薄組・熊埜御堂由香

熊埜御堂由香 16年10月30日放送

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お風呂のはなし 夢二と彦乃の湯桶温泉

詩人・画家の竹久夢二とその恋人、笠井彦乃。
1917年に2ヶ月以上の北陸の長旅で
金沢の湯桶温泉へ逗留した。

夢二のファンだった19歳の彦乃が、
画廊へ通ううちに心が通じた。
12歳の歳の差と、夢二の女性遍歴で
親から反対を受け、それを押切り同棲するようになった。

そんなふたりが、もっとも幸せな時間を
すごしたといわれるのが
湯桶温泉だ。
3週間、ゆっくりと湯につかりすごした。

その直後、彦乃は結核にかかり入院してしまう。
父親の反対で夢二と面会もできないうちに
息をひきとった。まだ25歳だった。

夢二はその年の誕生日にこう言った。

 私は三十七歳で死んだことになっているんです。
 彼女が二十五で、私が三十七で死んだのです。

その後も夢二は多くの女性と恋に落ちる。
けれど、彦乃と過ごした湯桶温泉での時間は、
夢二の心の中に、大事に、大事に、しまわれていたに違いない。

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熊埜御堂由香 16年9月25日放送

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三二四版畫工作房
服のはなし 皆川明の仕事論

東京スカイツリーのユニフォームデザインを手がけた
デザイナー皆川明。
minä perhonen(ミナ ペルホネン)というブランドを
たちあげ大事に育てきた。
生地という素材から服作りをするスタイルで
自分で図案を書いたテキスタイルにこだわる。

皆川は自分の仕事をこう思ってきた。

僕らの仕事はパン屋さんやお豆腐屋さんと同じ。
食べておいしかったら、またきてくれる。
誰かにおいしいと伝えてくれる。

宣伝もせずに、利益がでれば「素材」に使う。
その繰り返しで、気がつけばひとからひとへ
皆川の服作りは伝わっていき、ブランドはメジャーになった。
そんな、彼がこの仕事を通してなしとげたいことはシンプルだ。

 一枚の服が、着られて着られてすっかり体のクセがしみこんで。
 記憶をたどるクタクタの一着を、つくることができたらいいな。

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熊埜御堂由香 16年9月25日放送

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服のはなし 大内順子のまなざし

日本のファッションジャーナリストの先駆けといえば、
このひとしかいない。
大内順子。

大きなサングラスとボブヘアーをトレードマークに
2014年に80歳で亡くなるまで活躍を続けた。

じつは20代のころはモデルをしていたが、
交通事故で顔面に大けがを負う。自然と書く仕事へシフトしていった。

まだパスポートを取るひともめずらしい70年代に
単身でメゾンの扉をたたいた。
エルメスも、シャネルも、セリーヌも
初めて日本に紹介したのは大内だった。
1985年には、世界的なモードを日本に広めた「ファッション通信」
という番組をスタートさせる。

ひとりで道を切り開いてきた大内は、
いつもまわりにこう言っていた。

 ファッションって、楽しくて、素晴らしいから、
 誰かに知らせたい、ただそれだけよ。

軽やかに、前向きに、サングラスの奥の瞳は
きっといつも好奇心で輝いていたはずだ。

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熊埜御堂由香 16年7月31日放送

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記録のはなし 澤穂希の記録

6回のワールドカップを経験したサッカー選手、澤穂希。
彼女の功績はFIFA女子ワールドカップ最多出場選手
としてギネスに登録されている。

そんな彼女もサッカーを辞めよう
と本気で思ったことがあった。

1990年代に日本のプロサッカー部が次々廃部を決める中、
澤は思い切ってアメリカに渡る。
「クイック・サワ」と呼ばれ大活躍する中で、
あるアメリカ人と恋に落ちた。
彼と一緒に暮らしながら、サッカーに全力投球する充実した日々。
しかし、突然、プロリーグが休止することになった。
この時、澤は恋人と結婚してアメリカで暮らそうと決意する。

恋人の、「サッカーやめられるの?」

という問いに「もちろん」と答えた。
すると恋人は意外な言葉を返した。

「きみには、とことんサッカーをやってほしい。」

澤はそのひと言に背中を押されて、
再び日本のプロサッカー界へ戻ってきた。
ひたむきな生き方、
それが彼女に多くの記録をもたらしたのだ。

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熊埜御堂由香 16年6月26日放送

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童謡のはなし ろばの会

童謡には、ひとからひとへ歌い継がれてきたため
作者不明のものや、
文部省唱歌として作者が表に出ていない歌も多い。
そんなこどものための歌に新風を吹き込んだのが
創作グループ「ろばの会」。
頼まれて歌をつくるのではなく、
自分たちの納得のいく音楽をつくろう
と1956年に結成された。

