中村直史 09年8月15日放送

0815

寺島尚彦 「さとうきび畑」

人の声は聞こえず
ただただおだやかに、
風が吹き抜ける
沖縄のさとうきび畑。

その下にはいまも
勝ち目のない地上戦を戦い、
自決していった方たちが眠っているという。

寺島尚彦は、畑を吹き抜ける風に
死んでいった者たちへの
思いを乗せて
「さとうきび畑」という曲をつくった。

風の音は66回繰り返される。
それは、終わることのない
祈りのようでもある。

hiroshima

美空ひばり 「一本の鉛筆」

その歌が初めて歌われたのは、
1974年8月のことだった。
第1回広島平和音楽祭のために
つくられた歌の名は「一本の鉛筆」。

出番を待つ美空ひばりは、
太陽が照りつけるステージのかたわらにいた。
冷房のある控室へ行くようすすめられても、
そこを動かない。

「広島の人たちはもっと暑かったはずよね」
静かにつぶやいた。


一本の鉛筆があれば 人間のいのちと 私は書く

戦争を憎み
みんなを励まし続けた
ひばりさんらしい歌だった。



hara

ビクトル・ハラ 「平和に生きる権利」

1973年.
チリのサンティアゴにあるスタジアムで、
軍事政権に反対する
多くの若者が殺されたとき、
最後まで歌を歌い続けていた
といわれる男がいる。

ビクトル・ハラ。
「歌は弾圧に対する武器になる」
そう信じていた。

事実、どんな権力者にも
彼の歌まで殺すことはできず。

何十年にもわたって、
戦争や権力に屈しない人たちの間で
歌い継がれた曲の名は
「平和に生きる権利」。

いま、 彼が殺されたスタジアムは
「ビクトル・ハラ・スタジアム」と
名前を変えている。


0815

K&J Kids 「アイアイ」

日韓ワールドカップ開催に
盛り上がっていた2002年のこと。
韓国のとある先生が
素敵な提案をした。

「いっしょに歌を歌いませんか」

韓国の子どもたちは、日本の童謡を。
日本の子どもたちは、韓国の童謡を歌うんです。

そうして集まった
子どもらは「K&J Kids」という名のもと、
ともに歌い、それはCDにもなった。

両国の小さな歌手たちはどんな気持ちで歌ったのか。
子どもらの感想をちょっとだけ紹介します。

「日本の歌も韓国語で歌うと韓国の歌のように思った」
「意味はよくわからないけれど、心温かくなる」

ね、歌っていいんですよ、やっぱり。


0815

RCサクセション 「明日なき世界」

RCサクセションが
その曲を日本に送り出したのは、
戦争が終わって43年目、
1988年の8月15日だった。

アルバム「カバーズ」に収められた
「明日なき世界」。

戦争を知らない若者たちにも、
どストレートな反戦の歌はずしりと響いた。

あれから20年がたつ。
近頃は、反戦の歌なんて時代遅れなのだろうか。
戦争こそ時代遅れだと
世界中が思う日はまだ遠いのだろうか。


peace

エルビス・コステロ 「(What’s So Funny Bout) Peace, Love & Understanding 」

ありえないシーンを
想像してみる。

世界中の国のトップが、
国連ビルの地下室につくられた
秘密のカラオケボックスで歌っている。

曲はエルビス・コステロの
(What’s So Funny Bout) Peace, Love & Understanding 
「平和と愛と理解し合うことの、何がおかしいっていうんだ?」

ネクタイやスカーフを頭に巻き
肩を組み合い熱唱する各国首脳たち。

バカみたいな想像だろうか。
でも、
平和と愛を歌い、理解し合う世界を
想像することの、
何がおかしいっていうんだ?


shirayuri

新垣勉 「白百合の花が咲く頃」

新垣勉という歌手がいる。
盲目の歌手である。

目が見えないことが理由なのかはわからないが、
彼の歌は、目には見えないものを伝えてくれる。

「白百合の花が咲く頃」という曲も、
そんな歌のひとつだ。


戦争は確かに巨大な現象です。
しかし、私たちにとって今必要なことは、
その時その場所で、泣き笑い愛し合い暮らしていた一人ひとりの人間が、
戦争について何を想い何を感じ生きていたか、
その心の内を知ること、想像することではないでしょうか。

