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澁江俊一 18年5月20日放送

180520-02
shio
ジョブズとジーンズ

今日はジーンズの誕生日。

労働者の作業着として
生まれたジーンズ。
やがてアーティストやミュージシャン
映画スターに愛されるようになり
今や大企業の社長までもが
こぞってジーンズを履いている。

国境も性別も職業も
あらゆる境界線を越えるジーンズ。

いつも同じ服しか着なかった
スティーブ・ジョブズもジーンズをこよなく愛した。
iPodもiPod nanoもプレゼン中の彼の
ジーンズのポケットから初めて登場した。

こんな遊びゴコロがある限り
人類がジーンズを履かなくなる日は、
きっと永遠に来ないだろう。

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澁江俊一 18年4月8日放送

180408-01

さようならと日本人

「さようなら」

私たちがいつも
何気なく使っているこの言葉は
元々「さようであるならば」という意味だった。
つまり、仕方ないことを
それでも受け入れようということ。

このような表現を
別れの挨拶に使う国は、世界でも珍しい。

百人一首の中に、こんな歌がある。

 これやこの 行くも帰るも わかれては
 知るも知らぬも 逢坂の関

人の世の別れを淡々と詠んだ蝉丸のこの歌は
恋の別れをテーマにしない数少ない歌として
時を超えて人々に愛されている。

切なさを受け入れる
「さようなら」の感情は
遥か昔から、日本人の心に
根づいていたのだ。

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澁江俊一 18年4月8日放送

180408-02

さようならの潔さ

 わたしが一番きれいだったとき
 自分の感受性くらい

など、
潔くも美しい詩を
数多く残した詩人、茨木のり子。

79歳で世を去った彼女が
自分の死を前に残した
最後の言葉もまた美しい。


「あの人も逝ったか」と一瞬、たったの一瞬

 思い出してくだされば、それで十分でございます。


 あなたさまから頂いた長年にわたるあたたかな

 おつきあいは、見えざる宝石のように、
 私の胸にしまわれ、光芒を放ち、
 私の人生をどれほど豊かに
して下さいましたことか・・・。

この世との別れの言葉は、
できることなら、こうありたい。

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澁江俊一 18年4月8日放送

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父からのさようなら

小津安二郎監督「晩春」。
妻を亡くした父親が
娘を嫁に出す時の
心の機微を描いた傑作だ。

娘との最後の家族旅行。
帰り支度をする娘は不意に
嫁に行きたくないと、父に白状する。
それを諭す、父。

 結婚することが幸せなんじゃない

 新しい夫婦が新しいひとつの人生を
 作り上げてゆくことに幸せがあるんだよ

 1年掛かるか 2年掛かるか 5年先か 10年先か

 勤めて初めて幸せが生まれるんだよ

 それでこそ初めて 
 本当の夫婦になれるんだよ

晩婚や、離婚が当たり前になった
今だからこそ、じわり、心に染みる
父から娘への、別れの言葉である。

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澁江俊一 18年4月8日放送

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寂しさにさようなら

日本で最も
別れが似合う男は誰だろう?
それは寅さんこと、車寅次郎かもしれない。

故郷と別れ、妹とも別れ、
日本中で恋をしては、せつない別れを繰り返す。
それでも寅さんは決して
相手を恨んだり、自分を慰めたりしない。
グッとこらえて、その場を立ち去る。

人類のコミュニケーションを
無限大に増やしたSNSの世界では
今日もたくさんの別れが親指の動き1つで
加速度的に生み出されている。
その孤独に溺れそうになったら、
寅さんのこんな言葉を思い出してほしい。

 寂しさなんてのはなぁ、

 歩いてるうちに
 風が吹き飛ばしてくれらぁ。

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澁江俊一 18年3月11日放送

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金田一京助 アイヌ語の入口

数々の国語辞書の
編纂者として知られる金田一京助。

岩手県の盛岡に生まれ
石川啄木とも親友だった若かりし京助が
人生を賭けた研究テーマに
選んだ言葉は、アイヌ語だった。

「アイヌ語を研究するのは日本人の使命だ。」

教授からそう言われて
日本人初のアイヌ語研究者になると
心を決めた京助。
しかし文字を持たないアイヌ語は
まったく理解できなかった。

京助は考えた。
あえて訳のわからない絵を描いて見せ、
その反応からアイヌ語の「へマタ」という
言葉を聞き出すことに成功。
これは何?という意味である。

ここから膨大なアイヌ語の単語を
一つ一つ記録していった。

偉大な言語学者を一人前にした
「これは何?」という言葉も
とても偉大な一言である。

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澁江俊一 18年3月11日放送

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仙台四郎 商売の神様

仙台四郎という名前を
聞いたことがあるだろうか。

誰からも好かれていた
とても愛嬌のある笑顔で
明治時代に彼が
ふらりと訪れた店は必ず繁盛すると、
新聞が取り上げるほど人気だった。

彼が亡くなった後の
大正時代にはご利益を求めて
仙台四郎の写真を飾る店が増えた。

地元の仙台では今でも
商売の神様として人々から愛されている。
商店街のポスターやCMで
ひっぱりだこの仙台四郎。

スマホで気軽にものを
売り買いすることが増えた昨今
一儲けしたいあなたは
仙台四郎の笑顔に
力をもらってみるといい。

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澁江俊一 18年1月21日放送

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eliduke
探検家のクリエイティビティ

探検家は、
あきらめることが苦手だ。

日本人で初めて南極点に到達した
村山雅美(むらやままさよし)は
南極の氷の上に研究棟を建てる
という任務を前に、途方に暮れていた。

氷の上では基礎が打てないと、
建築業界は軒並み参加を辞退。
しかし村山は、あきらめなかった。

解決してくれたのはテント屋さんです。
年中、零度以下の南極は、
パイプを組んで水で凍らせば基礎はびくともしない、
その発想ですべて解決しました。
みんな大笑いして、手を打ったものですよ! 

村山はまた、こうも語る。

 追いつめられたときの多数決は
 大変危険です。
 気弱になった集団の多数意見は、
往々にして誤る。

正解のない時代に、
冒険家に学ぶことはとても多い。

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澁江俊一 18年1月21日放送

180121-02

探検家のものさし

探検家は、
自分だけのものさしを持っている。

日本中を旅したのち
28歳で初めて蝦夷地に渡り
6度もの探検をした松浦武四郎。
そこで出会ったアイヌ民族に
「彼等の人格には尊い部分が少なくない」
と気づかされる。

当時幕府は、
アイヌには儒教道徳が行き渡っていないため、
これを「教化」すべしと考えていたが、
松浦は自分のものさしで
アイヌに触れ、アイヌを愛した。

常識にとらわれない松浦は
吉田松蔭さえ「奇人」と呼ぶほどであった。

松浦はまた
北海道の名付け親でもある。
カイという言葉はアイヌ語でもあり
アイヌへの愛を込めたと言われている。

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澁江俊一 18年1月21日放送

180121-03
Great Himalaya Trails
登山家の黒子たち

真の登山家とは
どんな人であるべきか。

エベレストに挑む登山家のために
山頂までのルートを開拓し
ベースキャンプまで
物資を運ぶシェルパたち。

生活のために山に登る
彼らの名が、
表舞台に登ることはない。

世界最高峰のエベレスト。
その最多登頂者は2名。
どちらも生活のために登ったシェルパだ。
その回数は、なんと21回。

彼らがいなければ、
誰も最高峰に
たどり着くことはできなかった。

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