澁江組・磯部建多

礒部建多 13年9月15日放送



老いても握る

ミシュラン6年連続3つ星を獲得。
世界中の美食家に愛されてやまない
すきやばし二郎店主、小野二郎。

87歳にして、未だ現役の寿司職人。
現役を維持するために
毎日40分をかけて歩き、店に向かう。
外出時には、指を保護するために
手袋を欠かさない。

生涯の全てを、寿司に捧げてきた小野。
今まで仕事の不平不満なんてものは、
一切口にしたことがない。

 修行は一生終わらない。
 技を磨くことに人生を賭けなきゃ。

二郎は、今日も銀座で寿司を握る。
その腕は日を追うごとに、磨かれ続けていると言う。

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礒部建多 13年8月17日放送


LaLaLaTaro
礒部建多

「ぼくの愛は二度と燃えないはずさ」 

忌野清志郎自身の大失恋を歌った
RCサクセションの曲、「お墓」。
曲調はタイトルと裏腹に、軽快なレゲエサウンド。
  
「お墓」という際どいタイトルが理由で
当初、発表が見送られていた。
しかし清志郎は、別のタイトルに変えることはしなかった。
 
あまりに冷たかったお別れが ぼくのすべてを
変えてしまった 変えてしまった 変えてしまった。

伝えたい悲しみを、感じた通りに表現する。
飾らずに、ストレートに。
それが忌野清志郎のスタイルであり
希代のロックンロールスターと愛された理由。

「忌野清志郎」と大きく彫られた高尾霊園のお墓には、
今も多くのファンが訪れ、花を手向けていく。

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礒部建多 13年8月17日放送



イサム・ノグチ

みかげ石を削って創られた美しいアーチ。
丹下健三が設計した、広島の原爆慰霊碑。
その原案は、イサム・ノグチによるものだった。

戦争が終わり、
丹下に原爆慰霊碑のデザインを依頼されたイサム。
アメリカ人の母を持ち、アメリカ国籍のイサムは、
罪の意識に苛まれながら全身全霊でデザインする。

しかし、その案は
ノグチが「原爆を落とした国の人間」
という理由で却下される。

芸術は人種の違いや敵味方を超えて
人の心を安らかにする。

ノグチのその想いを受けて、
丹下が原案を残しながら設計したのが
今、私たちが見る原爆慰霊碑なのだ。

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礒部建多 13年7月21日放送



沖縄のサンゴ

2011年7月、
世界で初めて、サンゴの全ゲノム解読に成功したと
沖縄の研究チームが発表した。

チームを指揮したのは
佐藤矩行(さとう のりゆき)。
沖縄科学技術大学大学院教授で、
進化発生学の権威である。

珊瑚礁の海はこの星の海洋面積の0.2%に過ぎないが
海の生物のおよそ25%の命を支えている。
観光や漁業など日本国内でサンゴがもたらす
経済効果は2,500億円にも及ぶという。
佐藤たちの研究は、地球温暖化で
絶滅の危機に瀕するサンゴを守る、確かな一手だ。

世界のサンゴを救うための発見が
沖縄の海で生まれたことは、きっと偶然ではない。

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礒部建多 13年7月21日放送



沖縄と野球

沖縄野球の父と呼ばれた、
栽弘義(さい ひろよし)の姿である。
栽は、豊見城高校や
沖縄水産高校の監督を歴任し
沖縄高校野球のレベルアップに
大きく貢献した。

1990年、沖縄水産時代には
夏の甲子園で沖縄県勢として初の準優勝を成し遂げた。
翌年にも準優勝し、栽は名将の座を
ゆるぎないものにした。

春夏合わせて17回、
甲子園に出場した栽だが
念願の全国制覇を達成することなく
65歳で世を去った。
病床で、死の直前まで
こうつぶやいていたと言う。

もう一度甲子園に行きたい。優勝したい。

沖縄県勢はその後、
2008年に沖縄尚学が選抜優勝。
2010年には春の優勝校、興南が初めて夏を制した。

沖縄の強い野球を日本中に見せたい。
栽の熱い闘志は、球児たちに確かに受け継がれている。

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礒部建多 13年6月16日放送


Amakuha
テクノポップの父

1978年、「人間解体」のアルバムと共に
日本に強い衝撃を残した、クラフトワーク。
後に、テクノポップという新しいジャンルを確立させた。

シンセサイザーなどの電子楽器で作り上げられる
単一的なメロディーで、無機質な世界観。
彼らが、その音楽に込めたこだわりは
徹底的にシンプルに。無駄を削ぎ落し、
音楽から人間らしさをなくす事。

