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佐藤延夫 16年4月2日放送

160402-04

和菓子の源流/ういろうと陳宗敬

日本の菓子の中でも、
その発祥にさまざまな説が残っているのは、ういろうだ。
鎌倉時代初期、元から渡来した陳宗敬(ちんそうけい)という人が、ある薬を伝えた。
ところがその薬の名前が難しく、誰も覚えられない。
陳宗敬の役職が、礼部員外郎(れいぶいんがいろう)だったことから
それが転じて「外郎(ういろう)」と呼ばれるようになったそうだ。
当時、彼が伝えたお菓子もまた名前が定かではなく、
こちらも同じく「外郎(ういろう)」という。
もともとは黒砂糖で作られており、薬の外郎と色が似ていたから
同じ名前をつけたと言われている。
名古屋、山口、三重などで名物になっているものの
最初に商品化されたのは京都だという。

陳宗敬さん。あなたの伝えたものは、
調べれば調べるほど、不思議なお菓子になっています。

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佐藤延夫 16年4月2日放送

160402-05
ひでわく
和菓子の源流 まんじゅうと聖一国師

まんじゅう、と一口に言っても、
酒饅頭、揚げ饅頭など数え切れないほどの種類がある。
もちろんルーツもさまざまで、
鎌倉時代に、南宋から帰国した聖一国師(しょういちこくし)が伝えたのが酒饅頭。
博多にある茶屋の主人、栗波吉右衛門(くりはきちえもん)に、
酒で発酵させる饅頭の作り方を教えたのが始まりとされている。
もうひとつ、聖一国師が持ち帰ったものがお茶の種で、
それが静岡茶のルーツになっている。

酒饅頭を食べながら静岡茶をいただくときは、
聖一国師に感謝せねばなりません。

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佐藤延夫 16年3月5日放送

160305-01

相場師の人生 福沢桃介

明治生まれのその男は、農家の6人兄弟の次男坊。
下駄も買えないほど貧しく、
裸足で学校に通っていたという。
ただし頭脳は明晰だった。
9歳のときには、読むことすら難しい漢文を
独自の方法で暗唱し、教師を驚かせたそうだ。
もちろん野心も持っていた。
当時の口癖は、
「1億の金持ちになるのだ」。
明治時代の1億円は、現在では途方もない金額になる。
伝説の相場師、福沢桃介が
まだ岩崎桃介だったころの話だ。

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佐藤延夫 16年3月5日放送

160305-02

相場師の人生 福沢桃介

明治16年。
ある青年は、「学問のすゝめ」を読み、
福沢諭吉に憧れる。
そして慶應義塾に入学した。
成績は優秀。ハンサムな顔立ち。
さらに運動神経もいいとなると
注目を集めないはずもなく、
福沢諭吉夫妻の目に留まる。
次女、房(ふさ)の婿養子にならないかと
誘いを受けた。
だが、当時の恋人は、川上貞奴。
悩む青年に、諭吉はこんな条件を出した。
「養子になれば外国留学させてやる。」
その一言で、決断する。
そして岩崎桃介は、福沢桃介になった。

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佐藤延夫 16年3月5日放送

160305-03

相場師の人生 福沢桃介

福沢諭吉の婿養子となった福沢桃介。
アメリカで鉄道や電気事業を学び、帰国する。
北海道の鉄道会社に入社し、
さらに黒ビールなどを扱う会社を設立。
ビジネスマンと経営者、
どちらも商才を発揮するが
ある日、結核で倒れてしまう。
そして病床でこんな決断をする。
「療養しながら稼げる仕事を始めよう。」
それが相場師になったきっかけだった。
もちろん才覚もあった。
わずか1年で、千円を10万円に増やした。
今の金額では、数億円にもなるという。
兜町の飛将軍と呼ばれるようになっていた。

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佐藤延夫 16年3月5日放送

160305-04

相場師の人生 福沢桃介

事業経営に一番必要なものは、執着である。
反対に、株式相場で執着は禁物。
いつでも見切りよく転換することを心掛け、
一度に全部すくいとることをしてはいけない。

これは相場師、福沢桃介が唱えた、
株式投資で成功する秘訣だそうだ。
実際に、ある会社の株を買い占め、
大暴落する前に売り抜けている。
おそらく運も味方したのだろうが、
見切りの決断が見事だった。
日露戦争後の一時期だけで、
350万の利益を得たという噂も残っている。
当時なら億万長者になれる金額だ。

残念ながら、義理の父、福沢諭吉は
株式や投資など、相場全般が嫌いだったという。

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佐藤延夫 16年3月5日放送

160305-05
相場師の人生 福沢桃介

相場師、福沢桃介は、事業に目覚める。
目をつけたのは水力発電だった。
無尽蔵の資源、水を使ったビジネスというのが
いかにも彼らしい。
電気事業で業績をあげ、電力王と呼ばれるようになった。
ちなみに、福沢桃介が日本で最初に始めたことはあまりに多い。
電力の送電。
ダム式発電所の開発。
外国船のチャーター。
また、学生で一番最初に洋服を着た人物、とも言われている。
生き方そのものが、破天荒だった。

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佐藤延夫 16年2月6日放送

160206-01

与謝野晶子と温泉 三朝温泉

歌人、与謝野晶子は、日本中の温泉を巡った。
ただし優雅な温泉旅行ではない。
家計を支えるため、そして雑誌を発行する資金集めのために、
全国各地で講演や揮毫(きごう)を重ねた。
その合間に立ち寄ったのが温泉だった。
鳥取県の三朝温泉(みささおんせん)には、夫の鉄幹とともに訪れている。
日本でも珍しいラジウム泉のひとつだ。

  水と灯の 作る夜色の めでたきを 見んは都と 渓あひの湯場

この歌を聞くだけで、名湯だということがわかる。

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佐藤延夫 16年2月6日放送

160206-02
turnerw82
与謝野晶子と温泉 指宿温泉
温泉好きの人にはおなじみなのが、
温泉地に佇む歌碑だ。
与謝野晶子は、際立って歌碑の多い文人のひとりだろう。
一カ所に逗留して執筆をするのではなく、
定宿を持たずに全国を旅していたことには驚かされる。
九州にだって何度も足を運んだ。

  しら波の 下に熱沙の隠さるる 不思議に逢へり 揖宿に来て

指宿の砂むし温泉。
砂に埋もれてご満悦の表情が目に浮かぶ。

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佐藤延夫 16年2月6日放送

160206-03
さちどん
与謝野晶子と温泉 五色温泉

歌人、与謝野晶子は、
全国で100を超える温泉に赴いたという。
有名な温泉だけでなく、山間の秘湯にも足を伸ばしている。
信州の五色温泉もそのひとつだろう。
山深い松川渓谷に、彼女は紅葉の時期に訪れたようだ。
湧き出すときは無色透明だが、
天候や時間帯によってさまざまな色に変化する。
歌の中にも色のイメージが溢れている。

  五色の湯 板のかこひの 内側に うす墨となる 秋の夕ぐれ

雪景色となった風景も、ぜひ歌にしていただきたい。

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