目を閉じて
誰かの気持ちに思いをはせる。

それは、人間にできることの中で
最も大切なことのひとつだと、
彼の歌は教えてくれる。

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江口順也 09年8月9日放送

0桜木


バスケットマン、桜木。
  

10代を部活に明け暮れたやつは、
夏になると、あの頃を思い出す。

部活は、家。

そこには、絆があって、居場所があって、いざこざもあって。

部活は、檻。

そこから、みな一度は脱走を企て、縛られない自由に憧れて。

部活は、幻。

そこでの、とくべつな日々はいつか終わるという覚悟の下で。

湘北高校バスケ部に入部した、桜木花道は、
夏の体育館で、シロートから天才への進化を遂げる。

その姿を、かつての部活少年、部活少女たちはみな、
ハラハラと、自分のことのように見守った。

だから、漫画「スラムダンク」は、1億冊も売れたんだろう。

みんなブーブー言いながら、部活が、大好きだったんだ。

キャプテン、赤木。


キャプテン、赤木。

夏の体育館は、
やる気なき者を追い出しにかかる。

肺がヤケドするかのような、熱の篭もった空気。

足を滑らそうと狙ってくる、汗まみれの床。

膨れ上がったボールは、本気でキャッチしないと、突き指をする。

そんな体育館を、湘北バスケ部キャプテンの赤木は、
誰よりも愛していた。

弱小チームでありながら、心はいつも全国制覇。
そのスピリッツに、僕らはいつも励まされた。

大人になった今も、ちょっと何かを怠けていると、
すぐに頭の中に聞こえてくるようだ。
あの、キャプテンの口癖が。

 「ばかもん!」

夏が来ると、部活の日々を思い出す。

青春のバスケ漫画「スラムダンク」を、思い出す。

シックスマン、木暮。


シックスマン、木暮。

多くの少年少女は、
10代の夏に、
初めての挫折を味わう。

「補欠」という現実。

部活の試合に出られない、レギュラーになれない、自分。

ある者は、悔しさをバネにする。
ある者は、悲しみにふさぎ込む。
ある者は、調子よくやり過ごし、
ある者は、不公平だと憤る。

ところが湘北バスケ部の控え選手、3年の木暮は、そのどれでもなかった。

自分を追い抜いていく後輩の成長を心から喜び、
負けじと、自らも練習に励んだ。

メガネ君と呼ばれた、その彼は、レンズの奥から、
いつもチーム全体を見ていたのだ。

木暮君が放ったシュートで、
ラスト1分、勝てば予選突破という最終試合。
湘北高校は見事に全国行きを決めた。

夏が来ると、部活の日々を思い出す。

青春のバスケ漫画「スラムダンク」を、思い出す。

090809-04


No.1ガード、宮城。

なんで、オレの敵はいつも、スゴイやつばっかなんだ。

なんで、オレより皆、10cmも背がでけーんだ。

なんで、オレはそれでも、まるで負ける気がしないんだ。

なにをして、オレはあいつらに、一泡吹かせてやろうか。

まったく・・・ アヤちゃん。

バスケ部のマネージャーだったキミに、
一目惚れなんてしたばっかりに。

こんな楽しいことになっちまった。

夏が来ると、部活の日々を思い出す。

青春のバスケ漫画「スラムダンク」の、
宮城リョータを思い出す。

天才シューター、三井。


天才シューター、三井。

かつて男はスターと呼ばれた。
バスケットボールで、かなうやつは殆どいなかった。

悲劇は突然。大怪我。長引くリハビリ。
拭えない焦りと、チームから必要とされなくなる恐怖。

そんな葛藤から、いつしかバスケを憎むようになっていた。
気がつけば、体育館に土足で殴り込んでいた。

しかし――――

  安西先生・・・ バスケが、したいです。

憧れの恩師の前で、男はウソをつけなかった。
バスケなんか嫌いだ、というウソを。

こうして、天才シューター 三井 寿 は再びコートに戻ってきた。
チームのためにすべてを捧げているうちに、
かつての自分を、とっくのとうに越えていた。

夏が来ると、部活の日々を思い出す。

青春のバスケ漫画「スラムダンク」を、思い出す。

スーパールーキー、流川。


スーパールーキー、流川。

二の腕が痛いほど、シュートを打ち込んだか。
両ヒザが笑うほど、ダッシュを繰り返したか。
目と閉じても、ゴールまでの距離が分かるか。
画面に穴が開くまで、対戦相手のビデオを見たか。
全身の筋肉と関節を、とことん苛め抜いたか。
バッシュを何足、履きつぶしたか。
勝つイメージを、何種類描いたか。

すべてにYesと答えられなければ、
湘北バスケ部のルーキー、流川と戦うには、まだ早い。
日本一の高校生を目指してるあいつのことだ、

 おめーにかまっているヒマはねぇ、

なんて言われんのが、オチさ。

夏が来ると、部活の日々を思い出す。

青春のバスケ漫画「スラムダンク」を、思い出す。

安西先生


安西先生

安西先生は、言った。

 あきらめたら、そこで試合終了だよ。

かつてスラムダンクという漫画が、
社会現象的にヒットする中で。
このコトバはいちばんの名ゼリフとして、
どんどん一人歩きしていった。

恋愛も、
犬のトイレのしつけも、
CO2削減も、

あきらめたら、そこで試合終了だよ。

そんなふうに言われたら、
あきらめるわけにいかない。

だって、試合を途中で投げるなんて、
部活少年のやることじゃないじゃないか。

井上雄彦


井上雄彦

高校のバスケ部を描いて人気絶頂だった
漫画「スラムダンク」は、
全国トーナメント第二戦という
中途半端なところで突如連載を終了した。

作者の井上雄彦は、こう言った。

 前の試合よりも、
 つまんない試合は絶対描きたくなかった。

バスケの神様マイケル・ジョーダンが、
これ以上、最高のプレイを見せることができないという理由で
引退したように。

井上の引き際は、まさにスポーツマンのそれだった。

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佐藤延夫 09年8月8日放送




将棋指し。BOSTON。宇宙。1/村山聖(さとし)

一日中、好きな本を読んでいたい。
一日中、ギターをかき鳴らしたい。
一日中、テレビゲームをしていたい。

たまにそんなことを思うけど
「これから毎日ずっとだよ」
なんて言われたら、素直に頷けるだろうか。

少年は、重い病で入院しているときに、将棋と出会った。
狭いベッドに横たわる自分の背中に、翼が生えたような気分だった。


 一日中、将棋をしていたい。

村山聖、6歳。
プロの世界へ羽ばたいていく、ほんの8年前のこと。




将棋指し。BOSTON。宇宙。2/村山聖

村山聖、8歳。
入院中に書いた、ある日の日記。


 今日もしょうぎのれんしゅうを六、七時間しました。
 朝から夕がたまでです。
 そしてまだ、のこっているので夜、やろうと思います。
 あと二もんです。だから時間はあと一時間です。

