薄組・熊埜御堂由香

熊埜御堂由香 13年7月14日放送



海のはなし べサニ―ハミルトン

べサニ―ハミルトン。
ハワイに生まれた彼女は、
5歳から海にかよう小さなサーファーだった。

スポンサーもつき、活躍をはじめた13歳のある日、
彼女の人生はがらりと変わる。

早朝、波を待っていると、
左手に強く引っ張られるような衝撃を感じた。
その瞬間、自分の周りの海が赤く染まった。
左手をサメにボードごと食いちぎられたのだ。

体内の半分もの血を失った彼女は、
病室で、父親にこう言った。
「わたし、世界一のサーフィン写真家になりたいな。」
左手を肩からまるまる失い、
もうサーフィンはできないと思ったからだ。

けれど次の日には気が変わっていた。
べサニ―は、「明るさ」という強い武器をもっていたのだ。
4週間後にはもう海にいた。

現在23歳のべサニ―は世界的な
女性サーファーとして活躍している。
彼女は言う。

 人生はサーフィンみたいなものよ。
 波に飲み込まれたら また次の波に乗ればいい。

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熊埜御堂由香 13年6月30日放送


through a pin-hole
プレゼントのはなし カード

童話『クマのプ―さん』の中で、
プ―さんが、博識のフクロウに誕生日カードの
代筆を頼む場面がある。
フクロウの呪文のような言葉を、
訳者の石井桃子さんはこんな詩にした。

 おたじゃうひ たじゅやひ おたんうよひ おやわい およわい

白紙のカードに何を書こう?
あなたも、迷ったら
この詩を書きつけてみてはどうだろう。

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熊埜御堂由香 13年5月19日放送


akio長野
緑のはなし 丸山健二の田舎暮らし論

今年70歳になる、作家丸山健二。
文壇とはかかわりを持たず、
「孤高の作家」と呼ばれることもある。

東京で一時、サラリーマンをしていたが、
芥川賞を受賞したのち、
25歳で長野県の郷里に移住。
自然の中で暮らしながら、小説を書き続けている。

近年、丸山は、団塊の世代が
退職後に田舎に移住する
「田舎暮らし」現象について
深く憂えるようになった。

都会からの移住者の求める自然が
牧歌的で、優しい、うわべのイメージだけで
捉えられているからだ。
そうやって移住を決めて
挫折したひとを丸山はたくさん見てきた。

丸山が、田舎暮らしについての
思いを綴ったエッセイには、
こんなタイトルがつけられている。

 『田舎暮らしに殺されない法』。

自然の手ごわさを知っているからこそ。
丸山健二が描きだす緑は
厳しく、力強く、そして美しい。

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熊埜御堂 由香 13年4月21日放送



出会いのはなし  12代目市川團十郎と母千代

今年2月に亡くなった歌舞伎役者12代目市川團十郎。
彼の母、千代さんをモデルにした小説がある。
作家の宮尾登美子が1988年から新聞に連載した『きのね』。

「花の海老様」といわれた9代目海老蔵。
その正妻となった千代さんのあまりに地味な姿を
不思議に感じ、宮尾は小説化を思い立った。

小説では、使用人だった女性がトイレでひとり子を産みおとし
それがのちの12代目團十郎となる。
センセーショナルな内容で、
どこまでが実話なのかとつい気になるが
そんな邪推をふきとばすエピソードがある。

宮尾は、この作品を書くためにずいぶん取材をし、
12代目團十郎のへその緒を切った
当時90歳のお産婆さんにも話をきいた。
出産直後にかけつけると、千代さんは正座し、
横には座布団の上にきれいにぬぐわれた赤子がいたという。
その姿をみてこう思った。

