大きすぎたプレゼント
今夜はクリスマスイブ。
たくさんの人が贈り物を用意しているだろう。
土佐の戦国大名、長宗我部元親。
彼は豊臣秀吉に驚きのプレゼントをしたという。
天下人となった秀吉の元には
毎日大名たちから贈り物が届いていた。
秀吉の懐に入りたい元親は、
なんとクジラをプレゼントしたのだ。
地元土佐で獲れたクジラを大坂まで送り、
同時に土佐料理もふるまった。
派手好きの秀吉は大喜びしたという。
クジラ。なんとも迫力のあるプレゼントだ。
大きすぎたプレゼント
今夜はクリスマスイブ。
たくさんの人が贈り物を用意しているだろう。
土佐の戦国大名、長宗我部元親。
彼は豊臣秀吉に驚きのプレゼントをしたという。
天下人となった秀吉の元には
毎日大名たちから贈り物が届いていた。
秀吉の懐に入りたい元親は、
なんとクジラをプレゼントしたのだ。
地元土佐で獲れたクジラを大坂まで送り、
同時に土佐料理もふるまった。
派手好きの秀吉は大喜びしたという。
クジラ。なんとも迫力のあるプレゼントだ。
100年後の恩返し
1985年イラン・イラク戦争。
フセインは、48時間後からイラク上空を飛ぶ飛行機を
無差別に攻撃すると宣言を出した。
イラクの日本人を救出しなければならない。
その時、トルコ航空の飛行機が来て日本人全員を救出した。
なぜトルコなのか。
当時の駐日大使であるウトカン氏は語った。
100年前和歌山県沖で起きたエルトゥール号の事故に関して
日本人がしてくださった献身的な救助活動を、
今でもトルコ国民たちは忘れていません。
だからこそ、テヘランで困っている日本人を助けようと、
トルコ航空機が飛んだのです
イラクに来た飛行機は
100年前に起きた事故の恩返しだったのだ。
ニーチェ SNSとニーチェ
173年前の今日は、
哲学者ニーチェが生まれた日。
彼が残した言葉は、SNS社会を生きる私たちにも
様々な示唆を与えてくれる。
彼は友人についてこう語っている。
できるだけ多くの友人を欲しがり、
知り合っただけで友人と認め、
いつも誰か仲間と一緒にいないと落ち着かないのは、
自分が危険な状態になっているという証拠だ。
SNSでかんたんに友達になってしまう。
友達から、ついついイイね!を欲しがってしまう。
今の私たちを見てニーチェだったらなんというだろうか。
現代にこそ、彼の言葉は必要なのかもしれない。
最高のサーファー
今やオリンピック競技となり、多くの人が楽しむサーフィン。
実は一度、この世から消えそうになった歴史がある。
1821年、ハワイに来航したキリスト教宣教師たちによって
サーフィンなどのハワイ独自の文化は迫害を受けた。
その影響で、20世紀初頭ごろには
サーファーはほとんどいなくなったという。
だが、一人の英雄の登場によって、
サーフィンは再び市民権を得ることとなる。
近代サーフィンの父、デューク・カハナモク。
1912年に競泳でオリンピック金メダリストとなった彼は、
ハワイ固有の文化であったサーフィンの復興と普及に努めた。
彼の活動によって、
サーフィンは世界の各地で急速に発展し、復興を遂げた。
デューク・カハナモクはこんな言葉を残している。
最高のサーファーとは最も楽しんでいる人です。
今日も世界中のビーチで、
最高のサーファーたちが波に乗っている。
XWL
アロハシャツの起源
ハワイの代名詞ともいえるアロハシャツ。
実は、日本の着物と深いかかわりがあったという。
1904年、日本からハワイへ移民した宮本長太郎が
「ムサシヤ」という仕立て屋をオープンする。
日本から持ち込んだ着物地を使った開襟シャツを作り、人気を博した。
長太郎の死後、長男であった孝一郎が店を継ぎ、
「アロハシャツ」と銘打った新聞広告によって
着物地のシャツを広めることに成功した。
燃えるような赤に海の青。
