佐藤延夫(事務局)

佐藤延夫 14年11月1日放送

141101-03

あの人の妻/ミレヴァ・アインシュタイン

アルバート・アインシュタインの妻は、
スイス工科大学の同級生だった。
名前を、ミレヴァ・マリッチという。
学生時代と同様に、結婚してからも
ミレヴァは献身的に夫を支えた。
しかしアインシュタインは、別の女性に夢中になってしまう。
ふたりは離婚し、ミレヴァは子どもの親権と
毎年決まった額の養育費を得た。
アインシュタインがノーベル賞を受賞すると、
険悪だった関係は少しずつ改善されたという。

彼が晩年に残した言葉。

「結婚は、想像力を欠いたブタによって発明されたものだ」

これはアインシュタインの本音なのか、皮肉なのか、照れ隠しなのか。

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佐藤延夫 14年11月1日放送

141101-04

あの人の妻/コンスタンツェ・モーツァルト

偉大な作曲家モーツァルトの妻、コンスタンツェは
悪妻であったと伝えられる。
その手がかりは、
ふたりがやりとりした手紙から分析された。
コンスタンツェは、
軽率なうえに浮ついており、
放蕩で、遊び癖や浪費癖がある・・・。
そうは言っても、モーツァルト自身も
いつも心ここにあらずで
扱いにくいパートナーであったことは窺い知れる。
悪妻という評判が一人歩きを始めたのは、
モーツァルトの死があまりにも早く、
彼女が長生きをしたせいかもしれない。

コンスタンツェは、夫の借金を遺産と相殺しながら
違う男と再婚して、80歳まで生きた。
たくましいことだけは、間違いない。

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佐藤延夫 14年10月4日放送

141004-01
mhaithaca
作家たちの隠れ家/マーク・トウェイン

アメリカ、ニューヨーク州の南部、
エルマイラという小さな街。
その中心部から3キロほど離れた、
丘のてっぺんにたたずむ八角堂が
小説家、マーク・トウェインの書斎だった。
ここで「トム・ソーヤの冒険」をはじめ、数々の名作が生まれた。

石炭のストーブがあり、
大きな窓が6つ、小さい窓がひとつ。
そして幅の広いドア。
朝の10時から、ランチをとらず午後5時まで籠もり、
天気がいいと、丘の頂上に立って夕焼けを眺めたそうだ。

マーク・トウェインは、その光景をこんな言葉で喩えた。
「日没の最後の奇跡」。

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佐藤延夫 14年10月4日放送

141004-02

作家たちの隠れ家/チャールズ・ディケンズ

ロンドンから、東におよそ50キロ。
イギリス南東部ケント州ロチェスターという町に、
小説家、チャールズ・ディケンズの屋敷があった。

道路を挟んで反対側の森には、
彼が書斎として使った建物。
スイス風に装飾されたこの山小屋で、黙々と執筆を重ねた。
二階には6つの窓と、
等身大の鏡が据えられている。
窓の外には麦畑が広がり、さらに遠くには、テムズ川。
ディケンズは、机の脇に双眼鏡を置き、
ときどき外を眺めていたそうだ。

隠れ家からの風景は、きっと格別だったに違いない。

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佐藤延夫 14年10月4日放送

141004-03

作家たちの隠れ家/ロバート・ルイス・スティーヴンソン

南太平洋の小さな島、サモア。
イギリスの小説家、ロバート・ルイス・スティーヴンソンは、
この牧歌的な国で生涯を終えた。
代表作「宝島」と同様に、
彼の生き方は、まさに冒険そのものだった。
一目惚れした女性を追いかけ大西洋をめぐり、
そのままアメリカ大陸まで渡ってしまうのだから。

