‘佐藤延夫’ タグのついている投稿

佐藤延夫 10年08月01日放送



「室生犀星と川」

石川県金沢市には、
市街地を挟むように、ふたつの大きな川が流れる。

地元で女川と言うのは浅野川で、
男川と呼ばれているのは、犀川。

その犀川のほとりに、ひとりの詩人がいた。


 うつくしき川は流れた
 そのほとりに我は住みぬ
 春は春、なつはなつの
 花つける堤に坐りて
 こまやけき本のなさけと愛とを知りぬ

ふるさとを愛した詩人、室生犀星は
明治22年の今日、8月1日に生まれた。



「室生犀星と伊豆」

伊豆修善寺から少し南に下ると吉奈温泉があり、
さらに南下すれば、湯ケ島温泉に辿り着く。

どちらも明治、大正時代の文人が多く訪れている。
詩人、室生犀星の場合、
温泉旅館でじっくりと思索にふけるだけではない。
萩原朔太郎らと集まり、
どんな日々を過ごしていたのか。
この句を聞けば、だいたい想像がつく。


 萩原の朔太のいびき恐れつつ
 別室にねる夏の伊豆山

賑やかで静かな伊豆の山々が目に浮かぶ。



「室生犀星と母」

詩人、室生犀星の幼年期は、
まるで昼ドラのように悲劇的だ。

父は加賀藩の足軽で、母はその家の小間使い。
世間の風当たりが強い不義の子は、
生後7日で里子に出された。

貰われた先の養母は犀星を怒鳴り散らし、
召使いのように扱った。
そのときの記憶は、詩の中に現れる。


 なににこがれて書くうたぞ 一時にひらく うめすもも
 すももの蒼さ身にあびて 田舎暮らしのやすらかさ
 けふも母ぢゃに叱られて すもものしたに身をよせぬ

幼き日の、虐げられた思い出は
犀星の作品に大きな影響を与えたが、
晩年、こんな言葉も残していた。


 継母に私が仕へなかったら、
 私は何一つ教へられなかったであろう。
 私は彼女にはじめて感謝の言葉を捧げたいくらゐだ。

母という存在は、年齢を重ねるほど淡く、優しく深まっていく。



「室生犀星と魚」

静岡県、伊東の浄円寺には
境内に小さな池があり、奇妙な魚が棲みついていた。

当時の資料によれば、
蛇鰻、毒魚、迅奈良(じんなら)、横縞、湯鯉。
こんな面白い池を見て、
室生犀星が詩に残さないわけがない。


 伊豆伊東の温泉(いでゆ)に
 じんならと伝へる魚棲みけり
 けむり立つ湯のなかに
 己れ冷たき身を泳がし
 あさ日さす水面に出でて遊びけり

「じんなら魚」というのは、コトヒキのこと。
海の魚が棲む不思議な池は、残念ながらもう残っていない。



「室生犀星と虫」

殺していいのは、蝿と蚊だけ。

詩人、室生犀星は、
家族にこんなルールを作った。
蟻の行列を見つけたら踏まないように歩き、
夕立があると、洗濯物よりも先に
大切な虫かごを軒下へ避難させた。

それだけではない。
毎年、軽井沢へ避暑に行くときには
各地から、きりぎりすや草ひばりを取り寄せた。
初夏の軽井沢で、虫の声なんて聞こえないからだ。
二十個いつも近い虫かごを書斎の机に並べていた。

軽井沢を離れるとき、虫たちを野に返したが
お気に入りの数匹だけは、そっと持ち帰った。
いかにも彼らしい話だ。


 なにといふ虫かしらねど
 時計の玻璃(はり)のつめたきに這ひのぼり
 つうつうと啼く
 ものいへぬ むしけらものの悲しさに

彼が小さな虫にまで愛情を注いだのは、
あらゆる生き物の中に、
小さな悲哀を見つけたからなのだろう。



「室生犀星と花」


 庭に咲いているものは、土からの花を見て楽しむもの。

詩人、室生犀星は、庭に咲く花を愛した。
とりわけ、金沢から持ち帰ったという岡あやめ。
犀星は庭をこの花で一杯にしたかったようだ。
これは、ある日の日記から。


 あやめ、紫のえりを覗かす。明後日あたり開くべし。

 あやめ、けふはじめてひらく。

 あやめ百二十五輪、けふが花ざかりと言ふべきか。

あやめの一番蕾を見つけた家族には
チョコレートを褒美に出したというくらいだから、
その寵愛ぶりには、恐れ入る。



「室生犀星と鳥」

懸巣、小綬鶏、五位鷺、頬白、鵯、鴬。
(かけす、こじゅけい、ごいさぎ、ほおじろ、ひよどり、うぐいす)

詩人、室生犀星は
ある日、飼っていた鳥たちを一斉に空に放った。

それは、脳溢血で倒れた妻のとみ子が
一命をとりとめたあとのことだった。
その理由を、娘にこう告げている。


 とみ子の命はどうやらこれで大丈夫らしい。
 その身代わりに鳥たちを本来の生活に戻してあげるのだ。

いちばん大切な、ひとつの愛だけを守る。
これが詩人のルールなのかもしれない。



「室生犀星とふるさと」

詩人、室生犀星と言えば
あまりにもこの作品が有名だ。


 ふるさとは遠きにありて思ふもの
 そして悲しくうたふもの

犀星が、最後にふるさとの地を踏んだのは、52歳のときだった。
73歳で亡くなるまで彼は、
金沢に流れる川、犀川の写真をいつも忍ばせていたという。


 ひとり都のゆふぐれに
 ふるさとおもひ涙ぐむ
 そのこころもて
 遠きみやこにかへらばや
 遠きみやこにかへらばや

この夏、あなたは、ふるさとに帰りますか?
それとも遠くから、懐かしき風景を思いますか?

