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佐藤延夫 12年10月6日放送


masaaki miyara
ショートショートの神様3

ショートショートの神様、星新一は、
言葉に対して、独特のポリシーを持っていた。

ことわざのような常套句や駄洒落を嫌う。
固有名詞や流行言葉、時事用語を避ける。
登場人物は、エヌ氏、エフ氏など架空の名称にする。
名前らしいものにすると、読者によってイメージが変わってしまうからだ。

もうひとつ大切なもの。
それは、彼が繰り返し語っていた言葉に現れている。

  健全な常識があってこそ、
  常識の枠を取り外した意表を突くアイデアが生まれる。

ただの変人では、数々の名作は生まれないのかもしれない。

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佐藤延夫 12年10月6日放送



ショートショートの神様4

ショートショートの神様、星新一。

製薬会社の御曹司であり
将来は半ば約束されていたが、
経営者向きの性格ではなかった。
社長に就任した一年後、
彼はすべての権利を譲り渡すことになる。

それからは、毎日のように有楽町の碁会所で碁を打ち
映画を見て、親友たちと酒を飲んだ。

女性とデートすると、天体の話をした。
そうは言っても、地球と火星の距離はどれくらいか、というような
ロマンチックとは無縁のこと。

そんなある日、一冊の本に出会う。
そのときの興奮は、彼の日記に残されていた。

  ハレ カゼヒイテウチニネテイル 火星人記録ヨム コンナ面白いのはめつたにない

レイ・ブラッドペリのSF小説「火星人記録」。
実業家としての道を閉ざされた青年は、
きっと心が洗われるような思いで、ページをめくったのだろう。

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佐藤延夫 12年10月6日放送


Mavroudis Kostas
ショートショートの神様5

ショートショートの神様、星新一。

彼の代表作のひとつに、「ボッコちゃん」が挙げられる。

ボッコちゃんは、バーのマスターが気まぐれで作った女のロボット。
あらゆる美人の要素を取り入れた完全な美人、という設定で、
客に対して、一切お世辞を言わない。
会話は基本的に、おうむ返し。
この物語を書き終えたときの感覚を、
星新一は、克明に覚えていた。

  あれだけは、なんかほんとに神様が耳元で囁いてくれたという、
  よく書けたという感じがしますね。

神様からのご褒美は、不意に天から降ってくる。

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佐藤延夫 12年10月6日放送



ショートショートの神様6

ショートショートの神様、星新一。

日本の小説家の中で
彼が最も影響を受けたのは、太宰治だった。
百年に一人の天才と称え、こんな言葉を残している。

  ぼくの場合は、できるだけ乾いた文章を書いている。
  それも、考えてみれば、太宰治と逆の方向に走らなければ
  気が気じゃないからかもしれません。

誰かの真似ではなく、逆方向に走るという発想。
それが星新一を、SFの頂点に導いた。

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佐藤延夫 12年10月6日放送



ショートショートの神様7

ショートショートの神様、星新一は、
1997年、71歳でこの世を去った。
彼の遺品からは、単語や短い文章だけが書かれた小さなメモや、
言葉の断片を組み合わせた下書きが大量に見つかっている。

  幽霊と催眠術。友情と動物園。月賦と殺し屋。ドラムと鬼。
  チョウチンとツリガネ。まばたきと変装。左利きのサル。
  裏返しの憲法。やとわれた怪物。

もちろん、これらの単語を小説にするために、
彼なりの方法論があった。

1、知識の断片を、できるだけ多く、広く、バラエティに富んでそなえていること。
2、その断片を手際よく組み合わせ、検討してみること。
3、その組み合わせの結果がどうなるかを、すぐに見透かしてみること。

