澁江組・磯部建多

礒部建多 14年9月21日放送

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schoeband
作曲家・宮沢賢治

今日9月21日は、
宮沢賢治の命日である。

童話作家、詩人、教師、科学者、宗教家の他、
作曲家としての顔も持つ宮沢賢治。
地元花巻では随一のレコード収集家でもあった。

農学校教師の職に就き、経済的余裕を得た賢治は、
ベートーベン、ワグナー、シューベルトなど
クラシックのレコード収集に明け暮れた。
あまりの購入数に、レコード会社から感謝状を貰ったほどだ。

自然な成り行きで楽器演奏に興味を持つと、
賢治はオルガンやチェロ、バイオリンなどのレッスンを受け始め、
やがて作曲活動にも手を伸ばすことになる。

「自らの文学的世界観の底流には、音楽が流れている。」

ドッテテ、ドッテテ、ドッテテド と行進する電信柱や
どっどど どどうど どどうど どどう と吹き荒れる風など

確かに賢治の言葉は、どこか音楽のように耳に残る。

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礒部建多 14年8月16日放送

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Rafael Chu
焼け残った塔

今日8月16日は、京都五山送り火の日。
京都という街と炎は、とても、縁が深い。

世界文化遺産、京都・醍醐寺。
その境内に悠然とそびえ立つ五重塔は
「千年の都」京都の中で、
創建当時の形をそのまま残す、唯一の建造物。
そして、現存する最古の木造建築。

951年、醍醐天皇の冥福を祈るために、
2人の息子、朱雀天皇と村上天皇によって建てられた。
細部までこだわり抜かれた設計だったため、
完成に20年も費やした。

1477年、応仁の乱が起こると
京都は焼け野原と化し、
醍醐寺の下伽藍も灰燼に帰したが、
五重塔だけは、その形のまま焼け残っていた。

何故焼け残ったのか、
その奇跡は科学者たちの研究対象になっている。
焼け跡にたったひとつ残った五重塔は
荒廃の世に醍醐寺の存在を示しつづけた。

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礒部建多 14年7月27日放送

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立ち上がり続ける政治家

ふくよかな風貌、
何度転んでも起き上がる人生から
「だるま」と呼ばれた政治家がいた。
第20代内閣総理大臣、高橋是清。

12歳の時、アメリカへ留学した高橋は、
奴隷として農園に売り飛ばされた。
なんとか帰国を果たし、英語を活かした職に就くが
3回も詐欺に遭い、その度に破産を経験。
しかしあきらめない高橋は、知人の紹介もあり、
日本銀行に就職し、後に日本の財政の舵取りをすることになる。

類希な才覚は、波瀾万丈な人生の産物か。
後に高橋は大蔵大臣となり手腕を発揮。昭和の金融恐慌では
デフレから脱却するため、積極財政を展開。
世界不況から一番初めに日本が抜け出した。

幾多の困難を経験した高橋の言葉には、
得も言えぬ重みがある。

 一足す一が二、二足す二が四だと思い込んでいる秀才に
 生きた財政は分からないものだよ。

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礒部建多 14年6月15日放送

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Bill Herndon
小説家の提案

「牛河はずっと昔に流行った
坂本九の感傷的な歌を思い出した。
『見上げてごらん夜の星を、小さな星を』
というのが出だしの一節だ。

大ヒットした長編小説「1Q84」に
こんな文章を書いた村上春樹。
無類の音楽好きで知られる彼は、
ジャズを中心に、様々なジャンルの曲を聴くが、
特に坂本九の「上を向いて歩こう」は、大のお気に入りだ。

この曲と同じように、
世界中で愛されている小説を生み出す村上は、
アメリカでドライブ中に、ラジオで
「上を向いて歩こう」と、よく遭遇するらしい。
スキヤキなんて、ひどいタイトルだなあと思いながらも
ミネソタのだだっぴろい平原の真ん中で、
この曲が流れてきたときには、胸がじーんとしてしまったという。
村上は、後に、こんな言葉まで残している。

僕は「上を向いて歩こう」を、
日本の国歌とまではいわずとも、
準国家にすればいいのにと
長年にわたって主張しているんだけど、
いかがでしょうか?