次の日も、その次の日も、
将棋のことしか書かれていなかった。

日記によると、
なぜか天気は、いつも晴れ。
気温は、いつも22度。

病気は、来る日も来る日も彼の体にのしかかってきたけど、
きっと、心は穏やかだったんだろう。





将棋指し。BOSTON。宇宙。3/村山聖

ネフローゼという厄介な病気は、
顔や体を赤ん坊のように、むくませる。
不意に高熱が出て、
体調が悪いと一歩も動けなくなる。

村山聖は、そんな病を抱えたまま
ただ将棋を指していた。

小学6年生のとき、
広島のデパートで行われたイベントで
プロの棋士と対戦。
飛車落ちのハンデだけで
いともたやすく勝ってしまう。

青白い顔で打ち込む指し手はみな鋭く、
本当に青ざめたのは、大人たちのほうだった。





将棋指し。BOSTON。宇宙。4/村山聖

タイムリミット。
時間がない。
それは締め切りだったり、
電車の時刻だったり。

私たちが時間に追い立てられるのは
せいぜい、今日か明日か明後日か。

将棋の世界は、時間に厳しい。
プロの棋士を養成する奨励会に入ると、
25歳までに四段への昇級を義務づけられる。
村山聖は、病気と闘いながら、17歳でそのノルマを果たした。

それでも村山は、言い続ける。


 僕には、時間がないんです。

まるで命のタイムリミットを知っているかのように。

砂時計の砂は、少しずつ減り始めていた。





将棋指し。BOSTON。宇宙。5/村山聖

「なんて、強いんだ。」

14時間を超える対局の果てに、投了。
村山聖は負けた。
相手は、羽生善治。

かつて村山が、広島の病院で将棋に夢中だったころ、
羽生もまた東京で、将棋の本を手放さない少年だった。

境遇はよく似ていたけど、
そんなことは、もちろんふたりとも知らない。


 食事に行きませんか?

ある日、村山は、羽生にそっと声をかける。
まるで憧れの女性を誘うみたいに。

通算の対戦成績は、村山の6勝7敗。
その続きを、もう見ることはできない。





将棋指し。BOSTON。宇宙。6/村山聖

勝負の世界には、神様が現れやすい。
勝利の女神、しかり。
神懸かり、しかり。

村山聖は、26歳で八段まで昇りつめた。
名人まで、もう少し。
将棋の神様は、村山に微笑んでいた。
なにかと幸運に恵まれた昇級に、ぽつりと感想を述べる。


 神様のすることは、僕には予想のできないことだらけだ。

その後、こんな質問を受ける。
「もし神様がひとつだけ願いを叶えてくれるとしたら、何を望みますか?」

村山は答えた。


 神様除去。

彼を翻弄するのは、神様だけだった。





将棋指し。BOSTON。宇宙。7/村山聖

村山聖は、旅立った。
平成10年の今日、8月8日。
29歳の若さで。

将棋界の最高峰、A級に属し
名人まで手が届くところにいたのに。

亡くなる少し前、将棋年鑑のアンケートに、こう寄せている。

今年の目標は?


 土に還る。

行ってみたい場所は?