ひとつひとつの物語を紡ぎあげ、
いつしか、1001編ものショートショートが生まれた。
その中のひとつ、「天国からの道」という作品は、こんな出だしで始まる。

  天国は長いあいだ独占企業だったので、天使たちはしだいに役人臭を帯びてきた

今ごろはきっと、シニカルな眼差しで天国を眺めているのだろう。

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佐藤延夫 12年9月1日放送


ドメーヌ・ピータン
宮脇綾子の世界1

アップリケの芸術家、宮脇綾子さんは
ごく平凡な主婦でした。

夫は洋画家で、子どもが3人。
毎日、家の雑用に追われていると、
妻、あるいは母という立場で時間が流れてしまうことに
違和感を覚えたそうです。

そして第二次大戦が終わったとき、
自分の中に、ある気持ちが芽生えました。

  今まで防空壕の中に入ったり、出たりした時間が、
  そこにぽっかり浮いた。
  ああそうだ、この時間で何かしてやろうと思ったのだ。

戦争に負けたショックなんて
微塵も感じさせないほどの強さをお持ちでした。



宮脇綾子の世界2

アップリケの芸術家、宮脇綾子さんは
自由に、思うままに、作品をつくりました。

彼女のアップリケは、布のコラージュ。
モデルを観察し、大まかな形をスケッチして
それを布に写し取り、配色や布の柄を考える。

素材は、ありとあらゆるハギレのほか、
古着に布団の切れ端、コーヒーフィルターや畳縁まで何でも利用しました。

モチーフは、魚、果物、野菜、庭に咲く花々。
目に飛び込むものなんでも。全て。

  工夫し、考え、そしてそれが出来上がったときの喜び、
  この気持ちは作ってみた者でなくては分からない感激です。

綾子さんは、自分だけの芸術を手に入れました。



宮脇綾子の世界3

アップリケの芸術家、宮脇綾子さんは
少女時代に、裕福と貧しさの両方を味わったそうです。
小学生のとき親の家業が傾き始めると、
何人もいたお手伝いさんや書生がいなくなり、
女学校の道も諦めました。

  貧乏は悲しい。
  人にも言えず、憶い出したくもない。
  死んでしまいたいと思ったことも幾度かあった。

そのうち、ひとつの小さな縁から、
ある青年との文通が始まりました。
それはのちに夫婦という深い絆で結ばれる、
洋画家の宮脇晴(はる)さんでした。

運命は綾子さんに、やっと微笑んでくれました。



宮脇綾子の世界4

アップリケの芸術家、宮脇綾子さんは
なかなか頑固な人でした。

アップリケを始めるときも、
「家でできること」「人がまだ手がけていないこと」
という取り決めを自分の中でつくったそうです。

アップリケに型紙は使いません。
一日一点を目標にして、
百貨店で見つけた鮭の切り身や
干し柿、巨大なタコに、玉ねぎの断面。
暮らしの中にそっと佇む美しいもの、楽しそうなものを、
すべて作品に変えていきました。

  心して見れば道ばたの草花でも
  台所に転がっている野菜、枯れた花、一匹のさんまでも、
  美しいと思うと美しく見えるのである。
  その感動を私は布へ持っていっただけなのである。

彼女の作品を、一度ご覧になってみてください。
ハギレとハギレの間に、なんとも言えない温かさが見えますから。



宮脇綾子の世界5

アップリケの芸術家、宮脇綾子さんは
仕事に対して忠実な人でした。

自然をよく見ること。

デッサンをしっかりすること。

よきものを見、感動すること。

美は真似るものではなく創り出すこと。

巧くやろうと思うな全力を尽くせ。

そして、日本古来の美しさや職人技を、後世に残すべきだと思いました。

藍染めの木綿、縞(しま)、絣(かすり)、更紗(さらさ)、縮緬。
その全ての繊維は、伊勢海老や唐辛子、アネモネの花に変わり、
ユーモラスな命が吹き込まれていきました。