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礒部建多 14年6月15日放送

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ekitop03
家族の願い

坂本九の遺作となった「心の瞳」。
初めて披露されたのは、自身の告別式。
娘、大島花子の演奏だった。

坂本家の長女として、花子は生まれ育った。
家庭内には、常に音楽が溢れていたし
誕生日になると父が、
娘のためだけに曲を贈ってくれた。

あまりにも突然過ぎた父の死。
やがてその悲しみを乗り越えるため
花子は、母と妹と家族ユニット「ママエセフィーユ」を組む。
今も、父が残した曲たちをステージで披露している。

 父は、家族で合唱や合奏をとてもやりたがっていました。
 だから私たち3人と父とで何かできないか、
 そう思って始めたユニットです。

花子たちの歌を、
坂本九は、どんな想いで聴いているだろう。

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礒部建多 14年5月11日放送

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IsakFotografi
サッカーとジャズ

「サッカーはジャズである。」
元日本代表監督、岡田武史は、
サッカーの理想型をこう語る。

楽譜通りの演奏だけではなく、
瞬間での即興性がある。
それがジャズの醍醐味。
サッカーにも戦術があるが
最後に試合を動かすのは、選手のひらめきだ。
岡田は言う。

「最善は、そのときだけのことであって、
 少しでも局面が変われば、最善の選択もかわってきます」

なるほど、
だからこそサッカーは人を魅了し、
時に、芸術的とも評されるのだろう。

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礒部建多 14年5月11日放送

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日本サッカーの父

日本サッカーの父と呼ばれた男、
デットマール・クラマー。

1964年、東京オリンピックの年。
彼は日本代表初の外国人コーチとして招かれた。
初歩的な練習を繰り返すクラマーに、選手たちは困惑した。
しかし日本はアルゼンチンを破り、ベスト8の快挙を成し遂げる。

クラマーの日本サッカーへの愛は、
自国ドイツをも超えていた。
日本を去った後、
1975年にバイエルン・ミュンヘンを率いて
UEFAチャンピオンズカップで優勝した時でさえ、
こんなコメントを残している。

 人生最高の瞬間は
 日本がメキシコ五輪で銅メダルを獲得したときです。
 私は、あれほど死力を尽くして戦った選手たちを見たことがない。

クラマーの最高の瞬間を、
今年の日本代表に超えてほしい。

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礒部建多 14年4月27日放送

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音楽と哲学者

今日、4月27日は哲学の日。

哲学者には、音楽を愛する者が多い。
ピタゴラスは、純正音階を考え出した。
ルソーは、日本ではむすんでひらいての童謡で知られる
オペラ「村の占い師」を残した。

若いニーチェもまた、哲学に傾倒する前、
精力的な作曲活動に取り組んでいた。
正式な音楽教育は受けず、自分の耳を頼りに
13歳で初めての曲「From ”Allegro”」を完成させる。

数多くの作品を残すものの、注目も、評価もされなかった。
限界を感じ、音楽から遠ざかりながらも、
ニーチェの思想の片隅には、常に音楽への強い想いがあった。

著書、「悲劇の誕生」では、
他の芸術よりも音楽を
遥かに優れたものとして扱っている。

もしかしたらニーチェは、音楽家として生きる夢を、
最期まで捨てきれなかったのかもしれない。
晩年には、こんな言葉を残している。

 私ほど、本質的に音楽家であった哲学者はいない。

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礒部建多 14年4月27日放送

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Robert Snache
夜空と哲学者

今日、4月27日は哲学の日。

「万物の根源は水である」と唱えたことで知られる
記録に残る最古の哲学者、タレス。

古代ギリシアの名家に生まれ、
幼い頃から様々な才能に恵まれたタレスは、
天文学が好きで毎夜、空を見上げては星を観察していた。

ある日、夜空に夢中になるあまり、
タレスは溝に気づかず落ちてしまう。
通りかかった女性は、その姿を見て
「学者は遠い星のことはわかっても、自分の足元のことはわからないのか」
と笑ったという。

それでもタレスは、夜空を見上げた。
そして後に、世界で初めて日食の存在を
予測したと言われている。

足元ばかり見ては、何も生まれない。
タレスが、いつもそうしていたように、
たまには春の夜空を見上げて、歩いてみよう。

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礒部建多 14年3月2日放送


NASA’s Marshall Space Flight Center
宇宙への試験

 「驚きの連続だった。
  地球が足元で回っており、息をのんだ。」

夢が叶った瞬間の興奮を、
野口聡一は宇宙から、こう語った。

小学生の頃から「宇宙飛行士」を
夢に見続けた野口だが、
大学受験では浪人を経験。
第一志望の会社にも入れなかったが
回り道をしながらも夢を諦めなかった。

転機が訪れたのは1996年。
JAXAによる、宇宙飛行士の公募だった。
野口は、長年の夢に全てをかけて
倍率572倍の狭き門を見事突破。
31歳の時だった。

「夢の実現は、夢じゃない。」

そう語る野口の姿に
勇気をもらった人は、星の数ほどいる。

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