宴のメニュー
マリー・アントワネットがフランスに出発するにあたって
ウイーンのベルヴェデーレ宮殿で催された祝宴のメニューを
お知らせします。
招待客4000人に出されたこのメニューは
当時のフランクフルトの新聞に掲載されました。
◉ボイルドハム100本、塩漬けハム100本、雉の肉入りパイ40枚、
しゃこの肉入りパイ40枚、山鳥の肉入りパイ40枚、
やましぎの肉入りパイ40枚、七面鳥の肉入りパイ40枚、
去勢雄鶏の肉入りパイ50枚、ひき肉入りパイ50枚、
仔牛のもも肉入りパイ50枚、燻製のタン100本、
塩漬け肩先肉400ポンド、
ボローニア風ソーセージ100本。
◉肉類:七面鳥100羽、去勢雄鶏250羽、仔牛のひき肉80ポンド、
肥育鳥400羽、雌仔豚80頭、兎の肉入りゼリー50本、
ソーセージ風雌仔豚の香味漬け詰め物の煮物100個、
豚肉入りゼリー100本。
雉250羽、えぞ山鳥200羽、しゃこ250羽、やましぎ200羽、
のろ鹿の背肉ともも肉120頭分、七面鳥120羽、去勢雄鶏400羽、
肥育鶏と鶏の秋雛200羽、仔羊100頭、仔牛の丸100頭。
◉ケーキ:チーズケーキ50ダース、マドレーヌ風焼き菓子50ダース、
オリオール風焼き菓子50ダース、ショートケーキ50ダース、
愛の泉ケーキ50ダース、
ファルノーヌ50ダース、ショード60ダース、シュークリーム類60ダース、
ブリオッシュ50ダース、アーモンド入りショートケーキ50ダース、
ビスケット50ダース、ピスタチオの実入りショートケーキ50ダース、
平鉢100皿、計9,480個。
◉スペイン風雑炊とスープ20,660杯分
◉喫茶:コーヒー16,360杯分、チョコレート・ドリン14,592杯分、
紅茶3,840杯分、レモネード2000マース、ポメランツァーデ1200マース、
アーモンド・ジュース入りミルクセーキ1,160マース。
◉冷たい飲食類…レモン皮砂糖漬け1,600マース、だいだいの砂糖漬け220マース、
メラーローゼ80マース、ベルガモットオレンジの砂糖漬け80マース、
バニラ入りミルク80マース、肉桂入りパピーナ60マース、
あぶり砂糖60マース、イチゴジュース50マース、
チョコレート40マース、ミルクコーヒー50マース、
ドランジェー類750ポンド、だいだい8,000個、ベルガモット3,000個、
マシャンツカーりんご6,000個、タンタセルル1,600個、
はこね草の葉のシロップ180本、
◉パン他:クロワッサン8,000個、パンケーキ類2,440ポンド、
チョコレートとオリオ用ゼンメルパン6,000個、
パンケーキ類2,440ポンド。
◉ワイン類…トカイ産1,990本、マスカット301本、スペイン産452本、
シャンペン1,462本、ブルゴーニュ産赤ワイン1,080本、
ライン産白1,068本、モーゼル産白940本、
ラッツェンドルフ産820本、オーフェン産712本、エアウラ産570本、
ウィーン産602本、オーストリア産50アイマー。
佐藤延夫 09年5月2日放送
岡本一平 偶然
偶然。
その言葉は、どこか曖昧でありながらも、
不思議な説得力を持つ。
大正時代の漫画家、岡本一平は
偶然にも、ひとりの娘と出会う。
大貫かの子、のちの岡本かの子である。
肉感的な立ち居振る舞い。
その反面、
ときおり見せる、あどけなく可憐な仕草。
一平はやがて、かの子の虜になっていく。
かの子は、多くの男を虜にしていく。
偶然と運命は、いつも折り重なって存在するのか。
岡本一平 恋愛
恋愛。
その関係は、いつでも対等の立場であるはずがない。
手紙のやりとりから始まった
岡本一平とかの子の恋。
かの子の筆遣いは大胆にして
生きた感情を包み隠すことなく、ぶつけてくる。
あらためて一平は、かの子の魅力に引き込まれていった。
したためる言葉も、変わっていった。
“これは僕が落とした涙の跡です”
“かわいそうだと思って、会ってくれ”
一平はすでに、かの子の奴隷になっていた。
