与謝野晶子と温泉 有馬温泉
歌人、与謝野晶子は
61歳のとき脳溢血で倒れた。
昭和15年5月のことだった。
ひと月前に吟行(ぎんこう)の旅をしており、
京阪神方面へ向かっている。
六甲から須磨へ。鞍馬山の九十九折は駕籠で登り、
天橋立などを見物するルートだった。
このとき立ち寄ったのが、有馬温泉だ。
長い歴史を持ち、日本三古湯(にほんさんことう)にも選ばれているが
彼女が湯浴みをした最後の温泉になってしまった。
残念ながら、このときの歌は残されていない。
与謝野晶子と温泉 有馬温泉
歌人、与謝野晶子は
61歳のとき脳溢血で倒れた。
昭和15年5月のことだった。
ひと月前に吟行(ぎんこう)の旅をしており、
京阪神方面へ向かっている。
六甲から須磨へ。鞍馬山の九十九折は駕籠で登り、
天橋立などを見物するルートだった。
このとき立ち寄ったのが、有馬温泉だ。
長い歴史を持ち、日本三古湯(にほんさんことう)にも選ばれているが
彼女が湯浴みをした最後の温泉になってしまった。
残念ながら、このときの歌は残されていない。
お札の人 福沢諭吉
天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。
この言葉を残した人が、
日本で一番価値のあるお札になっているのは、ちょっと面白い。
福沢諭吉さんが初めて一万円札に登場したのは、1984年。
今からもう20年以上も前になります。
ちなみに、この肖像画は56歳のときのもの。
子どもたちが結婚をし、親としての幸せを感じていた時期と言われています。
さて、今年のお正月、
どれほどの数の諭吉さんが
日本中を飛び交うでしょうか。
お札の人 野口英世
学問は、一種のギャンブルである。
そんな大胆な名言を残したのは、
千円札の顔でもおなじみの、野口英世さんです。
彼の千円札が発行されたのは、2004年。
ちなみにお札の肖像画に髭を生やした人物が多いのは、
偽造防止のためと言われています。
ところでこの方、
実はかなりお金にルーズだったという説も残っています。
でも、あなたの財布の中の野口さんは、無駄遣いしてはいけません。
お札の人 樋口一葉
恋とは尊くあさましく無残なもの也。
そんな言葉を残したのは、
五千円札の顔でもおなじみの、樋口一葉さんです。
いつお札になっても不思議じゃない女性、と言われ続けて、
ようやく日の目を見たのは、2004年のこと。
貧しさゆえの屈辱を味わいながら、
母と妹を養育し、婚約者にも逃げられてしまう。
その思いの雫が、数々の名作を生み出しました。
一葉さんが五千円札になった年は、
アテネオリンピックで女性選手が目を見張る活躍をしています。
さて、今年のオリンピックは、どんな名シーンが見られるでしょうか。
お札の人 聖徳太子
日本の紙幣に最も多く登場した人物は、
どなたかご存知ですか?
ちょっと難しいかもしれませんね。
ではまず、お札の歴史を振り返りましょう。
明治時代、初めて肖像画入りの紙幣に登場したのは、神功皇后でした。
日本最初のお札の顔は、女性だったんですね。
それ以来、菅原道真、武内宿禰、和気清麻呂、藤原鎌足など
多くの歴史上の人物が名を連ね、
初の日本銀行兌換銀券では、大黒様になったこともあったんです。
そして昭和5年。ついに聖徳太子が登場します。
戦前に2回、戦後には5回、
しかも五千円と一万円では、四半世紀にわたって発行されました。
ミスター日本紙幣と言っていいかもしれません。
今でも、お年玉といえば、
聖徳太子の顔を思い浮かべる方も多いはず。
お札の人 岩倉具視
薄いブルーのお札、といえば
懐かしく思う方がいらっしゃるかもしれません。
最後の500円札の肖像画は、岩倉具視さんでした。
発行されたのは、1969年。
東名高速道路が開通した年です。
やがて、1982年に500円硬貨が発行され、
その3年後、五百円紙幣の製造はそっと終わりを告げました。
貯金箱やタンスの奥、
家のどこかにまだ500円札があるというみなさん。
大丈夫です。まだ使えるそうです。
指揮者の哲学 ブルーノ・ワルター
20世紀を代表するドイツの指揮者、ブルーノ・ワルター。
激情型のマエストロが多かったこの時代において、彼は異質の存在だった。
自らのことを「教育的指揮者」と喩えるように、
温和にして感情を表に出さず、その姿は心やさしき教師のようである。
そうは言っても、彼の言葉の端々には苦労がにじみ出ている。
オーケストラはまるで百の頭を持つ竜である。
彼らを思うままに操るのは容易なことではない。
ナチスに追放され、ヨーロッパを転々し
ついにはアメリカに逃れたワルター。
命の危険にさらされながらも、ステージではオーケストラと対峙していた。
指揮者の哲学 レオポルド・ストコフスキー
イギリス出身の指揮者、レオポルド・ストコフスキー。
「音の魔術師」あるいは「非正統派の筆頭」と言われるように、
彼の演奏スタイルはかなり個性的だった。
曲のテンポを独自の解釈で自在に変更し、
批評家を敵に回すことも多かったという。
そして演奏のときにタクトを持つことはなかった。
1本の指揮棒よりも、10本の指のほうが豊かな表現ができる。
ストコフスキーは、レコーディングにも積極的だった。
オーケストラの楽器の配置を、
録音しやすい現在のスタイルに変えたのも彼の功績である。
指揮者の哲学 オットー・クレンペラー
ドイツの指揮者、オットー・クレンペラー。
演奏では、情緒的な美しさよりも、
ゆったりとしたテンポの中に独自の世界観をつくりあげた。
逸話の多い男だった。
厳格そうな風貌でありながら、女好き。
脳腫瘍に躁鬱病。そして、度重なる怪我にも見舞われた。
後頭部からステージに転落したこともあったが、
そのたびに不死鳥のように復活を遂げた。
練習ではオーケストラに怒鳴り散らし、
演奏中も観客と口論する。
そんな彼が残した言葉。
指揮とはどんなことかと問われても答えることはできない。
なぜなら、指揮というものは自分自身で掴み取るものだからだ。
目を閉じてタクトを振る独特の姿は、指揮者よりも
独裁者という言葉がよく似合う。
指揮者の哲学 アルトゥーロ・トスカニーニ
イタリアの指揮者、アルトゥーロ・トスカニーニ。
徹底的な楽譜至上主義で、正確なテンポを刻んだ。
だがそれは、ただ忠実に演奏することではない。
オーケストラそのものが生きる楽譜となり、
音と同化することを求めた。
リハーサルでは指揮棒を折り、スコアを破り、
あらゆるものを床に投げつける。
そんな魂のやりとりで生まれた曲が、人を感動させない理由がない。
だが、本人は淡々とこんなことを言っている。
私は偉大でもなんでもない。
ただ他人の作品を指揮していただけだ。
トスカニーニは、極度の近眼のため、楽譜を読まずに暗記していた。
合奏曲は250曲、オペラは100曲以上記憶していたという。
だが1954年に行われた演奏会の途中、
記憶障害で指揮を止めてしまう。
彼がタクトを置いたのは、その直後のことだった。
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