 宇宙以前。

「More Than A Feeling 〜宇宙の彼方へ」。
彼がこの曲を愛した理由が、少しだけわかった。

将棋盤に刻まれた81枡。
その向こうには、宇宙があるんだ。きっと。

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八木田杏子 09年8月2日放送

MM1


マリリン・モンローの苦悩

マリリン・モンローは、愛される自信がなかった。

愛してくれようとする男があらわれると、不安になった。
この人は、本当の私を知らないから、優しくしてくれる。
すべてを知ったら、きっと、捨てられる。

だから男に、逆らえない。
だから男を、試そうとする。

極端に揺れる気持ちの狭間で、
アルコールに溺れて、乱れていく。

耐えきれずに夫が去ると、
ほら、やっぱりね、と言って、また酒を飲んだ。

幸せには慣れていないの、と呟きながら。

MM2


マリリン・モンローの葛藤 

男の傷を、男でうめる女がいる。

マリリン・モンローは、いつも、
新しい男の胸で、古い傷をいやした。

メジャーリーガー・ディマジオの乱暴さで傷ついたら、
作家アーサー・ミラーの繊細さで癒した。

ミラーの陰険さに傷ついたら、
俳優イヴ・モンタンの優しさで癒した。

振り子のように揺れて、
極端に違う男を、求める。

女を傷つけない男なんて、いないから。
マリリン・モンローの振り子は、とまらない。


MM3


マリリン・モンローの初恋

マリリン・モンローの初恋は、クラーク・ゲーブル。

二十年間、頭の中で思い描いていた人。
やっと会えたのは、映画「荒馬と女」の撮影現場。

砂漠での撮影は、過酷を極めたけれど。
ゲーブルだけが、マリリンの支えだった。

腕をからめて、こっそりキスをねだっても、
笑顔でかわされたけれど。

しっかりと目の奥をのぞきこんで、
「俺はお前の味方だ」と、言ってくれる。

カラダありきの男たちとは、違うから。

ゲーブルは、一生、初恋の人。

MM4


マリリン・モンローの誕生

ハリウッドの男社会を、生き抜くために、
マリリン・モンローは、タブーをおかした。

愛していない男を、利用したのだ。

ハリウッドで最高のエージェント、ジョニー・ハイド。
53歳の彼を、マリリン・モンローは虜にした。

女をもてあそぶハリウッドで、
男をひざまずかせた金髪の小娘。

その噂は、たちまち広がった。

一度イメージが汚れてしまうと、
どんなに演技の勉強をしても、
セックスシンボルから、抜け出せない。

愛していない男の手は、借りてはいけなかった。

MM5


マリリン・モンローの絶望

たくさん泣ける女は、キレイになれる。

涙でしかあらえない傷を、のりこえたとき、
女はキレイになれる。

マリリン・モンローは、まさに、
泣きつくす人生だった。

母親にすてられたときは、
毛布にうずくまって、泣いた。

プロデューサーに騙されたときは、
悔しくて、泣き崩れた。

夫に利用されつくしたときは、
声を殺して泣いた。

人を惹きつけてやまない、
マリリン・モンローの微笑みは、
涙からうまれた。


MM6


マリリン・モンローの憂鬱

カメラが止まっても、
マリリン・モンローは、演技を続けた。

自分がつくりあげた女になりきれば、
愛されると信じて。

お尻を大きくふるモンローウォークのために、
右のヒールを6ミリだけ短く。

眠るときは、シャネルの五番だけを、まとう。

3つの口紅を使って塗りあげた唇を、
つきだすようにして、笑う。

マリリン・モンローが完璧になれば、なるほど。
その仮面が剥がれ落ちるのが、怖くなっていく。


MM7


マリリン・モンローの終焉

男を追い越したとき、女の人生は、難しくなる。

夫は、仕事をやめろと言った。
成功していく妻に、嫉妬しているように見えた。

わずか9カ月の結婚生活が終わり、7年が経ったころ。

マリリン・モンローでいるために、
心が壊れてしまったとき、
抱きしめてくれたのは、あのディマジオだった。

そのときに、はじめて、
夫が、モンローをやめろと、言っていた理由を知る。

素顔のノーマ・ジーンで愛されるなら、
マリリン・モンローは、もう、いらない。


Marilyn Monroe8


マリリン・モンローの価値

女は若いうちが、華だ。

そんな考えを、覆すように。

マリリン・モンローは、
年を重ねるほど、自分の価値を上げていった。

二十歳のころは、グラビアモデル。
三十歳で、ハリウッドのスター。
三十五歳で、大統領をはじめ国民すべてを虜にする。

懸命に階段を昇りつづける人生が、突然、終わったあと。

マリリン・モンローは、女性の美の象徴になった。

8月5日で、モンローが亡くなって47年。

私たちはまだ、彼女を忘れることができない。

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古田彰一 09年8月1日放送

wanamaker


ジョン・ワナメーカー
  

アメリカのデパート王、
ジョン・ワナメーカーが、
広告について語ったことがある。

 「広告費の半分は無駄だということがわかっている。
 しかしどっちの半分が無駄なのかがわからないんだ。」

ネット広告の時代になって、
広告は科学的になったと言われるけれど。

狙い通りに人の心が動かせるほど、
ニンゲンはシンプルじゃない。

少なくとも「この広告は必ず効きます」
なんて語るクリエイターのプレゼンは、
話半分に聞いておいた方がいいようだ。

ian


イアン・ソープ

泳ぐスピードが一直線に速かったことから
「魚雷」ともあだ名された、イアン・ソープ。

シドニーオリンピックで金メダルを連発したあと、
彼はこう語った。

 「金メダルは僕のゴールではありません。
 金メダルを取ったあとの10年を意識していました。」

プールの壁で止まるのが、ふつうのスイマー。
壁の向こう側までたどり着こうとするのが、金メダリスト。

もしもいま、あなたが何かに迷っているとしたら。
ゴールをあえて遠くに置いてみるといい。

気づいたときには、「魚雷」のように
はじめのゴールは突き抜けている。

Feldman


モートン・フェルドマン

モートン・フェルドマンの曲は、退屈だ。

たとえば「フィリップ・ガストンの為に」は4時間。
「弦楽四重奏曲第二番」は6時間。
その間、ひたすらに抑揚のない演奏がつづく。

もちろんCD一枚には収まらない。
演奏会は腰痛持ちの人には気が遠くなる長さだ。

しかしそんなフェルドマンには、
意外にも日本人のファンが多いという。

枯山水の庭に水の流れる音を聴き、
蛙が飛び込む古池に無限の静寂を感じる日本人。

一見退屈なフェルドマンの音楽は、
音と音の間の空白に耳をすますことができれば、
永遠に飽きの来ない宇宙のメロディとなる。

bergman


イングリッド・バーグマン

美人を見慣れているはずのハリウッドでも、
イングリッド・バーグマンの美貌は群を抜いていた。

