薄組・熊埜御堂由香

熊埜御堂由香 11年01月15日放送


女優の素顔 原節子

日本人離れした顔立ちで、神秘の女優といわれた原節子。

大女優まで登りつめながら、43歳で静かに引退する。
もっとも信頼した監督、小津安二郎の葬儀以降、
ふっつり公の場から身を引いてしまったのだ。
復帰を願う署名活動や、鎌倉の実家に
押し掛けるマスコミにも沈黙を続けた。

原節子は言った。
生まれつき欲が少ない性格なんです。
好きなものを順に言えば、まず読書、次が泣くこと、
その次がビール、それから怠けること。

彼女は、誰かの人生を演じることよりも
自分の暮らしを味わうことに
人生の後半を捧げたのだ。


女優の素顔 菅井きん

21歳の女優の卵に、与えられた芸名は、
菅井きんだった。
おばあさんみたい・・・と思いつつ、
尊敬する演出家の前ではイヤだと言えなかった。

女優、菅井きんの初舞台はトメという農家の娘役。それ以降も
地味な役が続いた。
芸名のせいだわ。そう思っていた。

そして数十年。
年齢とともに、芸名が
自身に寄り添ってきたと感じるようになる。
だから、今、自信を持って言える。
得意な役どころは、
わき役、ふけ役、いびり役。

女優は美人がなるものだ。
そう父親に猛反対され、家を飛び出すように女優になった
菅井きんの素顔は、朗らかで力強い。

topへ

熊埜御堂由香 11年01月15日放送


女優の素顔 田中絹代

厳しい監督の先生にたたかれ続けてきたから、
私、身長が止まってしまったのね。
身長150㎝の彼女はわらって言った。
数々の名監督に愛された女優、田中絹代。

役作りのストイックさでは、逸話にことかかない。
監督の注文どおり、太ったり、痩せたり、「風船」とあだ名された。
おば捨て山を題材にした木下恵介監督の楢山節考では役作りのため
若いころにした差し歯を4本、医者に無理やり抜いてもらった。
49歳のときだった。
小さな体で女優として成長を続けた。

一生独身だった彼女はこういった。
私は映画を夫として選んだのです。
そして、私が映画を捨てなかったのではなく
映画が私という女を見捨てないでいてくれたのです。

素顔が、女優である。田中絹代はそんなひとだった。

topへ

熊埜御堂由香 10年12月19日放送



恋文代筆業フィッシュ兄弟

19世紀のおわりごろ、パリの街で
小さな芝居小屋の劇作家をしていたフィッシュ兄弟は
食うに困ってある商売を思いついた。
恋文代筆業….
それはのちに彼らをまねて恋文横丁という代筆業者が
机をならべる小道ができたほど、繁盛した。

たとえば、初々しい恋のはじまりに、2通の手紙を用意する。
1通目は、引き裂さかれた紙に、乱れた文字で想いが綴られる。

ああ、この気持ちをどうすれば・・・
そして直後にもう一通の手紙が届く。
今度は上等な便箋に丁寧な文字で謝罪の言葉が綴られている。

誤って、日記の一部を投函してしまいました。破棄してください。
こんな具合に彼らのラブレターには、さまざまな恋の罠が仕掛けられていた。

ここで、彼らが、恋文の効果的な書き出しと結びを
一覧化したリストから、おすすめの締めの句をひとつ。
君がうなじに、接吻の雨。

ちょっと吹き出してしまうほど情熱的な言葉が並んでいて、
再出版すれば、今どきの淡白な男の子たちに、
つけるいい薬になるかもしれない。



おしゃべりな手紙 向田邦子

数々の会話の妙で、ひとを惹きつけてきた脚本家、向田邦子は嘆いた。


 男の手紙が、とくに若いひとの手紙が、
 おしゃべりになってきた。字や文章だけでは男か女かわからない。

しゃべりすぎの時代を、ホームドラマのせいだど自省する。

さらにメール時代の現代。
中性的なメールが飛び交う。
そっけないと思われると、
みんな気遣いで賑やかな絵文字を散らす。

おしゃべりは虚飾。
沈黙が味わえるようになったとき、
男と女の時間がはじまるのかもしれない。

topへ

熊埜御堂由香 10年11月21日放送



あの人の暮らし 佐野洋子とシズコ

絵本「100万回生きたねこ」で
知られる作家、佐野洋子は、
母親、シズコとの親子関係に悩み続けた。
高校の担任に、母は長女との関係をこう言った。


 女同士ということで嫉妬、かもしれません。

洋子は自分にどこか近い父にだけ、なついた。
終戦後、シズコは未亡人になるが、
めそめそせず、いつもばっちり化粧していた。
そんな母を、下品だ、と洋子は思っていた。