「ぞうさん」で知られる詩人のサトウハチローや、
「めだかの学校」を作曲した中田喜直、
「サッちゃん」などの名曲をつくった
いとこ同士の作詞家、阪田寛夫と、
作曲家、大中恩のコンビなど
多くの作家が集まった。

そんな「ろばの会」の決まり事はただひとつ。
歌を「童謡」とは呼ばずに「こどものうた」とよぶこと。
きっと「こどものうた」を生み出す時、
彼ら自身がこどもの顔をしていたに違いない。

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熊埜御堂由香 16年6月26日放送

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童謡のはなし 野口雨情と詩のモデル

童謡界3大詩人といわれた、作詞家の野口雨情。
彼が手がけた、「赤い靴」は、
詩作のモデルになった実在の少女が
作者が亡くなったあとに、新聞の投書から見つかり話題を呼んだ。

そして雨情の代表作である「しゃぼん玉」も
彼自身の、生後1週間で亡くなった
長女への想いを歌っているという説があり、
たしかに、そういわれると、そう聞こえてくる歌詞でもある。

 シャボン玉 飛んだ
 屋根まで飛んだ

 屋根まで飛んで
 こはれて消えた

 生まれてすぐに
 こはれて消えた。

しかし雨情の息子の野口存彌(のぐちのぶや)さんは
長女が亡くなった時期と歌の発表の時期を照らし合わせて、
その説を否定している。

真相はもう亡くなっている本人にしかかわらないのだが、
生前、雨情はこんな言葉を残している。

 詩というものは、それを書いた人の名前は忘れられ、
 その詩だけが残ったとき、
 初めてほんとうのものになる。

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熊埜御堂由香 16年5月29日放送

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ペットのはなし 夏目漱石の文鳥

夏目漱石がもっとも愛らしく描いた動物が猫だとしたら、
もっとも切なく描いた動物は文鳥だろう。

漱石の初恋の人と言われる幼なじみだった日根野れん。
彼女が嫁ぎ先で亡くなった10日後に
連載をはじめた小説が「文鳥」だ。
れんをモデルにしたと言われる女性と
飼っていた文鳥の死を重ね合わせながら
美しい物語が描かれる。

チヨチヨという鳴き声を漱石はこう表した。

 文鳥も淋しいから鳴くのではなかろうか。

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熊埜御堂由香 16年5月29日放送

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ペットのはなし 古川日出男とカラス

独創的な文体とストーリーテリングで人気の作家、古川日出男。
彼の小説にはよく動物たちが登場する。
その中でもひときわ異彩を放つのが
ひとの言葉を理解する、カラスのクロイだ。
主人公の肩にのり東京の飼いならされたカラスを
鋭い目で見つめる。

古川自身が、東京の街を歩き回り、
カラスの排除問題に疑問をもったことから
インスピレーションを得た。

人間の出すゴミに群がるカラス。そしてそれを排除する人間。
カラスは、東京という街に飼われている
もっとも悲しいペットとも言えるのかもしれない。

古川は小説を書く時の気持ちをこう表現している。

 人に読ませよう、
 でもあらゆる動物たちのためにも書こうと思いますね。

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熊埜御堂由香 16年3月27日放送

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桜のはなし ケーベル先生と桜

明治時代に日本にやってきて
ドイツ哲学や美術史を教えた、
ラファエル・フォン・ケーベル。
教え子のひとりだった夏目漱石がのちに作品に記すように
「ケーベル先生」と呼ばれ親しまれた。

そんな彼が残した言葉。

 桜の花の頃こそ日本人を観察すべき時である。

春だから、って
理由があるようなないような。
そんなゆるやかな心持ちで
桜を愛でて無邪気に浮かれる日本人の姿は
きっとケーベル先生の昔も、今も変わらない。

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熊埜御堂由香 16年3月27日放送

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桜のはなし 宇野千代と淡墨桜

日本三大桜にも数えられ、散りぎわに、
淡い墨色に花びらをそめる岐阜県の根尾谷の淡墨桜。
樹齢1500年ともいわれるこの桜は、
何度も根を継ぎながら花を咲かせてきた。
ところが、台風で太い枝が折れてしまい、
もう枯れるのを待つしかない、となった時
その命を救ったのは作家の宇野千代だった。

資金援助を募り、この淡墨桜を小説でもとりあげ一躍有名にした。
ひたむきに桜を救った宇野千代が残した言葉がある。

 しあわせって、桜のようなものよ。
 ああ、今年も桜に会えた。ただそれだけのことなのに、
 ほっとしてしあわせな気分になるでしょう。
 私はいつか花咲婆さんになって、
 しあわせの種を籠いっぱいに入れて、ぱっぱっとまきたい。

宇野千代の残した老木の桜は、
今年も満開の花で人々にしあわせを運んでくる。

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