topへ

佐藤延夫 10年07月03日放送


南アフリカに浮かぶ星1

午後11時と、午前3時半。
毎日この時刻を気にするようになったのは、
7時間も時差のある南アフリカのせいだ。

寝不足もやむなしと諦めるようになったのは、
世界中から集まった足の器用な男たちのせいだ。

そして、選手ではないのに注目を集める小太りの男。
彼は以前に、こんな言葉を残していた。

  母国の監督をやりたい。給料なんかいらないし、今すぐでも構わない。

ピッチの脇で、選手よりも激しく動き回る彼は、
今日もどんなパフォーマンスを見せてくれるのか。
マラドーナ監督、楽しみにしてますよ。


南アフリカに浮かぶ星2

サッカーは、スポーツなのか、戦争なのか。

グループリーグから
鮮やかなサッカーで注目を集めるドイツ代表。
よく見ると、ベンチに目を見張るようなイケメンが座っていた。
ヨアヒム・レーブ監督だ。
現役時代は無名の選手だったが、
その戦術とサッカー理論は高く評価されている。
彼の爽やかな横顔を見ていると、サッカーはスポーツなんだと思える。

今回のワールドカップが始まる前、
レーブ監督は警戒するチームを挙げた。

  オランダの攻撃には、機関銃、追撃砲、大砲のすべてがある。

なるほど、やっぱりワールドカップは、戦争なんだ。


南アフリカに浮かぶ星3

草食男子、メガネ男子、弁当男子・・・
いろんな男子が出てきたけれど、
そのうち、ビッグマウス男子が流行るかもしれない。
ワールドカップ日本代表、本田圭佑をリスペクトする男子は多い。

  僕自身はベスト4ではなく、優勝を目指していいと思う。

誰もがグループリーグ敗退を予感している中、
彼だけは大風呂敷を広げていた。
そして自身による2つのゴールで、
見事に風呂敷を畳んでみせた。

ところで、ビッグマウス男子を狙う皆さん。
実力が伴わないと、
仕事も女ゴコロもゴールは決められないので
くれぐれもご注意を。


南アフリカに浮かぶ星4

なにしろエピソードの多い人だ。

彼について、オランダ史上最高と言われるサッカー選手は言った。
「マラドーナには、選手として全てかなわない。」

現役時代、1000回近くもゴールネットを揺らしたブラジルの英雄は言った。
「サッカー界でスーパースターと呼べるのはマラドーナだけだ。」

神様と呼ばれる男は言った。
「私とマラドーナを比べることは、彼に失礼だ。」

将軍と呼ばれる男も言った。
「ジダンがボールでやることを、マラドーナならオレンジでできる。」

そのジダンは言った。
「彼とは比べないでほしい。彼は惑星の選手なのだから。」

当のマラドーナは、引退後に言った。
「私は、サッカーボールのように太っている。」

薬物依存、不摂生による肥満、娘との確執と和解。
いろいろなことがあったけど、
今また、時代はマラドーナに味方している。
一日でも長く、あなたの姿を見ていたい。


南アフリカに浮かぶ星5

トルコ移民のトルコ家系に生まれた青年は、
ドイツの国籍を取得し、今、ドイツ人としてピッチに立っている。

メスト・エジルという
サッカー選手らしからぬ優しい顔をした青年は、
毒々しいほどのテクニックと視野の広さを持つ。

しかしコメントは、優等生のように清々しい。
たとえばこれは、ガーナ戦で勝ったときのインタビュー。

  僕はただボールを蹴っただけだよ。チームメイトがたくさんサポートしてくれたんだ。

21歳の謙虚な司令塔は、
限りない才能と、限りない将来を手に入れている。


南アフリカに浮かぶ星6

思えば、今年の4月、
ワールドカップが始まる少し前。
欧州チャンピオンズリーグの準々決勝で
リオネル・メッシは、強豪アーセナルを相手に
たった一人で4得点をあげた。
敗軍の将、ベンゲル監督は、こんな表現で試合を振り返った。

  メッシは、まるでプレイステーションの選手のようだ

今日はマラドーナ監督の手元にも注目してみよう。
もしかしたら、コントローラーを握っているかもしれない。


南アフリカに浮かぶ星7

  岡ちゃん、ごめん
  正直、3戦全敗だと思ってました。

日本がデンマークを破り、
決勝トーナメント出場を決めた直後、
ツイッターは、岡田監督への謝罪の声であふれ返った。

強化試合で結果を出せず、
チームの不協和音が報じられたとき
日本のファンは、あらゆる期待を放棄していた。

一億総ペシミストになったこの国。
でも、サッカーには、国民の意識を変える力があった。

華々しいフリーキックと
タフな戦いに耐える同胞を見て、
人々は息を吹き返す。

ブブゼラの鳴り止まないスタジアムで
岡田監督は、絶対的な信頼を手にした。
それでも彼は、いつもどおりに口をヘの字に曲げている。

6月30日、午前2時。
あの悲観的だった国民は、みんな思っていた。

  岡ちゃん、ありがとう。

topへ

佐藤延夫 10年05月01日放送


剣豪たち1/塚原卜伝(つかはらぼくでん)

秘剣「一の太刀」で
212人を手にかけたと言われる剣豪、塚原卜伝。

剣術は言うに及ばず、
心理戦も、また巧かった。

長い太刀を使う相手には、その欠点を説いて聞かせ、
片手突きを得意とする者には、
そんな見苦しい手はやめろと
門弟を遣わし、何度も申し入れた。

データ収集も忘れない。
相手が右太刀か左太刀か、癖は何かを
必ず調べさせてから勝負に臨んだという。

剣豪という域に達するには、
実力だけでなく、駆け引きも大切。

人生50年の戦国時代で
83歳まで生きるのだから、
塚原卜伝という男、
人生の術も心得ていたに違いない。


剣豪たち2/伊東一刀斎(いとういっとうさい)

