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佐藤延夫 12年4月1日放送



4月1日の言葉/マーク・トウェイン

音の速さは、およそ秒速340m。

でも、私たちの発する言葉は、
ときにそのスピードを追い抜くようだ。

それがたとえば、興味深いうわさ話だった場合。

アメリカの作家、マーク・トウェインは、
こんな言葉を残している。

  真実が靴を履こうとしているとき、
  嘘は既に世界の半分に広まっている。

今日はエイプリルフール。
どうか平和な嘘をついてください。



4月1日の言葉/フリードリヒ・ニーチェ

もしも人間を、
正直者と嘘つきの2種類に分けるとするならば、
どちらのほうが、心豊かに楽しい人生を送れるだろうか。

ドイツの哲学者ニーチェは、
こんな言葉を残している。

  日常生活で、人々がおおむね正直なことを言うのはなぜか。
  それは第一に、嘘をつかないほうが気楽だからである。

今日はエイプリルフール。
どうか優しい嘘をついてください。



4月1日の言葉/オスカー・ワイルド

たとえば、
朝から曇り空で、
雨が降るわけでもなく
昼にはいつものランチを普通に食べ、
仕事でトラブルも起きず、
いつも通りに家路に就く。

そんな平凡な一日を過ごしたとして、
あなたは愛する人に、
今日という日をどのように報告するだろう。

何もなかったよ、と正直に言うか。
架空の出来事を語り始めるか。

詩人、オスカー・ワイルドは
こんな言葉を残している。

  嘘つきの目標は、単に喜ばすことであり、
  悦びを与えることである。

今日はエイプリルフール。
どうか幸せな嘘をついてください。



4月1日の言葉/ジャン=ジャック・ルソー

一度、嘘で痛い目に遭った人なら、
すぐにわかるだろう。

何気ない気持ちで発した小さな一言が、
知らない場所で一人歩きし、
ごてごてした尾ひれまで付けて、
その結果、どうなることか。

哲学者ルソーは、
こんな言葉を残している。

  嘘は雪玉のようなもので、
  長い間転がせば転がすほど大きくなる。

今日はエイプリルフール。
どうか幸せな嘘をついてください。



4月1日の言葉/ドストエフスキー

人は何かを守ろうと思う。
自分の立場や
思い描いた将来のために、
平気な顔で嘘をつき
あらぬ噂を流したりする。

その結果、誰かを傷つけたとしても、
気づかないふりをしてやり過ごし、
大切な何かを守り続ける。
自分の心を偽ってまで。
でもそれが、人間なのかもしれない。

ロシアの作家、ドストエフスキーは、
こんな言葉を残している。

  人生において何よりも難しいことは、嘘をつかずに生きることだ。
  そして、自分自身の嘘を信じないことである。

今日はエイプリルフール。
どうか幸せな嘘をついてください。



4月1日の言葉/ジョージ・ゴードン・バイロン

ある噂話を目の前にすると、
人はまず、真実なのか、嘘なのかを確かめようとする。

シロか、クロか。
どちらかに振り分けないと気が済まなくなる。
でも、案外、その差は小さなものなのかもしれない。

イギリスの詩人バイロンは、
こんな言葉を残している。

  嘘とは何か。それは変装した真実にすぎない。

今日はエイプリルフール。
どうか優しい嘘をついてください。



4月1日の言葉/バーナード・ショー

この社会の多くは、信頼関係で成り立っている。

ところが、その頑丈に築かれた城壁は
あるきっかけで、見るも無惨に崩れ去ってしまう。
そして救いようのない後遺症を残す。

アイルランドの作家、バーナード・ショーは、
こう語る。

  嘘つきの受ける罰は、
  人が信じてくれないというだけのことではなく、
  ほかの誰も信じられなくなる、ということである。

今日はエイプリルフール。
どうか罪のない嘘をついてください。



4月1日の言葉/芥川龍之介

真実は、正直だが、重たい。
そしてときに残酷だ。
だから人は、過酷な真実に遭遇すると、
オブラートに包むことを考える。

小説家、芥川龍之介は、
こんな言葉を残した。

  わたしは不幸にも知っている。
