佐藤延夫(事務局)

佐藤延夫 15年1月3日放送

150103-01

あの人のお正月 大槻玄沢

江戸時代の蘭学者、大槻玄沢。
彼の「玄沢」という名前は、尊敬する2人から一文字づつ貰っている。
医学の師匠、杉田玄白の「玄」と、
蘭学の先生、前野良沢の「沢」。
そして彼自身もまた蘭学の塾を開き、
多くの後継者を育てた。

大槻玄沢は、初めて西洋風の正月を祝った日本人と言われる。
寛政6年の11月11日。
この日は西暦1795年の1月1日にあたることから
オランダ正月と名付け、毎年ニューイヤーパーティーを開いた。

肖像画では難しい顔をしているが、
楽しいこともお好きだったようで。

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佐藤延夫 15年1月3日放送

150103-02

あの人のお正月 十返舎一九

江戸時代の浮世絵師、十返舎一九。
「東海道中膝栗毛」の作者でもあり、
日本で最初に文筆業のみで自活した人物と言われている。

流行作家になっても酒と女に溺れてしまい
生涯、貧しい生活だったそうだ。
正月に着る衣装がなかった彼は、ある計画を練った。
それは、年賀に訪れた客を風呂に入れ、
その間に衣装を拝借し、正月の挨拶を済ませてしまうこと。

流行作家らしい、荒唐無稽なお正月。

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佐藤延夫 15年1月3日放送

150103-03

あの人のお正月 一休宗純

室町時代の禅僧、一休宗純。
6歳で出家し、
詩歌や書画に優れた才能を見せるが、人柄は自由奔放。
かなりの変わり者だったと伝えられている。

ある年の正月には、
竹の棒に骸骨を載せて
この歌を呟きながら街を練り歩いたそうだ。

「門松は冥土の道の一里塚、
 めでたくもあり、めでたくもなし」

「めでたい」と言って笑っているのもいいけれど、
またひとつ、年を取るんですよね。

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佐藤延夫 15年1月3日放送

150103-04
備忘録 旅人
あの人のお正月 東くめ

童謡「お正月」が生まれたのは
今から100年以上前、1901年のことだ。
作詞を担当したのは、東くめ。
当時、幼児教育に力を尽くしていた夫からの依頼だった。
そのとき、くめが相談した相手は
学生時代の後輩、滝廉太郎。

そして日本初となる、話し言葉による童謡の数々が生まれた。
「お正月」のほかにも「鳩ぽっぽ」などの作品を残したが
その2年後、滝廉太郎はこの世を去る。
一方のくめは、90歳までピアノ教師として働いた。
きっと毎年、子どもたちに
お正月の歌を弾いてあげたのだろう。

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佐藤延夫 14年12月6日放送

141206-01

数学者たち ルネ・デカルト

フランスの数学者、ルネ・デカルト。
のちに近代哲学の父と呼ばれるこの男は
ただ机に向かうだけでなく、
自ら社会に出ることを選んだ。
それをデカルトは、「世間という大きい書物」と言った。

20歳になると、パリを経由しオランダへ。ドイツへ。
志願して軍隊に加わり、
優れた技術者や科学者と交流した。
そしてある夜、インスピレーションに打たれ
代数学と幾何学を結合した解析幾何学の基礎を発見する。

「我思う、ゆえに我あり」

この有名な言葉は、家の中で本を眺めても
決して見つからなかっただろう。

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佐藤延夫 14年12月6日放送

141206-02

数学者たち ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス

近代数学の父、
ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス。
いかにも数学者らしく、質素な暮らしを好んだ。
小さい書斎、緑色のカバーをつけた仕事机、
幅の狭いソファー、傘付きのランプ、
火の気のない寝室、粗末な食事、ビロードの帽子。
代数学の基本定理など多くの業績を残すが、
彼に必要なものはこれだけで十分だった。

「私が目にした問題は、見た瞬間に答えがわかった」

ガウスの言葉に間違いはなく、
2歳にして父親の計算間違いを指摘していたそうだ。

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佐藤延夫 14年12月6日放送

141206-03

数学者たち チャールズ・バベッジ

計算機やコンピュータが世に出る前の話。
科学計算に用いられる対数や三角関数の表は、
数学者たちが作っていた。
彼らは政府によって集められ、ただひたすら手書きの計算をするのだ。
しかしイギリスの数学者チャールズ・バベッジは
人間がやる仕事ではないと考えた。
そして世界で初めて、プログラム可能な計算機を発明した。

「これは、くりかえし計算という耐えられないほどの労働と
 うんざりするほどの単調さをなくすのに役立つ機械である」

バベッジが、コンピュータの父と呼ばれる所以である。

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佐藤延夫 14年12月6日放送

141206-04

数学者たち ジョン・フォン・ノイマン

ハンガリー出身の数学者、ジョン・フォン・ノイマン。
多くの著名な数学者がそうであるように、
ノイマンもまた、傑出した才能の持ち主だった。
幼いころから科学への興味を示し、
12歳で関数論をマスター。
18歳になる前に論文を執筆し、
数学雑誌に発表した。
大学に入学するときには
一流の数学者の仲間入りをしていた。
経済学の原理を数学で説明するという「ゲームの理論」を研究し、
やがて、スーパーコンピュータの開発に関わる。
プログラム内蔵方式と呼ばれる方法で、
それまで単なる計算機械だったコンピュータは
無限の可能性を秘めた万能の箱に変わる。

「自分たちの中で一番の天才はノイマンだ」

かのアインシュタインも、そう語ったらしい。

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佐藤延夫 14年11月1日放送

141101-01

あの人の妻/クリスティアーネ・ゲーテ

ドイツの詩人ゲーテは、38歳のとき恋に落ちた。
そのお相手は、クリスティアーネ。造花工場で働いていた。
宮廷貴族と、平凡な娘。
身分違いの恋が明るみになると、
世間からは不快な言葉が浴びせられた。
しかし、ふたりの関係はその後、28年も続く。
その理由は、クリスティアーネがとても有能な主婦であったこと。
倹約家で勤勉で、どんな労働もいとわなかったという。
もちろんそれだけではない。
ゲーテのこんな言葉が残っている。

「彼女は、かつての彼女のままであり続けている」

変わらないことは、偉大なのだ。

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佐藤延夫 14年11月1日放送

141101-02

あの人の妻/コジマ・ワーグナー

ドイツの作曲家ワーグナーの妻コジマは、
幼いころから彼の作品に心酔していた。
そして、夫がいる立場でありながら、
24歳も年上の天才作曲家に惹かれていく。
コジマは三角関係の果てに、ワーグナーと再婚する。

彼女の才能が花開いたのは、
神のように崇めていた夫、ワーグナーが亡くなったあとだった。
音楽や舞台演劇の知識が並外れており、
夫の成功させた音楽祭を
自らの手で見事に引き継いでみせた。
それはコジマの父親が、
ワーグナーと同じ時代の作曲家、フランツ・リストだったことが
影響しているのかもしれない。
才能が、才能を呼ぶ。

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