宮脇綾子の世界6

アップリケの芸術家、宮脇綾子さんの作品には、
必ず「あ」という文字が入っています。

これは、綾子の「あ」であり、
アップリケの「あ」でもあり、
何かに感動したときの「あ」という意味でもあるそうです。

魚の多くが受け口であること。
れんこんの穴の数はいつも9つであること。
そんな純粋な驚きが、「あ」という文字に込められています。

あなたも明日から、「あ」を探しに行きませんか。



宮脇綾子の世界7

アップリケの芸術家、宮脇綾子さんと夫の晴さんは、
一卵性夫婦と言われるほど仲良しだったそうです。

洋画家の晴さんは、綾子さんのアップリケに敬意を払っていたのでしょう。
亡くなる前、子どもたちにこんなことを言い残しました。

  お母さんをいたわって、仕事を続けさせてくれるように頼む。

それから何年かして開催された、
創作アップリケ40周年の展覧会。
その図録の巻末には、綾子さんから晴さんへ、愛の言葉が記されていました。

  あなたが病床でおっしゃいました。
  「お前に会えてよかった」と。
  私こそ、あなたと暮らした58年が、
  私の楽しい一生でした。すばらしい人生でした。
  ありがとうございました。合掌。
  もう一度あなた、お逢いしたいです。

こんな美しいラブレターには、
なかなかお目にかかれません。

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佐藤延夫 12年8月4日放送



オリンピックの話/桜井孝雄

オリンピックでは、名言が生まれる。

1964年の東京オリンピック。
桜井孝雄選手は、ボクシングのバンタム級で金メダルを獲得した。
直後、記者からこんな質問を受ける。
「感激の涙が見られませんが?」
それに対し、桜井選手はこう答えた。

 水を飲まなかったら、涙の出ようがないですよ。

過酷な減量があったから、
粋なコメントが生まれたのかもしれない。


harrymoon
オリンピックの話/釜本邦茂

オリンピックでは、本音が聞こえる。

1968年のメキシコオリンピックで
男子サッカーは、銅メダルを獲得した。
当時、プロの選手は出場できなかったため、全員がアマチュアだった。

「あなたたちは、プロ並の練習をしているのか?」
海外の記者からの質問に、7得点をあげた釜本邦茂選手は、こう答えた。

  我々はみんなビジネスマンだ。
  8時間、会社の仕事をして、そのあとで練習をしている。

そう。スポーツマンは、誇り高きビジネスマンでもあるのだ。



オリンピックの話/金栗四三

オリンピックでは、事件が起こる。

これは今からちょうど100年前、
1912年のストックホルムオリンピックでの出来事だ。

マラソン日本代表の金栗四三(かなぐりしそう)選手は、
レース途中で意識を失い倒れてしまう。
目を覚ましたのは翌日のことで、
記録上は、競技中に失踪、行方不明と扱われた。

それから月日は流れる。
ストックホルムオリンピック55周年を祝う式典で、
委員会は金栗選手を招待し、行方不明になった場所からレースを再開させた。

オリンピック正式記録。
54年8ヶ月と6日、5時間32分20秒3。
ゴール後に彼は、スピーチでこんなコメントを残している。

  長い道のりでした。この間に孫が5人できました。

オリンピック史上、最も遅いマラソン記録。
感動とユーモアに満ちたこのタイムは、今後誰にも破られることはないだろう。



オリンピックの話/富山英明

オリンピックでは、なにかが終わり、なにかが始まる。

1984年、ロサンゼルスオリンピック。
男子レスリング57キロ級決勝の舞台に立っていたのは、
富山(とみやま)英明選手だった。

 やっと12年が終わった。これが現役最後の試合です。

金メダルを獲得したときのコメントは、いかにも苦労人らしい。
ちなみに、記念写真のときにメダルを噛む、
今ではお決まりになっている仕草は、
この人が最初に始めたという説がある。


AirmanMagazine
オリンピックの話/加藤喜代美

オリンピックでは、予想外のドラマが生まれる。

1972年のミュンヘンオリンピック。
男子レスリング代表の加藤喜代美選手は、
試合以外でも日本中を驚かせた。
羽田空港まで見送りにきた婚約者に、
突然プロポーズをしたのだ。

 帰ったら式を挙げよう。体育の日なんてどう?

