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佐藤延夫 14年5月3日放送

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T.Kiya
100年の一滴 汀夏子

13歳のときに観た舞台が、将来を決める。

のちに汀夏子という名前を持つ少女は、
宝塚に人生の全てを捧げた。
お下げ髪をばっさりと切り、
おとなしかった性格も変わっていった。

初舞台を踏んで10ヶ月後には、準主役。
自分の実力よりも半歩先を求められる苦しさを、
彼女は長い間、受け止めた。
そのためだろうか。
ある舞台で沖田総司を演じたとき、
いつか死ぬなら彼のように死にたい、と漏らしたという。

宝塚歌劇は、今年で100周年。
汀夏子こそ、トップスターの中のトップスターだ。そんな声も多い。

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佐藤延夫 14年5月3日放送

140503-04
T.Kiya
100年の一滴 安奈淳

両親が宝塚の大ファンで、
生まれた娘が宝塚歌劇団に入る。
そしてトップスターとして輝く。
そんな夢みたいな話がある。

51期生の安奈淳は、
熱烈な両親の思いとは反し、
クールな口数の少ないタカラジェンヌだった。

セリフが苦手、と自分で告白するほどの芝居下手で
人付き合いも得意ではなかった少女は、
自然体のまま、トップスターの座を守り続けた。

ただ辞めたくなり、目先のことも考えずに辞めた。
宝塚を去った理由も、実に彼女らしいと言える。

宝塚歌劇は、今年で100周年。
妖精のように繊細なトップスターも、
その歴史の一部を彩っている。

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佐藤延夫 14年4月5日放送

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苦節時代 レオナール・フジタ

フランスで、最も有名な日本人画家と言われる、
レオナール・フジタこと、藤田嗣治(ふじたつぐはる)。

二七歳でフランスに渡るも、
第一次大戦のあおりを受けて、日本からの送金が途絶えてしまう。
赤十字で看護師として働き、
アルバイトをいくつも掛け持ちするが
それでも生活は苦しく、
モンパルナスの安宿でパンひとつをかじる毎日が続いた。
そんなときでも、寝て食べる以外の全ての時間を、
創作活動に費したという。

のちに彼が生み出した独創的な油絵の技法は、
あのピカソですらため息をついたそうだ。

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佐藤延夫 14年4月5日放送

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苦節時代 小林一三(いちぞう)

大学を卒業したら新聞社に入り、小説家になる。
それが、ある男の夢だった。
しかしその願いは叶わず、銀行に就職する。

やる気も足らず、遊びだけを覚えて十数年。
同僚に誘われた会社設立の話も立ち消えとなり
妻子を抱え、路頭に迷うことになる。

そんなときに出会ったのが、
箕面有馬電気軌道(みのおありまでんききどう)という会社だった。
ここで初めて、男のアイデアが花開いていく。
人々が何を求めて喜ぶか。
その原則は、不遇の時代に見つけていたようだ。

彼の名は、小林一三。
のちの阪急電鉄の創業者である。

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佐藤延夫 14年4月5日放送

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苦節の時代 湯川秀樹

ノーベル物理学者、湯川秀樹の少年時代は
きわめて地味なものだった。
他人とあまり口をきかず、何を尋ねても
「言わん」という一言で済ますため、
「イワンちゃん」とからかわれた。

不調和で、バランスのとれない心。
しかし、内向きに注がれていたエネルギーは、
研究者として大成する起爆剤になっていた。
中間子理論の答えが見えたときのことを、
彼はこんな言葉で振り返る。

「十月初めのある晩、私はふと思いあたった」

それは自分との会話の中で、見つけたもの。

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佐藤延夫 14年4月5日放送

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苦節の時代 嵐寛寿郎

明治36年、京都で生まれた少年は、
小学校を卒業するとすぐ、丁稚奉公に出された。
着物の襟の製造販売店だった。

朝五時に起きて、荷車や自転車に油をさす。
冬でも足袋を履くことを許されず、一日中、配達で走り回る。
夜は十二時までミシンがけという重労働で、月給はわずか一円。
今の金額に直すと、4,000円ほど。
月に一度の休みは、チャンバラ映画やアメリカの喜劇映画を見て過ごした。

この少年は、十数年後、嵐寛寿郎という名前で
大衆の心を鷲掴みにする。
あのころ見た銀幕の世界に、自分の生きる場所を見つけた。

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佐藤延夫 14年3月1日放送



ゴーストの役割 ダルトン・トランボ

アメリカの映画脚本家で、
ダルトン・トランボという男がいた。
第二次大戦後、政治思想による弾圧で禁固刑となり
映画界を追放されると、妻とともにメキシコに移り住んだ。

偽名を使ってハリウッド映画の脚本を書き、
知人の脚本家の名前を借りたこともあった。
そして、ロバート・リッチ名義で参加した「黒い牡牛」は
アカデミー原案賞を受賞。
かの有名な「ローマの休日」も、
トランボが執筆したことが彼の死後、明らかになった。

ゴーストライターだけが、真実を知っている。

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佐藤延夫 14年3月1日放送


gullevek
ゴーストの役割 重松清

「流星ワゴン」「ビタミンF」など
数々の作品で知られる小説家、重松清。

編集者からフリーライターに転身し、
作家として売れる前から、ペンネームを使って仕事をした。
その名前は、田村章。
雑誌の記事、映画のノベライズ、テレビドラマの脚本、
芸能人のエッセイの構成なども手がけ、
伝説のゴーストライターと言われた。

実のところ、田村章のほか、
岡田幸四郎など20以上の別名を持っているそうだ。

プロのゴーストライターは、自分のゴーストになっている。

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佐藤延夫 14年3月1日放送



ゴーストの役割 川端康成

日本で最も美しい文章を書いた作家と言われる
川端康成。
その素顔は無口で、何を考えているかわからない
一風変わった性格だったそうだ。
本業の小説でも、筆が遅かったため、
何人ものゴーストライターを抱えていたという。

たとえば「東京の人」という作品は梶山季之によるもの。
「乙女の港」は中里恒子、
「文章読本」は伊藤整の代筆と言われている。

さすがノーベル賞作家は、格が違う。

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佐藤延夫 14年3月1日放送



ゴーストの役割 ディック・フランシス

イギリスの小説家、ディック・フランシス。
競馬のジョッキーを引退したあと、新聞記者を経て文壇デビューを果たした。
ジャンルは、競馬ミステリー。
40冊以上の本を世に出し、日本にも根強いファンが多い。

しかし、最愛の妻メアリーを亡くしたときの
彼の告白が世間を驚かせた。

「作品を書かせてくれたのは妻だった。
 もう、手紙などのほかには何も書かないだろう。
 私の作品のほとんどは、彼女との仕事だった」

執筆の際に多大なる協力をしたメアリー夫人は、
著者のひとりとして本に名前が載ることを頑に拒んだという。
もちろん、この事実が明らかにされても、
ディック・フランシスの人気が衰えることはなかった。

美談になるか、後ろ指をさされるか。
それは、本人たちの心掛け次第なのかもしれない。

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