佐藤延夫(事務局)

佐藤延夫 13年9月1日放送



遅咲きの人 大山康晴

もしも50歳を目前にして、
今まで築き上げたものを全て失ったら
正気を保っていられるだろうか。

将棋の世界で数々のタイトルを手にした大山康晴は、
49歳で絶頂から奈落へと転がり落ちた。

名人戦に破れ無冠となった大山は、そのとき、
自分が過去に名人であったことも忘れようとしたそうだ。
そして、50歳の新人として戦おうと決意する。

  自分で自分の逃げ道を断ち、この道しかないと覚悟を決めるべきである。

その潔さを、実践できる人は少ない。

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佐藤延夫 13年9月1日放送



遅咲きの人 松本清張

15歳、電気会社の給仕。
19歳、印刷会社の見習い職人。
28歳、新聞社に入る。
44歳、芥川賞を受賞。
そしてこの男、松本清張の作家生活が始まったのは、
47歳のときだった。

小説家として世に出るのが遅かったから。
ただそれだけの理由で、
趣味に見向きもせず、
酒にも翻弄されず、
時間と競争するように執筆を重ねていった。

「巨匠とは何ぞや」という問いに対して、
いかに長い時間、原稿用紙に向かっていられるかだ、と
答えたそうだ。

およそ40年の作家活動の間に、
作品は1000編を超え、
著書は700冊にも及んだ。

人生の花が、いつ咲き誇るのか。
それは誰にもわからない。

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佐藤延夫 13年9月1日放送



遅咲きの人 遠藤周作

出来のいい兄を持つと、弟は苦労する。
作家、遠藤周作もそんな弟のひとりだ。
何から何まで兄と比較され、コンプレックスを抱え込む。
大学に入るときも、3年もの浪人生活が必要だった。

しかし、32歳で芥川賞を受賞してから、
彼の人生は少しずつ光を帯びてくる。

  今ふりかえってみると、
  まずしいながら私だけの作風を
  やっとつかむことができたのは
  五十歳になってからである。

早熟な才能ばかりが注目されがちだが、
遅咲きの花も、また美しい。

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佐藤延夫 13年9月1日放送



遅咲きの人 本居宣長

学問をするうえで最も大切なのは、継続すること。
そのためには、生活を安定させるべき。

人類の永遠のテーマとも言えそうな、
時間と生活の管理を実践した人は、200年前にいた。
江戸時代の国学者、本居宣長だ。
近所や親戚との付き合い方や、
時間の作り方、支出を減らす方法などを
マニュアル化した資料が膨大に残っているそうだ。

彼が「古事記伝」を書き始めたのは34歳のとき。
全44巻が完成したのは68歳で、
その3年後に亡くなっている。
一切無駄のない人生だ。

  されば才のともしきや、学ぶことの晩(おそ)きや、
  暇(いとま)のなきやによりて、思ひくづれて、止むことなかれ

才能がないから。始めるのが遅かったから。時間がないから。
そんな言い訳の虚しさは、200年前に証明されている。

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佐藤延夫 13年9月1日放送



遅咲きの人 徳富蘇峰

ギネスブックで、最も作品の多い作家と言われた
日本人がいた。
明治から昭和に活躍したジャーナリスト、徳富蘇峰だ。

作品の中でも特に目をひくのが、
織田信長の時代から明治までの歴史を収めた、
近世日本国民史。
全100巻、4万2468ページにも及び、
34年の歳月をかけて完成させた。

  世に千載の世なく 人に百年の寿命なし

徳富蘇峰はそんな言葉を残し、
近世日本国民史を完成させた5年後、
94歳で亡くなった。

限りある人生、どうか悔いのないように。

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佐藤延夫 13年9月1日放送



遅咲きの人 新田次郎

新田次郎が小説の世界に足を踏み入れたのは、
40を過ぎてからのことだった。

作家と役人という二足のわらじで、
毎晩、仕事を終えて家に着くと
7時から11時まで机に向かっていたそうだ。

彼は67歳でこの世を去ったが、
亡くなる一年前に、原稿用紙を三万枚も注文していた。
一日十枚ずつ書いたとしても、およそ十年はかかる。

遅咲きの花は、散るときのことなど考えない。

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佐藤延夫 13年9月1日放送



遅咲きの人 石井桃子

数々の児童文学を世に送り出した、石井桃子。

「ノンちゃん雲に乗る」
「トム・ソーヤの冒険」
「ピーターラビットシリーズ」など、
作家として、翻訳家として、多くの作品を手がけた。
そして、「クマのプーさん」の作者、ミルンの自伝を翻訳しようと決意したときは、
90歳になっていた。
彼女の、こんな言葉が残されている。

  子どもたちよ
  子ども時代を しっかりとたのしんでください。
  おとなになってから
  老人になってから
  あなたを支えてくれるのは
  子ども時代の「あなた」です。

それが石井桃子、101歳の人生。
ちなみにこの方、還暦以前よりも、
還暦の後のほうが圧倒的に仕事の量が多かったそうだ。

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佐藤延夫 13年8月3日放送


dmertl
あの場所へ ルーシー・モード・モンゴメリ

「赤毛のアン」の作者、ルーシー・モード・モンゴメリ。
彼女の生まれ故郷には、世界中から観光客が集まっている。

カナダの東海岸、セントローレンス湾に浮かぶ
プリンス・エドワード島だ。
モンゴメリは、結婚するまでの36年を
この小さな島で過ごした。

 どうせ空想するなら、思いきり素晴らしい想像にしたほうがいいでしょう?

お化けの森、恋人の小径、
アヴォンリー村のモデルになったキャベンディッシュ。
モンゴメリの言葉どおりに、この島は
赤毛の少女が現れそうな美しい自然で溢れている。

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佐藤延夫 13年8月3日放送



あの場所へ 林芙美子

小説「放浪記」がベストセラーになり
林芙美子は、念願のパリへ出発した。

画家になりたかったと公言するほど美術が好きで、
敬愛する永井荷風はフランス文学者。
彼女がパリに憧れない理由はなかった。

夫を日本に残しての一人旅。
パリでは、1ヶ月の生活費をおよそ800フランに決めて
切り詰めながら暮らしていたそうだ。

海外旅行が珍しかった時代、
着物姿で下駄を履いたジャポネーズは、
きっと話題になったことだろう。

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佐藤延夫 13年8月3日放送


DonaldOgg
あの場所へ/ 寺山修司

旅をするなら、何を見ようか。
雄大な自然か、歴史を感じる街並か。

「本屋のないところには行きたくない」
そう言ったのは、寺山修司だった。

パリでもロンドンでも、
着いたらまず本屋を探し、
画集を山のように買い込む。
美術館めぐりをして、
気鋭のアーティストと話をする。

本を探し、人に会う。
風景なんて目もくれない。
それが彼の旅のスタイル。

寺山修司が密かにコレクションしていたものは、
「PLEASE DO NOT DISTURB」。
ホテルのドアに引っ掛ける、「起こさないでください」の札だったそうだ。

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