松岡康 19年8月18日放送
花火大会のはじまり
夏のお祭りといえば花火大会。
大空という大画面に、大迫力の光の演出。
日本人は花火が大好きだ。
しかし、この花火大会、
なぜ夏に行われるのかを知っている人は
少ないのではないだろうか。
花火大会のはじまりは、
送り盆の時期に、魂の鎮魂のために打ち上げられたものだといわれている。
もともとは先祖をお送りする送り火のための花火だったのが、
いつしか夏のイベントに育っていったのだ。
花火を見ると切なくなる気がするのは、
そういった歴史があるからかもしれない。
奥村広乃 19年8月18日放送
Tomomarusan
縁日
お祭りと聞くと
「縁日」を思い浮かべる人も多いのでは。
神社の境内に並んだ数々の屋台。
威勢のよい客引きの声。
イカ焼き、わたあめ、ベビーカステラ、お好み焼き。
いろんな音や香りが混ざり合った、
なんとも言えないノスタルジックな空間。
ゆかりのある日、と書いて縁日。
この日にお参りをすると神仏とご縁が結ばれ、
より多くのご利益があるのだとか。
屋台を楽しむのもいいけれど、
縁日の時は心穏やかにお参りしてみては。
長谷川智子 19年8月17日放送
里帰り
去年の今日、
首都圏へ向かう高速道路は大渋滞だった。
お盆に帰省した人たちのUターンラッシュだ。
ところで、「お盆に里帰り」という言葉を
よく聞くようになった。
もともと「里帰り」は
もとは、女性が結婚後はじめて実家に帰ることをさした言葉だが、
近ごろではお盆や年末年始の帰省も
里帰りと呼ぶらしい。
今年は帰省した人の12%が
今日のUターンを予定しているそうだ。
長谷川智子 19年8月17日放送
伊藤若冲の里帰り
「30年が一日のように過ぎた」
江戸時代の絵師、伊藤若冲はその後半生を絵にささげた。
若冲は絵師になりたいがために
40歳で家督を弟に譲ってしまった。
死後の供養のことまで算段しているのを見ると
実家との交わりは薄かったのかもしれない。
世界でも高く評価される伊藤若冲。
海外に渡った作品のうち90点あまりが、
この秋、日本(の出光美術館)に里帰りする。
しかし。若冲のふるさとは、
絵の中にこそあるのかもしれない。
長谷川智子 19年8月17日放送
大黒屋光太夫の里帰り
「優曇華(うどんげ)の花」
3000年に一度咲くという伝説の花。
この花にたとえられるほど、困難な里帰りがあった。
江戸末、伊勢から船出した大黒屋光太夫一行は、
嵐のためロシアへ流れつく。
帰国願いが女王エカテリーナ2世に認められ、
やっと北海道まで帰ってくるまでが10年。
無事に帰国できたのは16人中わずか3人だった。
まさに優曇華の花。
光太夫がふるさと伊勢に里帰りするまで、
さらに10年の月日を要する。
長谷川智子 19年8月17日放送
江戸の子守歌
「江戸の子守歌」は
今から約250年前、江戸の町で歌われはじめた。
作詞、作曲は不明。
「坊やのお守りは どこへいった
あの山超えて 里へ行った」
お盆の薮入りの日なのだろうか、
子守の娘を里に返し
母親みずから子供を寝かしつける様子がうかがえる。
この歌はテレビもネットもないこの時代に、
日本初の流行歌となって日本中にひろまった。
長谷川智子 19年8月17日放送
峠の我が家
「峠の我が家」のメロディを聴いて
私たちが思い描くのは
小さな家が建つ山間のふるさと。
しかし、この歌のふるさとはアメリカ・カンザス州。
空晴れわたる大地に、
バッファローやシカがたわむれる大平原が歌われ
山や峠は全くない。
Home, home on the range
Where the deer and the antelope play
ふるさとを思う心は同じでも、目に浮かぶ景色はそれぞれ。
作詞家中山知子が「峠のわが家」と訳したことで、
日本人のふるさとの歌になった。
薄景子 19年8月11日放送
太陽のはなし ウィルコックスの言葉
人生には、光もあれば闇もある。
暗闇のさなかにいるときは、
トンネルから永遠に抜けられないのではと
不安に駆られることもある。
そんな時に思い出したいのが
アメリカの詩人、
エラ・ウィーラー・ウィルコックスの言葉だ。
ひとつひとつの悲しみには意味がある。
時には、思いもよらない意味がある。
どんな悲しみであろうと、
それは、このうえなく大切なもの。
太陽がいつも朝を連れてくるように、
それは確かなことなのですよ。
不確かなことだらけの世の中で
太陽は、何十億年にもわたって、
毎日、裏切ることなく朝を連れてくる。
永遠に約束された光があるから
人は今日も前を向ける。
茂木彩海 19年8月11日放送
太陽のはなし 太陽と芸術家の関係
あらゆる芸術家と親交があったと言われている、
19世紀を生きたフランスの作家、ロマン・ロラン。
学生時代には文学を学ぶ傍ら、美術や音楽などアート活動に没頭。
その後文学作家となってノーベル文学賞を授与した
「ジャン・クリストフ」ではその知識と情熱から、全10巻に渡り
ベートーヴェンを主人公にした物語が紡がれている。
彼が遺した言葉に、太陽と芸術家にまつわるこんな一文がある。
太陽がないときには、それを創造することが芸術家の役割である。
美術館の細い廊下を抜けた途端、素晴らしい絵画を目の当たりにした瞬間。
コンサートホールで鳥肌が立つほど美しい旋律を聴いた瞬間。
曇った心は晴れやかに、気持ちを一変させてくれる。
芸術家が生み出しているのは、
誰かの心を照らす小さな太陽、なのかもしれない。
小野麻利江 19年8月11日放送
太陽のはなし 太陽が光を奪われた年
「人類史上最悪の年」。
中世を専門とする歴史家によると、それは「西暦536年」。
「太陽が光を奪われた年」だという。
その年の初め、アイスランドで噴火が起き、
火山灰が、北半球中に撒き散らされた。
その火山灰が微小な固体の粒子・エアロゾルの幕となって、
太陽の光を遮ってしまった。
ヨーロッパ、中東、アジアの一部で霧が垂れ込め、
なんと18ヶ月にも渡って、昼夜を問わず暗闇が続いたという。
夏の気温は3度近く下がり、
中国では夏に雪が降り、
東ローマ帝国の3人に1人の命を奪う
「腺ペスト」の蔓延のきっかけとなった。
東ローマ帝国の歴史家・プロコピウスは、こう記している。
1年中、まるで月のように太陽の光から輝きが失われた
人間の営みに、太陽は欠かせない。
この先、さらに、科学が進歩しても。