服従。それも恋愛の、ひとつの形。
岡本かの子 才能
才能。
ときにそれは、努力では覆いきれないほどの力を持つ。
画家の卵として、細々と仕事を続ける岡本一平。
妻のかの子は、すでにその限界を察知していた。
“一平は人間としては誠に面白いかはり、到底一生凡俗以上に
なり得ないと見極めが付いたやうに感ぜられます”
兄に宛てた手紙には、そう綴られていた。
一平が、洋画家ではなく、漫画家として脚光を浴びるのは、
ほんの少し、先の話になる。
“お父さんは、絵が下手だねえ”
のちにそう言ったのは、長男の太郎。
岡本太郎だった。
岡本一平 立場
“総理大臣の名前は知らなくとも
岡本一平の名を知らぬ者はいない”
洋画家から漫画家に転向した岡本一平は
世間にそう言わしめるほどの売れっ子になっていた。
そして1921年の今日、5月2日。
日本初の物語漫画「人の一生」の連載を始める。
“この仕事は、僕にとって、僕の生涯を掛けた芸術の一大投機です。”
その後、一平は「第二の夏目漱石」と評され、
絶対的な地位と名声を手に入れる。
しかし妻かの子との関係は
もはや修復できないほどになっていた。
新しい立場と、消えゆく立場が揺れていた。
岡本かの子 奇妙
奇妙。
それは一般的な常識や概念とズレが生じたものを指す。
たとえば岡本一平とかの子の夫婦関係は、
奇妙と言わざるを得ない。
一平のほかに、
かの子が愛した男たちは皆、岡本の家で暮らしていた。
早稲田大学の学生、堀切茂雄。
二十年にわたり
身の回りの世話を買って出た恒松安夫。
かの子の手術を執刀した医師、新田亀三。
三人とも、亭主である一平の許可のもと、
半生をかの子に捧げた。
いくつもの奇妙な愛が、岡本家を包んでいた。
岡本一平 変化
変化。
それはときに、思いもよらない結果をもたらす。
昭和13年の春、意識不明となった岡本かの子は、
翌年、帰らぬ人となった。
夫の一平は、こう語っている。
“ああ、何で人生にはこんな酷い出来事が構へられてあるんだ”
そんなとき、一平の体を気遣う娘がいた。
かの子の兄の忘れ形見、鈴子だった。
一平は、鈴子に心惹かれ、結婚を願い出たが
認められる筈もなかった。
かの子が亡くなった、その秋の出来事である。
岡本太郎 巴里
巴里。
岡本太郎は、18歳から29歳まで、
この地で暮らしている。
ある日、ラ・ボエッシー街の画商でピカソの絵を見たとき
太郎は、溢れ出る涙を、抑えることができなかった。
“これこそ、自分が突き詰める道だ”
私生活では、生涯独身を通している。
両親の影響を受けたのかと思えば、そうでもない。
“世界中にこんなに沢山すばらしい女性がいるのに、一人だけ指定席に。
あとはシャット・アウトなんて。そんなことできない。フェアーじゃない”
彼が生涯の伴侶にしたものは、
芸術だけ、だったのかもしれない。
江口順也 09年4月26日放送
チャーリー・チャップリン
TVをつければ、お笑いだらけ
新聞をひらけば、笑えないことばかりの
あべこべなまいにち。
かつて暗黒の時代に、
世界中の人をゲラゲラさせたチャップリンはこう言った。
ヒトラーという男こそ、
笑い者にしてやらねばならないのだ
さて。
僕らはいま、だれを笑い者にすればいいのだろうか。
野比のび太
少年は、落ちこぼれだった。
でも、
あきらめのいいところがぼくの長所なんだ
そう言ってケロリとしていた。
今もってる自転車は嫌いだ!乗れないから
そう開き直ったりもした。
社会なんて、知れば知るほど、デタラメなのかも。
ときどき人のせいにした。
でもある日、こんなことに気づく。
いちばんいけないのは、じぶんなんかダメだと思いこむことだよ
その言葉に、おとなもこどもも励まされた。
少年の名は、野比のび太。
日本人は、彼といっしょに大きくなった。
ロベルト・グッチ
グッチが欲しいわ。
今日もだれかが、だれかに、おねだりしている。
15年前。その名をめぐり、
激しく身内で争ったグッチ家の人々は、
