澁江俊一

澁江俊一 17年5月14日放送

170514-05
MASA
名将の目線

明日5月15日は、沖縄が日本に復帰した日。

高校野球ファンなら
その名を忘れない
沖縄の名将、栽弘義監督。

4歳で沖縄戦に遭遇し
3人の姉を失い
自らも背中に重傷を負った。

しかし栽監督は
米軍にいた元メジャーリーガーから
ウェイトトレーニングを学んで
取り入れるなど、
過去に縛られることはなかった。

 沖縄を語るのに
 戦争が前面に出てくるのはもうおかしい。
 いつも心の中に置きながら、
 これからの沖縄を考えることも大事です。

甲子園通算29勝。
強い沖縄野球をつくったその采配には、
沖縄の未来が見えていた。

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澁江俊一 17年5月14日放送

170514-06

笑うやちむん

明日5月15日は、沖縄が日本に復帰した日。

沖縄ではじめての
人間国宝になった陶芸家、金城次郎。

戦中、戦後の混乱の中
沖縄の伝統、壺屋焼を守り抜き
その発展に尽力した次郎。
島の魚や海老を
生命力あふれる筆致で描いた器は
海外からも注目された。

自らも壺屋焼を学んだ
師匠の濱田庄司は、次郎の技をこう語る。

 次郎の魚や海老はすべて笑って描かれ、彫られている。
 日本に陶芸家多しといえども次郎以外に
 魚や海老を笑わすことができる名人はいない。

次郎の器はアートではなく、
日々の生活に使う日用品だった。
その笑いには誰もが平和に暮らせる
世の中になってほしいという、
次郎の願いが込められている。

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田中真輝 17年5月14日放送

170514-07

飛び安里たち

明日5月15日は、沖縄が日本に復帰した日。

沖縄には、
ライト兄弟よりも早く空を飛んだ人物がいる、
そう聞いたら、あなたは
まゆにつばをつけるかもしれない。

安里周當(あさと しゅうとう)は、
18世紀、琉球王家に仕えた花火職人。
空を飛びたいという夢に取り憑かれ、
飛行実験を繰り返した彼は、
やがて「飛び安里」と呼ばれるようになる。

一説には、
オーソニコプターと呼ばれる仕組みの飛行機で、
1787年、彼は空を飛んだ、と伝えられている。

残念ながら、その設計図は消失し、
伝承としてその逸話が残るのみ。

しかし、
歴史として残っているものだけが真実とは限らない。
大空に挑戦しその夢を叶えた者が、
私たちが知る歴史の裏側に、
数え切れないほど存在するかもしれない。
琉球の花火職人、飛び安里のように。

