八木田杏子 09年7月12日放送
ボーヴォワールへの質問
人は女に生まれるのではない。女になるのだ。
そんな言葉を残したボーヴォワールさん、教えてください。
こんな時代に、どうやって女になれば、良いのでしょう。
男に守ってもらえる女では、いられない。
男と肩を並べる女は、たたかれる。
結婚をすれば安心、ではない。
仕事をすれば立派、でもない。
女はこうあるべき、というカタチが無くなって。
自由にはなれたけれど、
ときどき、見失いそうになるのです。
ボーヴォワールさん、教えてください。
もしあなたが、こんな時代に生きていたら。
どうやって女になるのでしょう。
ボーヴォワールの答え
人は女に生まれるのではない。女になるのだ。
そんな言葉を残したボーヴォワールさんは、教えてくれました。
こんな時代に、どうやって女になれば、良いのかを。
恋から、逃げてはいけない。
自分の身を滅ぼすとしても、
信じたくなる恋から、目をそらしてはいけない。
でも。
恋に、逃げてはいけない。
女が生きるのは、恋愛だけじゃない。
男のように、自分の人生と使命を、大切に。
ボーヴォワールさん、ありがとう。
それができたら、きっと。
あなたのように、女になれる。
厚焼玉子 09年7月11日放送
漱石と子規と道後温泉
夏目漱石が松山中学に赴任すると
後を追うようにして正岡子規がやってきた。
明治28年の夏のことだった。
漱石は月給は80円の英語教師、
子規は30円の新聞記者だった。
子規は漱石が借りた家の一階に陣取って
食べるものも飲むものもすべて漱石にたかって暮らした。
朝6時、ドンドンと響く太鼓の音は朝風呂が開いた合図だ。
松山には道後温泉があって
漱石がやってくる前の年に立派な共同浴場ができていた。
ふたりは毎日のように温泉につかった。
やがて秋も深まり
毎日のように食べた出前のウナギの代金から
帰りの旅費まで漱石に払わせて
正岡子規はやっと松山を出て行った。
やれやれ….
漱石が温泉で手足を伸ばしている姿が目に浮かぶ。
*道後温泉:愛媛県松山市 アルカリ性単純泉 42℃
http://www.dogo.or.jp/
露伴と男鹿温泉
幸田露伴が温泉のことで愚痴っている。
明治30年、男鹿温泉に泊まったときのことだ。
夜の9時頃に宿に到着したところ
怪しまれて雨の中を入り口で待たされた。
風呂は大きかったがお湯は水のように冷たかった。
酒は酸っぱく、茶漬けを食べて寝た。
それでも露伴は新聞記者に語っている。
「男鹿島はなかなか素晴らしい景色でした」
温泉については
固く口をつぐんでいたようだ。
*男鹿温泉:秋田県男鹿市 ナトリウム塩化物泉 55℃
http://www.e-ogaonsen.com/
森鴎外と山田温泉
明治23年8月、
開通して間もない信越線に乗って
森鴎外先生は山田温泉においでになった。
鴎外先生の記録によると
当時の山田温泉は30軒ばかりの家が並ぶ山里で
それでも宿屋は7軒ばかりあった。
温泉までの道は野生の撫子が咲き
ところどころに冷たい湧き水があった。
秋になったら、と
鴎外先生はお湯のなかで考えていた。
秋になったら子供が生まれる。
それを待って、やはり妻と別れよう。
気の強い妻としっかりものの母の板挟みで
どれだけ自分が弱っているか
やわらかなお湯が教えてくれたのだろう。
その年の10月、本当に森鴎外は妻と別れた。
*山田温泉:長野県上高井郡 塩化物泉68℃
http://members.stvnet.home.ne.jp/hin-nobe/html/
藤村と中棚温泉(なかだなおんせん)
中棚温泉は「小諸なる古城のほとり」にある。
島崎藤村は明治32年から
英悟と国語の教師として小諸に6年を過ごし
中棚温泉に足しげく通った。
そこからは四季折々の千曲川が見えた。
藤村は「千曲川のスケッチ」の序文に書いている。
もっと自分を新鮮に、そして簡素にすることはないか
これは私が都会の空気の中から脱け出して、
あの山国へ行った時の心であった。
はじめての詩集「若菜集」から3年
さらに自分を研ぎ澄まそうとする藤村の決意だった。
*中棚温泉:長野県小諸市 弱アルカリ性単純泉 37℃