グッチの名前を、資本家に取り上げられてしまった。
いま、三代目のロベルト・グッチ氏は、
一族の誇りをふたたび取り戻そうと、
まったく新しいブランドを立ち上げている。
決してグッチの名前を出してはならない、
という約束のもとで。
グッチが欲しいわ。
そう言ったかどうかは、だれも知らない。
カズ
だれより先に、世界へ飛び出していった。
だれより先へと、日本を引っ張った。
だれよりもたくさんイメージし、
だれよりも、その日を夢見ていた。
でもカズは、ワールドカップに出られなかった。
だれよりも、サッカーの神様を愛していたのに。
そんなカズがよく使う言葉、
ボア・ソルチ。
ポルトガル語で、GOOD LUCK、だそうだ。
イシ
まだ、グローバル化という言葉はなかった。
1915年のこと。
インディアン狩りに追われ、
死を覚悟で白人の町に現れた
人類最後のインディアン、イシは、
世界に別れのメッセージを残した。
あなたは居なさい、ぼくは行く
それは、部族に代々伝わる
ヤヒ語で語られた、最後の言葉だった。
ひとつの言語が消える瞬間。
英語は、殺し屋だった。
たけしさんと関根さん
その番組には、たけしさんがいた。
面白いことは全部、たけしさんが言ってしまう。
男は、もがいていた。
そんなある日、彼は、
ほんとうにどうでもいいようなことを言ってみた。
ふと思いついた、本当に本当に、どうでもいいことを。
今のVTRに出てきた人、次男っぽいですよね
スタジオは、
笑いの渦に包まれていた。
だけしさんも、笑っていた。
その男とは、関根勤さん。
どんな場所にも、ポジションは、きっとある。
スティーブ・ジョブス
天才の条件。
その一つは、
いつまでも子供でいられること。
利害や損得を気にせず、
情熱や好奇心で動けること。
10年前、スティーブ・ジョブスは、
つぶれかけた古巣のアップル社に、
わずか年俸1ドルで復帰した。
やがて、
1年で、imacが。
5年で、ipodが生まれた。
天才の給料は、いまも1ドルのままだという。
王貞治
世界のホームラン王と言われた
王貞治のバットから、
まったく音が消えてしまったことがある。
第699号を打ってからの20日間。
あと1本が、どうしても出ない。
焦る姿を見かねた知人は、
ある一言をアドバイスしたという。
その翌日。
第700号ホームラン、達成。
いったい知人は、何と言ったのか。
あと1本で700ではなく、
あと101本で800だと思えばいいさ
数字の魔法が、王様を救った。
江口順也
厚焼玉子 09年4月25日放送
アントワネットの結婚式
ウイーンの春は木に咲く花からはじまる。
桜が咲き、リンク通りのカエデが満開になり
レンギョウの枝が黄色の花でいっぱいになると
もう4月だ。
木蓮の大きな蕾も膨らむ。
マリー・アントワネットの結婚式も4月だった。
1770年の4月、
王宮のアウグスティーナ教会に到着した花嫁は
14歳と6ヶ月、
花婿は婚約者のフランス皇太子ではなく
皇太子と同い年の兄、フェルディナンドが
代理をつとめていた。
王宮の庭ではリラの花が咲いていた。
アントワネットを歴史の舞台に送り出す準備は
こうして進められていく
ウイーンの四月に
4月のウイーンは冬と春のせめぎあい。
日が延び、木々も芽吹き
カフェもテラスにテーブルを出しているのに
冬は最後の意地で道路を凍らせたりもする。
おかげでこの街のクルマは
4月15日まで冬のタイヤでないと罰金を取られることに
なってしまった。
14歳だったマリー・アントワネットの4月は
別れの月だった。
母に、家族に、さようなら。
そして生まれた国にも別れを告げて
迎えの馬車に乗り、フランスに向かった。
57台の馬車と367頭の馬が
まだ少女だった未來のフランス王妃を守っていた。
3日間走り続けたその道は
春の花が散り敷くあたたかい道だったのか
馬の蹄も凍る冷たい道だったのか。
1770年4月
マリー・アントワネットはフランスへの旅の途中。
はじめてのプロポーズ
ランバッハの修道院は
