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佐藤延夫 16年9月3日放送

160903-01

自叙伝 ジャン=ジャック・ルソー

「わたしの誕生は、わたしの不幸の最初のものとなった。」

これは思想家 ジャン=ジャック・ルソーによる自叙伝の一節だ。
「告白」というタイトルのとおり、
第1部は、作家になる前の「幸福な前半生」。
出生から青年時代まで、ユーモアを交え、
ときには下世話な話まで赤裸々に記されている。
第2部は作家になったあとの「不幸な後半生」。
被害妄想による他者への批判がその中心となった。

ルソーが亡くなったあとに出版されたこの自叙伝は、
身勝手な内容とは裏腹に、彼の評価を上げていた。

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佐藤延夫 16年9月3日放送

160903-02
Dismas
自叙伝 ハンス・クリスチャン・アンデルセン

「わたしの生涯は波乱に富んだ幸福な一生であった。
 それはさながら一編の美しい物語である。」

デンマークの童話作家、
ハンス・クリスチャン・アンデルセンの自叙伝は
こんな書き出しで始まる。
14歳のとき、オペラ歌手を目指して
単身コペンハーゲンに乗り込む。
多くの協力者に恵まれ作家として成功を収めるも、
傷つき、軽蔑を受け、見下されてきた。
童話「みにくいアヒルの子」は、
彼自身を投影した作品だが、
それは深い孤独の裏返しとも言える。

人生に、単純明快なハッピーエンドなんて、ない。

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佐藤延夫 16年9月3日放送

160903-03

自叙伝 ルイ・エクトル・ベルリオーズ

フランスの作曲家、ルイ・エクトル・ベルリオーズ。
彼の有名な作品「幻想交響曲」には、
「ある芸術家の生涯からのエピソード」という副題があり、
ベルリオーズの自伝的な側面を持っている。

「稀有な想像力を持つ芸術家が失恋をし、
 服毒自殺をはかるも、彼女の幻覚を見てしまう。」

そんな恋の自叙伝を音楽に変えて
代表作にしてしまうのだから、
わざわざペンを握る必要もないだろう。
だが実際は、「ベルリオーズ回想録」というタイトルで自伝を残した。
しかも、かなり自分に都合良く脚色をしている。

身勝手なほうが、芸術家らしい。

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佐藤延夫 16年9月3日放送

160903-04

自叙伝 ベンジャミン・フランクリン

環境に恵まれなかった少年が、独学で教養を身につけ
勤勉、節約を旨とし、印刷業で成功を収める。
政治の世界に進出したあとは、アメリカの独立に貢献する。
アメリカの政治家、ベンジャミン・フランクリンの自叙伝は
明治時代の日本でも人気になった。
病床にあった正岡子規は、こんな言葉を残している。

「去年の今頃はフランクリンの自叙伝を日課のやうに読んだ。
 日本にもこれを読んだ人は多いであらうが、余の如く深く感じた人は
 恐らくほかにあるまいと思ふ」

アメリカを代表する真実のサクセスストーリーは、
残念ながら未完のまま終わっている。

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佐藤延夫 16年9月3日放送

160903-05

自叙伝 カール・グスタフ・ユング

自叙伝というものが、
自身の半生をエピソードとともに語るものだとすれば、
カール・グスタフ・ユングの場合、
それはかなり違ったものになる。

ユングの意思により死後に出版された自伝は、
時系列的に進みながらも、
その中身は主に内的世界で構成されている。
ときに思考や感情よりも深い領域の「夢」、「幻覚」といった部分にまで迫り、
平気で読み手を置き去りにする。
そこには、立身出世も幸せな物語もない。
心のひだが渦巻いている。

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佐藤延夫 16年8月6日放送

160806-01

作家とオリンピック 三島由紀夫

1964年。
三島由紀夫は、39歳になっていた。
そのころは、代表作「仮面の告白」や「金閣寺」が英訳され、
海外でも高い評価を受けている。
ノーベル文学賞の有力候補にもあがっていたという。
そんなとき彼が取材したのは、東京オリンピックだった。
開会式の風景を克明にレポートしている。

「坂井君は緑の階段を昇りきり、聖火台のかたわらに立って、成果の右手を高く掲げた。
 そこは人間世界で一番高い場所で、ヒマラヤよりもっと高いのだ。」

三島由紀夫は、スポーツの祭典を好意的に捉えた。
あれから半世紀。
31回目のオリンピックが、はじまった。

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佐藤延夫 16年8月6日放送

160806-02

作家とオリンピック 岡本太郎

1964年。
岡本太郎は、53歳だった。
東京オリンピックでは、デザインの一部を任され
参加メダルの表側を担当している。
ちなみに、最初にこの仕事の話が来たとき、
選手としてオファーされたと勘違いしたという。
いかにも彼らしいエピソードだ。
そして東京オリンピックのマラソンでは、新聞にコラムを書いている。

「赤、青、緑、ナマな色とりどりのパンツやランニング。
 その中に真っ黒いテラテラした膚(はだ)。
 着るものよりも、肉体の色どりがさらに強烈だ。」

岡本太郎の見たオリンピックは、やはり芸術の一部だった。

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佐藤延夫 16年8月6日放送

160806-03

作家とオリンピック 星新一

1964年。
東京オリンピックの年、星新一は38歳だった。
数年前、日本SF作家クラブ設立に参加し、
毎年のように短編集を上梓していたころ。
新聞に、オリンピックを題材にした短編が掲載されている。

「今日はオリンピックでも見に行くとするかな。」
「あら、うちの立体カラーテレビで見物すれば、同じことじゃないの。」

こんな書き出しで始まる物語は、いかにも星新一の世界だった。
オリンピックは、世界の驚異的な繁栄のため毎年開催され、まもなく年に2回となる。
旅行サービス社に電話をすれば、空中ステーションから
大型ロケット機で開催地に運ばれる。
興奮した観客が現れると、鎮静作用のあるガスが噴射される。
そして特別オリンピックは、月の第一ムーンシティで行われる。

タイトルは、「オリンピック2064」。
星新一の想像するスポーツの祭典は、
今よりも、ずっとずっと未来の話だ。

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佐藤延夫 16年8月6日放送

160806-04

作家とオリンピック 小林秀雄

1964年。
東京オリンピックの年、小林秀雄は62歳だった。
文芸評論家としての地位を確立し、
自らの作品でも、さまざまな賞を受賞した。
前年の1963年には、文化功労者にも選ばれている。
「文体をもった批評は芸術作品だ。」
三島由紀夫にそう言わしめるほどの彼が、
東京オリンピックの記事を書いた。

「何か感想を書かねばならぬ約束で、原稿紙はひろげたものの、
 毎日、オリンピックのテレビばかり見ていて、何もしないのである。」

オリンピックは、作家の手を止めてしまうほどの媚薬なのか。

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佐藤延夫 16年7月2日放送

160702-01
John Stango
追悼モハメド・アリ

2016年6月3日。
時代に君臨したボクサーが、この世を去った。
モハメド・アリ。
引退したのは35年も前になるが、
それでもなお、彼は世界のどこかに居た。
湾岸戦争ではイラクに渡り、人質解放に力を尽くした。
アトランタオリンピックのときは、
パーキンソン病で手を震わせながら聖火台に立っていた。
そんな彼の言葉だ。

「私は神話をつくり、神話の中で生きる」

男が死んでも、モハメド・アリという神話は、永遠に生き続ける。

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