http://www.nakadanasou.com/
志賀直哉と城崎温泉
大正2年、志賀直哉は山手線の電車にはねられ
生死の境をさまよった。
城崎温泉に滞在したのは療養のためであり
何かを書こうという意欲ではなかったが
死というものに出会ってしまってからの志賀直哉の心は
悟りに似た境地に達していた。
死はいつでもそばにある。
それでも死ななかった自分の命が
ゆらゆらとお湯のなかに浮かんでいた。
*城崎温泉:兵庫県豊岡市 塩化物泉 70℃
http://www.kinosaki-spa.gr.jp/
左の写真は日本列島お国自慢より
森田草平の塩原心中
森田草平には何かと不祥事が多かった。
高校時代は従姉妹と同棲していることが
学校側の知るところとなって退学。
上京して東大に進学すると
こんどは下宿の娘とややこしいことになってしまった。
卒業して英語教師になると試験を忘れてクビになったし
夏目漱石の紹介でやっと他の学校に就職すると
こんどは心中事件を起こした。
明治41年、3月。
塩原温泉に泊まった翌日、死ぬつもりで山に入ったが
膝まで埋もれる雪に迷い
死ぬ気力もなくしていたところを捜索隊に発見された。
塩原温泉の心中事件は大スキャンダルになったが
森田草平はそれを逆手に取って小説を書き
一躍文壇に躍り出た。
こういう縁で、いま塩原温泉には
森田草平の文学碑が建っている。
心中の相手、平塚らいてふの碑はないようだ。
*塩原温泉:栃木県那須塩原市 塩化物泉、硫酸塩泉など11の温泉 40℃〜77℃
http://www.siobara.or.jp/welcome.stm
上の写真は日本列島お国自慢より
智恵子の最後の温泉
高村光太郎が智恵子を連れて
塩原温泉に行ったのは昭和8年の夏の終わりだった。
それはすでに精神を病んでいた智恵子のための温泉めぐりで
塩原には最後に立ち寄って十日ほど滞在している。
宿の下には川が流れ、涼しい水音が聞こえていた。
晴れた日にはヒグラシも鳴いた。
宿に出入りする写真屋はふたりの写真を撮った。
この旅の前に、光太郎は婚姻届を出し智恵子を入籍している。
自由な結婚を19年つづけた末に
光太郎は病気の智恵子を一生背負っていく決心をしたのだろうか。
塩原温泉は智恵子が最後に旅した場所になった。
*塩原温泉:栃木県那須塩原市 塩化物泉、硫酸塩泉など11の温泉 40℃〜77℃
http://www.siobara.or.jp/welcome.stm
与謝野晶子の温泉めぐり
与謝野晶子が温泉めぐりをしていたことは
案外知られていない。
なにしろ子供は11人いるし、
来る仕事をことごとく引き受けても
家計は苦しかったし
今日の食べものにも事欠いているときに
石川啄木は切手を貼らないで原稿を送りつけてくるし。
それでも晶子は北海道から鹿児島まで
70ヵ所以上の温泉をめぐっている。
おかげで全国各地の温泉に
与謝野晶子の歌碑や色紙、ゆかりの宿がある。
これだけ働いた人が行った温泉は
さぞ疲れが取れるに違いない。
*川原湯温泉 栃木県吾妻郡 塩化物・硫酸塩温泉 71℃
http://www.kawarayu.jp/
*湯宿温泉 群馬県利根郡 硫酸塩泉 63℃
http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/onsen/yujuku.html
小山佳奈 09年7月5日放送
ペリー
1953年。
黒船で浦賀に乗り込んだペリー。
彼は幕府の役人を船上に招き、
「土色をしておびただしく泡立つ酒」を、
大いにふるまった。
役人たちは、
この魅惑的な泡にすっかり飲まれ、
西洋万歳、われらは同士と肩を抱き、
その後、やすやすと不平等条約を
結んでしまった。
ビール。
いまもむかしも
絶望的にうまい。
ペリーは有能な
外交官だ。
蔦監督
日本の夏は、
高校生にとって
すこぶる不公平だ。
どんな部活も差し置いて、
野球部だけが脚光を浴びるなんて。
その原因の一つは、
高野連でもNHKでもなくて、
池田高校元監督、蔦監督に
あるのかもしれない。
彼は、
無名高校のたった11人の生徒が、