シズコが80歳近くになる頃、洋子と二人で暮らし始める。
シズコには痴呆の症状がではじめていた。
自身も60代にさしかかり、苦しかった。洋子は、
結局、母を施設に預ける決意をする。

子どもの頃は、手をつなぐことさえ、嫌悪し合ったのに。
洋子は、施設でシズコの体をさすり、
1つの布団へ一緒に入り話をした。
それは母と娘の暮らしの、最後の形だった。

シズコさんは、洋子さんに、無邪気に言った。


 私とあなたの間には、いることも、いらないこともあったわねぇ。




あの人の暮らし 佐野洋子

作家、佐野洋子。
今月5日、72歳で、静かに息をひきとった。

彼女は言った。


 余命2年と云われたら
 人生が急に充実して来た。
 毎日が楽しくて仕方ない。

余命2年をゆうに超えて、
洋子さんは、暮らした。生きた。

topへ

熊埜御堂由香 10年10月17日放送



本のはなし スヌーピーの素顔

世界中で大人気のキャラクター、スヌーピー。

もともとはアメリカの人気漫画家
チャールズ・M・シュルツが
新聞に連載していた「ピーナッツ」という漫画の登場人物だ。

漫画の中で描かれるスヌーピーは
犬小屋の屋根の上で空想にふけり、多くの名言を残している。
例えば、こんな人生訓。


 羊として12年生きるより、
 ライオンとして1日生きるほうがましさ。

犬だって哲学するときがある。



本のはなし 魔女の宅急便

ジブリ映画で知られる「魔女の宅急便」。
原作は角野栄子(かどのえいこ)が書いた児童文学だ。
1985年に1巻が発売。
主人公の魔女のキキは13歳で修行にでかける。
人々に世の中には不思議なことがたくさんあるのだと、
自分の魔法で教えるという役目をせおって。

角野は、キキに「ほうきで飛ぶ」という魔法をひとつだけ授けた。
キキは、ひとを驚かせたり、怖がらせたりする魔法ではなく
ほうき1本で世界の不思議を街のみんなと共有したのだ。

その後も、キキたちの物語は紡がれ続け、昨年6巻でついに完結した。
キキは、34歳。初恋のとんぼさんと結婚して
2人の子どもがいる。
少女のころに降り立った街で、
ずっとずっと暮らしてきた。

角野は言った、
魔法はたったひとつでいい。そしてそれは、
魔女でなくたってきっと誰もが必ず
ひとつは持っているものなのだと思って
書き続けてきました。

そう、魔女のキキの物語は、
わたしたちの物語でもある。



本のはなし 装丁家・鈴木成一

装丁家・鈴木成一(すずきせいいち)。
約8000冊を手掛けた彼の方法論は明確だ。

原稿を読み込み、個性をかたちにすること。

装丁は、本の第一印象。
見かけに惚れてはじまる恋があってもいい。
気になる表紙の1冊を手にとってみよう。

topへ

熊埜御堂由香 10年08月22日放送



5.夏の風物詩 花火師 高杉一美

昭和5年の春、16歳の少年がある職業に夢をかけた。
花火師、高杉一美
親方からやっと認められはじめた7年目のとき。
盧溝橋事件が勃発し、
やがて世界は太平洋戦争へ突入した。

火薬の知識が買われた高杉はダイナマイトの製造に関わるようになる。
工場にある火薬を見ると想像力が騒ぎだす。
これをつかえば大輪の花々を夜空に咲かせる尺玉がいくらでもつくれるのに・・・

ある日、火薬庫へ向かおうとしていると、
すさまじい爆発音とともに倉庫の屋根がふっとんだ。
中にいた女性の工員はみんな亡くなり
あと1歩のところで高杉は命を拾った。