そして加藤選手は、金メダルを獲得。
日本中は、二度驚かされた。



オリンピックの話/遠藤幸雄

オリンピックでは、英雄が現れる。

ローマ、東京、メキシコと3度にわたり
金メダルを獲得した、男子体操の遠藤幸雄選手。

その生い立ちは、決して恵まれたものではなかった。
小学3年生のときに母親を亡くし、
中学生になると養護施設に預けられた。
体操と出会ったのも、そのときだった。

大学在学中、日本代表に選ばれ数々の国際大会に出場し、
東京オリンピックでは、日本人初の個人総合優勝を果たす。
遠藤選手は、こんなコメントを残した。

 私はその感動で泣いたのです。
 私の涙は金メダルの涙ではない。
 自分に勝てた感動で涙をこぼしたのです。

彼は、亡くなるまで養護施設への援助を続けていたという。
本物の伊達直人が、ここにいた。

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佐藤延夫 12年7月1日放送


Bob Embleton
バージニア・リー・バートン1

  むかしむかし、ずっと
  いなかの しずかなところに
  ちいさいおうちが ありました。

こんな書き出しで始まる絵本をご存知ですか。
アメリカの絵本作家、バージニア・リー・バートン作、
「ちいさいおうち」。

鮮やかな青色の表紙の真ん中には、
人の顔をしたような、小さなおうち。
そしてタイトルの周りに咲くひなぎくは、
バートンの大好きな花でした。

ひなぎくは、平和な日々の象徴として、
絵本の中にも登場しています。


garden beth
バージニア・リー・バートン2

バージニア・リー・バートンの絵本、
「ちいさいおうち」を読み進めると、
あることに気付きます。

それは、古き良きものが
社会の発展や文明によって
いとも簡単に汚されていく、ということ。

だからバートンは、物語の終わりを、こんな言葉で締めくくっています。

  ちいさいおうちは、もう二度と町へ行きたいとは思わないでしょう・・・
  もう二度と、町に住みたいなどと思うことはないでしょう・・・

それは、海辺の村の質素な暮らしに幸せを見つけた
バートンの生き方、そのものだったのです。


kelseywhytock
バージニア・リー・バートン3

アメリカの絵本作家、
バージニア・リー・バートンは
マサチューセッツ州で生まれました。

お父さんのアルフレッドは冒険家で、
お母さんのリーナは、イギリスの詩人でした。
何度も名前を変えるような不思議な人だったようです。

バートンの幼少期は、幸せに満ちていました。
お祝いの日はみんなで着飾って歌い踊り、
両親は友達を集めて人形劇もしてくれたそうです。
彼女はそのときの思い出を忘れませんでした。

「父は、お誕生日やクリスマスには、
 美しい挿絵のついた子どもの本をくれて、
 声に出して呼んでくれました。
 私の絵本への興味は、きっとこのことが出発点だったのでしょう」

幼いころの思い出は、大切に。
だって、幸せな人生をつくってくれるのですから。


danielel
バージニア・リー・バートン4

バージニア・リー・バートンが、
絵本作家になる前の話。

長男のために初めて書いた絵本は、
ホコリを主人公にしたお話でした。
13もの出版社にボツにされ、
長男アリスに読み聞かせても、
話の途中で眠り込んでしまったそうです。
そしてバートンはこう考えます。

「もしも彼らがもじもじし始めたら、潔く書き直すこと。
 最後まで集中して聞いたら、
 きっとほかの子どもたちも好きになるに違いない」

正直な子どもの感性に気づかされることは多い。



バージニア・リー・バートン5

アメリカの絵本作家、
バージニア・リー・バートンを知る人は、
みんな口を揃えて、こう言います。

「彼女は、いつも生きる喜びを体中にみなぎらせていた」

その絵を見ればわかるように、
彼女の描く主人公は、本の中から飛び出してきそうなほど
躍動感に溢れています。

バートンは、アトリエにフランクリンストーブと
お気に入りのレコードコレクションを持ち込み、
仕事に没頭すると「ノックしないで」と張り紙をして
部屋の中に閉じこもったそうです。