強豪校を打って打って打ちまかし、
ついには甲子園を制するという
あざやかな魔法を日本国民にかけた。
あぁ、蔦監督。
今年の夏もまた。
日本中の高校生が、
地団駄を踏んでいます。
高村光太郎
詩人、高村光太郎。
たいていの人がそうであるように。
彼の好きになる女性は、
みんな顔かたちがよく似ていた。
恋焦がれた若太夫に捨てられ、
智恵子と初めて出会ったとき、
つい、口走った。
「若太夫。」
言葉で生きる詩人ですら、
失言はある。
彼がベッドで思わず
前の彼女の名前を呼んでも
一回なら大目に見てあげよう。
ルイ・レアール
1946年、自動車工ルイ・レアールは
ある一つの水着を思いついた。
そのあまりにも大胆なデザインには、
それに見合う大胆なネーミングが必要だ。
そんな彼の耳に飛び込んできた、
「ビキニ環礁原爆実験成功」のニュース。
これだとヒザを打ったレアールは、
その水着を「ビキニ」と名づけた。
水着と原爆。
人間を狂わせるという意味では、
どちらも正しい。
今日はビキニスタイルの日。
エリック・ハイドシェック
ピアニストには、
もう一つ向いている職業がある。
エリック・ハイドシェック。
兵役でアルジェリア内戦におもむいた際、
軍の通信部に配属された。
そこで彼は、
その研ぎすまされた耳と自慢の指遣いで
モールス信号を自在に操り、
あっという間に伍長に昇格。
その時、
モーツァルト・コンツェルト大賞受賞の知らせを
受けていなかったら。
危うく私たちは、
20世紀最高の音楽を取り逃がす
ところだった。
夏目漱石
いまどきの子どもは物を知らない。
魚は切り身で泳いでいると思っている。
そんな紋切り型の大人の嘆きに辟易したら、
夏目漱石大先生に登場してもらおう。
彼は田んぼに生えている稲が
いつも食べている米だということを、
大人になるまで知らなかった。
百の知識より、
一のおいしさを
知っていればいい。
稲ぐらい、
とは思いますが。
トリュフォーと春樹とそんなようなこと
トリュフォーの映画みたいに、
家を飛び出してみたけど、
寂しくなって
夕飯の時間より前に
家に帰った。
村上春樹の小説みたいに、
昼間からビールを飲んで
ピーナッツの殻を
床に落として
母にものすごく叱られた。
平凡だから、
平凡じゃないことを楽しめる、
平凡な私の
平凡な喜び。
茨木のり子
好きだった顎すじの匂い
やわらかだった髪の毛
皮脂なめららかな頬
水泳で鍛えた暑い胸廓
茨木のり子が
亡き夫を思って詠んだ詩、
「部分」。
曖昧な全体を無理に見ようとするから、
愛はむつかしくなる。
地球もきみも絶望もひまわりも、
全部、部分。
佐藤延夫 09年7月4日放送
漂流する男の話 浜田彦蔵 1
13歳のとき、何をしていただろう。
中学1年生か、2年生。
楽しいような、つまらないような。
どこか、もやもやした毎日を過ごしていたかもしれない。
江戸時代の漂流民、浜田彦蔵の場合は・・・
偶然乗り込んだ船が難破し、太平洋を漂流。
2ヶ月後、アメリカの船に救助される。
食事は、バターをたっぷり塗ったパンに、塩漬けの牛肉。
あまりに手厚いもてなしを受け、彦蔵は思う。
こいつらは俺を太らせて、食うのではないか。
漂流する13歳は、ハードボイルドだ。
漂流する男の話 浜田彦蔵 2
お前の来ているものを全部脱げ
アメリカ人の船乗りが、身振り手振りで伝えている。
江戸時代の漂流民、浜田彦蔵、13歳。
いよいよ自分は食われるのだと覚悟した。
アメリカ人、今度は頭を指差し何か言っている。
訳も分からず頷くと、いきなり丁髷を切られた。
日本人が髷を落とすのは、命を捧げることに等しい。
さすがに、もう食われるとは思わなかったが
彦蔵は、言葉の通じない辛さを噛みしめた。
この世に、悔しさに勝るモチベーションは、ない。
彼が自在に英語を話せるまで、1年もかからなかったのだから。
漂流する男の話 浜田彦蔵 3
江戸時代の漂流民、浜田彦蔵の旅は続く。
サンフランシスコ、
ハワイ、
香港、
マカオ、
そして再びサンフランシスコへ。
ある日、彦蔵は偶然にも、自分と同じ境遇の漂流民に出会う。
名を重太郎(しげたろう)といい、救いを求めていた。
