遅咲きの人 大山康晴
もしも50歳を目前にして、
今まで築き上げたものを全て失ったら
正気を保っていられるだろうか。
将棋の世界で数々のタイトルを手にした大山康晴は、
49歳で絶頂から奈落へと転がり落ちた。
名人戦に破れ無冠となった大山は、そのとき、
自分が過去に名人であったことも忘れようとしたそうだ。
そして、50歳の新人として戦おうと決意する。
自分で自分の逃げ道を断ち、この道しかないと覚悟を決めるべきである。
その潔さを、実践できる人は少ない。
遅咲きの人 大山康晴
もしも50歳を目前にして、
今まで築き上げたものを全て失ったら
正気を保っていられるだろうか。
将棋の世界で数々のタイトルを手にした大山康晴は、
49歳で絶頂から奈落へと転がり落ちた。
名人戦に破れ無冠となった大山は、そのとき、
自分が過去に名人であったことも忘れようとしたそうだ。
そして、50歳の新人として戦おうと決意する。
自分で自分の逃げ道を断ち、この道しかないと覚悟を決めるべきである。
その潔さを、実践できる人は少ない。
遅咲きの人 松本清張
15歳、電気会社の給仕。
19歳、印刷会社の見習い職人。
28歳、新聞社に入る。
44歳、芥川賞を受賞。
そしてこの男、松本清張の作家生活が始まったのは、
47歳のときだった。
小説家として世に出るのが遅かったから。
ただそれだけの理由で、
趣味に見向きもせず、
酒にも翻弄されず、
時間と競争するように執筆を重ねていった。
「巨匠とは何ぞや」という問いに対して、
いかに長い時間、原稿用紙に向かっていられるかだ、と
答えたそうだ。
およそ40年の作家活動の間に、
作品は1000編を超え、
著書は700冊にも及んだ。
人生の花が、いつ咲き誇るのか。
それは誰にもわからない。
遅咲きの人 遠藤周作
出来のいい兄を持つと、弟は苦労する。
作家、遠藤周作もそんな弟のひとりだ。
何から何まで兄と比較され、コンプレックスを抱え込む。
大学に入るときも、3年もの浪人生活が必要だった。
しかし、32歳で芥川賞を受賞してから、
彼の人生は少しずつ光を帯びてくる。
今ふりかえってみると、
まずしいながら私だけの作風を
やっとつかむことができたのは
五十歳になってからである。
早熟な才能ばかりが注目されがちだが、
遅咲きの花も、また美しい。
遅咲きの人 本居宣長
学問をするうえで最も大切なのは、継続すること。
そのためには、生活を安定させるべき。
人類の永遠のテーマとも言えそうな、
時間と生活の管理を実践した人は、200年前にいた。
江戸時代の国学者、本居宣長だ。
近所や親戚との付き合い方や、
時間の作り方、支出を減らす方法などを
マニュアル化した資料が膨大に残っているそうだ。
彼が「古事記伝」を書き始めたのは34歳のとき。
全44巻が完成したのは68歳で、
その3年後に亡くなっている。
一切無駄のない人生だ。
されば才のともしきや、学ぶことの晩(おそ)きや、
暇(いとま)のなきやによりて、思ひくづれて、止むことなかれ
才能がないから。始めるのが遅かったから。時間がないから。
そんな言い訳の虚しさは、200年前に証明されている。
遅咲きの人 徳富蘇峰
ギネスブックで、最も作品の多い作家と言われた
日本人がいた。
明治から昭和に活躍したジャーナリスト、徳富蘇峰だ。
作品の中でも特に目をひくのが、
織田信長の時代から明治までの歴史を収めた、
近世日本国民史。
全100巻、4万2468ページにも及び、
34年の歳月をかけて完成させた。
世に千載の世なく 人に百年の寿命なし
徳富蘇峰はそんな言葉を残し、
近世日本国民史を完成させた5年後、
94歳で亡くなった。
限りある人生、どうか悔いのないように。
遅咲きの人 新田次郎
新田次郎が小説の世界に足を踏み入れたのは、
40を過ぎてからのことだった。
作家と役人という二足のわらじで、
毎晩、仕事を終えて家に着くと
7時から11時まで机に向かっていたそうだ。
彼は67歳でこの世を去ったが、
亡くなる一年前に、原稿用紙を三万枚も注文していた。
一日十枚ずつ書いたとしても、およそ十年はかかる。
遅咲きの花は、散るときのことなど考えない。
遅咲きの人 石井桃子
数々の児童文学を世に送り出した、石井桃子。
「ノンちゃん雲に乗る」
「トム・ソーヤの冒険」
「ピーターラビットシリーズ」など、
作家として、翻訳家として、多くの作品を手がけた。
そして、「クマのプーさん」の作者、ミルンの自伝を翻訳しようと決意したときは、
90歳になっていた。
彼女の、こんな言葉が残されている。
子どもたちよ
子ども時代を しっかりとたのしんでください。
おとなになってから
老人になってから
あなたを支えてくれるのは
子ども時代の「あなた」です。
それが石井桃子、101歳の人生。
ちなみにこの方、還暦以前よりも、
還暦の後のほうが圧倒的に仕事の量が多かったそうだ。
dmertl
あの場所へ ルーシー・モード・モンゴメリ
「赤毛のアン」の作者、ルーシー・モード・モンゴメリ。
彼女の生まれ故郷には、世界中から観光客が集まっている。
カナダの東海岸、セントローレンス湾に浮かぶ
プリンス・エドワード島だ。
モンゴメリは、結婚するまでの36年を
この小さな島で過ごした。
どうせ空想するなら、思いきり素晴らしい想像にしたほうがいいでしょう?
お化けの森、恋人の小径、
アヴォンリー村のモデルになったキャベンディッシュ。
モンゴメリの言葉どおりに、この島は
赤毛の少女が現れそうな美しい自然で溢れている。
あの場所へ 林芙美子
小説「放浪記」がベストセラーになり
林芙美子は、念願のパリへ出発した。
画家になりたかったと公言するほど美術が好きで、
敬愛する永井荷風はフランス文学者。
彼女がパリに憧れない理由はなかった。
夫を日本に残しての一人旅。
パリでは、1ヶ月の生活費をおよそ800フランに決めて
切り詰めながら暮らしていたそうだ。
海外旅行が珍しかった時代、
着物姿で下駄を履いたジャポネーズは、
きっと話題になったことだろう。
DonaldOgg
あの場所へ/ 寺山修司
旅をするなら、何を見ようか。
雄大な自然か、歴史を感じる街並か。
「本屋のないところには行きたくない」
そう言ったのは、寺山修司だった。
パリでもロンドンでも、
着いたらまず本屋を探し、
画集を山のように買い込む。
美術館めぐりをして、
気鋭のアーティストと話をする。
本を探し、人に会う。
風景なんて目もくれない。
それが彼の旅のスタイル。
寺山修司が密かにコレクションしていたものは、
「PLEASE DO NOT DISTURB」。
ホテルのドアに引っ掛ける、「起こさないでください」の札だったそうだ。
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