花火師、高杉一美は
戦後、次々とコンクールで賞をとる花火を生み出していった。

高杉は花火にこんな願いを込めていた。


 生きていることがうれしくてたまらないような、
 そんな花火であってほしい。



6.夏の風物詩 衣がえ


 灰皿も硝子にかへて衣更へ

日本の少女小説の祖とも言われる
吉屋信子が詠んだ句だ。
女性らしい、彼女らしい、
細やかな夏の楽しみ方が
伝わってくる。

真っ白なワンピースを着たくなる。
髪をアップにしたくなる。
方法はひとそれぞれ。

夏が終わる前に、
もっと、もっと夏を感じよう。



7.夏の風物詩 お盆を想う唄


 盆だ盆だと待つのが盆よ。盆がすぎれば夢のよう。

岩手県の遠野市に伝わる一口唄だ。
村のだれが唄いはじめたのか、わからないが
こんなふうに、
日本中がお盆を楽しみにしている時代があった。

8月は日本人が故郷に帰る季節。
帰省ラッシュに文句をいいながら、
それでもやっぱり
帰りたくなる場所がある。



8.夏の風物詩 まんまる西瓜

作家、結城信一が1967年に発表したエッセイ、西瓜幻想。
結城は、電気冷蔵庫におしこまれた現代の西瓜に同情をよせ、
こう書いた。


 土から生まれた西瓜にとっては、
 井戸の中にいれてもらって、
 ごろんごろんと
 浮かびながら
 ひとを待っているのが
 いちばん楽しい時なのだ。

そういえば、最後に、
まんまるの大きな西瓜に、わくわくして、
包丁をざくりと入れたのはいつだったっけ。
スーパーで切って売られている赤い水瓜を手に取ると
家族の多かった子供時代を思い出す。

topへ

熊埜御堂由香 10年06月20日放送

忌野清志郎

5.おもしろい夜 忌野清志郎


 やってみようじゃないか。おもしろい夜になりそうだぜ。

ロックミュージシャン・忌野清志郎は言った。
2003年、はじめての「100万人のキャンドルナイト」で、
東京タワーのライトダウンイベントに誘われ、すぐさまOKした。

NGOナマケモノ倶楽部が日本ではじめたこのイベント、そのきっかけは
あるアメリカ人から1通の「おもしろい」メールが届いたから。
件名は「ひとりひとり暗闇で手をつなごう」。

ブッシュ元大統領の石油エネルギー政策に抗議する
そのメールは世界中に転送された。
それは声高に環境保護を訴えるものではなかった。
夏至の日の夜、電気を消し、暗闇の時間を自分の感性で
楽しもうというメッセージ、だから世界に広がった。

そして今夜は8年目のキャンドルナイト。
静かな闇の中だから浮かんでくる気持ちが
誰の中にもあるはず。

清志郎も歌っていた。


 暗い暗い夜はいつでも
 甘い甘い夢が暖めてくれるさ。

ウィルヘルム・ブッシュ

6.父にならなかった男 ウィルヘルム・ブッシュ


 父親になることは難しくないが、
 父親であることは極めて難しい。

近代漫画の始祖と言われたドイツ人
ウィルヘルム・ブッシュは言った。

1865年にブッシュが発表した絵本、
「マックスとモーリッツ」は、
ふたりのいたずら小僧が主人公だ。
ブラックユーモアに満ちた内容で、
最後にはふたりは臼で潰されて、
アヒルの餌にされてしまう。

気難し屋のブッシュは生涯独身だった。
父親らしくあること、その難しさを
躊躇せずに、彼が父親になっていたら?
常識破りの面白い親父になっていたかもしれない。



7.父の存在 日本中のおとうさん

ある小学校6年生がこんな詩を書いた。


 おとうさんのあとに風呂にはいった。
 底にすこし砂があった。ぼくたちのために働いたからだ。

おとうさんが家族を守っている。
いつもは目に見えないその事実に、
思いがけず、気づく瞬間がある。

口に出して言ってみる。
おとうさん、ありがとう。
今日は、父の日。



8.出生の秘密 ジョン・ブルース・ドット夫人


 母の日はあるのに、どうして父の日はないんだろう。

1909年、アメリカ。
ジョン・ブルース・ドット夫人という女性が、
ふと思った。
前年に母の日が設立されたばかりだった。

ドット夫人の父は、男手ひとつで6人の子どもを育てた苦労人。
ひとり娘のドット夫人は特に可愛がられた。

亡き父のため、「父親を尊敬し、称え祝う日」の設立を聖職者同盟に嘆願。
そして、7年後の1916年に「父の日」は設立された。

けれど母の日は1914年には、祝日になったのに、
父の日は、なかなか昇進できず、約60年後の
1972年にようやくアメリカで祝日になった。

ひとり娘が父を想い、
苦節の末、誕生した父の日という祝日。
母の日の2番煎じか、
なんて、へそ曲げないでね、お父さん。

topへ

熊埜御堂由香 10年05月16日放送



走る人 谷口浩美


 「こけちゃいましたぁ。」

彼の笑顔に、
日本中のお茶の間が、ほんわかした。
1991年の世界陸上、金メダリスト谷口浩美。
翌年のバルセロナ五輪で、転倒する。
20人抜きを見せるが結果は8位。