日本語で彼の胸の内を聞き、英語で船長に通訳したとき、
自分の生きる道が見えたと、のちに語っている。
きっと、光が射し込んだのだろう。
ごく限られた人にしか見えない、まばゆい光が。
漂流する男の話 浜田彦蔵 4
フランクリン・ピアース。
ジェームス・ブキャナン。
エイブラハム・リンカーン。
3人の大統領と面会した日本人は、政治家ではない。
伊藤博文、木戸孝允が
お忍びで会いに来たのも、政治家ではない。
漂流民、浜田彦蔵だった。
偉い人になるよりも、
会いたい人になったほうが、
世の中を動かせそうだ。
漂流する男の話 浜田彦蔵 5
幼いころは、浜田彦太郎という名前だった。
それが浜田彦蔵になり、
アメリカでカトリックの洗礼を受け、
ジョセフ彦(Joseph Hico)と名乗る。
帰化して日本へ戻ると、
アメリカ彦蔵と呼ばれた。
日本で初めて新聞を発行し、
のちに「新聞の父」として歴史に名を刻む。
もし彼が生きていたら、今日という日を誰よりも祝うだろう。
7月4日、アメリカ独立記念日を。
彦蔵は、ボルチモアの農場で飲んだミルクの味を生涯、忘れなかった。
漂流する男の話 仙太郎
江戸時代、
ペリー率いる艦隊に
ただ一人、乗船を許された日本人、仙太郎。
彼は、仲間のアメリカ人に、こう呼ばれていた。
「サム・パッチ」
なにかあるたびに「心配、心配」と呟く仙太郎の声が、
アメリカ人には「サム・パッチ」に聞こえたそうだ。
かっこいいあだ名には大抵、
かっこ悪い理由がある。
漂流する男の話 音吉
13歳のとき船が難破し
太平洋を彷徨いながら14歳になる。
名も知らぬ島に辿り着き
原住民に助けられたと思いきや、
イギリス船に売り飛ばされる。
マカオから船に乗り
喜び勇んで日本に帰る寸前、
江戸湾で砲撃を受け
ついでに鹿児島でも門前払いされ、
マカオに舞い戻る。
それが江戸時代の漂流民、音吉(おときち)の人生。
故郷の地を踏むことは二度となかったが、
日本から流れ着いた多くの同胞たちに
救いの手を差し伸べている。
プロの漂流民とは、彼のことを言う。
マイケル嫌いだったけど・・・
「マイケル嫌いだったけど、これ読んで好きになったよ」
と友人が電話をしてきてくれました。
1980年生まれの私達は、
彼の音楽よりもゴシップのほうが、記憶に焼き付いています。
だから、金曜日の夜に、
「今からマイケルを書こうよ」と誘われたときは、ためらいました。
熱く語るディレクターの千葉さんに、
私がぶつけた言葉は、
「マイケルの少年愛は、どう思いますか?」
千葉さんの答えは、
「あれはホモセクシャルな愛ではなく、純粋な友情だよ。
マイケルが信じられるのは、動物と子供だけだったんだ」
それは、私には無い視点でした。
もし、「マイケルほどの天才なら、何しても許されるよ」
という答えだったら、書けなかったかもしれません。
私には真実は分からないけれど。
マイケルを信じる千葉さんを信じて、書こうと決めました。
マイケルを紐解いていくと、
彼の才能や完璧さ、苦しみや喜びが、どんどん見えてきて、
こんな人を、よく知らずに嫌ってしまうのは、
もったいないと思うようになりました。
明るくなる頃に書き上がった7本の原稿は、
一夜漬けの拙さがあったのですが、
古田さん、千葉さん、VieVieさんのおかげで、
マイケル追悼特集として完成しました。
私とおなじように、
あたらしいマイケルファンが誕生しますように。
細田高広 09年6月28日放送
クリント・イーストウッド
若きクリント・イーストウッドに、
銃より口を多く使う、
おしゃべりなガンマンの
役がまわってきた。
脚本を読んだ彼は、
ガンマンが語り過ぎることに
どうも納得がいかず。
すぐさま監督に詰めよった。
見る側に考えさせるのが、A級映画。
すべて説明してしまうのは、B級だ。
観客を、みくびってはいけない。
そう言うと彼は自ら、
10ページ分のセリフを、
わずか1行に書き換えた。
マカロニウェスタンの名作、『荒野の用心棒』。
無口なガンマンは、こうして誕生した。
ジョン・ケージ A
作曲家ジョン・ケージ。
彼の代表作を、聞いてみよう。
何も聞えない?