戦国時代、一刀流を極めた剣豪、伊東一刀斎。

若かりし頃、
剣の師匠に向かって、こう言った。

   悟りとは、修業期間の長さではありません。
   一瞬のものです。

そうして三度立ち合い、三度とも師匠を打ち破る。
諸国修業の旅に出て、三十三戦負け知らず。

鬼夜叉の異名で恐れられた一刀斎、
生まれの地には諸説あり、
幼少期のエピソードはほとんど残されていない。

一説によると、94歳まで生きたという。
謎が多いほど、人は伝説に近づく。


剣豪たち3/松浦静山(まつうらせいざん)

肥前の国、第10代藩主だった松浦静山は、
剣術のひとつ、心形刀流(しんぎょうとうりゅう)の修業に心血を注いだ。

幼少から病弱だった静山、
剣術を始めたきっかけは、体質を改善するためだった。

心形刀流を極めたのちに
こう語っている。

  剣術を学ぶ者は、
  たとえその奥義に至らずとも
  養生のためにこれを修していくべきである。

静山は33人の子をもうけ、81歳まで生きている。
なるほど、剣術は滋養強壮に活かすこともできるのか。


剣豪たち4/男谷信友(おたにのぶとも)

斬るか斬られるかの世界にも、
“いい人”はいるものだ。

直心影流(じきしんかげりゅう)の剣豪、男谷信友。

性格は極めて温厚。
声を荒げることなど一度もなかったこの男、
三本勝負の他流試合では、
必ず一本、相手に勝ちを譲った。
それはもちろん、残りの二本は必ず取れるという腕前があったから。

ひとたび本気を出すと、
竹刀が生き物のように動き
相手を身震いさせたという逸話も残っている。

趣味は読書と絵画。
暇があると筆をとり
仲間や弟子に贈っていたそうだ。

本当に強い人、というのは
驚くほど柔らかな生き方をしている。

その後、江戸幕府の要職に招かれたのも
頷ける話だ。


剣豪たち5/浅利又七郎(あさりまたしちろう)

江戸時代、明眼(みょうがん)の達人と言われた剣豪、浅利又七郎。

試合になると、
相手に隙が見えても突くことをしない。
そして「私が勝ちました」と言い放つ。
相手が納得しないと
たちまち強烈な突きを繰り出し倒したという。

晩年、一度倒した剣豪、山岡鉄舟が
再び試合を申し込んだとき、
その構えを一瞥して竹刀を引いた。

  あなたの剣は極到に達せられた。
  もはや私の遠く及ばぬところです。

違いの分かる男とは、彼のことを言う。


剣豪たち6/山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)

幕末の剣豪、山岡鉄舟は、
苦悩の中で悟りを得た。

  剣を捨て、剣に頼らぬ者こそ
  真の剣の達人である。

それが、刀を持たない「無刀の真理」だった。

無刀流の極意とは、
春風を斬るようなものだという。

5月の春風に手を伸ばしてみよう。
何か悟りを得るかもしれない。


剣豪たち7/千葉周作(ちばしゅうさく)

北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)の開祖、千葉周作は
道場の運営に成功した剣豪だ。

武者修行から戻り
日本橋に道場を建てた途端、
多くの門弟とスポンサーが集まった。
三年後には神田の一等地に道場を移し、
近くにあった塾を買収。
敷地を広げた揚げ句、
客人たちの宿舎まで設け、
江戸一番の道場にしてしまった。

  気は早く 心は静か 身は軽く
  目は明らかに 業は激しく

このわかりやすい指導法も評判だった。

晩年まで剣の腕前も一流だった千葉周作。
その経営手腕も、また一流。

今の厳しい世の中でも、きっと生きていけるだろう。

topへ

佐藤延夫 10年04月03日放送

01-ooshima

大島蓼太と桜

気が付けば、もう4月。

なんとなく、
無意識のままに
この季節を迎えてしまったと
少し心を痛めている皆さん。

次に目が醒めると夏になって、
秋は瞬く間に過ぎて
新しい年に変わっている。
またひとつ年をとっている。

そんな予感がしませんか?