ボーカルをロボット声に変換するなど、
今までの音楽の常識を逸脱した実験的な音楽は
大きな反響を呼んだ。

今や、
多くの人に愛されるテクノポップは
当時とは、印象も大きく変わっている。
しかしいつまでも実験的であってほしい。
テクノポップの本質はそこにあるのだから。

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礒部建多 13年6月16日放送



ヘアヌードの父

和製英語「ヘアヌード」
それは、編集者・元木昌彦が生んだ言葉。

元木は早稲田大学を卒業後、講談社に入社。
やがて、週刊現代の編集長となる。
挑戦的な姿勢から
様々な業界のタブーを記事にしていった。

裸体を紙面に掲載することも、
当時は絶対的なタブーとされていた。
しかし、元木にとってそれは好都合だった。

新聞記者がとりあげない領域を
とりあげることにこそ
僕らの存在理由がある。

今も編集に携わっている元木。
次はどんなタブーを狙っているのか。

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礒部建多 13年5月12日放送


Sinsong
母の秘密

どんな幸せな家庭にも
秘密はきっとある。

パルム•ドール最高賞
マイク•リー監督の「秘密と嘘」。
ブレンダ•ブレッシン扮する、
母のシンシアもまた、秘密を抱えていた。

一緒に住む娘、ロクサンヌとは別に
生まれてすぐ、養子にだしてしまった黒人の娘、ホーテンスの存在。
偶然の再会から、2人は母娘としての絆を取り戻していく。

真実をロクサンヌに打ち明け、三人での生活を願うシンシア。
しかし、周りがそれを止める。
彼女は泣き崩れ、肩を震わせながらこう言う。

「いつになったら打ち明けられるの」

それは脚本のない、即興の台詞だからこそ表現出来た
これ以上ないほど生々しく、切ない母の愛。

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礒部建多 13年4月20日放送



タモリの上京

「誰の弟子にもならない。」
芸能界へ入る際、タモリはこう決めた。
しかし赤塚不二夫との間柄は
誰が見ても、師匠と弟子の関係だった。

上京して間もないタモリを、
赤坂の自宅で住まわせる代わりに、
自分は事務所で寝泊まりをしていた赤塚。
毎晩のように杯を交わしては、芸を説いた。

 タモリは今まで会ったことのない、ものすごい才能だ。

 ああいう都会的でしゃれたギャグをやる奴は、贅沢させないと。

 貧しい下積みなんかさせちゃダメだ。

そう語った赤塚は、タモリにとって師匠以上であり
父のように慕う存在でもあった。
そんな赤塚へ読んだ、タモリの弔辞。

 私もあなたの数多くの作品の1つです。

「バカヤロー」と後頭部を掻きながら
恥ずかしそうに怒鳴る、赤塚の顔が目に浮かぶ。

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礒部建多 13年2月9日放送


Peter from Perth
チョコと戦争

1965年の日本といえば
東京オリンピックを経て経済成長のまっただなか。
子供たちの目はテレビから流れる宇宙もののアニメに釘付けだった。

そんな1965年に出版されたのが
児童文学の傑作「チョコレート戦争」

舞台は、ある地方都市。
高級洋菓子店に飾られたチョコレートの城は
子供たちのあこがれだった。
ある日、そのショウウインドウのガラスが砕け散る。
たまたまそこにいた2人の少年は
ガラスを割った犯人にされてしまう。
そんな大人たちへ抗議するため
チョコレートの城を盗み出す計画がはじまる。

タイムマシンも空を飛ぶ乗り物も、光線銃も出て来ない。
登場するのは普通の子供と普通のオトナ。
でも、ドキドキするような
エンターテインメントになっている。

「童話だって、大人が読んでも
おもしろくなくては駄目であると思った」
と語るのは著者の大石真。
当時読者だった子供たちは今、
その子供たちに、この本を手渡している。

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