数々の作品で知的な美しさをふりまき、
生涯で三度ものオスカーを獲得。

苦労を知らないエリート女優のイメージがあるが、
実際のイングリッド・バーグマンはまったく逆だった。

 「私は、できなかったことは後悔しない。
 やらなかったことだけを後悔する。」

一流の監督たちが音を上げるほどのチャレンジ魂。
美人でガッツがある女性は、素敵というより無敵です。

darwin


チャールズ・ダーウィン

 最後に生き残るのは、
 強い生き物ではない。
 賢い生き物でもない。
 変化できる生き物だ。

この言葉は、進化論で有名なダーウィンが
「種の起源」の中で語ったとされる。

しかしどこを探しても、
そのような記述は見つからない。

きっと、ダーウィンならそんなことを言ったはずだ、
いや、言っているに違いない、
というか、言っていて欲しい。

変化の激しいこの時代を生きていく勇気が欲しいから。
人々の思いが集まり、進化して、創り出された言葉だった。

 最後に生き残るのは、
 強い生き物ではない。
 賢い生き物でもない。
 変化できる生き物だ。

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野村克也

楽天イーグルスの監督、野村克也は
人を育てる天才と言われる。

人を育てるにはとにかく褒めることだ、と言われるが
野村監督は3分の1しか人を褒めない。

まず、まったく話にならない段階では「無視」する。
少し、見込みが出てきたら「褒める」。
そして中心人物に成長したら、「非難する」のである。

だから褒めるのは全体の3分の1。
この育て方で、江夏が、池山が、古田が、
スーパースターに成長した。

さて、若きヒーロー、マーくんにはどんな声を掛けるか。
野村監督のセリフは、試合よりも楽しい。

tiger


タイガー・ウッズ

生タイガー・ウッズに憧れて、
プロゴルファーを目指す若者は、世界中に数多い。

彼のプレイを徹底的に研究し、
肉体とメンタルを鍛える。
いつかタイガーに追いつく日を夢見て。

しかしそんな次世代の卵たちに、
タイガーはあっさりと言う。

 「次のタイガー・ウッズになろうとしちゃダメだ。
 自分のベストを目指すべきだ。」

その人を目標にする限り、
その人を超えることは出来ない。

本当に憧れるべき相手は、
まだ見ぬ未来の自分なのかもしれない。

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保持壮太郎 09年7月26日放送

Xaver_Mozart


フランツ・クサーヴァー・モーツァルト   

きょう7月26日は、
モーツァルトが生まれた日。

ただし、
わたしたちがよく知る
モーツァルトではなく、
彼の息子、
フランツ・クサーヴァー・モーツァルトの。

偉大なる父と同じ道を歩み
モーツァルト2世を名乗るハメになった
作曲家の苦悩は想像に難くない。

ただ、彼の墓石にはこうある。

 彼の父の名をここに記す。
 父への尊敬は、
 彼の人生そのものだったから。


chips


カアラン・ケイ   

新着メールはありません。

ありません。

ありません。

ありません。

いつまでたっても
鳴らないケータイの画面を
ぼんやりと見つめながら
僕はなぜだか
計算機科学者の
アラン・ケイの言葉を
思い出していた。

 テクノロジーというのは
 あなたが生まれたときに
 存在しなかった全てのものだ。

つまり
土曜日の夜の
この孤独も、
たぶん、
ひとつのテクノロジーで。

新着メールはありません。

Emperor_Norton


ジョシュア・ノートン 

1859年、
サンフランシスコの新聞紙面で、
ジョシュア・ノートンという名の男が
こう宣言した。

 大多数の合衆国市民の要望に応え
 朕ジョシュア・ノートンは、
 この合衆国の皇帝たることを自ら宣言し布告す。

そしてノートン皇帝による
アメリカ統治がはじまった。

 通りに街灯をつけるべし。
 広場にクリスマスツリーを。
 オークランドとの間に橋を建設せよ。

新聞紙面上で発せられる勅命の数々。

サンフランシスコ市民は突然現れた
このふうがわりな皇帝を
なぜか愛してやまなかった。

20年後、彼の葬儀には
3万人が参列したという。
当時の新聞記事にはこうある。

 彼は誰も殺さず、誰からも奪わず、誰をも追放しなかった。
 彼と同じ称号をもつ者で、この点において彼以上の者はいなかった。

donki


ジョルジュ・デュアメル 

自らを伝説の騎士だと勘違いし
できそこないの兜で、
ロバに打ちまたがり旅にでた男。

やがて彼は
ラ・マンチャの丘に立つ風車を
獰猛な巨人と思い込み、
槍をかまえて突進してゆく。

小説ドン・キホーテに描かれた
主人公のエキセントリックな行動を、
フランスの作家、
ジョルジュ・デュアメルはこう評している。

ドン・キホーテは、自らの狂気をはっきり知っていた。

だとすれば、
僕たちの世界の滑稽さにも説明がつく。

その大量消費がめざすものは?
そのマネーゲームがめざすものは?
その戦争がめざすものは?

すべては、ある種の狂気をはらんでいる。

ドン・キホーテの物語は、今もまだつづいている。

money


カール・マルクス 

世界を語ろうとするとき、
自らの足もとのことは
おざなりになるもので。

ゆえに恋愛小説家は
ときに幸せな恋愛を
あきらめなければいけないし、
医師たちは人類の健康増進のために、
自らの健康を犠牲にする。

「資本論」を記した
経済学者カール・マルクスもまた、
その例に漏れない。

学生時分の彼が
一年で浪費した
700ターラーという金は、
当時、ベルリンの市会議員の年収に
匹敵する額だったし。

叔父から3,000マルクもの
遺産を相続したときも
翌月には、たった40マルクの金を
借りるべく友人に泣きついている。

そして
マルクス経済学は、
彼自身の経済的な問題に
明確な答えを与えぬまま、
いまも世界の経済を語りつづけている。

nasa


スタンリー・キューブリック 

人類が月に行ったなんて嘘だ。
月面着陸のあの映像は、
NASAがスタンリー・キューブリックに頼んで
スタジオで撮ったものなんだよ。

そんな話を
どこかで聞いた。

もしも、
その話が本当だとしても。

完璧主義者の
キューブリックのことだから
NASAがつくった
スタジオセットの完成度なんかに
満足できるはずもなく。

結局、
月面で撮影することに
なったんじゃないかな。

そうに違いない。

concert


ミック・ジャガー 

ひとつを選ぶということは、
いくつもの可能性を
捨てることでもあるから。
人生はときどき悩ましい。

一人の青年がいた。
もっか彼の悩みは就職だった。

国税局に入るか。
それとも、
プロのミュージシャンになるか。

彼が、
後者を選んでくれたことを、
僕たちは感謝せずにはいられない。

Happy Birthday Sir Michael Philip “Mick” Jagger.