モーツァルトの楽譜が発見されたことで有名だ。
1769年、13歳のモーツァルトが
宿泊と食事のお礼に楽譜を置いていったのだという。
モーツァルトは6歳のときに
一度だけアントワネットに会っている。
ウイーンの王宮に招かれて演奏したときのことだ。
転んだモーツアルトを助け起こした
ひとつ年上のかわいい王女に
「僕のお嫁さんになってください」とプロポーズしたのは
有名な話。
やがて1770年
14歳のアントワネットもまたランバッハの修道院を訪れる。
それはフランスへ向かう旅の二泊め。
楽譜のことを知るよしもない。
クグロフのうた
クグロフは不思議なお菓子。
パン屋さんで買うとパンのようなクグロフ、
お菓子屋さんで買うとお菓子のクグロフ。
クグロフには包容力がある。
卵とバターと粉があれば、
チョコレートチップ、くるみ、干しぶどう
あとは何でも好きなものを入れて
作る人の好みの味になってくれる。
クグロフは名前がかわいい。
口の中でころころころがる。
クグロフはウイーンがふるさと。
マリー・アントワネットのお嫁入りと一緒に
フランスまで旅をして
それから世界の人気ものになった。
アントワネットはお菓子が好きだったけれど
ウイーンがお菓子の街で、お母さまもお菓子好きで
生まれたお城にはヨーロッパのお菓子職人が集まっていたから
これはもう、しかたがない。
でも食べてみればわかるけれど
クグロフは決して贅沢なお菓子ではありません。
ゲーテが目にしたもの
国境はライン川の真ん中だった。
その見えない国境を越えて向こう岸に渡ると
ストラスブールの街があった。
ストラスブールの大学に学んでいたゲーテは
マリー・アントワネットの婚礼の行列が街を行くのを目撃し
馬車の窓越しにアントワネットの姿もかいま見ることができた。
真っ直ぐ前を向いて姿勢正しく座る14歳の少女の姿は
ゲーテの心をとらえ、一生忘れることがなかった。
アントワネットは、ストラスブールの街へ入る前、
ライン川の中州につくられた建物の中で
オーストリアのドレスを脱ぎ捨てて
肌着から靴まで、すべてフランスのものを
身につけなければならなかった。
国境まで付き添ってきた家臣たちもすべて帰し
たったひとりで、フランスへの一歩を
踏み込んだばかりだった。
1770年4月
マリー・アントワネットは旅をつづけている。
ドナウ川の緑の渓谷の上で
メルクの修道院は
ドナウ川の緑の渓谷の断崖の上にある。
バロック様式の建物は大きく、中も外も豪華に装飾されて
修道院というよりはお城のようだ。
メルクはもともとオーストリアの首都であり
修道院も国王の城として建てられていた。
マリー・アントワネットは
ウイーンを出発して8時間後にメルクの修道院に到着し
家族と離れたはじめての夜を過ごした。
絢爛たる天井画も図書館の10万冊の本も
修道院の生徒が歌うオペラも慰めにはならず
ただ悲しそうな顔をしていたと記録されている。
1770年4月
マリー・アントワネットはフランスへの旅の途中。
ゲーテが目にしたもの2
アルザス地方の中心地ストラスブールが春を迎えるころ
アントワネットがフランスの王太子と結婚するために
この街を通るという噂があった。
街の大学生のグループは
アントワネットが休息する建物をのぞき見たいと考えて
行列が到着する数日前に
門番を言いくるめて中に入った。
その大学生の中にゲーテがいた。
ゲーテは部屋を飾るタペストリーを見て
声をあげて驚いたそうだ。
タペストリーには
ギリシャ神話のなかでももっとも不吉な結婚をする
王女メディアの物語が織り込まれていた。
1770年4月
アントワネットの旅はつづいている。
古田彰一 09年4月19日放送
エド・ウッド
エド・ウッドは史上最低の映画監督として名高い。
生前はもちろん、この世を去ってからも
「もっとも映画作りが下手な監督」と酷評された。
そんな彼に憧れて映画監督になった人たちがいる。
ティム・バートン、デヴィッド・リンチ、
