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佐藤延夫 16年2月6日放送

160206-04
チャコ
与謝野晶子と温泉 伊豆・箱根の温泉

歌人、与謝野晶子には苦労が絶えない。
11人の子を養いながら借家を転々とし、
25年の間に8回も引っ越している。
だが50歳を越え、子どもが少しずつ巣立っていくと
湯宿に赴く回数も増えていった。
なかでも箱根や湯河原には毎年のように足を運んでいる。
それほど、このあたりの温泉が気に入っていたのだろう。
堂ヶ島温泉では、こんな歌を詠んだ。

  夕まぐれ 樋の湯烈しく 落ち来り 浴槽あはれに 揺れもこそすれ

箱根には有名な温泉が七湯あると言われており、
彼女は、20回以上も訪れたという。

  山荘へ 玉簾の瀧 流れ入り 客房の灯を もてあそぶかな

癒されたくなったら、のんびり湯浴みにでかけませんか。

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佐藤延夫 16年2月6日放送

160206-05

与謝野晶子と温泉 有馬温泉

歌人、与謝野晶子は
61歳のとき脳溢血で倒れた。
昭和15年5月のことだった。
ひと月前に吟行(ぎんこう)の旅をしており、
京阪神方面へ向かっている。
六甲から須磨へ。鞍馬山の九十九折は駕籠で登り、
天橋立などを見物するルートだった。
このとき立ち寄ったのが、有馬温泉だ。
長い歴史を持ち、日本三古湯(にほんさんことう)にも選ばれているが
彼女が湯浴みをした最後の温泉になってしまった。
残念ながら、このときの歌は残されていない。

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佐藤延夫 16年1月2日放送

160102-01

お札の人 福沢諭吉

天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。

この言葉を残した人が、
日本で一番価値のあるお札になっているのは、ちょっと面白い。

福沢諭吉さんが初めて一万円札に登場したのは、1984年。
今からもう20年以上も前になります。
ちなみに、この肖像画は56歳のときのもの。
子どもたちが結婚をし、親としての幸せを感じていた時期と言われています。

さて、今年のお正月、
どれほどの数の諭吉さんが
日本中を飛び交うでしょうか。

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佐藤延夫 16年1月2日放送

160102-02

お札の人 野口英世

学問は、一種のギャンブルである。

そんな大胆な名言を残したのは、
千円札の顔でもおなじみの、野口英世さんです。

彼の千円札が発行されたのは、2004年。
ちなみにお札の肖像画に髭を生やした人物が多いのは、
偽造防止のためと言われています。

ところでこの方、
実はかなりお金にルーズだったという説も残っています。
でも、あなたの財布の中の野口さんは、無駄遣いしてはいけません。

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佐藤延夫 16年1月2日放送

160102-03

お札の人 樋口一葉

恋とは尊くあさましく無残なもの也。

そんな言葉を残したのは、
五千円札の顔でもおなじみの、樋口一葉さんです。

いつお札になっても不思議じゃない女性、と言われ続けて、
ようやく日の目を見たのは、2004年のこと。
貧しさゆえの屈辱を味わいながら、
母と妹を養育し、婚約者にも逃げられてしまう。
その思いの雫が、数々の名作を生み出しました。

一葉さんが五千円札になった年は、
アテネオリンピックで女性選手が目を見張る活躍をしています。
さて、今年のオリンピックは、どんな名シーンが見られるでしょうか。

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佐藤延夫 16年1月2日放送

160102-04

お札の人 聖徳太子

日本の紙幣に最も多く登場した人物は、
どなたかご存知ですか?
ちょっと難しいかもしれませんね。
ではまず、お札の歴史を振り返りましょう。

明治時代、初めて肖像画入りの紙幣に登場したのは、神功皇后でした。
日本最初のお札の顔は、女性だったんですね。
それ以来、菅原道真、武内宿禰、和気清麻呂、藤原鎌足など
多くの歴史上の人物が名を連ね、
初の日本銀行兌換銀券では、大黒様になったこともあったんです。
そして昭和5年。ついに聖徳太子が登場します。
戦前に2回、戦後には5回、
しかも五千円と一万円では、四半世紀にわたって発行されました。
ミスター日本紙幣と言っていいかもしれません。

今でも、お年玉といえば、
聖徳太子の顔を思い浮かべる方も多いはず。

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佐藤延夫 16年1月2日放送

160102-05

お札の人 岩倉具視

薄いブルーのお札、といえば
懐かしく思う方がいらっしゃるかもしれません。
最後の500円札の肖像画は、岩倉具視さんでした。

発行されたのは、1969年。
東名高速道路が開通した年です。
やがて、1982年に500円硬貨が発行され、
その3年後、五百円紙幣の製造はそっと終わりを告げました。

貯金箱やタンスの奥、
家のどこかにまだ500円札があるというみなさん。
大丈夫です。まだ使えるそうです。

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佐藤延夫 15年12月5日放送

151205-01

指揮者の哲学 ブルーノ・ワルター

20世紀を代表するドイツの指揮者、ブルーノ・ワルター。
激情型のマエストロが多かったこの時代において、彼は異質の存在だった。
自らのことを「教育的指揮者」と喩えるように、
温和にして感情を表に出さず、その姿は心やさしき教師のようである。
そうは言っても、彼の言葉の端々には苦労がにじみ出ている。

  オーケストラはまるで百の頭を持つ竜である。
  彼らを思うままに操るのは容易なことではない。

ナチスに追放され、ヨーロッパを転々し
ついにはアメリカに逃れたワルター。
命の危険にさらされながらも、ステージではオーケストラと対峙していた。

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佐藤延夫 15年12月5日放送

151205-02

指揮者の哲学 レオポルド・ストコフスキー

イギリス出身の指揮者、レオポルド・ストコフスキー。
「音の魔術師」あるいは「非正統派の筆頭」と言われるように、
彼の演奏スタイルはかなり個性的だった。
曲のテンポを独自の解釈で自在に変更し、
批評家を敵に回すことも多かったという。
そして演奏のときにタクトを持つことはなかった。

 1本の指揮棒よりも、10本の指のほうが豊かな表現ができる。

ストコフスキーは、レコーディングにも積極的だった。
オーケストラの楽器の配置を、
録音しやすい現在のスタイルに変えたのも彼の功績である。

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佐藤延夫 15年12月5日放送

151205-03

指揮者の哲学 オットー・クレンペラー

ドイツの指揮者、オットー・クレンペラー。
演奏では、情緒的な美しさよりも、
ゆったりとしたテンポの中に独自の世界観をつくりあげた。

逸話の多い男だった。
厳格そうな風貌でありながら、女好き。
脳腫瘍に躁鬱病。そして、度重なる怪我にも見舞われた。
後頭部からステージに転落したこともあったが、
そのたびに不死鳥のように復活を遂げた。
練習ではオーケストラに怒鳴り散らし、
演奏中も観客と口論する。
そんな彼が残した言葉。

  指揮とはどんなことかと問われても答えることはできない。
  なぜなら、指揮というものは自分自身で掴み取るものだからだ。

目を閉じてタクトを振る独特の姿は、指揮者よりも
独裁者という言葉がよく似合う。

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