きょうは彼の
66回目の誕生日。

Stendhal


スタンダール

作家や詩人として
生きることの不幸は、
死ぬときにあるのでは
ないだろうか。

なにしろ“辞世の句”である。

最期に何を言いのこしたか。
その読後感だけで、
人生すべてが
語られたりするのだから。
おいそれとは死ねない。

フランスの小説家
スタンダール。
彼ももれなく
そんな苦悩をかかえていた。

おかげで彼は
59歳で死ぬまでに
毎年遺言を書き直す
はめになったという。

そんな彼の墓石には
こう刻まれている。

 生きた。書いた。恋した。

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山口千乃 09年7月25日放送

1hiranotomi


平良とみ


おばあさん。
沖縄語で、おばぁ。


沖縄のおばぁ役として
活躍する女優、
平良とみは、


若い人たちに
沖縄の言葉、「うちなーぐち」を語り継いでいる。


 なまや 自然も環境も いっぺぇ変わとぉーぐとぉ、
 うちなーぐちびけーる うちなーんかいや ぬくぅてぃうらんさー

 いまは、自然や環境が、どんどん変化して、
 言葉にしか沖縄が残っていないんです。

穏やかに流れる波のような、
おばぁのうちなーぐち。

言葉は世界遺産にならないものか。

2marco


マルコ・パンターニ


明日はツール・ド・フランス最終日。
地球上で最も過酷なレースと言われる
戦いの王者は誰かと、
パリ中のビストロで噂が飛び交っている。


10年前。
その栄冠を二本の足でもぎ取った
イタリアの英雄、

マルコ・パンターニ。

<走る哲学者>と呼ばれた彼は、

「なぜ、そんなに速く走れるのですか」
インタビュアーの質問に、こう答えたという。


 1秒でも速く、この苦しさから解放されたいのさ。

人はなぜ走るのか。

そのとき、世界中が考え込んでしまった。

3Ferdinand Beyer


フェルディナンド・バイエル


彼が作った多くの曲は、
コンサートホールで演奏されることもなければ、
レコードやCDでかけられることもない。


しかし、最も多くのピアニストたちに弾かれている曲。

「バイエル ピアノ教則本」

今日は、その作者、
フェルディナンド・バイエルの誕生日だ。

ショパンやヴェルディといった大作曲家たちが
貴族や王族に捧げる大作で覇を競い合う中、
バイエルは生涯をかけて、
庶民のための小さな曲をこつこつと作り続けた。

そんなことは露知らず。

今日も、小さな手をしたピアニストたちが、
彼の曲から生まれている。

4Snufkin


スナフキン


旅の達人が、言った。


 何でも自分のものにして、
 持って帰ろうとすると、難しいものなんだよ。
 ぼくは、見るだけにしてるんだ。
 そして、立ち去るときには、
 それを頭の中へしまっておくのさ。
 そのほうが、カバンをうんうんいいながら運ぶより、
 ずっと楽しいからね。

旅に必要なものは、
孤独を恐れないこと、ほんの少しの音楽、
そして、とんがりぼうし。

旅を楽しむ人、スナフキンの荷物は軽い。

5Noel Gallagher


ノエル・ギャラガー


90年代ブリティッシュ・ポップを代表する
oasisのギタリスト、ノエル・ギャラガー。

まだデビューも
おぼつかないころに
こう言ったそうだ。


 ALL AROUND THE WORLDは、3rdアルバムに入れる。

数年後、
リリースされたサードアルバムは、
ヒットチャートを席巻。
そこにその曲は、
確かに収録されていた。

ロックスターは、
過剰な自信家であるべきだ。

6Walt Disney


ウォルト・ディズニー

悲しいことに、
人には、向き不向きがある。

時にそれは、人から夢さえ奪うことも。

ウォルト・ディズニー。


彼は若い頃、夢にも思わない理由で、
新聞社での仕事を失っている。


 「ウォルトは想像力に欠け、よい発想は全くなかった。」

しかしその後、
彼が別の道で想像力を発揮して、
夢の国を作り上げたのはご存知の通り。

しあわせなことに。
人には、向き不向きがある。

7stiviewonder


スティービー・ワンダー


目を閉じて、聞いてごらん。

スティービー・ワンダーは、言った。


 目が見えなくて良かったと思っているんだ。
 この方が、人生がよく見えるからね。

彼は、肌の色や身なりの違いで
人を判断することが
いかにばかげたことかを教えてくれた。

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名雪祐平 09年7月19日放送

090719-haruki


村上春樹 
  

小説家は、プロの嘘つき。

村上春樹は、
海外メディアのインタビューで
こう語っている。

 嘘をつくのが仕事の場合、
 誰よりも「真実」について
 知っていなくてはなりません。

 偽のレンガで、真実の壁を築くこと。
 それが僕の仕事です。

真実に飢えている人々が
小説『1Q84』を
超ベストセラーにしているのなら。

いまは、それだけこわい時代なのかもしれない。

090719-Meryl


メリル・ストリープ

スピーチはむずかしい。

それが、アカデミー賞の受賞スピーチなら、
どうしても感動的な話を期待してしまう。

でも、よくあるのが、
何人も何人も関係者の名前を呼んで
感謝するパターン。

すこし、たいくつ。

そんなあきらめを、
メリル・ストリープはこんな受賞スピーチで
救ってくれた。

 大勢の人たちに感謝します。
 その人たちの名前を呼ばせてください。
 私の名前が呼ばれた時、
 両親は飛び上がって喜んだはず。
 その興奮をほかのご両親にも味わってほしいの。