いや。
あなたは確かに聞いている。
1940年代の末。
『無音』を聞くべくハーバード大学の
『無響室』へ入ったジョンは、そこでもなお、
血液や神経の音が聞えたことに驚く。
風が、心臓が、空調が、
全てが音を持つこの世界で、
完全な無音などありえない。
そう気付いた彼は「4分33秒」を作曲した。
沈黙でできた4分33秒の音楽。
さぁ、もう一度少し聞いてみよう。
あなたには、何が、聞こえましたか?
ジョン・ケージ B
その音楽は、
2001年9月5日ドイツで始まった。
無音パートが1年半続き、
2003年には最初のコードが鳴らされた。
2006年にコード変わり、
2008年に6番目の音が鳴り、
その音楽は、まだ続いているどころか
2639年まで終わらない。
600年以上かかる音楽を、
馬鹿馬鹿しく思うとき。
同時に、
分刻みで動く一日も同じくらい
馬鹿馬鹿しく思えてくる。
おそらくそれが、
作曲者ジョン・ケージの狙いなのだ。
“AS SLOW AS POSSIBLE”
その曲は、今日も、のんびり、続いている。
ジャンヌ・モロー
女優、ジャンヌ・モロー。
映画「突然炎のごとく」で
自由奔放な主人公を演じた彼女は
美しいだけではない
新しい女性像を表現した、と絶賛される。
公開後「主人公は私そのものです」
という内容の手紙が、
世界中から届いたほど。
そんな彼女が、
理想の男性像について、
こう語っている。
名声も知性もお金もみんな私がもっている。
だから男は美しいだけでいい。
現実の彼女は、
スクリーンの中より、革新的だった。
スパイク・ジョーンズ
ブランド会社の経営者。
TV番組のプロデューサー。
映像作家。俳優。
そして、映画監督。
これらの肩書きは、全て一人の男、
スパイク・ジョーンズのものである。
ジャンルの壁を軽々飛び越え
次々と新しい驚きを世に「発信」する彼。
その頭の中には、どれだけ緻密で戦略的な
思考回路が巡っているのだろう。
俳優マルコヴィッチは、こう証言する。
スパイクには、語彙が数えるほどしかない。
「それはいい!」「驚いた!」「クレイジーだね!」。
ほんと、なんでも面白がるんだ。
誰よりも発信する男は、
誰よりも受信する男でもあった。
セルジュ・ゲンスブール
人生の成功は、どう定義すれば良いだろう。
セルジュ・ゲンスブールは、
自らのルックスにコンプレックスを抱えた、
実に気弱な男だった。
コンプレックスを燃料に、
曲を書き、歌をうたい、映画を撮り、
ポップスターになった。
気弱な自分を偽るように
テレビの前でお札を燃やし、
挑発的な態度をとることで、
若者たちの尊敬を勝ち取った。
だが結局、コンプレックスは、
最後まで拭えなかった。
そんな生き様を、彼は自らこう評している。
全てにおいて成功したが、人生には失敗した。
パブロ・ピカソ
本当の怒りとは、案外、静かなものだ。
1940年、
ドイツ軍がパリを占領した際、
多くのアトリエが、
ナチスの検閲を受けることになった。
農民などを描いた具象画以外は、
すべてが、退廃芸術と見なされたのだ。
とあるアトリエで。
ナチスの検閲官が、泣き叫ぶ女性や狂った馬の
描かれた壁画の写真を見つけた。
「これを描いたのはあなたですか?」
検閲官がアトリエにいた男に尋ねると、
男は静かに答えた。
いや、違う。きみたちだ。
男の名は、パブロ・ピカソ。
壁画のタイトルは、『ゲルニカ』といった。
ブライアン・イーノ 3.25秒の音楽
デビッドボウイやU2
のプロデューサーにして環境音楽の創始者、
ブライアン・イーノ。
彼の元に、ある日一風変わった作曲依頼が舞い込む。
人を鼓舞し、世界中の人に愛され、
明るく斬新で、感情を揺さぶられ、
情熱をかきたてられるような曲。
ただし、長さは3秒コンマ25
アイデアに悩むスランプ期にあったブライアンは、
「待ち望んでいた難題だ!」と快諾。
やがて生まれた音楽とは、
そう、あのWINDOWS 95の起動音。
パソコン時代を告げるファンファーレとして。
世界のデスクで奏でられた。
八木田杏子 09年6月27日放送
マイケル・ジャクソンの才能
その歌声を聞いた誰もが、自分の耳を疑った。
大人には出せない、澄みきった声。
子供には持てない、確かな音程とリズム。
