小山佳奈 09年4月11日放送
中原中也 十六歳
おもしろいじゃないの。
長谷川泰子が中原中也に言った、そのひと言で
中也は恋に落ちる。
田舎から身ひとつで出てきて、
文学という魔物と対峙しようとしている少年にとっては、
誰かひとりでも
「おもしろい」と認めてくれる人がいれば、
人生は確かな輪郭を持つ。
あゝ 恋が形とならない前、
その時失恋をしとけばよかつたのです。
気づいたときには、もう遅い。
それが、恋。
中原中也、16歳の春。
中原中也 十七歳
桜の咲く御所を横目に今出川通りを東へ進み、
河原町にぶつかるその角、
古びた木造アパートの二階に、
中原中也とその恋人、長谷川泰子は、
小さな居を構えていた。
春風です。
よろこびやがれ凡俗!
アスフアルトの上は凡人がゆく。
顔 顔 顔。
下宿の窓から春を見おろしていた
中原中也17歳。
恋人と初めて迎える春でした。
中原中也 十八歳
その日は夕方から雨になった。
中原中也と長谷川泰子が暮らす高円寺の家に、
中也の親友、小林秀雄がやってきた。
その人は傘を持たずぬれながら軒下に駆け込んでき ました。
私はハッとしました。
その人は雨の中から現れ出たようで、
雨にぬれたその人は、とても新鮮に思えたのです。
すぐに二人は恋に落ち、
長谷川泰子は中原中也の元を去る。
その日に、雨さえ降っていなければ。
その日が、4月でなかったならば。
4月は案外と雨が多い。
中原中也、18歳の春。
中原中也 十九歳
デビュー作というものすべてが、
一瞬の初期衝動で生み出されるものと思ったら、
ちょっとちがう。
どんな天才であっても、
デビュー作には特別な想いがあり、特別に骨を折る。
中原中也が、初めて文壇に発表した詩、「朝の歌」は
わずか14行に3ヶ月以上の月日をかけている。
ひろごりて たいらかの空
土手づたい きえてゆくかな
うつくしき さまざまの夢
恋人は去った。
友人も去った。
故郷も去った。
それでも気がつけば、たったひとつ
詩、という名の夢が残った。
中原中也、19歳の春。
中原中也 二十三歳
僕が死んだらあいつに見せて欲しい
そう言って、中原中也が友人に渡した分厚い原稿用紙の束は
別れた恋人長谷川泰子への愛の詩だった。
女よ、美しいものよ、私の許にやっておいで。
どんなに私がおまえを愛するか、
それはおまえにわかりはしない。
未練のある男は、女々しいが
未練のない女は、男らしく
気づいても気づかないふりをする。
中原中也、23歳の春。
中原中也 二十八歳
今この瞬間を生きることしか考えてこなかった中原中也が、
未来というものの存在に気づいたのは
はじめての子供を持ってからだった。
自分の未來と子供の未來を合わせれば
何か大きな仕事ができそうだ
その子がたった2歳で急逝することを知らず….
喜びに満ちていた
中原中也28歳の春。
中原中也の声
4月生まれの詩人、中原中也は、
亡くなる直前、こう言った。
今に分かるときが来ますよ
喧嘩っ早くて、
酒を飲むとすぐ大声で、議論をふっかける。
中也は激しい気性ばかり注目されて
魂の底にある悲しみに気づいてもらえなかったことが
多かったけれど。
それでも死の翌年には
たった一人の理解者だった小林秀雄の手で
最後の詩集「在りし日の歌」が
出版されている。
今にわかるときが来ますよ
中原中也の声が聞こえますか。
保持壮太郎 09年4月5日放送
カート・コバーン
10代でギターを握ったかつての少年たちにとって
ロックか、ロックじゃないかは、
ほとんど唯一と言ってもいい価値基準だった。
たとえば信長はロックだけど
家康はロックじゃない。
リンカーンはロックだけど
ベンツはロックじゃない。
みたいなことを、
本気で語りあったりしていた。
そんな1994年の4月5日。
グランジロックのカリスマ、
カート・コバーンが自ら命を絶った。
ニール・ヤングの歌詞を引用した
短い遺書をのこして。
じわじわ消えていくより、ぱっと燃え尽きたほうがましさ。
あの悲しみが、
ロックだったのか、
ロックじゃなかったのか。
あのころの少年たちは
もう結論を出しただろうか。
正岡子規
彼のポジションは、
キャッチャーだった。
彼は、
遠く米国からやってきた
そのベースボールという
風変わりなスポーツに
心底熱中していた。
彼は、
そのスポーツを深く愛するあまり
自らの名を、“野球”と書いて
“のぼーる”と称することにした。
のちに“野球”は、
ベースボールをさす日本語となった。
九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす
正岡のぼーること、正岡子規。
彼の愛したベースボールが、
ことしも海の向こうで開幕する。
リチャード・P・ファインマン
悲しみはいつも、ふとしたもので。
ノーベル賞物理学者
リチャード・P・ファインマンは、
若き日に、最愛の妻アーリーンを亡くした。
でも彼は、
わざわざ感傷にひたるなんてことはせずに、
アーリーンは死んだよ。ところで例のプロジェクトはどうなった?