  ときには、嘘によるほかは語られぬ真実もあることを。

今日はエイプリルフール。
どうか幸せな嘘をついてください。

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佐藤延夫 12年3月3日放送


parpiro
思い出の街を訪ねて/小林多喜二

坂と雪の街、小樽。

作家、小林多喜二は
この地で蟹工船を書きあげた。

小樽駅から徒歩10分、小樽文学館には、
彼の生きた時代の資料が数多く保管されている。

旭展望台まで足を伸ばすと、レンガ造りの文学碑に会うことができる。
そこに刻まれているのは、獄中から友人に宛てた手紙の一節。

  赤い断層を処々に見せている
  階段のような山にせり上がっている街を
  ぼくはどんなに愛しているか分からない

小樽には、多喜二の心が眠っている。


sarmoung
思い出の街を訪ねて/寺山修司

青森県の三沢駅から車で20分ほど走ると、
三沢市民の森公園がある。

この一角には、寺山修司の石碑だけ立っていたが、
生前親しかった関係者や友人の協力で、
寺山修司記念館ができた。

ここに、修司の母はつが大切に保管していた
遺品、原稿、ポスターなどが展示されている。

  もしかしたら、私は憎むほど故郷を愛していたのかも知れない

これは「田園に死す」の一節。
言い表せないほどの思いが、故郷にはあった。


備忘録 旅人
思い出の街を訪ねて/志賀直哉

奈良県は新薬師寺のそば、高畑(たかばたけ)に、
志賀直哉の住まいが残っている。

自ら設計したとされる和洋折衷の屋敷は、
武者小路実篤や谷崎潤一郎も訪れ、
高畑サロンと呼ばれていたそうだ。
志賀直哉は、この場所で奈良の美しさを讃えた。

  今の奈良は昔の都の一部に過ぎないが、名画の残欠が美しいように美しい。

こちらの屋敷には、遺品や資料は一切展示されていない。
遺言でそのように決められていたそうだ。


中年ピロ
思い出の街を訪ねて/石川啄木

  やはらかに 柳あをめる
  北上の 岸邊目に見ゆ
  泣けとごとくに

岩手県玉山村の北上川河畔には、
歌人、石川啄木の石碑がある。
西を見れば、雪を冠した岩手山(いわてさん)。
東には姫神山(ひめかみさん)を望むことができる。
啄木は、代用教員だった時代に、
よくこのあたりを散策していた。

石碑から10分ほど歩くと、石川啄木記念館に辿り着く。
敷地内には、啄木が教鞭をとった旧渋民(しぶたみ)小学校の校舎、
それに、一家で間借りしていた斉藤家の母屋が移築されている。

  ふるさとの 訛なつかし
  停車場の 人ごみの中に
  そを聴きにゆく

啄木の世界に触れると、
この歌を思い出すことができそうだ。


daidai
思い出の街を訪ねて/萩原朔太郎

空っ風、赤城おろしの街。
前橋は、萩原朔太郎の故郷だ。

市内を流れる広瀬川のそばに、
萩原朔太郎記念 前橋文学館が建っている。
帰郷という詩の中に、彼の思いが蘇る。

  わが故郷に帰れる日
  汽車は烈風の中を突き行けり。
  ひとり車窓に目醒むれば
  汽笛は闇に吠え叫び
  火焔(かえん)は平野を明るくせり。
  まだ上州の山は見えずや。

故郷に向かうと、
人は誰でもロマンチストになる。


ドメーヌ・ピータン
思い出の街を訪ねて/島崎藤村

岐阜は、木曽路の馬籠宿(まごめじゅく)。
ここに島崎藤村の記念館がある。

馬籠は藤村の生まれ故郷で、
9歳のときに離れてから戻ることはなかったが、
そこには今でも彼の言葉が飾られている。

  血につながるふるさと
  心につながるふるさと
  言葉につながるふるさと

故郷への思いは、なによりも深く、いとおしい。



思い出の街を訪ねて/坂口安吾

海の向こうに佐渡島を望む
新潟、寄居浜(よりいはま)の丘には、
坂口安吾の石碑が、波の音と一緒に佇んでいる。

  ふるさとは
  語ることなし 安吾

そして日本有数の豪雪地帯として知られる旧松之山町(まつのやままち)、
現在の十日町市は、安吾の第二の故郷。
彼が馴染み通った家は、大棟山(だいとうざん)美術博物館になっている。
その傍らにも、石碑がひとつ。

