蛭田瑞穂 19年11月10日放送
美食 ユルバン・デュボワ
19世紀のフランス料理は豪盛に盛り付けられた大皿料理を
一度にテーブルに並べ、各々が取り分けるというスタイルだった。
同じ時代、ロシアではできあがった料理を一皿ずつ提供するスタイルが取られていた。
極寒のロシアでは料理を一度に並べるとすぐに冷めてしまうため、
それを避けるための工夫だが、そこに目をつけた料理人がフランスにいた。
料理人の名はユルバン・デュボワ。
彼によってフランス料理にロシア式のサービスが導入され、
今日に続くコース料理のスタイルが確立された。
蛭田瑞穂 19年11月10日放送
美食 オーギュスト・エスコフィエ
19世紀から20世紀にかけて活躍し、
「近代フランス料理の父」と称される料理人オーギュスト・エスコフィエ。
彼が現代のフランス料理に与えた影響は枚挙にいとまがない。
「総料理長」「副料理長」「ソース係」「焼き物係」「パティシエ」など、
厨房における役職制度と分業制を初めて確立。
料理人の社会的地位の向上のため、料理人に規律と品格と求め、
社会貢献活動も積極的におこなった。
そして、今ではコックの代名詞と言える、背の高い円筒形の帽子を
最初にかぶり始めたのもオーギュスト・エスコフィエである。
森由里佳 19年11月10日放送
manhhai
美食 ベトナムの国民食
19世紀。
ベトナムはフランス植民地となり、ひどい貧困にあえいでいた。
独立を勝ち取った今でも、多くのフランスの痕跡と共存している。
例えば、ホーチミンの市庁舎はフレンチコロニアル様式だし、
国民食ともいえるバインミーというサンドイッチには、
本国顔負けの香ばしいフランスパンが使われるといった具合にだ。
しかし、ヌクマムを始めとしたベトナムならではのアレンジで、
バインミーは今や世界でも人気を誇る美食へと進化した。
凄惨な歴史を乗り越え、自国の文化として昇華し、前を向く。
ベトナムの美食をいただく際には、
そんな世界の歴史とベトナムの矜持も味わいたい。
森由里佳 19年11月10日放送
trungydang
美食 ベトナムのデザート
東洋のパリといわれる、
ベトナム・美食の街ホーチミン。
メインストリートであるドンコイ通りは、
べトナムのシャンゼリゼ通りとまで言われている。
フランスによる植民地時代のおもかげを
色濃く残すこの街の人気スイーツのひとつに、
バインフランというものがある。
濃厚なカスタードが舌をもったりと包み込み、
焦がしたカラメルがほどよく素材の甘さを引きたてる…
そう、バインフランとは、プディングのことだ。
甘くて濃厚なバインフランのように、
カラメリゼされた歴史をそっと包みこんできた美食のベトナム。
街ごと味わう美食紀行はいかがですか。
星合摩美 19年11月10日放送
美食 ロッシーニ
牛フィレ肉のステーキに、
フォアグラとトリュフを贅沢に添える。
フランス料理の定番、通称「ロッシーニ風」
その名はオペラ作曲家ジョアキーノ・ロッシーニに由来する。
才能溢れる彼はヨーロッパで人気だったが、37歳の若さで引退。
レストラン経営に専念した。
ロッシーニ風ステーキを考案したのも、その頃のことだ。
1日に20枚のステーキを食べた、という逸話もあるロッシーニ。
肥満に悩まされながらも、76年の美食人生を謳歌した。
星合摩美 19年11月10日放送
美食 ロートレック
画家ロートレックは、美食家でもあった。
自ら腕を振るい、様々な料理で友人をもてなした。
200を超えるレシピは、のちに本として出版されている。
ニンニク入りオニオンスープや、
タラの虹色ソース焼きなど、
いかにも美味しそうなものから、
皮肉たっぷりな空想のメニューまで。
ロートレックはこんな言葉を残した。
「人間は醜い。されど、人生は美しい」
彼にとっては「食」もまた、
人生の美しさのひとつだったのかもしれない。
佐藤理人 19年11月9日放送
ツタンカーメン 最後のチャンス
1922年、イギリスの考古学者ハワード・カーターは、
崖っぷちにいた。
ツタンカーメン王の墓がどうしても見つからない。
25年間も探しているのに。
仲間の信頼も発掘資金も底を尽いた。
彼は資金提供者の元を訪ね、最後の支援を願い出た。
どこを掘るつもりか聞かれたカーターは、
王家の谷の地図を広げ、小さな一画を指差した。
資金提供者は言った。
私はギャンブラーだ。もう一度、君に賭けよう。
カーターの最後の挑戦が始まった。
佐藤理人 19年11月9日放送
ツタンカーメン 発見
1922年11月6日。
イギリスの考古学者ハワード・カーターが、
ツタンカーメン王の墓を発掘していると、
突然急な階段が現れた。
階段を降りると、封印された岩の扉があった。
扉に穴を開けて明かりを差し込むと、
数千年分の埃の中に何かがぼんやり浮かび上がった。
何も言わないカーターに痺れを切らし、
仲間が何か見えるか尋ねた。
だがカーターは、
すばらしいものです
としか言えなかった。
穴の中はあたり一面、黄金が輝いていた。
佐藤理人 19年11月9日放送
ツタンカーメン 花の色
1922年11月6日。
イギリスの考古学者ハワード・カーターが、
ツタンカーメン王の墓を見つけた。
墓にはファラオの生活がそのまま納められていた。
金や宝石に飾られた、たくさんの家具と服。
そして部屋の中央には大きな純金の棺。
蓋を開けると、宝石を散りばめた経帷子に包まれて、
ツタンカーメン王のミイラがあった。
顔は水晶をはめ込んだマスクで覆われ、
胸には様々な花で作った花輪が置かれていた。
3300年後の墓の中でも、
花はかすかな色合いを残していたという。
佐藤理人 19年11月9日放送
ツタンカーメン 呪い
1922年11月6日。
イギリスの考古学者ハワード・カーターが、
ツタンカーメン王の墓を見つけたときのこと。
突然、一羽のタカが現れ、西の空へ飛んで行った。
タカは古代エジプトで王家の象徴。
西はあの世がある方角だと言われる。
人々は死んだファラオの魂が、
墓を汚した者に呪いをかけたのだと噂した。
5ヶ月後。発掘資金の出資者、
イギリスのカーナボン伯爵が左の頬を蚊に刺された。
傷は化膿し、伯爵は敗血症でこの世を去った。
ツタンカーメン王のミイラを調べたところ、
伯爵と同じ場所に、全く同じ傷があった。