不可能を可能にしたのは、
わずか5歳のマイケル・ジャクソン。
歌うことが、好きで好きで、たまらない
その思いを抑えきれず、
はじけるような笑顔で、ステップを踏む。
少年の濁りのない声は、
大人の濁った心も、澄み渡らせていく。
5歳のマイケル・ジャクソン。
天使の歌声をもつ少年は、天使ではいられなくなる。
マイケル・ジャクソンの出現
楽しいから歌うのは、アマチュア。
辛くても歌うのが、プロフェッショナル。
11歳のマイケル・ジャクソンは、
もう、プロの顔になっていた。
ジャクソン5の一員としてメジャーデビューした途端、
全米ヒットチャートのNO1に躍り出た。
いちばん小さな少年が、リードボーカルだった。
11歳の少年のパフォーマンスに全米が沸いた。
いちばん真剣に歌っていた。
無心の笑顔で。
11歳のマイケル・ジャクソン。
それはもう、プロの顔だった。
マイケル・ジャクソンの独立
人形のように愛らしい少年も、
人間の生々しさをもつ青年になる。
声変わりをしたマイケル・ジャクソンは、もう少年ではない。
音楽プロデューサーの
クインシー・ジョーンズと出会ったとき。
マイケルは尋ねた。
誰か僕に合うプロデューサーはいないかな
すると、クインシーはこう答えた。
私じゃ駄目かな
クインシーの手ほどきで、
マイケルは作詞・作曲を手がける。
20歳のマイケル・ジャクソン。
大物プロデューサーは、人形を人間に変えていく。
マイケル・ジャクソンの拡大
見える壁は壊すことが出来るけれど
差別という見えない壁は、壊し方すらわからない。
当時、MTVでは黒人の作品は放送されなかった。
その壁に風穴をあけたのは、マイケル・ジャクソン。
1983年1月。
「Billie Jean」が、
MTVで繰り返し流される。
輝くようなマイケルがそこにいた。
そのときは批判的だった一部の人間も、
12月に「Thriller(スリラー)」が公開されると、口を閉ざした。
25歳のマイケル・ジャクソン。
彼はそのまま、頂点までのぼり詰めた。
どんな壁も、マイケルの音楽を閉じ込めておくことは出来なかった。
マイケル・ジャクソンの白と黒
「白人も黒人も関係ない」
と、マイケル・ジャクソンは歌う。
白人と黒人の関係に、
誰よりも苦しんでいたから。
1991年に発売された「Black or White」。
違いを乗り越えようとする歌は、世界を動かした。
世界20カ国以上でナンバーワン。
全米チャートで、7週連続ナンバーワン。
それでも、マイケルは満たされない。
お金も地位も名誉も、すべてを手に入れたのに。
33歳のマイケル・ジャクソン。
白い肌になりたくて、なりたくて。
生まれたときとは違う姿に、なっていく。
マイケル・ジャクソンの夢
天使の歌声を、お金に換えていく。
そんな大人たちに囲まれていたマイケル・ジャクソン。
期待に応える少年を演じながら、心の中に壁をつくった。
本当の自分を守るために。
カリフォルニア州サンタバーバラの「ネバーランド」。
そこは、マイケルの「砦」だった。
そこに素顔のマイケルがいた。
動物たちと戯れ、子供たちと遊ぶ。
マイケルの心の中は、「大人立ち入り禁止」だった。
マイケル・ジャクソンの最期
天才といわれたエンターテイナーは、
自分の人生のラストを創りこめなかった。
ロンドンでのファイナル公演は、もうすぐだった。
マイケル・ジャクソンの人生の幕は、突然おろされた。
同時代を生きたマドンナはこう追悼した。
世界は偉大な人を失ったが、彼の音楽は永遠に生き続けます
映画監督のスティーブン・スピルバーグもこう語る。
マイケル・ジャクソンに匹敵する人はもう2度と現れないだろう。
彼の才能、驚き、ミステリーがマイケルを伝説にする
そして、最愛の音楽プロデューサー、
クインシー・ジョーンズはこうコメントした。
私は今日、弟をなくした。
私の心の一部も、彼と一緒になくなった
中村直史 09年6月21日放送
武満徹・段ボールの鍵盤
いつしか大河となり
海へ出ることを夢見る
一滴の湧水のように、
その段ボール紙は、夢を見ていたのかもしれない。
戦争が終わり、
焼け野原からようやく
人々が立ち上がろうとしていたころ。
男は段ボール紙でつくった鍵盤を
ピアノ代わりに作曲していた。
食べるものも着るものも