メリルのてらいのない、思いやりがあふれた
名スピーチだった。

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モスクワオリンピック 日本選手団

戦争が、はじまっていた。

そして、
1980年のきょう、7月19日。
モスクワオリンピック開幕。

そこに、日本人選手はいなかった。
誰一人。

ソビエト軍のアフガン侵攻に抗議し、
50カ国近くが
モスクワ大会をボイコット。
日本政府も、ボイコットの最終方針を決定したのだった。

何年間も、すさまじい努力をしてきた選手たちは、
大会直前で、
国家や政治という強敵に、敗れてしまった。

 オリンピックは参加することに意義がある。

この言葉が、
とても重かった、夏。

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モスクワオリンピック イギリス選手団

ボイコットするか、しないか。
モスクワオリンピックは揺れた。

イギリス政府は、ボイコット支持を決定。
しかし、イギリスオリンピック協会は屈せず、
独自に大会参加を決めた。

そこから、政府の容赦ない圧力が始まる。
援助は打ち切られ、
企業の寄付も止められた。

選手たちは必死に世論に訴え、
市民の募金に頼った。
滞在費を切り詰め、
試合に合わせて
モスクワ入りを果たしたのだった。

スポーツは誰のものか。
絶対に、国家や政治のものではない。

彼らがそうおしえてくれた、夏。

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バズ・オルドリン

一番になること。

その魔力に取り憑かれた彼には、
二番は地獄。

1969年7月20日、アポロ11号、月面着陸成功。

バズ・オルドリンは、月面に降り立った。
アームストロング船長に続き、
史上二番目の人類として。

そこは地獄だったのだろうか。

月面には、100万年は消えない
彼の足跡が、たしかにある。

その足跡には、
二番とは書かれていない。
輝かしい栄誉が刻まれている。

090719-rose


ピート・ローズ

4256安打。

大リーグの通算安打記録をもつ
ピート・ローズ。

 俺の脳みそは、いつまでも15歳のまま。
 これがベースボールを長く続けられる秘訣なのさ。

やがて現役を引退。
監督をつとめていたとき、
信じられない事件が起こる。
野球賭博に関わり、
大リーグを永久追放されてしまう。

無邪気な15歳のまま、
こんどは賭け事に夢中になってしまったのか。

偉大な記録は消えないけれど、
ピート、元気でやっていますか?

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勝海舟

勝海舟が亡くなった時、
最期に遺した言葉は、

 コレデオシマイ

作家・山田風太郎は、
「最期の言葉としては最高傑作にあたる」と絶賛した。

その言葉に、
すべてがあり、
すべてがない。

勝の豊かな人生を浮かび上がらせる名文句である。

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平賀源内

生まれては消えていく、広告。

けれど、200年もの間、
絶大な効果をあげ続ける広告コピーがある。

 土用の丑の日、うなぎの日。

夏場の不人気に悩んだ鰻屋のために、
平賀源内が
考案したと伝えられている。

小さなアイデアが、大きな流れをつくる。
ことばは、奇跡を生む。

平成21年、土用の丑の日に。

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中村直史 09年7月18日放送

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©Naoko Hoshino

星野道夫、旅の始まり

1970年ごろ、
ひとりの男子学生が、
神田の洋書専門店で一冊の本を手にしていた。

一枚の航空写真に目を奪われる。
写っていたのは、アラスカ、シシュマレフ村。

行ってみたい。
いてもたってもいられず、
その村の村長に手紙を書いた。

半年後返事が返ってきた。
「あなたの訪問を歓迎する」。

写真家、星野道夫。
運命のような旅の始まり。

彼はアラスカを見つけ、
アラスカもまた、星野道夫を見つけた。

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©Naoko Hoshino

星野道夫の写真

アラスカの自然を撮り続けた
写真家、星野道夫。

彼の写真はすごいのだけれど、
どうすごいかを言葉にするのは難しい。

「動物って美しい」でも、
「自然ってたくましい」でも、
「地球は生命に満ちあふれてる」でも、
核心からは遠く。

そう思っていたら、
ある風景を前にしたときの
彼の感想が残っていた。


 ただ、「ああ、そうなのか」という、ひれ伏すような感慨があった。

星野さん、
これは、あなたの写真を前にした
僕らの気持も的確に言い表しています。

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©Naoko Hoshino

星野道夫の友

「類は友を呼ぶ」
は本当なんだと思う。

星野道夫には、素敵な写真家の友人がいた。

「類」は、写真家の意味ではない。
素敵な、の方だ。

英語も話せず、
はじめてのアラスカ暮らしに
とまどっていた星野道夫夫人に、
その友人は短いアドバイスを贈った。


 寒いことが、人の気持ちを暖めるんだ。 
 離れていることが、人と人とを近づけるんだ。

アラスカで
生きていく者に、
これ以上の言葉があるだろうか。

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©Naoko Hoshino

星野道夫の視線


自然はいつも、強さの裏に脆さを秘めています。
そしてぼくが魅かれるのは、
自然や生命のもつその脆さの方です。

星野道夫は、かつてそう語ったことがある。

大自然を切り取った
圧倒的な彼の写真に、
切なさを感じてしまうのは
その視線のせいかもしれない。

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©Naoko Hoshino

星野道夫の言葉

星野道夫の写真を見ていると、
詩人、萩原朔太郎の言葉を思い出す。


 詩の表現は素朴なれ、詩のにおいは芳純でありたい。

星野道夫の写真は、その一枚一枚が詩だ。

動物、山、湖、草、花。
要素は素朴、だが、そこから立ち上ぼる感情が濃い。
写真だけではない。


 原野の秋色は日ごとに深みを増し、
 さまざまな植物が織りなすツンドラのモザイクは、えも言われぬ美しさです。
 快晴の日が続き、ある冷え込んだ夜の翌日、
 あたりの風景が少し変わっていることに気付くでしょう。
 一夜のうちに、秋色がずっと進んでしまったのです。
 北風が絵筆のように通り過ぎて行ったのです。