  夏が来て
  あのうらうらと浮く綿のような雲を見ると
  山岳へ浸らずにはいられない

これは、小説「黒谷村」の一節。
安吾は新潟の海と山を愛した。

ふるさとは語ることなし

彼が言ったその言葉の意味を、確かめに行きませんか。

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佐藤延夫 12年2月4日放送



松平康隆さんを偲ぶ1

優しい大人が増えている。

学校の先生も、
会社の上司も、
子どもを躾ける親までも。

その優しさは、相手を向上させることではなく、
自分が良く思われたいという思いが見え隠れする。

男子バレーボールの元日本代表監督、
松平康隆さんは、語る。

  大事なことをわからせるために、
  嫌われてもいいという覚悟がなければ
  監督だろうか親だろうが、まともにつとまりゃしない

昨年の大晦日、
厳しい大人がこの世を去った。



松平康隆さんを偲ぶ2

試合を楽しみたい、とコメントするスポーツ選手がいる。

プレッシャーと向き合わない方法なのか、
本気であるが故の照れ隠しなのか、
それとも、本当に楽しむつもりなのか。

男子バレーボールの元日本代表監督、
松平康隆さんは、語る。

  エンジョイしに行くのなら、
  オリンピックとは言わず、ピクニックと言え

こんなことばかり言うから嫌われるんだ、
と松平さんは笑う。


ちづ
松平康隆さんを偲ぶ3

たかがスポーツ、と言う人がいる。

そんな相手に対して、
男子バレーボールの元日本代表監督、
松平康隆さんは本気で抗議した。
ときには作家に、そしてときには政治家にも。

  人間が最も頑張れるのは深い感動の力によって、です。

考えてみれば、
人々が熱狂し、雄叫びをあげるのは
スポーツのワンシーンであることが多い。



松平康隆さんを偲ぶ4

1964年、東京オリンピック。
男子バレーボールは銅メダルを獲得したが、
世間は相手にしなかった。
東洋の魔女、女子バレーが金メダルを取ったからだ。

これを松平康隆さんは、銅メダルの屈辱と呼ぶ。

そして8年後のミュンヘンオリンピックで、
男子バレーボールは、初の金メダルに輝いた。

ウルトラ時間差。
Aクイック。
Bクイック。

現在のバレーボールで常識になった技は、
「小さなナポレオン」と呼ばれた松平さんが開発した。
この言葉を胸に抱きながら。

  常識の延長線上に世界一は絶対にない。
  非常識の延長線上にしか、世界一はない。



松平康隆さんを偲ぶ5

男子バレーボールの元日本代表監督、
松平康隆さんには、
目の不自由なお母さんがいた。
そして人生に必要な多くのことを教わった。

  負け犬になるな
  男は語尾をはっきりしろ
  卑怯なことはするな

松平康隆さんは、サインを求められると
必ず一筆、書き添える。

  負けてたまるか

母から貰った、ありのままの言葉。
その重さを忘れてはならない。


Mike Chien
松平康隆さんを偲ぶ6

それは東京オリンピックの一年前。
男子と女子のバレーボールチームは、
ヨーロッパ遠征に旅立った。

女子は22戦全勝。
かたや男子は22戦全敗。

当時、男子バレーのコーチだった
松平康隆さんは、この屈辱をバネにした。
だからこんな言葉が残された。

  金メダルを取るために、犯罪以外は何でもやった。



松平康隆さんを偲ぶ7

  報われることを期待して、努力してはいけない

男子バレーボールの元日本代表監督、松平康隆さんは、
選手たちに必ずこう言ったという。

それは冷たい言い草のように思えるが、
世の中は、現実は、確かに甘くない。
努力すれば誰でも金メダルが取れるわけではないのだから。

松平さんが言いたかったのは、
「為せばなる」ではなく、
「為そうとする気持ちが大切」ということ。

そして指導者に対しても、自説を語る。

  指導者とは、教える人間ではありません。
  もっとも心掛けなければならないのは、
  生み出すことのできる人間に育ててやることです。

自分の役割をしっかりと心得ている指導者は、
今の日本に、何人いるだろう。

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佐藤延夫 12年1月1日放送


Ilikethenight
それぞれの昨日、今日、明日/桑田佳祐

      M〜「明日へのマーチ」

「今日は、“みんなで元気になろうぜ!!”の会です」

9月に宮城で行われた復興ライヴで、桑田佳祐は言った。

自らも食道がんを克服し、
それを「キャンサー・オブ・ダイニングキッチン」と
笑いに変えてしまう男。

昨日の大晦日、
彼は、4年ぶりに年越しライヴのステージに立った。

そのタイトルは、「年忘れ!!みんなで元気になろうぜ!!の会」。

ありがとう。あなたの歌声は、日本中を元気づけてくれる。


tienxia
それぞれの昨日、今日、明日/矢沢永吉

2012年、今年も、またひとつ歳をとる。

そう思った人には、カリスマの言葉が心に効く。

「年とるってのは、細胞が老けることであって
 魂が老けることじゃない」

そう語る矢沢永吉は、
今年、デビュー40周年を迎える。

「ドアの向こうに夢があるなら、
 ドアがあくまで叩き続けるんだ」

こんな62歳になってみたい。


BenjaminThompson
それぞれの昨日、今日、明日/毛皮のマリーズ

     M〜「ビューティフル」

ロックバンド、毛皮のマリーズ。
「ビューティフル」という曲の中に、印象的な言葉がある。

「最後は必ず、正義が勝つ」

思えば2011年は、
物事の本質とか、生きる意味を、
あらためて考えてしまう年だった。

なにが正義で、なにが悪なのか。
その答えは、どこにあるのか。

そして毛皮のマリーズは、
昨日、12月31日に解散した。

ボーカルの志磨遼平は、
12月に行われた武道館のライブで、こう叫んだ。

「さらば青春、こんにちは僕らの未来」

正義とは、ビューティフルに生きること。
それが彼らの美学だったのかもしれない。


heliography
それぞれの昨日、今日、明日/デーモン小暮

1999年の12月31日。
予言通りに解散したバンドがある。

聖飢魔II。

紀元前98038年生まれ。
自らを閣下と名乗るデーモン小暮は、
10万20歳のときバンドを結成し、
10万39歳でバンドを解散した。

「ビジョンある暴走をせよ」

閣下は、そう語る。
小さな枠組みから飛び出すには、
何かを変えないと生き残れない。

今年は、そんな1年を目指してみますか。



それぞれの昨日、今日、明日/今井正人選手、柏原竜二選手

箱根駅伝で、最初に「山の神」と言われた、
順天堂大学の今井正人選手。
2005年のレースでは、
難所と呼ばれる5区で、11人抜きの区間新記録を叩き出した。

そして、「新・山の神」という異名を持つのは、
東洋大学の柏原竜二選手。
2009年、今井選手の記録を破る走りで、
アナウンサーに「山の神を越える、山の神童」と呼ばせた。

今井選手と、柏原選手。
このふたりの神が、
どちらも福島県の浜通り出身なのは、
単なる偶然ではない。
そんな気がしてならない。

今年も、勇気をください。


PRS。
それぞれの昨日、今日、明日/阿宗(あそう)高弘選手

4年前の箱根駅伝で、
珍しい記録が生まれた。

4区、平塚中継所。
最下位でタスキを受けた国士舘大学の阿宗高弘選手は、
そのまま走り続けて、最下位のまま、区間賞になった。
前には誰も見えない。
後ろにも、誰もいない。
そんな状態で記録を塗り替えた。