時の流れにただ身を委ねていると
生き方まで雑になってしまいそう。

  世の中は 三日見ぬ間に 桜かな

江戸時代の俳人、大島蓼太(おおしまりょうた)の句です。
咲くのも早いし、散るのも早い。
人生もまた然り。
どうか今年の桜は、お見逃しのないように。

02-yamazakura

若山牧水と桜

旅と、酒と、桜を愛した歌人、若山牧水。

明治38年、宮崎から上京し
早稲田大学に入学した彼は、
ソメイヨシノばかりの光景にがく然とする。

牧水の桜は、故郷に咲くような山桜でなくてはならなかった。
だからこんな歌が生まれた。

  母恋し かかる夕べの ふるさとの 桜咲くらむ 山の姿よ

文明開化が広がるとともに
東京から追い払われるように姿を消した山桜。

ソメイヨシノは、悲しくも美しい、新しい時代の象徴だった。

03-shidare

九鬼周造と桜

桜の名所は数あれど、
誰にでも心に残る桜があり
そのすぐそばには、
えてして大切な人がいるもので。

哲学者、九鬼周造(くきしゅうぞう)は
自身の随筆でこんな言葉を残しています。

  いまだかつて京都祇園の枝垂桜にも増して
   美しいものを見た覚えがない。
    見れば見るほど限りもなく美しい。

それもそのはず、
九鬼が二度目に結婚した相手は、
京都の芸妓さんだったのですから。

04-mukou

加舎白雄、小林一茶と桜

夕暮れの桜は、
一抹の寂しさを伴うのでしょうか。

江戸時代後期の俳人、加舎白雄(かやしらお)は
向島の桜を見て、こんな句を残しています。

  人恋し 火とぼしころを 桜ちる

放浪を続けた加舎白雄は、生涯独身を貫きました。
向島の白髭神社に行けば、今もその句碑を見ることができます。

また、深川に住んでいた小林一茶は、
こう吟じました。

  夕桜 家ある人は とくかへる

花見をして家路を急ぐ人々と、
ひとりきりの我が身。

向島の桜は、夕暮れどきであれば
ひとりではなく、誰かと見に行くことをお勧めします。

でも、いま隅田川沿いを歩くと
桜並木よりも目立つのは、
建設中の東京スカイツリーだったりするのですが。

05-lune

中村汀女と桜

今年は千鳥ケ淵か、飛鳥山か・・・

昼間の桜もいいけれど、
夜桜こそまた趣深い。

その理由は、中村汀女(なかむらていじょ)の句を聞けばわかります。

  外にも出よ 触るるばかりに 春の月

大きくて柔らかな、春の月。
震えながらでも
夜桜を見上げてしまうのは、きっと
朧な空に優しいものがたくさん浮かんでいるからだ。

06-somei

ロバート・フォーチュンと桜

ソメイヨシノの学名は、
プルヌス・エドエンシス。

翻訳すると、江戸桜。

命名したのは、スコットランド生まれの植物学者、
ロバート・フォーチュンだった。

でもソメイヨシノが広まったのは
明治時代になってから。

本当に江戸を桃色に染めた山桜は、
今や23区内ではあまり見ることができない。

topへ

佐藤延夫 10年02月06日放送

01-yoshida

社長は語る/吉田拓郎(小6)

ヤエヤマアオキをご存知ですか。
ハワイの言葉で「ノニ」。
健康食品として注目されている植物です。

久米島に、ノニを原料にしたジュースや石鹸などを販売する会社があります。
社長は、吉田拓郎さん。
あの人と同姓同名の、小学6年生。
ちなみにお母さんが秘書で、
営業部長はお姉さんです。