そう言うと、
あとは仕事に没頭していた。
ただ、ある晴れた日に
オークリッジの街を歩いていて、
ショーウインドウの
うつくしいドレスにふと目をとめたとき
ああ、アーリーンの好きそうな服だな。
と思った。
たったそれだけのことだったけれど、
彼の涙をあふれさせるには充分だった。
気づくことは、ときに悲しい。
ジョン・レノン
事実。
世界はとても不平等で。
そこには、持つものと、
持たざるものがいる。
たくさんのまずしさが、
誰かのたるんだ身体を
支えているなんてことも
さしてめずらしい話ではない。
けれども、
かつてジョン・レノンは言った。
英国王室主催のステージ、
女王陛下の目の前で。
貧乏な人は拍手をしてください、
お金持ちの人は宝石をジャラジャラさてください、
それでは次の曲『Twist And Shout』です。
そのとき、
たしかに世界は平等だった。
アルベルト・アインシュタイン
ものごとの真理を
見つめるという意味において。
物理学者のまなざしは、
ときに、文学者のそれに似ている。
アルベルト・アインシュタイン。
彼は、
相対性理論の “相対性”とはいったい何ですか?
と、たずねられたとき、こう答えた。
熱いストーブの上に
1分間手を乗せてみてください。
まるで1時間くらいに感じられることでしょう。
ところが可愛い女性のとなりに
1時間座っていても、
それは1分くらいにしか感じられない。
それが、相対性というものです。
そんなアインシュタインの妻、エルザは
同じ問いかけに、こう答えている。
相対性?相対性のことは、よくわからないけれど、
アインシュタインのことなら、何でもわかっていますよ。
なるほど、と
みんなが思った。
長嶋茂雄
科学的で、論理的で、現実的な世の中で
人はいつでも奇跡に飢えている。
おこるはずのないことを期待している。
1958年4月5日 後楽園球場
偉大なる例外が、この日はじまった。
4打席連続空振り三振。
長島茂雄、鮮烈なプロデビュー。
アンドリュー・ワイルズ
春ともなれば、
教室には、
数学を学ぶハメになった
子供たちのしかめっツラが並び、
そのうちの一人が、
決まって質問をする。
それは、いったい何の役に立つんですか。
かのフェルマーの最終定理が、
ついに証明されたときも
新聞記者の口をついてでたのは
やはりそんな質問だった。
フェルマーの定理は、いったい何の役に立つんですか。
すると、偉業をとげたばかりの
若き数学者アンドリュー・ワイルズは、胸をはって言った。
この定理は、はるか将来にも何の役にも立たないだろう。
でもそれでいい。私の数学が応用の奴隷に成り下がるなんて、
私には耐えられないことだから。
ワイルズらしい、美しく明快な解答だった。
マイルス・デイビス
純粋なものはつよい。
純粋であることは
とてもとてもむづかしいことだけど。
モダン・ジャズの帝王マイルス・デイビスが、
かつて白人ピアニスト ビル・エヴァンスと組んだとき、
一部のリスナーはこんな批判した。
なんで白人なんかとツルむんだ。失望したぜ。
でも、マイルスの答えはとてもシンプルだった。
イカした演奏をするヤツなら、肌が緑色だって俺は雇うぜ。
そして彼の最高傑作のひとつ、
「カインド・オブ・ブルー」は生まれた。
佐藤延夫 09年4月4日放送
アンドレイ・タルコフスキー
“水は動きを、深さを、変化や色彩を、反映を伝えます。
これは地上で最も美しいもののひとつです”
ロシアに生まれた映像詩人、アンドレイ・タルコフスキーは
人間の意識を、水や水滴で表現しました。
1972年の作品、「惑星ソラリス」。
それは、海そのものが理性を持つ惑星。
1983年の作品、「ノスタルジア」の中で主人公は言います。
「芸術を理解するには、国境をなくせばいい。」
そういえば彼の故郷には、
ロシアの母なる川ヴォルガが流れていました。
川に国境なんて、ない。
サマセット・モーム
「月と10ペンス」で有名なイギリスの小説家、サマセット・モームは
10歳のとき一家離散の憂き目に遭い、
孤独な幼少期の中で、作家になることを決意します。
作家活動を始めると、旅行好きであることを利用され、
戦争では軍部の諜報機関に配属。
のちに病気でスパイ活動をやめると
ようやく自由の身に。
アメリカ、タヒチ、日本、中国、シンガポールなど
世界中を旅してまわりました。