彼女が亡くなったあと、スケッチブックの片隅から、
こんなメモが見つかりました。

「よい本を作ること。
 そうでなければ全然やらないほうがまし」

仕事に対するまっすぐな気持ちも、
彼女の体に、みなぎっていたようです。


Mike Pennington
バージニア・リー・バートン6

アメリカの絵本作家、
バージニア・リー・バートン。
彼女の住んでいた家は、
フォリーコーブという入り江の村にありました。

もともとは車道に面していた家を
果樹園の中に移築して、
あたり一面には、大好きなひなぎくを植えたそうです。

その10年後に生まれた絵本が、
今でも世界中で読まれています。

「ちいさいおうち」
彼女の体験から生まれた物語は、
全米絵本の最優秀賞、コルデコット賞を受賞しました。


muffinn
バージニア・リー・バートン7

アメリカの絵本作家、
バージニア・リー・バートンは、
休むことを知らない人でした。

朝は4時半に起きてコーヒーで目を覚まし、
アトリエにこもります。
そして料理や瓶詰めを作り、鶏や豚の世話、
さらに子どもたちにはピアノのレッスン。
近所の主婦を集めて、デザインクラスまで開きました。

バートンを知る人は言います。

「彼女は、その日そのときに子どもがハッピーであるように。
 自分も夫もハッピーであるようにと、ただそれだけだったのよ」

みんなの幸せが、わたしの幸せ。


reegmo
バージニア・リー・バートン8

アメリカの絵本作家、
バージニア・リー・バートン。

彼女の絵本は、
いつも誰かのために書かれたものでした。

「いたずらきかんしゃ・ちゅうちゅう」は、長男アリスのために。
そして二作目の「マイク・ミュリガンのスチームシャベル」は、
次男マイケルのために書きました。
そして、日本でも大ヒットした「ちいさいおうち」。
その原書には、ひなぎくの絵のそばに、こんな言葉が記してあったそうです。

「ドージーに捧ぐ」

ドージーとは、愛する夫、ジョージのニックネームでした。

彼女の絵本が世界中で愛される理由。
それは、ページを開くたびに感じる優しさなのかもしれません。

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佐藤延夫 12年6月2日放送


mkrigsman
ジム・ロジャーズ1

冒険投資家、と呼ばれる男がいる。
その名は、ジム・ロジャーズ。

26歳のとき、投資の世界に足を踏み入れた。
資金はたったの600ドル。
その後10年間で、4200%を超える驚異的なリターンを実現し、
37歳の若さで引退。
そして次に彼が向かったのは、世界だった。
2年間かけてバイクで地球を一周。
数年後には、クルマでまた世界を回った。
ジム・ロジャーズは語る。

  私は、人生を楽しむ自由を手に入れたかった。

この男は大枚をはたいて、自由を買った。


Backpack Foodie
ジム・ロジャーズ2

冒険投資家、ジム・ロジャーズ。
ファンドマネージャーを引退したあとも、
ビジネススクールの教授、
テレビの司会者として活躍した。
そして2度の冒険旅行を終え、
家族を連れてシンガポールに移住。
現在も悠々自適な毎日を送っている。