「どんな位置で受け取っても、
 自分の走りをしようと心掛けた」

そう語る彼が、孤独のレースで得たものは、
計り知れないほど、大きい。


crowbot
それぞれの昨日、今日、明日/鈴木隆行選手

今日、決勝の試合があった、サッカー天皇杯。

11月に行われた3回戦で、
あるチームが、大金星をあげている。

延長戦で、3対2。

J2の水戸ホーリーホックが、
天皇杯優勝の常連、ガンバ大阪を下した。

同点ゴールを叩き込んだのは、
元日本代表、鈴木隆行選手。

被災地、茨城のために
給料ゼロのアマチュア契約で臨む35歳は、
エネルギーに溢れている。

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佐藤延夫 11年12月03日放送



アル・カポネという男1

「高貴な実験」。

のちに世間の嘲笑を浴びたアメリカの禁酒法は、
1920年からおよそ14年も続いた。

この法律のおかげで、
酒の密造や密輸、犯罪が爆発的に増えていった。
密造酒ビジネスで巨万の富を得た暗黒街のボス、アル・カポネは語る。

「禁止というものは、トラブル以外、何も産み出さない」

国民が健全になるはずの法律で、アメリカは不健全を覚えた。

いつの時代も、国家が迷走すると
闇の男が主人公になる。



アル・カポネという男2

「家具販売業者」。

これが、アル・カポネの表の顔だった。
本業は、密造酒ビジネスに違法カジノ、売春宿の経営。

稼いだ金は、1927年の1年間だけで、
日本円に換算して、180億円とも言われている。
現在の貨幣価値では、10兆円を超えるという。
カポネは語る。

「私がしていることは、ほかの人と変わらない。
 需要に対して供給をしているだけだ」

悪い奴ほど、悪びれない。



アル・カポネという男3

「シカゴの夜の市長」

暗黒街のボス、アル・カポネはそう呼ばれていた。
秘密酒場や違法カジノの経営で儲けた金は、
自分の仕事をしやすくする場所に出資する。
その投資先は、政治家、警察、裁判所。
中でも禁酒法に関わる捜査官は、一人残らず買収したと言われている。
彼の言葉を拝借すると、

「やさしい言葉に銃を添えれば、
 やさしい言葉だけのときよりも
 多くのものを獲得できる」

正しい者よりも、強い者が正義になる。



アル・カポネという男4

「ムーンシャイン」

アメリカで禁酒法の時代に密造された酒は、
すべてスラングで語られた。

月明かりでこっそり酒を造るから、ムーンシャイン。
ブーツに酒を隠す密売業者は、ブートレガー。
もぐりの酒場は、スピークイージーと呼ばれた。
こっそり酒を注文できる、という意味だ。
また、ギャングたちが当時流通し始めたトンプソン・マシンガンを乱射することから、
この機関銃は、シカゴ・タイプライターという異名を持つ。

不条理がルールとなり、
非常識が、常識になる時代。

シカゴ暗黒街のボス、アル・カポネは
こんな言葉を残している。

「俺が酒を売ると密造と呼ばれるのに、
 パトロンの連中が銀のお盆に載せて出すと、それは「もてなし」と呼ばれるんだ」

この男は、アメリカの黒い歴史を謳歌した。



アル・カポネという男5

「スカーフェイス」

これは、アル・カポネの若かりしころのニックネーム。
傷のある顔、という意味だ。
喧嘩で顔に傷を付けられたことから、
チンピラ仲間が、からかい半分に名付けた。

それから数年、
カポネは暗黒街のボスになった。
スカーフェイス。
シカゴ中を探しても、誰もそう呼ぶ者はいなくなったそうだ。

権力は、暗い過去を消してしまう。



アル・カポネという男6

「38口径のコルト・ポリスポジティブ」

それは、暗黒街のボスと呼ばれたアル・カポネが
実際に使用した拳銃だ。

彼が暗躍したおよそ90年後の今年、
この銃はロンドンのオークションで落札された。
日本円で、870万円の値がついた。

当時シカゴでは、
何人の男が、銃口を向けられたのだろうか。



アル・カポネという男7

「囚人85号」

1931年、アル・カポネは23件の脱税容疑で逮捕され、
アルカトラズ刑務所に叩き込まれる。

全盛期には、配下の殺し屋が700人。
経営するもぐりの酒場は、2万軒を越えたという。

自宅には、三カ所に門番を配し、
裏手の桟橋にはモーターボートとクルーザーが停泊する。
そして愛車のキャデラックには、厚い装甲が施された。

のちにシカゴの高級ホテル、レキシントンを住まい兼事務所にし、
ギャングとして初めてアメリカの雑誌、タイム誌の表紙を飾った。
カポネは語る。

「他人が汗水たらして稼いだ金を
 価値のない株に変える悪徳銀行家は、
 家族を養うために盗みを働く気の毒な奴より、
 よっぽど刑務所行きの資格がある」

悪を突き詰めると、男はセクシーになる。

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佐藤延夫 11年11月5日放送



戸塚洋二さんの話1

ある少年が、ラジオを聞いている。
そのうち、聞くだけでは飽き足らず、
バラバラに壊し、
中身をじっくりと観察する。

どうやらエナメル線の巻いてある数には規則性がある。
蓄電池との関連も気になる。
これは奥が深いなと思う。

そしてラジオが聞けないと文句を言う親を尻目に、
真空管を買ってきて、もう一度組み立てる。

物理学者、戸塚洋二さんは
子供のころから物理学者だった。



戸塚洋二さんの話2

物理学者の戸塚洋二さんは、
不真面目な学生だった。

講義に出ることはほとんどなく、
空手部の部室にたむろしているか、
麻雀に出かけているか。

留年した彼を拾ったのは、
のちにノーベル賞を受賞する小柴教授だった。
その数年後、戸塚さんは奥様にこう言ったそうだ。

「もうさんざん遊んだから、遊びはもういい」

不真面目と大真面目は、紙一重。



戸塚洋二さんの話3

物理学者、戸塚洋二さんの業績といえば、
ニュートリノ振動を確認したことだ。

ニュートリノとは、物質を構成する最も小さい粒子、素粒子のひとつで、
宇宙の中や、人間の体の内部からも発生している。
戸塚教授は、このありふれた粒子、
ニュートリノの質量がゼロでないことを世界で初めて証明した。

