noriqnub
五味太郎とは1
絵本作家、五味太郎さんは
400冊を超える絵本を世に出している。
正確な数字がわからないのは、
数えるのをやめてしまったからだ。
本人曰く、絵本をつくるのはカンタン。
もちろんそれには彼なりの理屈がある。
生まれつき得意なことをやるのは楽。
楽しくやっていると、だいたいうまくゆく。
とてもわかりやすい、人生のルール。
noriqnub
五味太郎とは1
絵本作家、五味太郎さんは
400冊を超える絵本を世に出している。
正確な数字がわからないのは、
数えるのをやめてしまったからだ。
本人曰く、絵本をつくるのはカンタン。
もちろんそれには彼なりの理屈がある。
生まれつき得意なことをやるのは楽。
楽しくやっていると、だいたいうまくゆく。
とてもわかりやすい、人生のルール。
絵本作家、五味太郎さんは
若いときに、いろいろな仕事を経験した。
浴衣カタログのモデル。
運送会社の運転手。
建設現場の交通整理。
どの職業もそれなりに楽しかったけど、
彼には向いていなかった。
もちろん理屈は一緒だ。
楽しくやっているつもりでは、だんだん辛くなる。
自分に嘘をついて頑張っても、得られるものは少ない。
osanpo
五味太郎とは3
絵本作家の五味太郎さんは
絵について、こんな考えを持っている。
絵に描くしか方法がないと思う場合に絵を描けばいい。
つまり、絵でしか表せないことを絵で描き、
絵なら表せることを描く。
だから火の用心のポスターに、絵はいらない。
「火の用心」というコピーがすべてを表現しているから。
絵が、言い訳をするかのように
ちょこんと紙の上に載っている。
そんな姿を、彼はミジメだと言う。
Misato
五味太郎とは4
絵本作家の五味太郎さんは、
もともと絵に興味があるわけではなかった。
高校生のときにカントリーソングのバンドを組み、
コンサートのポスターを描いてみた。
友達の家の障子に、歌舞伎の絵を描いた。
学園祭のポスターも引き受けた。
油絵も始めてみた。
絵は得意だし、好きになってきた。
それでも将来、絵描きになるとは思わなかった。
美大を受験するが、どうも勝手が違う。
デザインの専門学校を見つけ、そのあと広告プロダクションに所属。
クライアントの要望に沿うものを作ることが苦痛になってきた。
そして絵本に辿り着いた。
本が好きで、絵や文章の世界が好き。
イラストもデザインも好き。
絵本は、彼の気持ちを全て受け入れてくれた。
ひでわく
五味太郎とは5
絵本作家、五味太郎さんの代表作「きんぎょがにげた」。
この本をつくるとき、最初に浮かんだのは
「きんぎょがにげた」というフレーズだけ。
それから先は、金魚と相談しながら描いたそうだ。
「どこに逃げる?」
「ちょっとあそこに行きましょうか」
「どれどれ」
金魚はいろんなところに逃げたがり、
気がつくと残りは2ページしかない、という状態。
ストーリーは、つくるものではなく、
勝手にできてしまうもの、なのだ。
@Doug88888
五味太郎とは6
「いったい、どうなっちゃうんでしょう」
絵本作家、五味太郎さんは、ピンチになると
いつもこう思うそうだ。
彼の人生には、いろいろトラブルがあった。
誰かに嫌味を言われて絡まれたり、
怖い人が突然やってきたり。
国税局とか病気も然り。
「いったい、どうなっちゃうんでしょう」
ピンチになっても動じない。
頭の中では、絵本のように愉快なストーリーが
描かれていくそうだ。
Lio-photo
五味太郎とは7
絵本作家、五味太郎さんが考える人生。
10代で度胸を決めて、
20代で情報収集して、
30代で実際に始めて、
40代からが人生の本番。
やりたいことがあれば、とりあえずやってみる。
そうすれば、自分の好きなこと、得意なことが見えてくる。
将来が不安なんて、当たり前。
そもそも生きてること自体が不安なわけで、
明日のことなんて誰にもわからない。
だから面白い。
それに気付かないと、自分のわかる範囲でしか
結論を出せなくなってしまう。
つまり、希望は社会の中ではなく、個人の意識の中にある。
そのメッセージを伝えるために、
彼は絵本を描き続けているのかもしれない。
Mourner
佐村河内守さんの生き方1
今までピアノを習った人なら、
誰でも一度は開いた、おなじみの教本がある。
赤のバイエルと、黄色のバイエル。
広島に住む、才能豊かな四歳の少年は、
この二冊をわずか四ヶ月でマスターした。
いつもお母さんは隣に座り、
ミスタッチをすると、竹の物差しで手を叩いたという。
それでも少年は、ピアノを弾ける喜びに包まれていた。
作曲家、佐村河内守さんが思い出すのは、お母さんのこんな言葉だ。
基本をおろそかにして、この先泣くのは、あなたです。
それは、全ての人生に通じる、愛の鞭。
alika89
佐村河内守さんの生き方2
作曲家の佐村河内守さんが
幼少時代に感銘を受けた曲は、
ベートーヴェンの「悲愴」だった。
叱られることを覚悟で、
「この曲を教えてください」と頼むと
いつも厳しいお母さんの表情が和らいだという。
朝6時から、復習レッスンを一時間。
学校から帰宅して5時から6時までレッスン。
夕食後に課題練習とレッスンを2時間。
こんな暮らしを続ける少年に、
練習曲とは大きく違う「悲愴」の音色は、
とても優しく聞こえたに違いない。
K YR
佐村河内守さんの生き方3
作曲家、佐村河内守さんとお母さんの
二人三脚のレッスンは、何年も続いた。
小学二年生になると、一年かけてバッハ作曲の「インベンション」を学び、
三年生では「ソナタ」と「コンチェルト」へ。
難関だったソナタを全て制覇した夜、
いつも標準語で指導するお母さんが、こう言ったそうだ。
今日までよう頑張ったね。
明日であんたは、お母さんを抜くじゃろう。
もうお母さんがあんたに教えてあげられることは、なくなったんよ。
標準語は、指導者としての言葉。
広島弁は、優しい母からの言葉。
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