そんな社長の夢。

   少し大きくて、日本で少し知られていて
   3回飯が食べられるぐらいの会社にすること。

この子ども社長は、大人が見失ったものを
ちゃんとわかっている。

02-matsushita

社長は語る/松下幸之助

寒いから、下を向く。
景気が悪いから、下を向く。
転んでしまわないように、下を向く。

石橋を叩いても渡らないようなこのご時世。
あまり慎重になりすぎると
目の前にチャンスが訪れても
気付かずに通りすぎてしまいそう。

こんなときこそ真正面を向いて
思い切り走ってみるのがいいのかも。
松下幸之助さんは、こう言っています。

 こけたら、立ちなはれ。

この気楽な言葉が、
今の時代を救うヒントのような気がしませんか。

03-kawabata

川端康成

仕事でもかまいません。
辛い恋でも、くだらない中傷でも結構です。
何かを忘れるために、雪を見に行きませんか。
きっと心が真っ白になるはず。

たとえば、川端康成の小説「雪国」の舞台となった新潟県湯沢町。
「国境の長いトンネルを抜けると・・・」で有名なあの場所には、
一面の銀世界が広がっています。

そうそう、「雪国」には、もうひとつ有名なフレーズがありました。

  なんとなく好きで、
  その時は好きだとも言わなかった人のほうが、
  いつまでもなつかしいのね。
  忘れられないのね。
  別れたあとってそうらしいわ。

真っ白な雪を見ても、恋の残り香は消えないかもしれません。

04-yanase

やなせたかし

それは、間近に控えた受験だったり。
終わりの見えない仕事だったり。人生だったり。

毎日頑張ってはいるけれど、
得体のしれない不安に包まれる。
そんなときは、
心の中のモヤモヤが消える魔法の言葉を思い出しましょう。

  何のために生まれて 何をして生きるのか
  答えられないなんて そんなのは嫌だ
  何が君の幸せ 何をして喜ぶ
  わからないまま終わる そんなのは嫌だ

若い人ならきっと、
アンパンマンのうたを歌ったことがあるはず。
くじけそうなときには、そっと口ずさんでみましょう。
勇気が湧いてきますから。

今日2月6日は、アンパンマンの生みの親、
やなせたかしさんが生まれた日。

05-bis

ビスマルク

最近の若い奴は・・・
なんてセリフは、いつの時代にもある愚痴ですが、
現在の若者事情はどうなんでしょう。

仕事をする意味が見いだせない
将来の夢がわからない
マニュアルがないと動けない

どうやら、こんな悩みを抱える若者が多いようで。

ドイツの政治家、ビスマルクの言葉です。

  青年に奨めたいことは、ただ3つの言葉に尽きる。
  すなわち働け、もっと働け、あくまで働け。

なかなかスパルタですね。
変に悩まずに汗を流すことも、案外気持ち良かったりして。

06-black

ブラックジャック

寒くて、朝起きるのが辛い。
このまま眠っていたい。
休んじゃおうかな。

毎朝布団の中で、同じことを考えてしまう皆さんへ。
仮病で休んでしまおうかと、こっそりたくらむ皆さんへ。

かの有名な天才外科医、ブラックジャックは、こう言っています。

  仮病は、この世でいちばん重い病気だよ

でも一日くらいなら、許してもらいたいですね。

topへ

佐藤延夫 10年01月02日放送

01-mucha

「18歳のあなたへ/アルフォンス・ミュシャ」

今年、18歳になるあなたへ。
「将来の夢は?」
そんな質問をされるのが苦手という、あなたへ。

夢は、いつ花開くのか。
その答えなんて、誰にもわからないこと。

18歳のとき裁判所で働いていたアルフォンス・ミュシャは
仕事中に被告人の似顔絵を描きクビになってしまう。

彼がやがてアールヌーヴォーを代表する画家になるとは
そのとき誰も思っていない。

運命が微笑むときはきっとくる。

がんばれ、18歳。

02-ichiyou

「20歳のあなたへ/樋口一葉」

今年、ハタチになるあなたへ。

お金の大切さがわかりはじめた、あなたへ。

今の五千円札に描かれている女性は、
ハタチのとき、今日を凌ぐお金にも苦労していた。

小説家を目指していた樋口一葉。
執筆活動だけではやっていけず、
片手間で雑貨屋を始める。
それでもお金は足りず、高利貸にも通った。

  家は貧、ただ迫りに迫れど、心は春の海の如し

今の時代、この人が五千円札で良かったのかもしれない。

ハタチの皆さん、お金と夢は大切に。

03-nellie

「25歳のあなたへ/ネリー・ブライ」

今年、25歳になるあなたへ。

仕事の面白さがわかってきた、あなたへ。

アメリカの女性ジャーナリスト、ネリー・ブライは
25歳のとき、その後の人生を変える仕事に取り組む。

それは、「80日間世界一周」を実際に体験するという無謀な企画。
飛行機なんて存在しない19世紀の末、
汽車と船を乗り継ぎ、
各地で記事を書きながら72日で戻ってきた。

世界初の女性ジャーナリストは、
単独で世界一周をした世界初の女性にもなっていた。

25歳は、少しくらい無鉄砲なほうがいい。

04-christie

「30歳のあなたへ/アガサ・クリスティ」

今年、30歳になるあなたへ。

毎日に少し迷っている、あなたへ。

イギリスの、ある女性の話です。
16歳のときパリの音楽学校に入学するも、挫折。
24歳で結婚し、看護師として働く。
26歳のとき、ある小説をわずか3週間で書き上げる。

さあ、ここからが大切。
30歳のあなたへ。
20代の苦労を忘れてはいけません。
自信があるなら、諦めてはいけません。

ある日、出版社に何度も断られた作品が採用となり、
彼女は華々しくデビューする。
それが推理作家、アガサ・クリスティーの30歳。
作品は「スタイルズ荘の怪事件」。

30歳のエンジンは、一度火が点けばすぐに熱くなる。
迷う前に、走ろう。

05-goethe

「40歳のあなたへ/ゲーテ」

今年、40歳になるあなたへ。

40代の恋について
ドイツの文豪、ゲーテは
こんな言葉を残しています。

 二十代の恋は幻想で
  三十代の恋は浮気である
 人は四十代になってはじめて
  真のプラトニックな恋愛を知る

いまからでも遅くない。
ゲーテが初めて結婚したのは、57歳のときですから。

topへ

佐藤延夫 09年12月05日放送

01-higashiyama
 
「モーツァルトが遺したもの/東山魁夷(ひがしやまかいい)」

昭和を代表する画家、東山魁夷の作品「緑響く」。

そこに描かれているのは、
信州、奥蓼科にある御射鹿池(みしゃかいけ)の風景。

キャンバスを埋め尽くす緑の山々は水面に映り込み、
白い馬が一頭、ためらいがちに、ゆっくり歩を進める。

東山魁夷は、
モーツァルトのピアノ協奏曲ケッヘル488番第2楽章を聴いて
この情景が浮かんだそうだ。

森林は、オーケストラ。
白馬は、ピアノの旋律。

この世には、見て感動できるモーツァルトも遺されている。

今日、12月5日は、
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが亡くなった日。

02-tanigawa
 
「モーツァルトが遺したもの/谷川俊太郎」

詩人、谷川俊太郎の作品「ふたつのロンド」は、
自身の思い出話から始まる。

  六十年生きてきた間にずいぶんピアノを聴いた
  古風な折り畳み式の燭台のついた母のピアノが最初だった
  浴衣を着て夏の夜 母はモーツァルトを弾いた
  ケッヘル四百八十五番のロンド ニ長調
  子どもが笑いながら自分の影法師を追っかけているような旋律
  ぼくの幸せの原形

彼が詩の中に込めたもの。
それは、音楽がもたらす幸せにひそむ寂しさと、死だった。

優雅さの中に、悲しみがある。
だから私たちは、モーツァルトの曲を聴くのかもしれない。

今日、12月5日は、モーツァルトが亡くなった日。

03-nakahara

「モーツァルトが遺したもの/中原中也」 

  僕はもうバッハにもモーツアルトにも倦果てた。(あきはてた)

詩人、中原中也の作品「いのちの声」が発表されたのは、結婚した翌年のこと。
恋人の長谷川泰子とは、とうの昔に別れ、違う女性と一緒になっていた。

中也がモーツァルトを聴いていた、というのは有名なエピソードだが、
ある頃から、陽気な音楽にはもう飽きたよ、と漏らしていたそうだ。

長谷川泰子と別れた小林秀雄もまた、
モーツァルトの弦楽五重奏曲ト短調を聴いて、
「かなしさは疾走する」と評した。

モーツァルトの曲は、昔の恋を思い出させる魔法。
そんなふうに思えてしまう。

今日、12月5日は、モーツァルトが亡くなった日。

04-tachihara

「モーツァルトが遺したもの/立原正秋(たちはらまさあき)」

鎌倉から江ノ電に乗り
20分ほど揺られると、
腰越(こしごえ)駅に辿り着く。

ここは、作家、立原正秋が暮らした小さな街。
魚屋の店先を覗くのが、彼の日課だった。
鵠沼海岸に越したのちも
四季折々の魚を愛し、こんな文章を残した。

  ある朝十時に起きて酒をのんでいたら、
  モーツァルトのピアノ協奏曲ニ短調がきこえてきた。
  私は前夜の残りの鮟鱇を肴に酒を酌みながら、
  モーツァルトと鮟鱇はよく合う、と思った。