そしてノーベル賞の受賞が目前と言われたころ、
ガンと闘いながらブログを開設した。
タイトルは、

A Few More Months

物理学者は、命のことを綴り始めた。



戸塚洋二さんの話4

「負の遺産」。

環境問題について議論されるときに、
必ずと言っていいほど登場する言葉だ。

「絶対に残してはならない」
「我々の世代で解決すべきだ」

専門家や知識人が口角泡を飛ばす中、
物理学者、戸塚洋二さんは、亡くなる前にこんなコメントを残している。

「僕が嫌いな言葉がひとつある。
それは子孫に負を残すなっていう言葉。
若い皆さんは、我々より頭が良くなってるはずなんだから、
彼らに任せれば簡単にやっちゃうよ。」

一見、無責任にも思える言葉は、
裏を返せば、人類への期待と優しさで溢れている。

それは、次の時代を生きる人に贈られたエールなんだ。



戸塚洋二さんの話5

ノーベル賞に最も近いと言われた物理学者、
戸塚洋二さんは、ガンと闘っていた。
病床では学者らしく、
死ぬことがなぜ恐ろしいかを考えた。

「自分の命が消滅したあとでも、
 世界は何事もなく進んでいくからだ」

もちろん、恐怖を克服する方法も、考えた。

「宇宙や万物は、何もないところから生成し、
 そして、いずれは消滅、死を迎える。
 いずれ万物も死に絶えるのだから、恐れることはない」

この理論は、証明されたのだろうか。



戸塚洋二さんの話6

物理学者、戸塚洋二さんは
ブログの中で、いくつもの花の写真を取り上げている。

迫りくる命の終わりを感じながら、
一輪ずつアップで写真を撮り、
こんなコメントを残した。

「命が縮んでいくとき、
 爆発的ないのちを見るのは素晴らしい」

今でもその小さな命は、ブログの中で輝いている。



戸塚洋二さんの話7

ノーベル賞に最も近いと言われた物理学者、
戸塚洋二さんがこの世を去って3年が経つ。

先生の本を開くと、
平成20年にこんな言葉を残している。

「大宇宙は数限りないニュートリノを住まわせるが、
 大宇宙の中でニュートリノが果たしている役割は
 その片鱗さへ分かっていない。」

今年、ニュートリノの速度が、
光よりも速いという実験結果が発表された。
その速度は、毎秒30万6キロで、
光の速度に比べて6キロも速い。

アインシュタインの相対性理論と矛盾する結果に、
戸塚先生ならどんなコメントを残し、
何を思っただろうか。
お話を伺いたかった。

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佐藤延夫 11年10月1日放送



最後のことば/太刀川瑠璃子(たちかわるりこ)

戦後を代表するバレリーナ、太刀川瑠璃子さんが
亡くなったのは、3年前のことになります。

終戦直後に見た「白鳥の湖」が、
バレエを始めるきっかけでした。

プリマとして多くの舞台を務めたあと
自らバレエ団を立ち上げ、
日本人として表現できるバレエを探し続けました。

晩年、がんの手術を受けたあと、
こんなことをおっしゃったそうです。

「心の中にあるものをお棺に持っていくのは、もったいない。
 誰か取材してくれないかしら」

悔いのない人生を送った人の言葉は、なにかが違います。



最後のことば/浜口雄幸(はまぐちおさち)

明治生まれの政治家、浜口雄幸さんは
立派な髭をたくわえたその風貌から、
ライオン宰相と呼ばれていました。

料亭政治、いわゆる談合や根回しを嫌い、
正面突破の姿勢を崩さない、
珍しいタイプの政治家だったそうです。

彼は自分の運命を知っていたのか、
こんなことを奥様に話していました。

「途中、何事か起こって倒れるようなことがあっても、
 もとより男子の本懐である。」

そして1930年、浜口さんは暴漢に狙撃され、
その傷がもとで息を引き取りました。

政治家は命懸けの職業だと
体を張って教えてくれた人でした。



最後のことば/坂本繁二郎(さかもとはんじろう)

明治生まれの洋画家、坂本繁二郎さんは、
東京とパリで絵の修業をしたあと、
地元、福岡のアトリエから離れることはありませんでした。

弟子をとることはなく、
教えを乞う者には、「友達になろう」と話しかけたそうです。

その人柄は、最後の言葉にも表れています。
迫りくる死を悟ると、妻と娘にこう語りました。

「ぼくは生涯好きなことをやってきた。
 ほんとうにお世話になったね。」

昨年から、福岡県のJR久留米駅の近くで
坂本繁二郎さんの生家が公開されています。



最後のことば/土光敏夫(どこうとしお)

明治生まれの実業家、土光敏夫さんは
徹底した合理化で会社を再建し、
猛烈な働きぶりから、
荒法師、行革の鬼、と呼ばれました。
モーレツを絵に描いたような人です。
その当時、彼が口癖のように言っていた言葉があります。

