‘佐藤延夫’ タグのついている投稿

佐藤延夫 17年12月2日放送

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Dolph Kohnstamm
絵本作家の心 ディック・ブルーナ

絵本の中のミッフィーは、いつも口をつぐんでいる。
その理由は、
絵の表情に左右されることなく、
子どもが想像力で楽しむ余地を残すため。
オランダ出身の絵本作家、ディック・ブルーナは、
そんなシンプルさを追い求めた。
キャラクターは表情を変えないが、
後ろ姿やレイアウトで心情を表現する。
言葉にリズムが生まれるように、
文章は何度も何度も書き直す。
子どもが2回読めば暗記できてしまうほどシンプルに。

子どもの気持ちを一番に考えた絵本作家は
今年、89歳でこの世を去った。
だが、彼のスタイルは永久に本の中で微笑み続ける。

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佐藤延夫 17年11月4日放送

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inefekt69
作家と京都 夏目漱石

夏目漱石は、生涯で四回、京都を訪れている。

最初は26歳の夏、親友の正岡子規とともに。
そのとき衝撃を受けたのは、
初めて口にする食べ物「ぜんざい」だった。
汁粉に目がない漱石は、その味を絶賛している。
41歳の冬。二度目の京都では、
厳しい寒さに舌を巻いた。
その後も、43歳の秋。
亡くなる前の年、49歳の春にも京都を旅している。
そして、こんな言葉を残した。

「見る所は多く候 時は足らず候。」

11月の京都は、
時間がいくらあっても足りなくなりそうだ。

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佐藤延夫 17年11月4日放送

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Thilo Hilberer
作家と京都 井上靖

井上靖は、青春時代を京都で過ごした。

学生のころ、同じ下宿の親友と何度も訪れた龍安寺。
石庭の静寂とした美しさに、永劫不変の命を感じた。
大阪の新聞社に勤めてからも、
仁和寺の仁王門をくぐりにわざわざ出向いている。
そのためか、京都を舞台にした作品は多い。
短編に登場する「きぬかけの道」。
龍安寺と仁和寺を結ぶこの道は、
彼の散歩道でもあった。

11月の京都は、歩いても歩いても、歩き足りない。

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佐藤延夫 17年11月4日放送

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tetsukun0105
作家と京都 与謝野晶子

歌人、与謝野寛は、弟子二人を誘い、秋の京都に向かった。

弟子のひとりは、鳳晶子だった。
三人は永観堂で紅葉狩りを楽しんだあと、
寛の定宿、華頂温泉に泊まった。
その日、晶子が詠んだ歌は、
今も永観堂の境内、弁天池に残されている。

 秋を三人(みたり) 椎の実なげし 鯉やいづこ 池の朝かぜ 手と手つめたき

明治33年11月5日のことだった。
翌年の正月、晶子と寛は再び京都で落ち合い、
密かに愛を育んでいる。

11月の京都は、内なるものを駆り立てるのだろうか。

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佐藤延夫 17年11月4日放送

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heiyo
作家と京都 谷崎潤一郎

潺湲、という言葉がある。
文字を見ると難しいが、
意味は、水の流れる様子や音のことだ。

作家、谷崎潤一郎は、
京都下鴨に居を構えたとき、屋敷を潺湲亭と名付けた。
石畳を歩き桧皮葺の中門をくぐると、
池泉回遊式の庭が広がっている。
母屋の縁側から橋が通じており、
離れの奥に、滝の流れる築山が見えた。

谷崎はこの地に7年間暮らしたのち、
熱海に転居するのだが、春と秋には必ず京都に赴き、庭を眺めた。

この家を手放すとき、
現状のまま使ってもらいたい、という谷崎の願いは叶えられ、
「石村亭」という名前で、次の持ち主によって大切に管理されている。

京都には、谷崎潤一郎の愛した風景が残っている。

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佐藤延夫 17年11月4日放送

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どらどら
作家と京都 芥川龍之介

京都は東山区にある青蓮院。
境内の巨大なくすのきが長い歴史を感じさせる。
この庭は、芥川龍之介も好んだという。

室町時代、相阿弥によって造られた庭園は、
粟田山を借景にした池泉回遊式となっており、
紅葉の時期は言葉を失うほどの美しさに包まれる。
芥川は、室生犀星にこんな手紙を送っていた。

 粟田口の青蓮院も人は余り行かぬところなれど
 夜も小ぢんまりとしてよろし
 是非みるべし

現在は境内がライトアップされている。
夜の紅葉も、是非みるべし。

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佐藤延夫 17年10月1日放送

tanizaki

住まいが語るもの/谷崎潤一郎

近代文学の作家は、
引越しを好む者が多かったが、
その中でも群を抜くと言われているのは
谷崎潤一郎だ。

三人目の妻、松子夫人と暮らした住居、倚松庵は、
転居に次ぐ転居の中で、比較的長く滞在したと言える。
応接間は全てフローリング。
ドアにはステンドグラスがはめ込まれ、
冬は備え付けの薪ストーブに火を入れた。

「細雪」を執筆した当時の住まいであり、
部屋の細部まで作中に描写されている。

家は、作品に奥行きを与える。

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佐藤延夫 17年10月1日放送

tubouti

住まいが語るもの/坪内逍遥

作家、坪内逍遥が晩年、居を構えたのは
熱海の水口村だった。
それまでの仕事場だった荒宿は
少しずつ騒がしくなり嫌気がさしていた。
閑静な場所を選び、
自ら図面を引いた新たな住まい。
そこには立派な柿の木が二本立っており、
双柿舎と名付けられた。

母屋は茅葺の二階建て。
応接間のほかに十畳の客間、
七畳の茶の間があり、
二階は書斎となっている。

「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ。」

そんな言葉を残した逍遥。
全てを俯瞰で見つめる作品は、
こだわり抜かれた一室で突き詰められた。

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佐藤延夫 17年10月1日放送

Mushanokoji_Saneatsu_in_1947

住まいが語るもの/武者小路実篤

武者小路実篤が晩年に暮らしたのは、
調布、仙川の住まいだった。
モダンな木造平屋建て。
玄関を入ってすぐの応接間には
洋風の調度品が並べられ、
編集者や画商など、客人が耐えなかったそうだ。
そして、当時はまだ珍しかったという
広いテラスやサンルーフも備えられている。

「自分の仕事は、自分の一生を充実させるためにある。」

実篤は、武蔵野の自然とともに
亡くなる前の年まで創作活動に没頭した。
現在もこの住まいは、実篤公園に残されている。

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佐藤延夫 17年10月1日放送

soseki

住まいが語るもの/夏目漱石

文豪 夏目漱石は、
生涯、借家暮らしだった。

ロンドンからの帰国後、
文京区千駄木に居を移す。
かつて森鴎外も暮らしたというその家は、
いわゆるオーソドックスな日本家屋で、
六畳の居間と書庫、八畳の座敷、
女中部屋の前には中廊下が備えられている。
ここで漱石は名作「吾輩は猫である」を執筆した。
鼠と戦った台所、猫のためのくぐり戸など、
作中に家の様子を垣間見ることができる。

「私は家を建てる事が一生の目的でも何でも無いが、
 やがて金でも出来るなら、家を作って見たいと思つている。」

漱石の思いが叶うことはなかったが、
「猫の家」と呼ばれるこの住居は、
愛知県の明治村に移築、公開されている。

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