くやしさも、あったはず。でも笑った。
谷口は現在も、マラソン界で、
日本人男子として、唯一の金メダリスト。

彼は言った。


 踏まれても踏まれても、雑草のごとく。

ずっこけた笑顔は、谷口の強さの証にちがいない。



走る人 鬼塚喜八郎

昭和26年、夏。ひらめきは、
キュウリとタコの酢の物からもたらされた。

鬼塚喜八郎。
シューズブランド
オニツカタイガーの創始者だ。

タコの足の吸盤にヒントを得た靴底の
鬼塚式バスケットシューズを考案。
全国を営業して走り回り、ブランドを育てていった。

やがて、東京オリンピックのときには
オニヅカタイガーのスポーツシューズを履いた選手が
計46個のメダルを獲得し
オニヅカの名前はさらに高まった。

彼は言った


 「持てる力を一点に集中させれば、必ず穴があく。」

突破していくひとは、迷わずに走り続けられるひと。

topへ

熊埜御堂 由香 10年05月09日放送



走る人 角田光代

彼女は、32歳で大失恋した。
切れた電球を変える気力もなくなった。
だから、髪を切るわけでもなく、
次の男を焦って探すでもなく、
ボクシングをはじめた。
強くなりたかったから。

女心の機微を描き続ける作家・角田光代。

失恋からたちなおっても、運動する習慣は残った。
角田は忙しい暮らしの合間にランニングを続ける。

いま、若い女性にマラソンが流行しているのも、
からだとこころがつながっていることを
実感しやすいスポーツだからかもしれない。

きっと、今日も、いろんな思いを抱えて、走るひとがいる。

角田光代のある小説の主人公が、こうつぶやく。


 道ってのはどこまでも
続いているもんなんだねえ。

topへ

熊埜御堂由香 10年03月06日放送

01-paul

道具のはなし ポールボキューズの鍋

「私の料理の秘訣がひとつしかなかったとしたら、
 それはこの美しい道具だろう」

フランスのリヨンで腕をふるう
84歳の現役天才シェフ、ポールボキューズ。
彼は料理へのこだわりから、鍋までつくってしまった。
工業の街、アルザスで、
祖父の代から台所用品店を経営していた、
フランシス・ストウブ氏と開発した、分厚い鉄の鍋だ。

45年間、ミシュランの3つ星を
維持しつづける彼のそばに、
今日もこの武骨な鍋はどっしり座っている。

02-chieko

道具のはなし 智恵子の千代紙

こころの病に苦しんだ、高村光太郎の妻、智恵子。
光太郎は彼女に、気分転換の道具に千代紙を渡した。
智恵子はたちまち紙絵に夢中になる。
食膳がでると、皿にのる食材を紙絵でつくらないうちは
箸をとらないほどだった。
できあがると、恥ずかしそうな、うれしそうな顔で、
光太郎に差し出した。

智恵子の残した千点以上の紙絵に、光太郎は言った。

 これらは、智恵子の詩であり、
 生活記録であり、此世への愛の表明である。

妻の千代紙は、夫と心を交わす道具となった。

03-hikaru

道具のはなし 恋する道具

ひとは不器用だから、
恋をするにも、道具がいります。
いまは、メール。昔は手紙。

プレイボーイの元祖、光源氏は、
先立たれた妻からの恋文に、
歌を書きつけて、泣きながら燃やしました。

大切にとってあった手紙と妻への思いが
一筋の煙になって天へ届くように。
そんな思いをこめた読まれた歌のしめくくりは、

 おなじ雲居の煙とをなれ
 (おなじくもゐの けぶりとをなれ)

メールは燃やすこともできないし、
下駄箱にいれることもできません。
恋する道具としては、手紙が一枚上手のようです。

topへ