44歳という短い生涯のうち、最後の4年間を過ごしたサモア島。
山の麓に屋敷を構え、しばしば山頂に登っては
あたりを見渡し、いつか葬られる場所を探したそうだ。

彼は地球の中で、最も幸せな隠れ家を見つけていた。

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佐藤延夫 14年10月4日放送

141004-04

作家たちの隠れ家/アーネスト・ヘミングウェイ

ノーベル賞作家、アーネスト・ヘミングウェイ。
彼の仕事場は、作品が仕上がるたび、女との関係が終わるたび、変わった。

最初の書斎は、パリのホテルの最上階にある小さな部屋。
つましい生活を支えたのは、年上の妻、ハドリーだった。

二番目の妻、ポーリーンのころの仕事場は、
フロリダ州の最南端、キーウエスト。
「武器よさらば」がここで生まれた。

そしてキューバにわたり、
三番目の妻、マーサと暮らしたのは
ハバナ郊外、フィンカ・ビヒアの大邸宅だった。

しかし彼が最も愛した場所は、海の上。
「ピラー」と名付けられたフィッシングクルーザーが、
本当の隠れ家だったのかもしれない。
そこは仕事からも妻からも逃げられる、たったひとつの聖域。

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佐藤延夫 14年9月6日放送

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Kaiser Acore
ウォーレン・バフェットの教え1

アメリカの投資家、ウォーレン・バフェット。

証券会社を営んでいた父の影響か、
投資への才能は、小さなころから芽生えていた。
6歳のときには、コーラ6本を25セントで仕入れ、
1本5セントで売った。
中学生になると、新聞配達を始める。
といっても、汗水流して走り回るわけではない。
50人の子供を集め、時給50セントで雇い、事業として経営した。
そして高校を卒業するころには、1万ドルの資金ができた。

その少年はやがて、経営する投資会社の株価を
45年で82万%も上昇させ、天才と呼ばれるようになった。
ウォーレン・バフェットは言う。

 ゲームに勝つには、とにかく先手を取ることだ。

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佐藤延夫 14年9月6日放送

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chuckp
ウォーレン・バフェットの教え2

アメリカの投資家、ウォーレン・バフェット。

彼は偉大な投資家だが、倹約家でもある。
それなりの資産を手に入れたのに、
結婚してしばらく暮らしたのは、借家だった。
家族ができると一戸建てを購入したが、価格は3万1500ドル。
決して高い金額ではない。
しかしバフェットは考える。
この金額を複利で運用した場合、
10年後、20年後にはいくらになるか、ということを。
彼の、こんな言葉がある。

  「本当に私はこの散髪に30万ドルを費やしたいだろうか」

せいぜい300ドルの散髪代だって、
運用すればいつか、30万ドルになる可能性だってある。

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佐藤延夫 14年9月6日放送

140906-03
Boa-sorte&Careca
ウォーレン・バフェットの教え3

アメリカの投資家、ウォーレン・バフェット。

彼が投資の世界で成功できたのは、
幅広い業種の中で、
自分が理解できる分野とそうでない分野を
はっきり区別したからだ、と言われる。
たとえ人気のある銘柄でも、
自分の考えが及ばない分野であれば
一切、手を出さなかった。それは、
「よその連中のほうに有利なゲームではプレイしたくない」
という哲学。
彼の、こんな言葉がある。

  「ポーカーをやり始めて20分たっても、
   まだ誰がカモかわからない人は、自分がカモなのだ」

ただ世間を眺めていても、それは1ドルにもならない。

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佐藤延夫 14年9月6日放送

140906-04
Collinulness
ウォーレン・バフェットの教え4

アメリカの投資家、ウォーレン・バフェット。

彼が長年暮らすのは、ウォール街ではなく
生まれ故郷の、ネブラスカ州オマハという地方都市だ。
投資を生業にする人間が、ニューヨーク以外に住むのは
本来、あり得ないこと。
しかしバフェットは、変化をリスクと捉えた。
ウォール街は熱狂を生み、
ときにそれは、人から冷静な判断力を奪うと考えた。

情報や人の動きが少ない街で暮らす。
おかげで1日に8時間も10時間も本を読み、
思索にふけることができた。

「投資の世界では、好きな球が来るまでいつまでも待つことができる。
 そして野手が眠ってしまったのを見計らってから球を打つことができる」

これが彼の哲学だ。

Oracle of Omaha〜オマハの賢人と言われる理由が、よくわかる。

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