果たして、彼の人生の優先順位とはなんだろうか。
それを示した言葉がある。

  まず最も大事なことは、殺されないようにすること。
  二番目が、人生を楽しむこと。
  三番目は、世界を知ること。

これが悔いのない人生に必要な、3つのルール。


winkyintheuk
ジム・ロジャーズ3

冒険投資家、ジム・ロジャーズ。
彼の投資には、わかりやすい哲学がある。

他人が目を向けないところに投資をし、
まだ注目されていない市場を発掘して利益をあげる。

たったそれだけのこと。
しかし彼の言葉を借りるなら、こうだ。

  絶望が支配している場所に、信念を持って投資をする。

そしてこんな言葉も残している。

  私ががっぽり儲けたのは、決まって人の群れと逆に向かったときだ。

大切なのは、先見の明。そして決断力。


rodrigoferrari
ジム・ロジャーズ4

19世紀は、大英帝国の時代。
20世紀は、アメリカの時代。
そして21世紀は、中国の時代だと
伝説の投資家、ジム・ロジャーズは語っていた。

そのとおり、彼はマンハッタンにある高級住宅を売り払い、
シンガポールに移住した。
アメリカドルが、世界の基軸通貨の地位を追われると予想したからだ。

さらに今後、世界の中心が中国とアジアになることを見据え、
2人の娘には中国を習わせている。

世界旅行で何度も中国を横断し、
その目で、その足で、アジアのエネルギーを感じたのだろう。
ジム・ロジャーズは、こんな手記を残している。

  上海は、オズの国のように現れた。
  この街は、私たちが生きている間に、21世紀資本主義の
  エメラルドシティになるかもしれない。

果たして彼の目に、現在の日本はどのように映っているのだろうか。


Michael Aston
ジム・ロジャーズ5

伝説の投資家、ジム・ロジャーズ。
彼は投資対象を徹底的に調べることで
数々の成功を収めてきた。
株に投資する場合は、全ての財務諸表に目を通し、
見通しについても必ず裏をとって確かめる。
そして自分の頭で納得がいくまで突き詰める。

  I think ではなく I know なのだ。

もちろん投資は、人に任せるものではない。
だからこんな極論が出てくる。

  自分で調べた会社の株を買いなさい。
  さもなければ、家で映画を見ているほうがいい。


ggallice
ジム・ロジャーズ6

伝説の投資家、ジム・ロジャーズ。
彼は成功するための、
いくつかのルールを持っている。
ルールといっても、それはごく当たり前のことばかり。

メールの返信を早くする。
懸命に働く。
他人のために正しい行いをする。

そのほかに、興味深い言葉も残っていた。

  専門家と称する輩は、いつもだいたい間違っている。

つまりは他人をあてにしてはいけない、ということ。


theseanster93
ジム・ロジャーズ7

伝説の投資家と言われた、ジム・ロジャーズ。
人生の前半は、ファンドマネージャーとして巨万の富を得て、
後半戦は世界冒険旅行に身を捧げた。
そして、興味のなかったものに目を向けた。

大変な時間とエネルギー、注意、お金、献身が必要となるもの。
それは家族だった。
これまで、子どもがいるのは哀れなことだと公言していた男は、
60歳にして初めての育児を経験し、
その考えを覆すことになる。

  私が生まれてからやってきたすべての冒険の中で、
  これこそが究極の冒険になるだろう。
  子どもは、私が見たことのない世界へ連れて行ってくれるだろう。

そして、こうも言っている。

  まだ子どものいない人は、ぜひさっさと家に帰って、しかるべく励まれよ。

今年70歳になるジムは、幼い娘たちの送り迎えを日課にしている。
伝説の投資家は、伝説のイクメンでもある。

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佐藤延夫 12年5月5日放送


sarsia
こどもの話/福沢諭吉

今ではあまりお目にかからないが、
その昔、子どもが家の手伝いをするのは
当たり前の話だった。

明治時代の小説家、福沢諭吉の場合。
庭の掃除や草取りなど、外回りの仕事は「第一類」、
廊下や雪隠など家の内部に関するものを「第二類」に分けた。
そして子どもたちに、このようなルールを定めた。