限られていたけれど、
想像力には限りがなかった。
私の物言わぬ鍵盤からは、ずっと沢山の音がなり響いていたように思います。
作曲家、武満徹。
ピアノも持たず
音楽学校にも通ったことのない
小さな作曲家が世界を驚かす、
その始まりのこと。
武満徹・作曲の作法
表現をする人は
幸せになっちゃいけない、
とある人が言った。
名だたる芸術家たちが
自らの苦しみをもとに
名作を生み出した事実も数多くある。
が、武満徹は違った。
幸せでないと、作曲なんかできません。
だから、武満の作曲は、
妻に「ごめんね」というところから始まる。
前の日の夫婦げんかさえ、
心にひっかかったままでは
仕事にとりかかれなかったのだ。
武満徹・突然のピアノ
豊かさは、お金ではなく、
気持ちで決まると僕らは知っている。
ときどきそれを忘れてしまうのが、残念だけれど。
段ボール紙でつくった鍵盤を手に、
作曲家を夢見た若き武満徹。
彼のもとに、ある日突然
本物のピアノが送られてきた。
送り主は、作曲家、黛敏郎。
武満の噂を聞き、自分の苦労と重なった。
ピアノは、武満を奮い立たせた。
それから何十年もたった1991年のサントリーホール。
音楽賞受賞のステージで
そのピアノの話になったとき、
武満は突然下を向き、泣きだしてしまった。
苦しい時代を、
豊かに過ごした人たちがいた。
忘れたくない。
黒田三郎
紙風船
落ちて来たら
今度は
もっと高く
もっともっと高く
何度でも
打ち上げよう
美しい
願いごとのように
詩人、黒田三郎さんは
言葉を喜ばせるのが上手な人でした。
喜んだ言葉たちは、
お返しに、とばかり
人を喜ばせてくれます。
コナン・ドイル
1893年、事件が起きた。
イギリスで最も有名な男が殺されたのだ。
被害者の名は、シャーロック・ホームズ。
彼の死は、
ロンドン中に衝撃を与えた。
抗議行動が起こり、
プリンス・オブ・ウェールズが、
出版社に手紙を送った。
死に追いやったのは、作者コナン・ドイル。
自ら生み出した世紀のヒーローに
すべての時間を奪われ、
いつしか、殺しの計画を立てていた。
小説には描かれなかった、
もうひとつのストーリー。
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南方熊楠
履歴書を前にすると、
あの人のことを思い出す。
そして、敵わないと思う。
あまりの敵わなさに、うれしくもなる。
趣味の欄。
彼ならどう書くだろう。
草花、キノコ、コケ、土、星、化石、人間、
動物、宗教、エトセトラ、エトセトラ。
ミスター森羅万象、南方熊楠。
実際に彼が書いた履歴書は、
長さにして、7メートル70センチ。
ああ、敵わない。
子どものころ
山の草花に夢中になり、
2,3日帰らなかった。
村人たちは神隠しだと言ったが、平気な顔で帰ってきた。
ついたあだ名は「天狗ちゃん」。
やっぱり、敵わない。
おーい、ニッポンのみなさん。
ぼくらにはすごい先輩がいるぞ。
「なんだかこのごろつまらない」
なんて言ってると、はずかしいぞ。
永井荷風
何を恥ずかしいと思うかが、
その人の才能なのだという。
彼は、歯の欠けた
その顔を恥ずかしいと思わなかった。
家庭を顧みないことも、
ケチと呼ばれることも、
ノゾキ趣味さえも、
恥ずかしいとは思わなかった。
奇人、永井荷風。
ただ、
誰かが書いた様なものを書くのは、
恥ずかしかった。
アーネスト・ヘミングウェイ
「草食系男子」なんて言葉を聞いたら、
ヘミングウェイは笑うだろう。
彼は「男」であろうとした。
生きざまも。小説のテーマも。そして文体も。
なすべきことは、一文たりと疎かにせず正確な文章を書くこと。
たがわず顎に一撃くらわす文章を。
男どもよ。
ヘミングウェイという名の、肉を喰らえ。
余分な脂肪はなく、
噛みごたえがあり、
血の滴る肉を。
保持壮太郎 09年6月20日放送
ジョルジュ・ルメートル
ジョルジュ・ルメートル。
彼は、
宇宙物理学者だった。
同時に
カトリックの司祭でもあった。
科学と宗教。
かねてより干渉や対立を
くりかえしてきた
ふたつの原理が
彼の中には同居していた。
そんなルメートルがとなえた
ひとつの仮説がある。
この宇宙は、
たったひとつの“原始的原子”が