サム・ライミ、クエンティン・タランティーノ。
エド・ウッドの破天荒な作品を見て、
そこに映画づくりの新しい可能性を見出したのだ。
エドは、映画監督としては二流だったが、
一流の映画監督をつくりだす天才だった。
ロバート・ジョンソン
生きているうちに評価される人と、
その人生を閉じてから評価される人がいる。
ミシシッピー・デルタブルースの創始者、
ロバート・ジョンソンがそうだった。
彼の悪魔的なギターテクニックは、
文字通り、悪魔と契約して手に入れたと言われる。
みずからの魂と引き替えにした
その人生は、果たして短かった。
ロバート・ジョンソン、27歳の夏。
わずか29曲を残してこの世を去る。
ローリングストーン誌が、もっとも偉大なギタリスト
5人にロバートを選んだのは、21世紀になってからのことである。
オスカー・ワイルド
男はいつも最初の男になりたがる。
女はいつも最後の女になりたがる。
イギリスの劇作家、オスカー・ワイルドは言った。
男と女の本質をこんなにも鮮やかに看破できたのは、
オスカーが同性愛者だったから、という説もある。
それはともかく、
最初の男として、最後の女として
出会いたいという男女の関係は、
なるほど最初から難しく仕組まれている。
ヘンリー・フォード
自動車の大量生産システムを発明した
ヘンリー・フォード。
彼は自動車を
大衆の手の届くものにしたかった。
だがしかし、決して
大衆の意見を聞こうとはしなかった。
お客にどんな乗り物が欲しいかと聞いたら、
速い馬という答えしか返ってこなかっただろう
ヘンリー・フォードの時代に、
マーケティングという考え方は存在しなかった。
だからこそ、彼は馬車を大量生産しなくてすんだのだ。
イチロー
2004年10月、
メジャーリーグの年間最多安打記録が
84年ぶりに塗り替えられた。
イチローがその偉大な記録を打ち立てたとき、
インタビューに答えて言った。
小さな一歩の積み重ねが、
とんでもないところへ行けるただひとつの道だと思う。
うまくやるコツや、成功の秘訣や、人生の裏技。
そんなものに期待してはいけない、とイチローは教えてくれる。
そして2009年4月
あらたな山の頂に達したイチローは語った。
張本さんにしか見えていなかった景色を
僕も見ることができました
天才は、努力の足し算でできている。
スティーブン・ジョブス
アップルコンピュータの創始者、
スティーブ・ジョブズは
相手を口説き落とす大天才。
なかでも有名なのが、ペプシコーラのCEO、
ジョン・スカリーをヘッドハンティングしたときの台詞。
砂糖水を売って一生を終えたいのか、
それとも世界を変えたいのか
この殺し文句はナイフよりも深くスカリーの心に突き刺さった。
プライドを揺さぶってからプライドをくすぐる、
巧みな台詞だった。
その後、スティーブ・ジョブズは、スカリーとのいざこざで
自分の会社であるアップルをクビになってしまうのだが、
それはまた別のお話。
植村直己
冒険とは、生きて帰ること。
冒険家、植村直己はいつもこう語っていた。
だが、彼の姿はマッキンリーの氷雪の中に消える。
冒険とは、生きて帰ることって言っていたのに、
ちょっとだらしないじゃない。だらしないじゃないの…
冒険家の妻、植村公子は
悲しみをこらえながら、帰らぬ夫をしかった。
度重なる捜索にも関わらず、
ついに植村直己の姿が発見されることはなかった。
きっと、彼の冒険はまだ続いているに違いない。
伊福部昭
作曲家の伊福部昭(いふくべあきら)は
映画音楽にはイクタスが必要だ、
と語っていた。
イクタス。
音の張りや音域の広がりといった
意味の専門用語。
しかし伊福部は、
「あなたの音楽には、
いま聴いている音楽以上の何かがあるか」
という意味合いでその言葉を用いた。
伊福部昭といえば、あのゴジラのテーマ曲。
当時、ゲテモノ映画と言われたゴジラが、
いまなお愛され続けているのは、
そこに映画以上の何かである「イクタス」が
与えられたからに違いない。
ガオー!