 ああ、聖母子のようだ。

世に生をうけ、
子が母に抱かれる。
その出会いの奇跡が
未来をつくっていく。

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熊埜御堂由香 13年3月10日放送



出発のはなし1 野口英世の言葉

 モノマネから出発して、独創にまでのびていくのが、
 我々日本人のすぐれた性質であり、
 たくましい能力でもあるのです。

明治時代に海外で活躍した数少ない日本人、
細菌学者野口英世の言葉。

この言葉は野口自身の言葉であり
同時に明治の昔に
国を背負って海外で働く人間の言葉としても
納得できる。

「学ぶ」と「真似る」は
日本では同じ語源をもつ言葉だという。

「真似る」からの出発を恐れることはない。

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熊埜御堂由香 13年3月10日放送



出発のはなし2 三浦しをんの就職活動

直木賞作家、三浦しをん。
就職活動で、提出した作文の面白さが
編集者の目にとまり、作家になるよう勧められた。
結局、かたっぱしから受けた出版社は全滅で、
フリーター兼作家になった。

本は売れないし、バイトしながら
年を重ねていくのかなと、弱気になっていたとき、
中学からの女友達がさらりとこういった。

 いざとなったらあんた一人ぐらい食わせてあげるよ。

ふっと心が軽くなり、
それから彼女はどんどん小説を書いた。

誰かが自分を見守ってくれる。
そう思ったときが三浦しをんの出発点だった。

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熊埜御堂由香 13年2月3日放送


riacale
ユーモアの話 ミヤコ蝶々と南都雄二

芸人・ミヤコ蝶々。
昭和50年まで20年間放送された
長寿番組『夫婦善哉』の司会で名をはせた。

一般の夫婦をゲストに
蝶々の弟子だった南都雄二(なんとゆうじ)と、
漫才のようにエピソードをひきだしていった。

ある回、実は、司会の2人が夫婦であることを
番組内で明かすと、まるで結婚式のように
観客から祝福の歓声が飛んだ。

しかし番組開始から4年、
雄二の浮気が発覚し蝶々は離婚を決意する。
今度は離婚を隠し、おしどり夫婦を演じて司会を続けた。

数年後、思い切って離婚を明かすと、蝶々に同情があつまった。
口達者な蝶々さんと、浮気者でダメな雄さんという
新しい芸風でさらに司会を続けていく。

蝶々は雄二が48歳でなくなるまで家族以上に親身に世話をし、
最後には『夫婦善哉』の司会をひとりでつとめあげた。
男と女のおかしさを伝え続けた番組だった。

蝶々がよくサインに記していたフレーズがある。

 おもろうて、やがて哀し。

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熊埜御堂由香 13年1月20日放送



夢のはなし 横光利一の鋭い指摘

新感覚派の天才といわれた
小説家横光利一がこんなことを言った。

 夢の話というのはひとりがすると
 からなず他の者がしたくなる。
 すると前に話したものは退屈するのだ。
 なぜならそれは夢に過ぎないからだ。

そう、夢とは取るに足りず、
ひとりよがりで、
自分にとってはおもしろおかしく、
ときに恥ずかしく、
それでも許されるものなのだ。

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熊埜御堂由香 13年1月20日放送



夢のはなし 漂う石牟礼道子

著書、苦海浄土(くかいじょうど)で知られ、
水俣に住み、水俣病と向き合ってきた作家、
石牟礼道子(いしむれ みちこ)。

故郷への真摯な愛から、
土着派とも呼ばれた石牟礼は、
意外にもこう言う。

水俣にこだわり続けるほどにそこから
ふわりと浮きあがり、漂う民になったように
感じる、と。
そしてこんな夢を見るのだ。

 毎夜、ねむり入るときまぼろしに誘われ、わたしは
 インカやトルキスタンのとある時代の
 砂漠の井戸を汲んでいる想いがする。

夢の世界でも、
石牟礼の意識は漂流しながら、
帰る場所を探している。

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熊埜御堂由香 12年12月23日放送



愛のはなし 太宰治の恋愛論

恋愛とは何か?
人間の普遍のテーマに作家・太宰治はこう答えた。

それは非常に恥ずかしいものである。

恥にまみれながらも、
愛さずにはいられない。
それは太宰の生き方そのものだ。

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