「一般社員はこれまでの三倍働け。
 重役は十倍。
 社長の私は、それ以上に働く。」

その後、経団連会長、
臨時行政調査会長といった政府の要職を歴任し、
行政改革の実現を目指しました。

亡くなったのは91歳のとき。老衰でした。
この世を去る前に、こんな言葉を残しています。

「もし、来世に極楽と地獄があるとすれば、
 僕はためらわず地獄行きを望むね」

地獄の釜炊きをしながら、日本の行く末を監視するつもりのようです。
土光さん、今の日本はどのように見えますか。



最後のことば/越路吹雪

シャンソンの女王、越路吹雪さんは
56歳の若さでこの世を去りました。

宝塚歌劇団の男役でスターになり、
退団後はシャンソンのリサイタルやディナーショーに明け暮れる日々。
私生活では、作曲家のご主人と仲睦まじく寄り添っていました。

病気が発覚したのは、1980年のこと。
病床で彼女は、マネージャーにこう話したそうです。

「いっぱい恋をしたし、
 おいしいものも食べたし、
 もういいわ」

生に執着しない心は、
すがすがしい言葉に変わるのでしょうか。



最後のことば/若山牧水

明治生まれの歌人、若山牧水先生は
旅をして歌を詠み、
一日一升の酒を飲む。
そんな生活を続けて肝硬変を患いました。

これは亡くなる前日、吸い飲みでは旨くないと言い、
盃で酒を飲んだときの言葉です。

「ああ、これでこそ酒の味がする」

彼が恐れたのは、病気よりも
酒が飲めなくなることだったようです。



最後のことば/田山花袋

明治生まれの小説家、田山花袋先生は
喉頭がんでこの世を去りました。

それは亡くなる数日前のこと。
友人の島崎藤村が病床に訪れ、
こんな質問をしたそうです。

「この世を辞して行くとなると、どんな気がするかね」

遠慮のない言葉が行き交うのは
親しさの表れなのかもしれませんが、
作家としての客観的な興味を抑えられなかったのかもしれません。

その問いに対して彼は、このように答えています。

「なにしろ、誰も知らない暗いところへ行くのだから、
 なかなか単純な気持ちのものじゃない」

小説家は、去り際まで
何かを知りたい、感じたいと思う職業なのでしょう。

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佐藤延夫 11年9月3日放送



魔性の女たち/モンテスパン夫人

朕は国家なり、と言ったのは
フランスの太陽王ルイ14世だが、
その輝きのまわりには、野心に飢えた女が集まった。

中でも、モンテスパン夫人は
美貌と鋭い知性に恵まれていた。
無邪気な笑顔を見せたかと思えば、
ときに驕慢で意地悪な振る舞いをする。
今でいう小悪魔的な存在だ。

そして国王の愛人という地位を守るために
黒ミサと呼ばれる悪魔信仰にのめり込む。

その事実を知ったルイ14世は、
恐れをなして彼女を遠ざけてしまうのだが。

行き過ぎる野心は、過ちを生む。



魔性の女たち/メアリ・スチュワート

メアリ・スチュワートは、
生後六日でスコットランド女王、
五歳でフランス王太子妃、
十六歳でフランス王妃になった。
だが夫は病気で亡くなり、
十七歳で未亡人となる。
そして再婚相手の男を愛人と一緒に殺害し、
それがもとで王位を追われ、
幽閉されたあともエリザベス女王殺害を企て、最後は処刑されてしまう。

断頭台に立つときに着ていた衣装は、豪華そのものだったという。

レース飾りのついた純白のベール、
貂(テン)の毛皮をあしらった黒ビロードの上着と黒のマント、
そして深紅のペチコート。

経歴も、散り際も、派手な女がいた。



魔性の女たち/柳原白蓮

人妻の恋愛が罪となる時代。
歌人、柳原白蓮は結婚という制度に翻弄された。

最初に嫁いだのは十六歳のとき。
なんの取り柄もなく我儘な男との生活は五年で終わる。

二十七歳のときに再婚した相手は、
九州の炭鉱王と言われた伊藤伝右衛門。
妻と妾が同居する複雑な女性関係に嫌気がさした。

三十五歳のときに運命の人、宮崎龍介と出会う。
そして、ある計画を実行する。

「私は今あなたの妻として最後の手紙を差し上げます。」

朝日新聞の朝刊には、
白蓮から伊藤伝右衛門への絶縁状が掲載された。

全国版の三行半とは、恐ろしい。


魔性の女たち/シンプソン夫人

イギリス国王エドワード八世が心を奪われたのは、
平民で二度の離婚歴があるシンプソン夫人だった。

彼女が持っていたのは、
つつましやかな物腰と美貌、
そして大いなる野心。
若いうちから空軍将校や外交官を相手に
数々の恋愛沙汰を引き起こし、
ついにはイギリス王室へまで食い込んでいく。