  雑巾も雑巾桶も自分にて始末し、何等の事故あるも他人の助けを借るべからず。
  雑巾掛けの水も自分にて汲むべし。湯も自分にて取るべし。

今日はこどもの日。
それは親子の役割を考える日、なのかもしれない。


Podknox
こどもの話/アインシュタイン

子どもに何かを習わせたいと考える親は多い。

物理学者のアインシュタインとて例外ではない。
6歳のとき、両親の発案でヴァイオリンを始めた。

高校時代には、バッハやモーツァルト、
タルティーニなどを弾きこなし、
物理学者になったあとも、演奏することが息抜きになった。
そしてこんな言葉を残した。

  テーブル、椅子、器いっぱいのフルーツ、そしてヴァイオリン。
  人が幸せになるのに、ほかに何が必要か。

今日は、こどもの日。
50年後の趣味を子どものうちに見つけられたら、幸せに違いない。



こどもの話/キュリー夫人

物理学者、キュリー夫人の父親は、教育熱心だったという。
でも、塾に通わせたり、成績表とにらめっこしたりするわけではない。

手紙を書くならば、文章は論理的に。
子どもたちを遠足に連れて行くときは、
名所旧跡を前もって研究し、
道すがら雄弁に説明する。
そして土曜日の晩にはいつも、
自作の詩を朗読して聞かせたという。
そしてキュリー婦人は生涯、この言葉を大切にした。

  人生の最大の報酬は、知的活動によって得られる。

今日は、こどもの日。
我が家の教育方針について、もう一度考えてみませんか。


Brigitte Djajasasmita
こどもの話/本田宗一郎

祖母は、「女甚五郎」と呼ばれるほど
手先の器用な女だった。
家庭の雑貨はもちろん、
機織り機や農機具まで作ってしまったという。

父親は、評判の鍛冶屋だった。
ノコギリや鍬だけではなく
見よう見まねで入れ歯を作り、
剃刀や猟銃の修理まで引き受けた。

そして息子は、彼らの魂を受け継いだ。
遺伝ではなく、伝承として。
本田技研の創業者、本田宗一郎は語る。

  人間にとって大事なことは、学歴とかそんなものではない。
  他人から愛され、協力してもらえるような徳を積むことではないだろうか。
  そして、そういう人間を育てようとする精神なのではないだろうか。

今日は、こどもの日。
襟を正して、また明日から頑張りましょうか。
大人も、子どもも。



こどもの話/パブロ・ピカソ

子どもは、親の真似をする。
スペインの画家、パブロ・ピカソも然り。
父親はいつも絵を描いていて、
その姿を見るのが好きだった。
ピカソ少年は、父親の真似をしない方がおかしい、という環境にいた。

だが、才能は平等ではない。
わずか13歳だった息子の絵を見たとき
その見事な鳩の描写に驚き、
父親は、二度と絵筆をとることはなかったという。
のちにピカソは語る。

  男性を描くたびに父親を思い出す。

今日は、こどもの日。
子どもが勉強しなくて悩んでいるお父さん、お母さん。
まずは、お手本を見せてみませんか。



こどもの話/J・F・ケネディ

アメリカ合衆国第35代大統領、
J・F・ケネディの母親、ローズは教育熱心だった。

九人もいる子どもひとりひとりのために
ファイルカードをつくり、
成長の様子をつぶさに記録したという。

  子どもたちを優れた人間に成長させるためには、
  小さいときから始めなければならない。

今日は、こどもの日。
子どもの姿を見守ることが、教育なのかもしれません。



こどもの話/エジソン

多くの子どもは、親に尋ねる。

どうして船は浮かんでいるのか。
どうしてモグラは、いつも土の中にいるのか。
どうしてガチョウは卵の上に座っているのか。

発明王、トーマス・エジソンの母親は、
無邪気で途方もない質問に、ひとつひとつ答えたという。
そして、八歳で小学校を退学したエジソン少年を自ら教育し、
野菜を保存しておいた地下室を、実験室として与えた。
その恩を、彼は生涯忘れなかった。

  今日の私があるのは母のおかげです。
  母はとても誠実で、私を信頼してくれていましたから、
  私はこの人のために生きようと思いました。
  この人だけはがっかりさせるわけにはいかないと思ったのです。

今日は、こどもの日。
それは母を想う日でもある。

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