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佐藤延夫 18年4月1日放送

180401-08
Tibor Kelemen
4月1日的な実験 バーバラ・J・ロールズ

1976年。ペンシルベニア州立大学のバーバラ・J・ロールズ教授は、
空腹感についての実験をした。
実際に、試してみましょう。
質問。次のメニューのうち、どれが一番、お腹いっぱいになると思うか。
1、チキンと野菜のシチュー。
2、チキンと野菜のシチュー、そして、コップに入った350cc程度の水。
3、チキンと野菜のシチューに350ccの水を加えて、スープ状にしたもの。
カロリーは変わらないのに、
被験者たちが最もお腹いっぱいに感じたのは、
3番のスープだった。
ロールズ教授は、こう結論づけた。
「おそらく、スープの見た目に、満腹効果がある」
こんな実験が、大真面目に行われていた。

今日はエイプリルフールですが、
これは嘘のような、本当の話。

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佐藤延夫 18年3月3日放送

180303-01

逆境を生きる クロード・モネ

印象派を代表する画家、クロード・モネは、
晩年、目の病に悩まされた。
83歳のとき、白内障で失明の危機に陥ったが、
3度の手術で視力を取り戻した。
一般的に、白内障の手術をすると
青系の光が網膜に多く達するように感じて
青白い世界に見えるそうだ。
たしかに、このころの睡蓮は青みが増している。
さらに晩年になると、
輪郭がぼやけ、全体的に黄色がかった色彩に変わった。

光の魔術師と呼ばれる巨匠は、
自らの光に対しても、真摯に立ち向かった。

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佐藤延夫 18年3月3日放送

180303-02

逆境を生きる ポール・セザンヌ

近代絵画の父、ポール・セザンヌを
20年近くも苦しめたのは、糖尿病だった。
51歳のとき、その兆候が現れたが、
セザンヌは、アトリエのある山小屋まで毎日歩き、
質素な食事を心がけた。
この運動療法と食事療法が、
症状の悪化を食い止めたと言われている。
しかし晩年は、糖尿病の影響で
神経痛や目の病気も患っていた。
それでもセザンヌは、こんな言葉を残している。

「私は毎日進歩しつつある。私の本領はこれだけだ。」

糖尿病の治療に役立つインスリンの抽出に成功したのは、
彼が亡くなって15年後のことになる。

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佐藤延夫 18年3月3日放送

180303-03

逆境を生きる エドガー・ドガ

印象派の巨匠、エドガー・ドガの作品は、
室内を描いたものが多い。
目の病気に悩まされていたのも、その理由に挙げられる。
普仏戦争に従軍した際、
寒さに目をやられ、まぶしがり症を患った。
36歳のとき目の焦点が合わなくなり、
40歳で右目の視力を失う。
晩年はほとんど何も見えなかったそうだ。
しかし彼は、薄れゆく視界の中で、
恐怖に苛まれながら、何かを掴んだのだろう。
のちに、盟友であるルノワールはこんな言葉を残している。

「ドガが真のドガとなったのは、50歳以降だ。」

芸術は、心でつくられる。

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佐藤延夫 18年3月3日放送

180303-04

逆境を生きる ピエール・ルノワール

フランス印象派の画家、ピエール・ルノワールは
リウマチと闘っていた。
47歳のとき、この原因不明の病は、
両手両足の痛みを伴い、彼の体に押し入った。
関節炎と診断され、リハビリで回復した数年後、
サイクリング中の事故で右腕を骨折。
関節リウマチの病状を加速させることになった。
手足の硬直や、顔面神経痛。
70歳を過ぎると車椅子に座ったまま作品に向かった。
場合によっては、筆を手に縛り付けることもあったという。
だが、たとえ健康を犠牲にしてでも創作意欲が尽きることはなかった。
それはルノワールの言葉が表している。

「痛みはいつか消えるが、美は永遠に残るじゃないか。」

芸術家としての、生き様があった。

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佐藤延夫 18年3月3日放送

180303-05

逆境を生きる フランシスコ・デ・ゴヤ

スペインの宮廷画家、フランシスコ・デ・ゴヤ。
46歳のとき、強烈なめまい、腹痛、発熱、衰弱、難聴など
悪夢のような症状に見舞われた。
メニエール病や原田病、脳の感染症などの病気が疑われたが、
原因もはっきりしないまま、聴力を失った。
しかし、ゴヤの代表作の多くは、
それ以降に描かれている。
晩年には、目も見えなくなり、
書くことも読むこともできなくなっていたそうだ。
彼は言う。

「絵画とは、全て犠牲と決断である。」

その覚悟は、心に響く。

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佐藤延夫 18年2月3日放送

180203-01
Sulgenau
小説の舞台 ヨハンナ・シュペリ

スイスとリヒテンシュタイの国境にある小さな街、
マイエンフェルト。
そこからほど近いイェニンス村は、
「アルプスの少女ハイジ」の舞台と言われる場所だ。

作者のヨハンナ・シュピリも
チューリッヒ州の山村で育ったため、
作品の中には、彼女の愛したアルプスの大自然が描かれている。

私たちがよく知るアニメとは違い、
原作のハイジは、それほど平和な世界ではない。
ペーターは嫉妬深い少年であり、
セントバーナード犬も登場しない。

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佐藤延夫 18年2月3日放送

180203-02

小説の舞台 フランソワーズ・サガン

太陽の光を浴びて青く輝く海。
上から見下ろすと、白い模様のようにクルーザーが浮かぶ。

フランス南部、イタリアとの国境付近にあるリゾート地、
リヴィエラ海岸は、小説「悲しみよ こんにちは」の舞台となった場所だ。

当時、フランソワーズ・サガンは18歳。
作品がベストセラーとなりメディアの注目を浴びたが、
薬物やギャンブルで身を滅ぼすことになる。
サガンの有名な言葉をひとつ。

「ハッピーエンドで終わる偉大な小説はありません。」

それはまるで、彼女の生き様のようでもある。

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佐藤延夫 18年2月3日放送

180203-03
fui
小説の舞台 ヘルマン・ヘッセ

ドイツの南西部、バーデン=ヴェルテンベルク州に、
気高く佇む修道院がある。
マウルブロン修道院。
それは、小説「車輪の下」の舞台になった場所だ。
広大な敷地は城壁と壕に囲まれ、
礼拝堂のほかに診療所、食堂、宿泊所などの建物も並ぶ。
ヘルマン・ヘッセも14歳のとき、この神学校に入学したが、
わずか半年で脱走している。

「人生とは孤独であることだ。誰もほかの人を知らない。みんなひとりぼっちだ。」

そんな彼の言葉が似合う静謐な修道院は、
1993年、世界遺産に登録されている。

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佐藤延夫 18年2月3日放送

180203-04

小説の舞台 ルイス・キャロル

900年以上の伝統を誇るカレッジ。
煉瓦造りの建物、青空を刺すような教会の尖塔は、
眺めているだけで襟を正したくなる。

イギリスの大学都市、オックスフォード。
ここは「不思議の国のアリス」の作者、
ルイス・キャロルが暮らした場所だ。

本名は、チャールズ・ラトウィッジ・ドジソン。
オックスフォードの数学講師でもあった彼は、
ある日、少女たちに奇想天外な物語を話して聞かせた。
即興でつくったストーリー「地下の国のアリス」は、
「不思議の国のアリス」というタイトルに変わり、
現在では200以上の言語で翻訳されている。
ルイス・キャロルは、こんな言葉を残した。

「どっちへ行きたいかわからなければ、どっちの道へ行ったって
大した違いはないさ。」

きっと、それが不思議の国で生き抜くヒント。

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