「どうか、わかってほしい。
 私が愛する女性の助力も支えもなしに、
 王位を全うすることはできないのです」

エドワード八世は、ラジオ放送でこの言葉を残し
わずか十ヶ月あまりの在位で
イギリス国民に別れを告げた。

王位を捨てさせた女と、
全てを捨ててしまった男。
その夢の果てとは。

晩年は、退屈で単調な毎日だったそうだ。



魔性の女たち/マリア・ルイザ

無類に人がよく、平和ボケした亭主のもとでは、
女は悪妻になりやすいのか。

スペイン王妃マリア・ルイザは
国王との間に十一人の子をもうけながら、
男漁りを繰り返した。
そして二十一歳の美青年、ゴドイと出会う。

凡庸な国王、カルロス四世。
その王妃、マリア・ルイス。
そして、若く野心に溢れたゴドイ。

マリアの世界には、この三人しかいなかった。

「私たちの関係は完璧そのもので、地上における三位一体なのです」

やがてフランス革命が、小さな楽園を崩していく。



魔性の女たち/阿部定

阿部定は、かの有名な猟奇事件のあとに
こんな言葉を残している。

「私のやったことは男に惚れぬいた女ならば、
 世間によくあることです。ただ、しないだけです」

横浜の置屋に売られ、
娼婦となり全国を転々として
ようやく見つけたひとつの愛。
それを誰も笑うことなんてできない。



魔性の女たち/マタ・ハリ

オランダの片田舎で生まれた少女は、
黒々とした髪とエキゾチックな瞳を持っていた。

19歳で結婚しジャワ島に移り、
離婚してパリに戻ってくると
その女は妖艶なダンサーに生まれ変わる。

名前は暁の太陽を意味する、マタ・ハリ。
美しい娘の魅惑的な踊りは、すぐに話題になった。

1917年、第一次世界大戦のさ中、
イギリス海軍の諜報機関は、マタ・ハリがスパイであることをつきとめる。
コードネーム、諜報員H21。

本当にスパイ活動をしたのかどうか、その確証はない。
ただ、情事を重ねた相手が軍人ばかりだったのが
彼女を不利な立場に追いやった。

マタ・ハリが処刑されるとき、いくつかのエピソードが残っている。
あまりの美しさで、兵士が銃の引き金を引くことができなかった。
銃殺隊に投げキッスを贈った、など。

どれもこれも、美しすぎるスパイが生んだ
尾ひれのついた伝説にすぎない。

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佐藤延夫 11年8月6日放送



幸田文1

いつも机の前に座り、
万年筆を走らせ、
原稿用紙を破り捨て
酒をあおるのが小説家だとしたら、
この人は何者だろうか。

彼女が文章を書き始めたのは43歳のとき。

60代の半ばには、法輪寺の三重塔を再建するため
奈良の斑鳩に住み込み、自ら寄付を集めた。

70歳を過ぎてからは、
日本の山々の崩壊を危惧し、各地を見て回った。

明治生まれの小説家、幸田文には、
まっすぐで強烈なエネルギーがあふれている。



幸田文2

「きれいになりたい頃、私は鏡から失望と悲しみをうけとった」

幸田文は、思春期だったころを回想して
こんな文章を書いた。
父親の幸田露伴は、慰めることなどしなかったそうだ。

お前は美人ではないし、醜くもない。
まして悪女になれる力量もない。
親から見れば、哀れなやつに尽きる。

そして渡されたのは、ドイツ製のカメラだった。
ファインダーを覗くと、
この世にはさまざまな美が存在することに気がついた。

美しさを計る物差しがひとつではないと知ったとき、
人生は輝きを増す。



幸田文3

自分のやりたいことが見つからない、
という悩みを抱えるのは
明治生まれの小説家も同じだった。

机の前の勉強は大嫌い。
絵画、音楽、茶の湯、生け花、踊り、
どれも悪くないと思ったが、
心から求めるものではなかった、と幸田文は語る。

「いろんなものがよかった。
 でも、どっと駈けだして行きたいほど好きな道とは思われなかった。
 そうなのだ。駈けだして行きたさ、それなのだ。」

無理に走り出しても、やがて足は止まる。
どっと駆け出したいものが、いつか見つかればいいのです。



幸田文4

幸田文の周りには、才能豊かな人が多かった。

父親は小説家で、親戚には芸術家が何人もいる。
だから自分の結婚相手は商売人が望ましいと思っていた。

婚約した相手は望み通り、商家の末っ子のお坊ちゃんで
大学を卒業後、アメリカへ留学していた。

彼に恋文を送ると、返事の代わりに
ヨーロッパの高級な自動車が迎えにきた。
そしてステーキを食べたあと、芝居に誘われたという。

嬉しくもあり、悲しくもあった。
自分が出した恋文には、恋文で返してほしかったから。

これがアメリカ流の洗練さなのか、それとも気持ちが通じていないのか。
思い悩む乙女に、父親の露伴は歌を贈った。

「黄にやせめ 紅にやせめと しら糸を 染めまどひたる ほそき心や」

嫁ぐ相手には、こちらから心を馴染ませなさいと
娘の背中を押すための歌だった。



幸田文5

34歳のとき、幸田文は離婚した。
そのあと太平洋戦争が終わり、
43歳のとき、父親の露伴がこの世を去った。

いろんなものを失ったが、
大切ななにかを手に入れた。
そう思える言葉が残っている。

「配給のろうそくが一寸ほどあまっていたことが、鉛筆を走らせた。
 一寸のろうそくの尽きないうちに、
 今夜の家事雑用を片付けてしまおうとするそれと同じ気持ちで、
 学校以来の作文を書いた」

どっと駈け出して行きたくなるものが、
ろうそくの明かりに照らされていた。



幸田文6

幸田文は、突然に筆を置いた。

親しい人にも事情を打ち明けず、
知り合いを通じて職探しを始める。
パチンコ屋、中華料理屋、犬屋の飼育場など闇雲に応募し、
ようやく、置屋の住み込み手伝いに落ち着いた。