この冬、鮟鱇とモーツァルトの相性を試してみるのも良さそうだ。

今日、12月5日は、モーツァルトが亡くなった日。

05-abraham

「モーツァルトが遺したもの/アカデミー賞」

奇妙な笑い方をする、荒唐無稽なモーツァルト。
彼の才能を嫉む宮廷音楽家サリエリ。

この二人の人間模様を描いた映画「アマデウス」は、
第57回アカデミー賞のタイトルを8部門受賞した。

主演男優賞にノミネートされたのは、
モーツァルト役のトム・ハルスと
サリエリ役のフランク・マーリー・エイブラハム。

その栄冠に輝いたのは、
映画の中で、悔しそうな表情ばかり浮かべていた、
エイブラハムのほうだった。

モーツァルトを毒殺した疑いがかけられ、
悪役に仕立てられたサリエリも
このときばかりは、晴れやかな笑顔を見せた。

さてモーツァルト本人は、草葉の陰で何を思うやら。

1791年の今日、12月5日は、
モーツァルトが亡くなった日。

06-dufy

「モーツァルトが遺したもの/ラウル・デュフィ」

20世紀に活躍したフランスの画家、ラウル・デュフィは語る。

   私の眼は醜いものを消し去るようにできている

デュフィは、生涯にわたりモーツァルトを敬い、
彼をモチーフにした十数枚の絵を残している。

色彩豊かに描かれたデュフィの作品は、
美しく、また、奥深い。

モーツァルトの遺産は、パリで静かに眠っている。

今日、12月5日は、モーツァルトが亡くなった日。

topへ

佐藤延夫  09年11月1日放送

01-silencesuzuka


サイレンススズカと武豊1

「もしも、あの馬が無事に走っていたら」

今でも競馬ファンが、そう考えてしまうレースがある。

平成10年、11月1日。天皇賞。
一番人気で先頭を走っていたサイレンススズカは
レース中に左前脚を骨折、安楽死となった。
ジョッキーの武豊は語る。

「夢が一瞬にして消えてしまった。」

11年前の天皇賞の話になると
悲しそうな顔をする人は多い。

02-silencesuzuka


サイレンススズカと武豊2

1997年、2月1日。
京都競馬場。
芝1600mの新馬戦。

サイレンススズカのデビューは、
強烈なものだった。

スタート良く飛び出したら、
そのままゴールまで影も踏ませない。
騎手は道中、慌てず騒がず、
手綱さえ動かさなかった。
まるで他の馬は歩いているようだ、と誰かが言った。
終わってみれば、7馬身差の圧勝。
競馬場は、溜息に包まれた。

「凄い馬が出た。」

別の馬に乗っていた武豊は、
初めて見るサイレンススズカのスピードに舌を巻いた。

03-silencesuzuka


サイレンススズカと武豊3

スピードは速いけど、誰も制御できないクルマ。
4歳当時のサイレンススズカは、まさにそんな馬だった。

幼さと気性の激しさが悪い方向に傾くと、
ことごとくレースを台無しにした。
弥生賞では騎手を振り落とし、ゲートをくぐり抜けてしまう。
ダービーは、ちぐはぐな競馬で惨敗。
秋のマイル戦も、見せ場すら作れなかった。

その年の12月、
香港遠征で、初めて武豊に身を任せる。

5着に敗れはしたものの、
気持ち良さそうにターフを駆ける姿は、
関係者を唸らせた。
持ち前のスピード、ダイナミックな足の運び、後半の粘り。
並の馬ではない。
一流馬となる素質は、随所に感じられた。
レース後、武はぽつりと言った。

「恐ろしい馬になるかもしれない。」

その予言は、思うより早く現実のものとなる。

04-silencesuzuka


サイレンススズカと武豊4

多くの競走馬は、自分のスタイルを持っている。
逃げ、先行、差し、追い込み。
宿命的に「一か八か」という言葉がつきまとうのは、逃げ馬だ。

たとえば2000mのレースで、
1000mを通過するタイムが
58秒というのは明らかにオーバーペースであり、
やがて後続の馬に一気に追い抜かれてしまう。

でもサイレンススズカに限っては、それがマイペースだった。

栗毛の逃亡者。
音速の貴公子。
異次元の快速馬。

のちに、さまざまな異名がつけられた。

05-silencesuzuka


サイレンススズカと武豊5

1998年。
5歳になったサイレンススズカは、
圧倒的な強さを見せつける。

2月のバレンタインステークスを皮切りに、
中山記念、小倉大賞典でも勝ち星を重ねた。
圧巻だったレースは、5月の末、中京競馬場で行われた金鯱賞(きんこしょう)。
スタート直後に飛び出したら、最後まで一人旅。
どの馬も、彼のペースについて行けなかった。

去年負かされたライバルたちは、遠くに霞んで見えるだけ。
4コーナーを過ぎると、観客は拍手を送り、
ゴール前では、笑いがこぼれた。
誰もがその強さに呆れてしまうようなレースだった。

