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佐藤延夫 15年5月2日放送

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生みの親/斎藤義政

大正時代、フルーツパーラーを経営していた斎藤義政は、
秋冬用の新メニューを考えていた。
イチゴやスイカなど人気の果物がない秋は、客足が遠のくからだ。

まずは、ヨーロッパで見た「パンチ」という甘いカクテルに
フルーツをたっぷり飾ろうと考えた。
では名前はどうするか。
当時の風刺漫画は「ポンチ絵」と呼ばれており、
そこからネーミングを拝借し、フルーツポンチに決まった。

季節のフルーツで彩られた新メニューは、
当初の狙いから大きく外れ、
一年中愛される看板メニューになったことは言うまでもない。

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佐藤延夫 15年4月4日放送

150404-01
まあぽん
空海と桜

真言宗の教えを広めるため、東北地方を巡っていた空海。
岩手山が間近に見える場所で農民たちに説法を始めた。
その後、空海は村人の用意した握り飯を食べて休むと
ここに来た記念として、
桜の枝でつくった杖を地面に突き刺した。
杖はすぐに芽を出し、村人たちは大切に育てたそうだ。

そんな伝説の残る桜は、
岩手県雫石に行けば会える。
その名を、七つ田の弘法桜という。

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佐藤延夫 15年4月4日放送

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謙信と桜

越後の春日山城を本拠としていた上杉謙信は、
ひとたび武田氏や北条氏の軍勢が近づくと
手勢を従えて出兵し、激しい戦闘を繰り返した。

初めて群馬の地、相俣(あいまた)を訪れた際、
謙信は手にした桜の枝を逆さに地面に刺し、
「この枝が芽吹けば幸先良し」と
自らの運命を占ったという。

群馬県の天然記念物にも指定されている桜、
謙信の逆さ桜は、赤谷湖のほとりに
悠然とそびえ立っている。

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佐藤延夫 15年4月4日放送

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mimin☆
又兵衛と桜

大坂夏の陣に出陣した後藤又兵衛は、
乱戦の中で討ち死にしたというのが通説だが
実は、ひとり落ち延びていた。
そんな伝説が残っている。
頭を丸め僧侶となり、
奈良のとある村で余生を送る又兵衛は
桜を慈しみ、我が子のように大切に育てたそうだ。
後藤家の屋敷跡に今でも残るのは、
樹齢300年を超える枝垂れ桜。

奈良県宇陀市にあるこの老木は、
又兵衛桜と呼ばれ、
毎年、多くの観光客が訪れている。

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佐藤延夫 15年4月4日放送

150404-04
いなぴょん
政宗と桜

わずか23歳で奥州を制覇した伊達政宗。
初陣を飾ったのは、弱冠15歳のときだった。
戦いには多くの家臣が付き添ったが
戦況は芳しくなく、
たったひとりの家来と敗走する羽目になる。
そして辿り着いたのが、桜の巨木の前だった。
大きな桜の根元には空洞があり、
中に潜み身を隠して敵の目をかわし
九死に一生を得たという。
のちに大名にまで出世した政宗は、
このときの恩を忘れず
家臣を遣わし、桜の保護にあたらせたそうだ。

山形県長井市に立つ草岡の大明神桜は
樹齢1200年。
歴史を一身に背負う風格を持っている。

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佐藤延夫 15年3月1日放送

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人体と会話した男たち アレクサンダー・フレミング

イギリスの細菌学者アレクサンダー・フレミングが
ブドウ球菌の培養をしているときに、その事件は起こった。
実験中の皿に青カビが舞い込み、
ブドウ球菌の成長を止めてしまったのだ。
しかし彼は、この無惨な実験結果から
インスピレーションを得た。
青カビを培養し濾過した液体には
抗菌物質が含まれている。
世界初の抗生物質「ペニシリン」の発見だった。

偉大なる発見は、失敗から生まれることが多い。

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佐藤延夫 15年3月1日放送

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人体と会話した男たち ウイリアム・ハーベー

「体の中を循環する血液。そのスタート地点は肝臓である」

「心臓の壁には無数の穴が空いている」

これは17世紀まで本当に信じられていた学説だ。
イギリスの解剖学者ウイリアム・ハーベーは、
それを真っ向から否定した。

彼の血液循環論によると、
血液はポンプの役割を果たす心臓を出発点とし、
動脈から静脈に流れ、また心臓に戻る。

今なら小学生でもわかりそうな知識だが、
そんな学説を唱えたハーベーを
当時の人々は「いかさまの医者」と陰口を叩いた。

真実はいつも困難を伴う。

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佐藤延夫 15年3月1日放送

150301-03

人体と会話した男たち ロベルト・コッホ

ドイツの片田舎に住んでいた医者が、
妻に買ってもらった顕微鏡で
炭疽病の研究に没頭する。
そして炭疽病の原因は微生物だと突き止め、
特定の微生物が特定の病気を引き起こすことを
はじめて証明してみせた。
彼の名は、ロベルト・コッホ。
ただ一種類の細菌だけ純粋に培養する方法を編み出し、
それはやがて結核菌やコレラ菌の発見にまで繋がっていく。

細菌学の権威となったコッホは、活躍の場を世界に広げる。
南アフリカで流行病の治療法を研究し
インドに赴きペスト菌の免疫を調査すると、
再びアフリカへ向かった。

晩年、コッホは妻とともに世界一周をする。
だが残念なことに、若かりしころ顕微鏡を買ってくれた妻ではなく、
のちに再婚した30歳も年下の女性だった。

永遠の愛というものは、学者でもなかなか発見できない。

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佐藤延夫 15年3月1日放送

150301-04

人体と会話した男たち 北里柴三郎

1860年に勃発した
フランスとプロイセンの戦い、普仏戦争では
兵隊の3分の1が破傷風で死んだと言われている。

治療法としては、病原菌の純粋培養が期待されたが
当時の技術では不可能というのが一般的な意見だった。

日本の医学者、北里柴三郎は
細菌学の権威、ロベルト・コッホに師事したのち、
破傷風の純粋培養に成功してみせる。
コッホは優秀な門下生の働きに、こう自慢したという。

「私のところには、北里がいる。」

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佐藤延夫 15年3月1日放送

150301-05

人体と会話した男たち ルイ・パスツール

それは、世界最古の発見だった。
中国の遺跡で発見された陶器には
醸造酒の成分が残っていた。
つまり紀元前7000年あたりには
すでに酒が飲まれていたことを証明する。

それほど長い歴史を持ちながら、
「なぜアルコールができるのか」という
単純な理由が明らかになるのは、19世紀を待つことになる。
発見者はフランスの生化学者、ルイ・パスツール。
醸造業者から受けた依頼がきっかけだった。
ワインの樽が2つあり
片方は発酵してアルコールになるが
もう一方は酸っぱくて飲めないと言う。
パスツールは、
発酵した樽には酵母菌が存在し、
アルコール発酵の要因となることを突き止める。
そしてフランスの醸造業者の危機を救ったそうだ。

細菌学の権威とも言われるパスツールだが、
実はお酒の功労者でもあったりする。
パスツールさん。
いつも美味しいワインをありがとうございます。

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