名雪祐平 09年4月18日放送
アルベルト・シュヴァイツアー
ピアノの旋律が、アフリカの夜の闇へ
こぼれていく。
日々の診療で、ふしくれだったシュバイツアーの指が
バッハを忠実に演奏する。
最も好んで弾いた曲は、「トッカータとフーガニ短調」。
病院のすみずみに、平和を告げるような重厚な調べ。
オルガン奏者として名高いシュバイツアーが
白いシャツ姿でピアノを弾く写真が残っている。
その姿に、彼自身がいった言葉を重ねよう。
Success is not the key to happiness.
Happiness is the key to success.
成功が幸福の鍵などではない。
幸福が成功の鍵なのだ。
ココ・シャネル
1971年、ココ・シャネルは
住まいにしていたホテルリッツのスイートルームで
87歳の波乱の生涯を閉じた。
戦争中、ドイツの将校と愛人関係を結び、
フランスを裏切ったという非難もあり、
その亡骸は、高級墓地への埋葬を断られる。
体を束縛するコルセットだけでなく、
心のコルセットからも女性を解放したデザイナー
そう絶賛された20 世紀モードの女王はいま、
死んで祖国を追われ
スイス・ローザンヌの墓地に眠る。
その墓の前には、白い小さな花が咲き乱れている。
ディマジオ
男は、妻と約束した。
妻が死んだら、火曜と土曜の週2回、
お墓に赤いバラを贈ることを。
男は、妻と別れた。それでも、
約束通り、妻の死後、20年間バラを贈りつづけた。
男は、ジョー・ディマジオ。
妻は、マリリン・モンロー。
不可解な死を遂げたモンローの柩に寄り添い、
ディマジオは涙で頬を濡らし、
何度も繰り返した「I love you」。
赤いバラは知っている。
ディマジオの愛には
1つも不可解なものがなかったことを。
エジソンとテスラ
1915年のノーベル物理学賞。
二人の天才発明家が候補に挙がった。
1915年のノーベル物理学賞。
二人の天才発明家が候補に挙がった。
直流式による電力を発明したトーマス・エジソン、と
交流式を発明したニコラ・テスラ。
しかし、テスラは同時授賞を拒否した。
その30年前、当時テスラの上司だったエジソンが
テスラの交流式発電の発明を徹底的につぶそうとした。
テスラは、エジソンを深く恨んだ。
「天才とは、人の99%の努力を、1%の努力で覆す存在」
と、自分をおとしめたエジソンのことを
テスラは強烈に皮肉った。
けれども
火花が飛ぶような、天才同士の激しい嫉妬によって
大きく電気科学は進歩したのである。
きょう、4月18日は、発明の日。
サン・テクジュペリ
1998年、マルセイユ沖で、
銀のブレスレットが発見された。
そこに刻まれていたのは、
第二次世界大戦で消息を絶った
フランス軍パイロットの名前。
サン=テグジュペリ。
まさしく『星の王子様』の作者だった。
『星の王子様』で、
仲良くなるとはどういうことかを
こう語ったサン=テグジュペリ。
大切なものは、目に見えない
すすんで参加した戦争に
大切なものはあったのだろうか。
ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーベン
「偏屈が服を着て歩いている。」
と言われた、大作曲家ベートーベン。
すぐ切れてしまう激しい気性。
過剰なまでの他人への干渉。
耐えきれず、多くの友人、恋人、肉親が離れていった。
そんな自分を嘲るように、
ベートーベンの臨終の言葉は、
「喜劇は終わった」
テーラー&バートン
2度のアカデミー主演女優賞と、
7度の離婚を経験したエリザベス・テーラー。
映画『クレオパトラ』で共演し、
4人目の夫となったリチャード・バートンから贈られたのは、
69.42カラットの最高グレードのダイヤモンドだった。
二人の名前をとって、テーラー・バートンと呼ばれた愛の結晶。
1978年、このダイヤモンドも、
二人の離婚後に競売にかけられ、
現在はサウジアラビアに渡っていると言われている。
別れて30年たったいまも、
テーラー・バートンという二人の名は永遠に寄り添い、
輝いている。
名雪祐平
中村直史 09年4月12日放送
マーク・トウェイン
100年以上も前、
ミシシッピ川に
ひとりの水先案内人がいた。
船の扱いに長けていた彼は、
言葉の扱いにも長けていた。