終わってみれば、2着に11馬身の差をつけて圧勝。
レコードタイムを軽々と塗り替えていた。
これで、年が明けて4連勝。
武豊は語る。

「今日のサイレンススズカなら、どんな馬が来ても負けない。」

慎重な彼がこんなに強気な発言をするのは、珍しい。

06-silencesuzuka


サイレンススズカと武豊6

1998年、7月。
サイレンススズカは無傷の4連勝で、
春競馬最後のGI(ジーワン)レース、宝塚記念に挑む。

このときに限り、武豊には先約があり、
南井(みない)騎手に乗り替わった。

距離の延長が不安視されたが、
始まってしまえばいつも通り。
最後までどの馬も、並ぶことさえできなかった。

武は、エアグルーヴに跨がり3着。
サイレンススズカの後ろ姿を見つめるだけだった。
レースを終えて、南井騎手は言う。

「この馬の能力は、ナリタブライアンに匹敵する。」

それはかつて、怪物と言われた馬だった。

07-silencesuzuka


サイレンススズカと武豊7

1998年、秋。
天皇賞の前哨戦、毎日王冠は
東京競馬場で行われた。

サイレンススズカは、
淡々と自分のペースを守り、レースを進めていく。
しかしリードはそれほど大きくない。
最後の直線、他の馬が近づいたところで、一気に引き離した。

「これが理想だと思いました。」

武豊は、誇らしげに言う。
サイレンススズカがスターホースになった瞬間だった。

08-silencesuzuka


サイレンススズカと武豊8

やけに数字の1が目につく日だった。
平成10年11月1日の第11レース、秋の天皇賞。
サイレンススズカは、1枠1番にゲートインした。

芝が西日を浴び、ターフは黄金色に輝く。
彼はいつものように、後続に大差をつけて逃げる。
府中名物、大欅(おおけやき)を越え
まもなく第4コーナー、というあたりで躓くように失速。
左前脚の粉砕骨折。
この日が、サイレンススズカの命日となった。

翌年の7月11日、宝塚記念。
実況アナウンサーは、レースが始まる前に言った。

「あなたの夢は、スペシャルウイークか、グラスワンダーか。
 私の夢は、サイレンススズカです。」

人々の記憶の中で、彼は走り続けている。

topへ

佐藤延夫 09年10月3日放送

1

信濃の秋/平畑静塔 杉田久女


 壺の国 信濃を霧の あふれ出づ

信濃を「壺の国」と表現したのは、
明治生まれの俳人、平畑静塔だった。

山国、信濃は盆地の中にあり、深い霧に包まれやすい。
その形をぼんやり想像すると、
たしかに、壺から煙が出ているように見える。

信濃では、こんな句も生まれている。
同じく明治生まれの俳人、杉田久女によるものだ。


 紫陽花に 秋冷(しゅうれい)いたる 信濃かな

秋になってもここでは、
紫陽花が凛として咲いている。

俳人たちも、この幻想的な土地に訪れると
いつもより筆が動くのだろう。

1003_2

甲州の秋/飯田蛇笏

甲州地方の山々を愛した、
明治生まれの俳人、飯田蛇笏。

彼の句は、
自然と対話するなかで磨かれていった。

   
 くろがねの 秋の風鈴 鳴りにけり

蛇笏はこの句を詠んだあと、
あまりに簡潔すぎるので
他者の共感が得られるか、思い悩んでいたそうだ。

静けさがなおも深まる山。
風鈴の音もしない、くろがねの秋。

十月の山梨を、覗いてみたくなる。

1003_3

大和の秋/阿波野青畝

アキノキリンソウ、
ヨシノアザミ、
ツルリンドウ。

今ごろ、
奈良県の葛城高原(かつらぎこうげん)では
秋の花が、そっと咲いている。

明治生まれの俳人、阿波野青畝が愛した
大和地方の山々。
この地に生まれた人だから、なのか。
俳句の中に、崇高な世界観が垣間見える。


 秋の谷 とうんと銃(つつ)の 谺(こだま)かな

耳を澄ませば、遠くから聞こえる猟銃の音。
そしてまた静寂が包み込む。

奈良の秋は、神々しく深まっていく。

4

鴨川の秋/鈴木真砂女

千葉県、鴨川に行けば
俳人、鈴木真砂女の句に会うことができる。


 あるときは 船より高き 卯波(うなみ)かな

真砂女の人生もまた、波乱に満ちたものだった。
22歳で恋愛結婚をするも、夫は博打に入れ込み、蒸発。
急死した姉の代わりに、旅館の女将となる。
人に勧められるまま、亡き姉の夫と再婚するも心を許せず、
30歳で、旅館にやってきた海軍士官と不倫。
全てを捨て、思うまま、身を投じた。

銀座一丁目の路地裏に小料理屋を開き、
それでも俳句を読み続けた真砂女は、
96歳まで生きて、ゆっくり目を閉じた。

   
 来てみれば 花野(はなの)の果ては 海なりし

どこに居ても心に浮かぶのは、
穏やかな鴨川の秋だったのかもしれない。


5

草城の秋/日野草城

柿食えば、鐘が鳴るなり・・・という有名な俳句があるけれど、
俳句の中に柿を登場させた数で言えば、
明治生まれの俳人、日野草城に分があるかもしれない。

   
 岡寺の 大きな柿を 買ひにけり 

   
 小包を 解くやころころころと柿

   
 食ふまでの たのしさ尽きず 寒の柿

   
 柿を 食ひをはるまで われ幸福に

いつのまにか、柿の甘さが頭の中を駆け巡っている。
そういえば草城は、こんな句も詠んでいた。

   
 秋の夜や 紅茶をくぐる 銀の匙

この人は、紅茶もお好きだったようだ。

1003

放哉の秋

結婚するはずの女性と別れる。
会社をひと月で辞める。
酒癖の悪さに、禁酒を命ぜられる。
朝鮮半島に渡る。
禁酒の戒律を破る。
サラリーマンに嫌気がさす。
妻と別れる。
いくつかの寺に世話になる。
小豆島に辿り着く。
そこが終の棲家となる。