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田中真輝 17年5月14日放送

170514-08

ぬちどぅ宝

明日5月15日は、沖縄が日本に復帰した日。

琉球王朝最後の王、尚泰王。
1879年、明治政府によって行われた廃藩置県により、
琉球王朝は消滅、彼は首里城を去ることになる。

 戦世(いくさゆ)んしまち
 みるく世ややがてぃ
 嘆くなよ臣下 命(ぬち)どぅ宝

 「戦世」は終わった
 平和な「弥勒世」がやがて来る
 嘆くなよ、おまえたち、命こそ宝

この言葉は、
琉球王国の終焉を描いた沖縄芝居の中で
城を去る尚泰王が口にしたセリフだと言われている。

琉球、そして沖縄。
時代を超えて、その地に生きる
人々の祈りが込められた言葉。
それは日本に生きるすべての者が、
深く胸に刻むべき言葉でもある。

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奥村広乃 17年4月16日放送

170416-01

物理学者の少年時代

今日はクラーク博士が
「ボーイズ ビー アンビシャス」
の言葉を残した日。

その少年は、子どものころ勉強が大嫌いだった。
4歳になっても、話すことが苦手だった。
学校では、空想ばかりしている問題児だと思われていた。

だが彼は、後に相対性理論を発表する。
そう。
その少年の名前は、アルベルト・アインシュタイン。
天才物理学者だ。

彼の有名な言葉にこんなものがある。

「天才とは努力する
 凡才のことである。」

常識にとらわれず、考え続けた人が
ひとつ飛び出た存在になる。
過去の知識は、検索でなんでも手に入る時代。
未来を作る人は、考える努力を続けられる人なのだろう。

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奥村広乃 17年4月16日放送

170416-02

作曲家の少年時代

今日はクラーク博士が
「ボーイズ ビー アンビシャス」
の言葉を残した日。

天才作曲家、モーツアルト。
生涯で600にものぼる数の楽曲を作成したと言われる。
彼の天才っぷりは、子どもの頃から発揮されていた。

3歳で音楽をはじめ、
4歳でチェンバロを弾きこなし、
5歳ではじめての作曲。

6歳の頃、当時7歳であったマリーアントワネットに
プロポーズをしたという逸話も残されている。

長調の明るい曲を多く生み出したモーツアルト。
彼はこんな言葉を残している。

「夢があるから、人生は輝く。」

すべての夢が叶う、なんて夢のようなことはない。
けれど人は、夢を持った方が人生は彩りに満ちるのかもしれない。

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澁江俊一 17年4月16日放送

170416-03

野球への弾圧

今日はクラーク博士が
「ボーイズ ビー アンビシャス」
の言葉を残した日。

日本プロ野球黎明期の
伝説のエース沢村栄治。
150キロ後半と推定される豪速球に
アメリカの強打者ベーブ・ルースも舌を巻いた。

プロ野球が始まった1936年、
巨人軍を優勝に導き、
翌年は史上初のMVPを獲得。
2年続けてノーヒットノーランを達成する、
まさに大スターだった。

だが次の年、沢村は戦場にいた。
投げていたのはボールよりはるかに重い手榴弾。
今22歳の大谷翔平投手と、ほぼ同じ年齢だった。
プロを辞めた沢村は、
さらに二度も戦地に招集され、27歳で戦死。

野球は敵国アメリカの文化だと
軍部に弾圧されていた時代。
日本のエースの大志は、
運命に握りつぶされたのだ。

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澁江俊一 17年4月16日放送

170416-04

現実を見る力

今日はクラーク博士が
「ボーイズ ビー アンビシャス」
の言葉を残した日。

映画監督、黒澤明は
幼い頃、兄に連れ出されて
関東大震災の焼け野原を見に行った。

おびただしい遺体の数。
思わず目をそむけ、怯える弟に、
「よく見るんだ、明」と兄は言った。

「怖いものに眼をつぶるから怖いんだ。
 よく見れば、怖いものなんかあるものか」

のちに世界を驚かせる映画を
次々と撮ることになる明少年。
彼に大志を抱かせたのは、
現実の中の真実を見つめろ、という
兄の哲学だったのだ。

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澁江俊一 17年4月16日放送

170416-05

太陽だけが友達

今日はクラーク博士が
「ボーイズ ビー アンビシャス」
の言葉を残した日。

芸術家岡本太郎は
数奇な少年時代を過ごした。

一斉を風靡した漫画家である父一平と
小説家・歌人である母かの子との間に
太郎は生まれた。

家庭を顧みることのない父と、
子どもを育てようとせず
愛人を家に住まわせていた母。
家にも学校にも居場所のなかった
小学1年生の太郎の話し相手は
青空に毎日顔を出す「太陽」だけだった。

世界を照らす太陽の大きさと、
自らを燃やし、輝き続けるエネルギーは
どれほど勇気をくれたことだろう。

太郎少年に大志を抱かせた
熱く燃えさかる太陽は、
生涯に渡って芸術の重要なモチーフとなった。

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松岡康 17年4月16日放送

170416-06

喜劇王の少年時代

今日はクラーク博士が
「ボーイズ ビー アンビシャス」
の言葉を残した日。

見るものすべてを笑顔にする、喜劇王チャップリン。
彼の少年時代は笑顔とはかけ離れたものだった。

1歳のときに両親が離婚。
貧乏な舞台女優だった母親のもとで育てられ、貧しい生活を送る。
5歳のときには、舞台に立っていた母が喉をつぶしてしまう。

母親は二度と舞台に立つことができず、のちに精神に異常をきたし
施設に収容された。

貧しいチャップリンは子供ながらに職を転々とし、
時にはコソ泥まで働いたという。

チャップリンは言う。

 無駄な一日。それは笑いのない日である。

つらい少年時代が作りあげた信念
それは人を笑顔にし続けることだった。

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