やがて作家へと転身。
多くの名言を残すこととなる。
もやい綱をほどき、安全な港から船を出し、
その帆に貿易風を受けよ
探検し、夢を見、発見するのだ
文豪マーク・トウェイン。
彼はいまでも
人々を目的地へと
導いている。
島崎藤村
まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛(はなぐし)の
花ある君と思ひけり
島崎藤村の「初恋」は、
人を恋することを知った少年の
はかない気持ちに満ちている。
恋は、人に人生の喜びを教えるが
同時に癒えることのない悲しみも刻みつける。
気がついたら、春になっていました。
恋をしましょう。
柳家小さん
落語は不思議だ。
何百年も受け継がれた話を繰り返し聞いて、
何がおもしろいのだろう。
5代目柳家小さん(やなぎや こさん)の落語は、
間違いなくおもしろかった。
「間」がたまらないのだ。
小さんの「間」には、語られない言葉がつまっていた。
生きるということの滑稽さや温かさに満ちていた。
いま寄席に出かければ、
小さんの弟子たちを見ることができる。
名人、小三治(こさんじ)、
柳亭市馬(りゅうてい いちば)
かの天才、立川談志。
それぞれの個性で
観客を魅了する彼らであるが
その声、そのしぐさの中に
小さんは生きている。
落語家はただ
落語を受け継ぐのではない。
人間を受け継いでいるのだ。
マーラー
その曲のラストには死が待ち受けている。
グスタフ・マーラーが亡くなる1年前に書いた
交響曲第9番。
死と向き合い、闘い、最後には受け入れる。
静かに、壮絶に、死へと突き進む曲。
最終章の長いピアニシモは、
生と死のはざまを思わせる。
そして演奏が終わっても
しばらく続く無音。
それは死んだ者たちが
消え失せてしまったのではなく、
ちゃんと自分のそばにいることを
確信できるやさしい無音だ。
指揮者ブルーノ・ワルターは
この曲の終わりを
「青空に溶け込む白い雲のように」と表現した。
その曲のラストには死が待ち受けていて
恐れることはないのだと言っている。
ハービー・ハンコック
何がかっこいいのかを知りたければ、ハービーを聴くといい
ジャズをつくり、
ジャズを壊し、
世界を驚かし続けてきた音楽の冒険家、
ハービー・ハンコック。
彼の挑戦は、
いつも「受け入れること」からはじまった。
違ったジャンルの音を。
違った考えの人々を。
彼はこんなコメントを残している。
私は演奏するとき、一生懸命にならないよう努力しています。
ただ、心を開こうと思うだけです。
そうすれば、何が起きてもオープンに受け入れられ、
進んでその瞬間に起きていることの
自然な流れの一部になりたいと思うようになります
ハッピー・バースデー、ハービー。
今日は、ハービー・ハンコック69回目の誕生日。
ガガーリン
48年前の今日。
「ボストーク1号」で
世界初の有人宇宙旅行に成功したパイロット
ユーリイ・ガガーリンは
こんな言葉を残していた。
地球はみずみずしい色調にあふれて美しく、
薄青色のまるい光にかこまれていた
要約すると
「地球は青かった」という有名な言葉になりますね。
今日は人がはじめて宇宙を旅した日です。
川崎宗則
先日閉幕を迎えたWBC、
ワールドベースボールクラシック。
前回につづきメンバーに選ばれるも、
出番の少なかった選手がいた。
ソフトバンクホークス、川崎宗則(かわさき むねのり)。
ようやくスタメン起用された大会終盤の試合後、
「久々の試合でしたが?」という問いに、こう答えた。
僕は、ベンチの中ですべての試合に出ていました
おめでとう、
WBC日本代表。
チームワークという言葉が
古臭くも恥ずかしくもないことを
あなたたちは教えてくれた。
与謝野晶子
それは明治30年代のこと。
たった31個の言葉が
押さえつけられていた
女性の感情を
大胆に解き放った。
やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君
詠み人、与謝野晶子。
彼女の歌には
女性として生きる喜びがあり、
そして覚悟があった。
「そぞろごと」という詩は、
こんな叫びで終わっている。
人よ、ああ、唯(ただ)これを信ぜよ
すべて眠りし女(おなご)今ぞ目覚めて動くなる
4月10日から16日は、女性週間です。