澁江俊一

澁江俊一 17年6月11日放送

170611-03

雨の演技

映画監督にとって、
雨に演技をさせるのも仕事の一つだ。

黒澤明は、
1950年公開の「羅生門」で土砂降りの雨を
モノクロフィルムに焼き付けるため、
墨汁を混ぜた水を放水車で降らせた。

重々しさのある雨の雫は、
誰ひとり信用できない、
という人間心理の底知れぬ不安を
見事に浮かび上がらせた。

その2年後に
カラー映画で公開されたのが「雨に唄えば」。
土砂降りの雨の中、監督も務めたジーン・ケリーが
幸せそうに踊る名シーンは
天国のように美しいと評された。
この雨に混ぜられていたのは真っ白なミルクだった。

黒と白の二つの雨。
どちらも今なお世界中の人々に愛されてやまない、
映画史に残る傑作を彩った。

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奥村広乃 17年6月11日放送

170611-04

五月雨あつめて

五月雨を あつめて早し 最上川

松尾芭蕉、奥の細道の中でも有名なこの俳句。
元々は
五月雨を あつめて涼し 最上川
だったという。

初夏、最上川からの涼しい風が心地よい。
そんな優美な俳句が一変、
水流の激しさを歌うようになったのは、
芭蕉が最上川で、川下りを体験したからだという。

百聞は一見にしかず。
そして、見るよりも体験は強い。
体を使って学んだことは、
何事にも変えがたいのだ。

この夏、あなたは何を体験しに行きますか。

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奥村広乃 17年6月11日放送

170611-05

雨が降れば

柿本人麻呂歌集にこんな歌がある。

鳴る神の 少し響(とよ)みて さし曇り
雨も降らぬか 君を留(とど)めむ

意味は、
雷が鳴って、曇って、雨が降ってくれたらいいのに。
もう少しあなたと一緒にいたいから。

愛しい人と離れたくない。
そんな気持ちがよく伝わる愛の歌。
この歌への返事も、また美しい。

鳴る神の 少し響(とよ)みて 降らずとも
我(わ)は留まらむ 妹(いも)し留(とど)めば

意味は、
雷が鳴らなくても、雨が降らなくても、
あなたが一緒にいたいというなら、
私は帰りませんよ。

お互いへの愛が
恥ずかしいほどに伝わって来る。

雨の降る日。
あなたは誰と一緒にいたいですか。

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松岡康 17年6月11日放送

170611-06

確率の話

「東京の降水確率は90%です」
梅雨時、毎日の様に降る雨に
心がどんよりとする人も多いかもしれない。

降水確率の様に、
天気予報にも使われる「確率」だが、
実は学問として比較的新しい。

数学が2000年以上前に
生まれたものであるのに対し、
確率という概念の歴史は
わずか300年程度なのだ。

その起源は、
ギャンブラーであるシュバリエ・ド・メレが、
賭博に関する疑問を
友人である数学者パスカルに伝えたことから
始まったという。

ギャンブルからはじまった確率だが、
今では人の暮らしを支えるものとして
大いに活用されている。

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礒部建多 17年6月11日放送

170611-07
Phototravelography
レゲエの神様と雨

レゲエの神様、ボブ・マーリー。

生まれ育ったジャマイカには、
年に数ヶ月の雨季が訪れる。
ハリケーンが多いことでも有名な土地である。

ミュージシャンにとって
雨は歓迎すべきものではない。
特に野外ライブなどにとっては、大敵である。

しかし、ボブ・マーリーは、
雨そのものを疎まない。

雨を感じられる人間もいるし、
ただ濡れるだけの奴らもいる。
 (Some people feel the rain. Others just get wet.)