のちに彼はこう語っています。
“ 人生とは面白いものです。
何かひとつを手放したら、それよりずっといいものがやってくるものです ”
なるほど、そうでしたか。
川端康成
“ 別れる男に、花の名をひとつ教えておきなさい。
花は毎年、必ず咲きます ”
ノーベル賞作家、川端康成の言葉です。
もしもあなたが、別れる相手に後ろ髪をひかれる、
あるいは、ささやかな復讐心を持っているなら、
ぜひ試してみてください。
その花が咲く季節になると、
彼はあなたのことを、きっと思い出すでしょう。
でも、セントポーリアや、ストレリチアを教えるのは、
いささか意地悪かもしれません。
なぜって
一年中咲く花ですから。
レイモン・ラディゲ
“ ふたりの幸せは、砂の城だった。
ぼくは、満ち潮ができるだけ遅くやってくるように願っていた ”
コクトーに見いだされた若きフランスの小説家、
レイモン・ラディゲの作品「肉体の悪魔」。
第一次世界大戦のさなか、
魅力的な年上の女性マルトと恋に落ちる15歳の「ぼく」。
この小説は自身の体験を元にしたとも言われています。
40歳のような視点を持つと言われたラディゲは、
「肉体の悪魔」を発表した年、
腸チフスに罹り、20歳の若さでこの世を去りました。
“ 死が悲しいのは、生命と別れることでなくて
生命に意義を与えるものと別れることである ”
確かにそうですね。
アルチュール・ランボー
早熟の天才詩人と言われる
アルチュール・ランボー。
18歳のときに、詩人ヴェルレーヌとパリで出会い、
ブリュッセル、ロンドンなどを放浪。
2年後、関係が悪化したヴェルレーヌに別れを告げると、
拳銃で左手首を撃たれてしまいます。
“ 僕は自分の空想と追憶を
埋葬しなければならなくなった ”
新作「地獄の季節」を出版したのち、
ランボーは、完成した本を焼き払い
詩人としての自分と決別します。
わずか21歳だったのに。
ジェーン・グドール
東アフリカ、タンガニイカ湖のほとりに
ゴンベの森があります。
イギリスの動物学者ジェーン・グドールがこの地に立ったのは
26歳のとき。
彼女は、長い月日をかけチンパンジーと交流し
顔を見分け、ひとりひとりに名前を付けました。
“ 長い間、自然の森の中で暮らしていると
本当は「死」というものがないんだ、ということがよくわかってきます。
あるのは命の循環だけなのです ”
今、ゴンベの森に行ってもジェーンに会うことはできません。
森林とチンパンジーを保護するため
世界中で講演活動を行っています。
バーナード・ハーマン
ヒッチコックに数多くの楽曲を提供した
アメリカの作曲家、バーナード・ハーマン。
彼はヒッチコックの記念すべき50本めの映画の制作中に
監督と激しく対立し、
生涯、袂を分かつことになります。
映画のタイトルは「引き裂かれたカーテン」
使われなかったハーマンの音楽を
ためしにつけてみた映像特典つきのDVDが
数年前に発売されたようです。
アガサ・クリスティー
イギリスの推理作家、アガサ・クリスティーは
24歳で空軍将校と結婚し、
38歳のとき離婚。
亭主の浮気に腹を立て、
置き手紙を残し、失踪騒ぎを起こしています。
その2年後に一緒になったのは、14歳も年下の考古学者。
彼女は、嬉しそうに語っています。
“ 考古学者は、どんな女性にとっても最高の夫です。
妻が歳をとればとるほど、より一層、興味を持ってくれるから ”
レオポルド・ストコフスキー
ロンドンに生まれ、アメリカで活躍したオーケストラ指揮者、
レオポルド・ストコフスキーは
音楽活動の傍ら、メディアにも積極的に進出しました。
ディズニー映画への出演のほか
オーケストラで初の電気録音を行い、のちにステレオ録音にも挑戦。
本業の演奏スタイルも独創的でした。
決してタクトを振ることのなかった彼は、
口癖のように、こう語っています。
“ 1本の棒よりも、10本の指のほうが
遥かに優れた音色を引き出せる ”
納得できる言葉です。
聖徳太子
今から1400年以上も前、
推古天皇の時代。
淡路島に、ひと抱えもあるほどの香木が流れてきました。
その木片を火にくべると
なんとも良い香りがしたので
朝廷に献上したそうです。
その香木で聖徳太子が観音像をつくったとも言われています。
手を合わせると、香りでも癒してくれそうです。
4月には、お香の日という記念日があります。