アロハシャツの鮮やかな色や模様には、
日本の文化が色濃く残っているのだ。
世界を変えた線
黒くどんよりとした空。
突然の夕立に、橋の上を急ぐ人々。
画面全体には雨が
複数の長い斜線となって描写されている。
歌川広重作「大はしあたけの夕立」。
この木版画は、遠くヨーロッパの美術界に
大きな衝撃を与えた。
西洋では雨の描写は
これまでほどんどなかったこともあり、
広重の描いた雨の描写方法は、
西洋の画家たちにとって革命的だった。
かのゴッホも夢中でこの版画を模写し、
印象派画家達の間で広がった
ジャポニズムの流行を生み出すきっかけとなった。
日本で生まれた線が、
遠くヨーロッパの美術を大きく変えたのだ。
確率の話
「東京の降水確率は90%です」
梅雨時、毎日の様に降る雨に
心がどんよりとする人も多いかもしれない。
降水確率の様に、
天気予報にも使われる「確率」だが、
実は学問として比較的新しい。
数学が2000年以上前に
生まれたものであるのに対し、
確率という概念の歴史は
わずか300年程度なのだ。
その起源は、
ギャンブラーであるシュバリエ・ド・メレが、
賭博に関する疑問を
友人である数学者パスカルに伝えたことから
始まったという。
ギャンブルからはじまった確率だが、
今では人の暮らしを支えるものとして
大いに活用されている。
喜劇王の少年時代
今日はクラーク博士が
「ボーイズ ビー アンビシャス」
の言葉を残した日。
見るものすべてを笑顔にする、喜劇王チャップリン。
彼の少年時代は笑顔とはかけ離れたものだった。
1歳のときに両親が離婚。
貧乏な舞台女優だった母親のもとで育てられ、貧しい生活を送る。
5歳のときには、舞台に立っていた母が喉をつぶしてしまう。
母親は二度と舞台に立つことができず、のちに精神に異常をきたし
施設に収容された。
貧しいチャップリンは子供ながらに職を転々とし、
時にはコソ泥まで働いたという。
チャップリンは言う。
無駄な一日。それは笑いのない日である。
つらい少年時代が作りあげた信念
それは人を笑顔にし続けることだった。
建築家の少年時代
今日はクラーク博士が
「ボーイズ ビー アンビシャス」
の言葉を残した日。
水平に長く伸びる薄い屋根。
構造から独立した石の壁が自由に配置され、流動的な空間を作っている。
近代建築の最高傑作ともいわれるバルセロナパビリオン。
この作品を設計したのが
20世紀を代表する建築家ミース・ファン・デル・ローエだ。
1886年ミースは石工一家の息子として生まれ、
幼いころから父の傍らで仕事を手伝った。
当時、建築家になるには大学で建築学を学ぶことがあたりまえの時代。
そんな時代にあって、ミースは正規の建築教育を一切受けていなかった。
彼は「ものを作る」ということを、体で学んでいったのだった。
ミースは言う。
神は細部に宿る。
机の上で学ぶのではない。手で学ぶことで、得られる境地がそこにはあった。
NWharry
阪神大震災とプロレス
今日、2月19日は、プロレスの日。
阪神大震災が起きた二日後の1995年1月19日。
被災地である大阪府立体育会館で、
全日本プロレスの大会が行われた。
都市を襲った未曾有の大災害。
水も電気も止まっている地域も多く、
プロレスを行えるような状況ではなかった。
だが全日本プロレスの代表だったジャイアント馬場は
「入場無料」「当日のファイトマネーを全額寄付」という条件で
大会を決行する判断をする。
「こんなときこそ、プロレスでみんなを励まそう!」
会場の入りは半分くらい。
だがいつもの大会より声援は大きく、
ジャイアント馬場をたたえるコールが
いつまでも続いていたという。
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