森羅万象に研ぎ澄まされた目を向ける。
そんな心の豊かさが、
「神様」とまで崇められる、
一つの理由なのかもしれない。

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礒部建多 17年6月11日放送

170611-08

チャップリンと雨

チャーリー・チャップリン。
「喜劇王」と呼ばれた男の幼少期は、
辛く、厳しいものであった。

非常に貧しい家庭に生まれ、
わずか7歳にして救貧院に預けられる。
幾つもの救貧院を転々とする間に、
母は心の病を患い、精神病院へと運ばれてしまう。

人前では明るく振る舞いながら、
ただ一人、悲しみに耐えていた。

いつでも雨の中を歩くのが好きでした、
雨の中なら誰も僕の涙は見えません。

チャップリンらしい「ユーモア」や、
時折現れる、「哀愁」や「怒り」。
そのすべての秘密は、幼少期の体験にあるのだろう。

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澁江俊一 17年5月14日放送

170514-01
西表カイネコ
女優の沖縄魂

明日5月15日は、沖縄が日本に復帰した日。

映画「ナビィの恋」で
恋するおばぁをチャーミングに演じた
女優、平良とみ。

1928年に石垣島で生まれ
母子家庭で育ち、
生活のために13歳で巡業劇団に参加。
戦後も、貧困と食糧難の時代に
芝居を続け、子供を産み育てた。

歌や踊りが好きだと思ったことは
1度もなかったという。

平良が大切にしていたのは
沖縄の方言、ウチナーグチ。

「このドラマに出ることは、沖縄のためになりますか」

そう問いかけたのは
NHKの朝のドラマ「ちゅらさん」
に出演を依頼されたとき。

彼女が演じる理由は最後まで、
自分よりも沖縄のためだった。

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田中真輝 17年5月14日放送

170514-02
西表カイネコ
ハウリング・ウルフ

明日5月15日は、沖縄が日本に復帰した日。

「沖縄のジミヘン」と
呼ばれた人物をご存知だろうか。
彼の名は、登川誠仁。
沖縄民謡界の巨人とも称される
三線の名手で特に早弾きを得意とすることから、
その異名がついた。

沖縄民謡だけではなく、
エレキギターを使った演奏や
洋楽を大胆にアレンジするジャンルを超えたその
スタイルは、登川のソウルに貫かれている。

苦みばしったその声と、三線の調べから漂うのは
ブルースにも似た悲しみと突き抜ける明るさ。
ソロアルバム「ハウリング・ウルフ」には、
そんな魂の叫びが詰まっている。
その歌声は、沖縄の抜けるような青空に
どこまでも吸い込まれていく。

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澁江俊一 17年5月14日放送

170514-03

歌えない歌

明日5月15日は、沖縄が日本に復帰した日。

沖縄民謡の第一人者、登川誠仁がつくった
「戦後の嘆き」という歌がある。

沖縄のジミヘンと言われた登川が
得意の早弾きではなく、
ゆっくりと、切々と、搾り出すように唄う曲だ。
その歌をつくった理由を彼はこう語る。

 住んでいた家の裏手に
 酒を飲みながら泣く人がいてよ。
 なんでこんなに泣くのかね、と思っていたら、
 若い頃から戦で本土に行って
 戦後、故郷に引き揚げてきたら、
 家族が亡くなっていてよ。
 だから酒飲んで泣いていたんだよ。

 歌を作ることは好きだが、
 こういう哀しい歌を自分で歌うと
 自分も泣いてしまうから、
 自分自身では歌いたくないよ。

つくるしかなかった。
でも、歌わない、歌えない。
三線の音色が切なく響く
とても静かな歌である。

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田中真輝 17年5月14日放送

170514-04

ブシマツムラ

明日5月15日は、沖縄が日本に復帰した日。

東京オリンピックで正式種目に採用された「空手」。
その起源とも言われる琉球空手、草創期の偉人に、
松村宗棍(まつむらそうこん)という人物がいる。

「ブシマツムラ」と呼ばれ
世の名声を欲しいままにした武術家松村には、
こんなエピソードが残されている。

ある時、王の命を受けて、
猛牛と戦うことになった松村は、
毎日、黒装束に鉄の扇を持って牛舎に通い、
猛り狂う猛牛の頭にその扇を打ち下ろし続けた。

松村への恐怖を植え付けられた
猛牛は、戦いの当日、
彼の姿を見るなり
恐怖の叫びとともに逃げ去ったという。

戦うことなく勝利を収める。
武術だけではなく智術にも長けた人物だからこそ、
偉人となりえたことを表す痛快なエピソードである。

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