「たださがしてあるきました。
 自分のいどころを、どこかに求めたいと思って。」

それは父親、幸田露伴という重い鎧を脱ぎ捨てるための、
自分探しの旅だった。



幸田文7

幸田露伴は厳しい父親で、
幼い娘に掃除、洗濯、薪割りなど家事の一切を徹底的に仕込んだ。

生活の基本が軸となる。
そこへ自ら取り組むことで移りゆく季節を感じ、
人の生き方、道理をわきまえることができるという独特の哲学だった。

「親に小言をくらって口返答のひとつもできないような奴はろくでなしだ」

「おまえは赤貧洗うがごときうちへ嫁にやるつもりだ」

「松も桧も一緒くたの女になってくれるな」

「人には運命を踏んで立つ力があるものだ」

「薪割りをしていても女は美でなくてはいけない、
 目に爽やかでなくてはいけない」

年端もいかない少女には、酷い言葉でしかなかったが、
のちに幸田文は随筆の中でこう振り返っている。

「畢竟(ひっきょう)、父の教へたものは技ではなくて、
 これ渾身といふことであった」

親子の間の渾身という真剣勝負。
あとで気付いた親心は、ずっしりと心に残る。

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佐藤延夫 11年7月2日放送



忍びの者/出浦対馬守盛清(いでうらつしまのかみもりきよ)

戦国時代、多くの忍者を召し抱えた武将といえば
武田信玄と毛利元就が双璧をなす。
甲斐の忍び集団は「三ツ者」と呼ばれ、
出浦対馬守盛清という男が頭領を務めた。

盛清の場合、怪しげな妖術を使うわけではない。
敵の動静を窺う斥候を得意とし、
軍勢や将兵の配置、城の弱点などを調べ上げた。
そのおかげで武田軍は、勝ち戦を重ねていく。

戦国時代も、マーケティングが重要だったのである。



忍びの者/中西某(なかにしなにがし)

戦国時代、上杉謙信は
優れた忍者部隊を擁していた。
甲斐の忍び集団「三ツ者」に対し、
こちらは「軒猿(のきざる)」と呼ばれた。

その忍者の一人が、中西某。
名前こそわかっていないが
変装術の名人だったという。

とある豪族が寝返ったという嘘の書状を携え、
百姓に化け、武田方の陣屋に届けた。
その身なりや話しぶりに、誰も疑うものはいなかったそうだ。

役者になるのも、忍者の仕事。



忍びの者/加藤段蔵(かとうだんぞう)

「飛び加藤」の異名を持つ
戦国時代の忍者、加藤段蔵。
塀や堀を軽々と飛び越える飛翔術のほかに、
幻で牛を呑み込んでみせるという呑牛(どんぎゅう)の術を得意とした。

最初は上杉謙信に重用されようと試みたが、
あまりにも腕がたちすぎると恐れられた。
今度は武田側に接近したが、
その魂胆を怪しまれ殺されてしまう。

実力がありすぎると干されるのではなく、
消されてしまう業界なのである。



忍びの者/風魔小太郎(ふうまこたろう)

その昔、相模の国に風間(かざま)という山間の小さな村があった。

村に暮らす一族は、
大陸から移住した騎馬集団という説もあるが、
その由来は謎に包まれている。
普段は狩猟や杣(そま)仕事をして細々と暮らし、
戦になると散り散りに消えていく。

小田原の北条氏が召し抱えた忍者部隊、風魔一族。
頭目は代々、風魔小太郎と名乗った。

彼らが得意としたのは、奇襲攻撃。
手当たり次第に将兵を生け捕りにし
火を放ち、武器や食料を略奪する。

二百人を超える大所帯であったが、
紛れ込んだ忍者を見分ける術も持っていた。

それは「立ちすぐり居すぐり」と呼ばれ、
不意に出される号令に合わせて
立ったり座ったりする符牒のようなものだった。
動きに合わせられない者は敵方の忍者と見なされ、
ことごとく斬り捨てられてしまったという。

一流の忍者は、リスクヘッジも万全なのである。



忍びの者/下柘植木猿・小猿(しもつげのきざる・こざる)

伊賀の国に、二人の忍者がいた。
兄弟なのか親子なのか定かではないが、
名前を下柘植木猿・小猿という。

その名の通り、猿のように身軽だった。
木の葉を揺らすことなく
枝から枝へ飛び移る秘伝の技、
忍法「浮足」を得意にした。

刀の鍔に足をかけて飛び上がり、
枝に取り付いたら刀をするすると引き上げる。
その姿はまるで漫画のようだが、
なるほど、木猿は猿飛佐助のモデルにもなっている。



忍びの者/松之草小八兵衛(まつのくさこはちべえ)

ドラマ水戸黄門に登場する忍者と言えば
風車弥七だが、そのモデルは実在する。

名前は、松之草小八兵衛。
元々盗賊の頭であったが、
捕縛され打ち首になる寸前、
光圀公に見いだされ無罪放免となる。

その後は密偵として働き、
光圀公に他国の情報を知らせたという。

諸国漫遊をしたのは、小八兵衛なのかもしれない。



忍びの者/割田重勝(わりたしげかつ)

真田の忍者、割田重勝は、
武芸兵法に優れた忍びだったという。

いくつかの逸話も残っている。
上杉謙信の館に忍びこみ
秘蔵の刀を盗み出し手柄を立て、
また、大豆売りに扮すると
小芝居をうち敵方の駿馬を騙し取った。

しかし時代は変わる。
大坂夏の陣が終わり、徳川の世になった途端、
忍者の需要は極端に減った。

大名家に雇われる忍者は、ほんの一握り。
その役目と言っても隣国の諜報活動が主流となり、
忍び本来の持ち味を出す機会はなくなった。
職にありつけない忍者は、
割田重勝のように盗賊に身を落とす。
そして名も無き武士に討ち取られてしまう。

泰平の世では生きられない、
哀しい忍者の末路である。

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