写真の解説文というより、
遠くに住む詩人から届いた
手紙のようだ。

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©Naoko Hoshino

星野道夫と人々

写真に写った人間の表情は、
写すものと、写されるものの
気持ちの距離を伝える。

ネイティブアメリカンの古老。
カムチャッカの子ども。
チンパンジーと戯れるジェーン・グドール。

星野道夫の撮った人々の顔はやさしい。


 人と出会い、その人間を好きになればなるほど、
 風景は広がりと深さをもってきます。
 やはり世界は無限の広がりを内包していると思いたいです。

人とも世界とも
親密な距離をとれる
稀有な人だったと思う。

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©Naoko Hoshino

星野道夫の最後

1996年、夏、カムチャッカ。

川を上る鮭の大群。
待ちうけるヒグマ。
何万年も繰り返されてきたであろう自然の営み。
その中で。
星野道夫は、逝ってしまった。

「それは、そういうことなのだ」と、彼の声が聞こえる気がする。

そう、悲しむべきことではない。
ただ、たまらなく切ないだけで。

その感情は、
彼の写真が呼び起こすものと、
似ている気がする。

撮影:星野道夫
協力:星野道夫事務所

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細田高広  09年7月12日放送

Cafe_de_Flore


カフェ・ド・フロールに集う人々① アポリネール

1911年のある日。
詩人のアポリネールは、パリのさびれたカフェに立ち寄った。
彼は安心して席が確保できることを気に入り、
カフェを自らの職場にしてしまう。

以来、食事の時間ともなると、
仕事仲間や友人をカフェに呼びよせては、
様々な議論を楽しんだ。

やがて集まってきたのは
ピカソ、キリコ、ダリ、アンドレ・ブルトン。
お酒と食事と議論を原料にして、
キュビズムやシュルレアリスムなどの
芸術運動は生まれた。

カフェ・ド・フロール、
アポリネールの見つけたさびれたカフェは、
一気に文化の中心地となった。

andre_breton


カフェ・ド・フロールに集う人々② アンドレ・ブルトン

1924年。詩人アンドレ・ブルトンは、
カフェ・ド・フロールに集う仲間達とシュル・レアリスム宣言を発表。
言葉の力で芸術運動を主導した。

ある日、街なかで浮浪者を見かけたブルトン。
「私は目が見えません」と書かれた紙を持っているが、
通行人は寄りつきもしない。
見かねたブルトンは、彼に近寄、あることをする。
するとどうだろう。すれ違う人々が次々とお金を恵み出したのだ。

実は彼、紙の言葉をこう書き換えていた。

春がもうすぐやってきます。僕には、何も見えないけれど。

言葉は、ときに魔法に変わる。

seine


カフェ・ド・フロールに集う人々③ ジュリエット・グレコ

シャンソンの定番、「枯葉」。
この曲を出世作としてスターになった
ジュリエット・グリコ。

その彼女と恋に落ちたのが、
JAZZの帝王マイルス・テイビス。
1949年二人は手を取り合ってセーヌ湖畔を歩き、
カフェ・ド・フロールでは
サルトルやボーヴォワールとも語り合ったという。
しかし、女神と帝王の恋は、二週間しか続かなかった。

帰国後、マイルスは「枯葉」をジャズで演奏する。
その演奏がきっかけで、「枯葉」はジャズの定番にのし上がったのだ。

あのとき、演奏するマイルスの脳裏では、
グレコが歌っていたに違いない。

Jean_Cocteau


カフェ・ド・フロールに集う人々④ ジャン・コクトー

パリにあるカフェ・ド・フロールの常連で
ピカソとも仲の良かったジャン・コクトー。
彼は20の顔を持つ芸術家と呼ばれた。

詩人として脚光を浴びたかと思えば、
絵を描き、小説を書き、オペラの台本を手がけ、
果ては映画にまで進出した。

ひとつの仕事が終わると、私は逃げ出す。
経験や習慣なんて、まっぴらだ。

何かに慣れることは、自分を硬直化させることだから。
昨日と同じ自分を、コクトーは許せなかった。

私は、いつでも未熟でいたい。

そう。経験に頼ってばかりでは、僕たちは変われない。

gogh


カフェ・ド・フロールに集う人々⑤ カール・ラガーフェルド

パリコレの時期、夜中のカフェ・ド・フロールは
デザイナーたちの溜まり場になる。
カール・ラガーフェルドも、そこに顔を出すひとり。

フェンディ、シャネル、クロエなど
トップブランドのデザイナーをつとめながら
自身のブランドまで展開する男。

そんな彼が2000年に
100キロを越えていた体重を、
いっきょ42キロ減らして周囲を驚かせた。

なぜ、急にダイエットをしたのか。
理由は極めて単純だ。

かっこいい細身のスーツを、着たかったから。

彼は言う。

ファッションとは、いちばん健康的に
体重を落とせるモチベーションである。

Georges_Seurat


カフェ・ド・フロールに集う人々⑥ 山下哲也

曲芸師のように大胆にトレイを操る。

パリで1850年代に開業したカフェ・ド・フロール。
そこで働くギャルソンを評した、哲学者サルトルの言葉だ。

そのカフェで、今、日本人がひとり働いている。
名を、山下哲也という。

生粋のフランスしか雇ったことのないお店だ。
「なぜ日本人がいるのか」と言われることもある。

日本でカフェを開けば簡単なのに。
と言うと、山下は流暢なフランス語で応える。

「それじゃ、簡単すぎる。」

なるほど、彼は根っからの曲芸師なのだ。

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