワーズワースの最後の家
1813年
湖の詩人ワーズワースは最後の引っ越しをします。
古い農家を改築したその家からは
ふたつの湖を眺めることができました。
庭はワーズワース自身が設計し
まわりの風景に溶け込むように
注意深く木々や草花が植えられています。
この最後の家こそワーズワースにとって完璧な家。
でも自分が死んだらどうなるだろう…
家の正面の壁や石段はそのまま残るだろうか。
庭はどうだろう。
美しいシダやコケ、野生のゼラニウム…
ご心配なく。
心ある人たちの手でいまもちゃんと守られています。
ワーズワースの朗読
湖の詩人ワーズワースが
書き上げたばかりの新しい詩を真っ先に聴いたのは
庭の小鳥たちでした。
ワーズワースは
新しい詩をつくるたびに庭に出て朗読をし
小鳥が返すさえずりで
作品の出来を判断していたといいます。
批評家の小鳥の名前は
残念ながら伝わっていないのですが。
ワーズワースの自然保護
湖の詩人ワーズワースの存在は
イギリスの湖水地方を世界的に有名にする一方で
湖水の景観を守る意識を人々に植えつけました。
1844年、この地方に鉄道を敷く計画が持ち上がったとき
ワーズワースは湖の環境だいなしにすると猛反対。
モーニング・ポストに反対の意思を表明する文書を投稿し
それがきっかけで鉄道計画は中止になります。
いまでもウィンダミアから湖に向う鉄道はなく
自動車では近づけない湖もあります。
そのかわりに活躍するのがフットパスと呼ばれる散歩道。
歩いてください。
そして美しい自然を楽しんでください。
ワーズワースの声が聞こえるようです。