爆発することで生まれた。
のちに“ビックバン理論”と呼ばれる
この科学的かつ神話的な宇宙論は、
ジョルジュ・ルメートルだからこそ、
たどりつけた宇宙に思えてならない。
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クリスチャン・ネステル・ボヴィー
最近のセカイは
くりかえしている。
何もかもが
何かの焼き直しみたいで。
カエルの子はカエル。
セレブの子はセレブ。
僕の感じる孤独は、
たぶん父さんの感じた孤独で。
僕が誰かを軽蔑するときの目は、
母さんが僕を見るときの目に似ている。
アメリカの作家、
クリスチャン・ネステル・ボヴィーは
すべてが失われようとも、まだ未来が残ってる。
といったけれど。
もはや僕らは
すべてを失わないことには
あたらしい未来には
出会えない気がする。
まあ、
こんな不安もきっと、
昨日の誰かのくりかえし。
エリック・ドルフィー
音楽は、
いちど聴き終わってしまえば
空中へと消えてしまうもの。
二度とそれを
掴み取ることはできない。
ジャズにおける
即興演奏の可能性を切りひらいた
エリック・ドルフィーの
そんな言葉を耳にするたび、
僕たちは、
苦笑をかみ殺さずにはいられない。
だって僕たちは、
その消えてしまったはずの
音楽ってやつに
いまさら手を伸ばして、
デジタルでマッピングして、
バカ高いアンプとスピーカーで鳴らして、
必死に掴み取ろうとしているのだから。
ほら、こうして。
清水義範(しみずよしのり)
人間のクリエーティビティが
無限だとするならば、
それを有限の世界に
定着させるためにあるのが
“締め切り”の存在だ。
小説家、デザイナー、
エッセイスト、コピーライター・・・。
彼らは、“締め切り”という名のカミソリで、
自らの創作意欲と、可能性と、
未練と、根拠のない自信を切断し、
ひとつの作品としてカタチにする。
小説家、
清水義範が書いた
「深夜の弁明」という短編がある。
それは、締め切りを守れない作家が、
編集者に言い訳とお詫びの文章を書くうちに、
いつしかその弁明が、
小説の予定枚数に達してしまったというもの。
なるほどそうゆう方法もあるのかと、
締め切りから10日遅れで、
このラジオの原稿を書いている深夜の私。
チャールズ・R・ダグラス
1953年、
ラジオ技術者の
チャールズ・R・ダグラスが
ひとつの画期的な発明をした。
Canned Laughter
(SE:Canned Laughter)
“缶詰の笑い”
と呼ばれたその道具は、
ボタンひとつで
人工的な笑い声を
発生させることができた。
その後Canned laughterは
またたくまに世の中へと広がり
笑い声が、笑うべきものの存在を
強化し、強制し、捏造するという
シュールなコメディがはじまった。
戦争。
(SE:Canned Laughter)
貧困。
(SE:Canned Laughter)
そして世界の笑えない現実は
何一つ変わらないまま。
(SE:Canned Laughter)
サルバトール・ダリ
天才と聞いて
あなたが思い浮かべる
イメージのいくつかは、
おそらくサルバトール・ダリ
その人のものだ。
不自然なほどに見開いた目、
ピンと跳ね上げて固めたひげ。
フランスパンを頭にのせてリーゼントヘアと称し、
ソルボンヌ大学での特別講演会には
カリフラワーを満載した
真っ白いロールスロイスで乗り付けた。
混乱が一番。偶然は創造性を生み、秩序は退屈だ。
と語る彼にとって
“天才であること”もまた
彼の芸術の一部なのかもしれない。
種田山頭火
小学校のころ
担任だった樫村先生は、
たぶん先生には
むいていない人で。
俳句をおしえるときだって、
5・7・5の話も
季語の説明もせずに、
松尾芭蕉や、
小林一茶なんかのページも
すっとばして、
教科書の隅っこに、
ぽつん、と載っていた一句を、
だいじそうに
黒板の真ん中に書いた。
山から風が風鈴へ、生きてゐたいとおもふ
種田山頭火
騒々しかった教室が、
そのときなぜだか、
しん、と静まりかえったのを覚えてる。
みなさん、これが俳句です。
と言って笑った樫村先生。
おかげで僕らは、
学年テストで赤点をとり、
俳句がちょっと好きになった。