自由律の俳人、尾崎放哉は
生き方まで自由だった。
ひとりで生きることを望み、それに苦しみ、
ただ海を見つめ、言葉を残した。

   
 菊 枯 れ 尽 し た る 海 少 し 見 ゆ

枯れ果てた菊の花と、
その向こうに見える海。

孤独を噛みしめたいときは、
冬の近づく海辺で、放哉の句を呟くといい。


7

山頭火の秋

孤独の俳人、尾崎放哉が世を去った三日後、
流転の旅に出たのが、種田山頭火。
放哉と同じ、自由律というスタイルだった。

それなのに
ふたりの生き方は、あまりにも対称的で・・・。

放哉は、海を愛し
山頭火は、山に魅せられた。

放哉は、孤独に苦しみ
山頭火は、孤独を笑い飛ばした。
だから、こんな句ができた。

   
 も り も り も り あ が る 雲 へ 歩 む

昭和十五年、十月。
彼の辞世の句には、
ひとりの寂しさなど微塵も感じられない。

孤独を楽しみたいときは、
山に向かい、山頭火の句を呟くのが良さそうだ。

topへ

佐藤延夫 09年9月5日放送

1

幾何学の時間/エウクレイデス

幾何学。
この言葉を聞くだけで
うんざりする人が、どれだけいることだろう。

幾何学の“幾何”というのは、
図形の性質を調べ、証明すること。

たとえば、
ひとつの円に内接する正五角形を作図し、
それが正五角形である理由を証明する。
なんとも難しい話だ。

幾何学は、人類の歴史そのものであり、
古代エジプトの哲学者エウクレイデスまで遡ることができる。

もう一度、勉強してみようかな。
学生たちの二学期は、もう始まっていますね。

1

国語の時間/新美南吉


これは、私が小さいときに、村の茂平というおじいさんにきいたお話です。

こんな出だしで始まる物語は、
国語の時間に習った「ごんぎつね」。

作者は、新美南吉。
4歳のときに母親が亡くなり、
8歳で養子に出され、
その1年後、寂しさに耐えられず、実家に戻っている。

童話「ごんぎつね」を書いたのは、18歳のとき。
物語に出てくる兵十(ひょうじゅう)のモデルは、実在する人物。
ひとりぼっちで、いたずら好きな、ごんぎつねのモデルは、
あるいは、南吉本人なのかもしれない。

あのときの国語の教科書は、
まだ、机の中にあるだろうか。


2Antoine_lavoisier

化学の時間/ラヴォアジエ

化学の実験には、お金がかかる。
それは今も昔も同じこと。

18世紀、フランスの化学者ラヴォアジエは
税金取り立ての暴力組織、徴税請負人の一員となり
実験資金を稼いだ。

そして発見したのが、質量保存の法則。
物質どうしが化学反応をする前後において、
その質量は変わらない、というもの。

ラヴォアジエは、フランス革命後、ギロチンで処刑されるが、
その間際、親しい人にこんな宣言をした。

 僕の首が切れても、可能な限り、まばたきをしてみせる

その実験への執念には、頭が下がる。


3

音楽の時間/グリーングリーン

ある日、パパとふたりで語りあったさ

明るいメロディで始まるこの曲は、
音楽の教科書の定番。
合唱コンクールで歌った人も多いのでは。

教科書に載っているのは、たいてい3番まで。
5番でパパが亡くなってしまうことは
あまり知られていない。

この歌を作曲したのは、
アメリカのシンガーソングライター、
バリー・マクガイア。

彼の曲には、そもそもパパなんて登場しない、ということも
あまり知られていない。


100

植物学の時間/牧野富太郎と寿衛子

生まれながらに好きだった。

日本にある植物のうち、
およそ1000種類の名前を付けた植物学者、牧野富太郎。
だが研究に没頭するあまり、家計は破綻した。

文句ひとつ言わず夫を支えたのが、妻の寿衛子。
借金取りが来ると家の前に赤い旗を掲げ、
富太郎に、今帰ってくるなと知らせた。

昭和二年、寿衛子が病に伏しているとき、
富太郎は、新種の笹を発見する。
それを、スエコザサと名付けた。
妻への深い感謝を込めて。

翌年、寿衛子は、亡くなった。
富太郎は、墓碑の周りにスエコザサを植え、
こんな句を刻んでいる。


 家守りし 妻の恵みや わが学び

生まれながらに好きだったもの。
生きながら、好きだったもの。


2847625873_1760dc000c

算数の時間/ガウス

算数の問題です。
1から100まで全部足すと、合計でいくつになるでしょう。

この答えを瞬時に導き出したのは、
ドイツの数学者、カール・フリードリッヒ・ガウス。
わずか9歳のときのエピソードだ。

最小二乗法、
正十七角形の作図法、
整数論の確率など、
のちに彼は、近代数学に影響を及ぼす
さまざまな発見をする。

さらに24歳で小惑星を発見。
60歳でロシア語に挑戦。
晩年には心霊術にも手を出したという。

努力する天才ほど、強いものはない。

1から100までの合計、わかりましたか?
正解は、5050です。


4

費やす時間/学者たち

日ごろの努力が実を結ぶまで、いったいどれほどの時間が必要だろう。

それは学者たちの功績を見ればわかりそうだ。

数学の難問、
フェルマー予想を証明してみせたアンドリュー・ワイルズは
七年間、研究室に籠った。

キュリー夫妻が、ラジウムの抽出に成功するまで、八年。

メンデルは、ダーウィンの進化論を証明するために
エンドウ豆を225回も交配し、およそ1万3千もの種類を調べ上げた。
費やした時間は、八年。

桃栗三年、柿八年。
あながち、この言葉は間違っていない。

二、三年で諦めるなんて、気が早すぎる。

topへ


login