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佐藤延夫 09年8月8日放送




将棋指し。BOSTON。宇宙。1/村山聖(さとし)

一日中、好きな本を読んでいたい。
一日中、ギターをかき鳴らしたい。
一日中、テレビゲームをしていたい。

たまにそんなことを思うけど
「これから毎日ずっとだよ」
なんて言われたら、素直に頷けるだろうか。

少年は、重い病で入院しているときに、将棋と出会った。
狭いベッドに横たわる自分の背中に、翼が生えたような気分だった。


 一日中、将棋をしていたい。

村山聖、6歳。
プロの世界へ羽ばたいていく、ほんの8年前のこと。




将棋指し。BOSTON。宇宙。2/村山聖

村山聖、8歳。
入院中に書いた、ある日の日記。


 今日もしょうぎのれんしゅうを六、七時間しました。
 朝から夕がたまでです。
 そしてまだ、のこっているので夜、やろうと思います。
 あと二もんです。だから時間はあと一時間です。

次の日も、その次の日も、
将棋のことしか書かれていなかった。

日記によると、
なぜか天気は、いつも晴れ。
気温は、いつも22度。

病気は、来る日も来る日も彼の体にのしかかってきたけど、
きっと、心は穏やかだったんだろう。





将棋指し。BOSTON。宇宙。3/村山聖

ネフローゼという厄介な病気は、
顔や体を赤ん坊のように、むくませる。
不意に高熱が出て、
体調が悪いと一歩も動けなくなる。

村山聖は、そんな病を抱えたまま
ただ将棋を指していた。

小学6年生のとき、
広島のデパートで行われたイベントで
プロの棋士と対戦。
飛車落ちのハンデだけで
いともたやすく勝ってしまう。

青白い顔で打ち込む指し手はみな鋭く、
本当に青ざめたのは、大人たちのほうだった。





将棋指し。BOSTON。宇宙。4/村山聖

タイムリミット。
時間がない。
それは締め切りだったり、
電車の時刻だったり。

私たちが時間に追い立てられるのは
せいぜい、今日か明日か明後日か。

将棋の世界は、時間に厳しい。
プロの棋士を養成する奨励会に入ると、
25歳までに四段への昇級を義務づけられる。
村山聖は、病気と闘いながら、17歳でそのノルマを果たした。

それでも村山は、言い続ける。


 僕には、時間がないんです。

まるで命のタイムリミットを知っているかのように。

砂時計の砂は、少しずつ減り始めていた。





将棋指し。BOSTON。宇宙。5/村山聖

「なんて、強いんだ。」

14時間を超える対局の果てに、投了。
村山聖は負けた。
相手は、羽生善治。

かつて村山が、広島の病院で将棋に夢中だったころ、
羽生もまた東京で、将棋の本を手放さない少年だった。

境遇はよく似ていたけど、
そんなことは、もちろんふたりとも知らない。


 食事に行きませんか?

ある日、村山は、羽生にそっと声をかける。
まるで憧れの女性を誘うみたいに。

通算の対戦成績は、村山の6勝7敗。
その続きを、もう見ることはできない。





将棋指し。BOSTON。宇宙。6/村山聖

勝負の世界には、神様が現れやすい。
勝利の女神、しかり。
神懸かり、しかり。

村山聖は、26歳で八段まで昇りつめた。
名人まで、もう少し。
将棋の神様は、村山に微笑んでいた。
なにかと幸運に恵まれた昇級に、ぽつりと感想を述べる。


 神様のすることは、僕には予想のできないことだらけだ。

その後、こんな質問を受ける。
「もし神様がひとつだけ願いを叶えてくれるとしたら、何を望みますか?」

村山は答えた。


 神様除去。

彼を翻弄するのは、神様だけだった。





将棋指し。BOSTON。宇宙。7/村山聖

村山聖は、旅立った。
平成10年の今日、8月8日。
29歳の若さで。

将棋界の最高峰、A級に属し
名人まで手が届くところにいたのに。

亡くなる少し前、将棋年鑑のアンケートに、こう寄せている。

今年の目標は?


 土に還る。

行ってみたい場所は?


 宇宙以前。

「More Than A Feeling 〜宇宙の彼方へ」。
彼がこの曲を愛した理由が、少しだけわかった。

将棋盤に刻まれた81枡。
その向こうには、宇宙があるんだ。きっと。

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佐藤延夫 09年7月4日放送

1

漂流する男の話  浜田彦蔵 1

13歳のとき、何をしていただろう。

中学1年生か、2年生。
楽しいような、つまらないような。
どこか、もやもやした毎日を過ごしていたかもしれない。

江戸時代の漂流民、浜田彦蔵の場合は・・・

偶然乗り込んだ船が難破し、太平洋を漂流。
2ヶ月後、アメリカの船に救助される。
食事は、バターをたっぷり塗ったパンに、塩漬けの牛肉。
あまりに手厚いもてなしを受け、彦蔵は思う。

こいつらは俺を太らせて、食うのではないか。

漂流する13歳は、ハードボイルドだ。

2

漂流する男の話  浜田彦蔵 2 

お前の来ているものを全部脱げ

アメリカ人の船乗りが、身振り手振りで伝えている。
江戸時代の漂流民、浜田彦蔵、13歳。
いよいよ自分は食われるのだと覚悟した。

アメリカ人、今度は頭を指差し何か言っている。
訳も分からず頷くと、いきなり丁髷を切られた。
日本人が髷を落とすのは、命を捧げることに等しい。

さすがに、もう食われるとは思わなかったが
彦蔵は、言葉の通じない辛さを噛みしめた。

この世に、悔しさに勝るモチベーションは、ない。

彼が自在に英語を話せるまで、1年もかからなかったのだから。


3

漂流する男の話  浜田彦蔵 3

江戸時代の漂流民、浜田彦蔵の旅は続く。

サンフランシスコ、
ハワイ、
香港、
マカオ、
そして再びサンフランシスコへ。

ある日、彦蔵は偶然にも、自分と同じ境遇の漂流民に出会う。
名を重太郎(しげたろう)といい、救いを求めていた。

日本語で彼の胸の内を聞き、英語で船長に通訳したとき、
自分の生きる道が見えたと、のちに語っている。

きっと、光が射し込んだのだろう。
ごく限られた人にしか見えない、まばゆい光が。


4

漂流する男の話  浜田彦蔵 4

フランクリン・ピアース。
ジェームス・ブキャナン。
エイブラハム・リンカーン。
3人の大統領と面会した日本人は、政治家ではない。

伊藤博文、木戸孝允が
お忍びで会いに来たのも、政治家ではない。

漂流民、浜田彦蔵だった。

偉い人になるよりも、
会いたい人になったほうが、
世の中を動かせそうだ。


5

漂流する男の話  浜田彦蔵 5 
             
幼いころは、浜田彦太郎という名前だった。
それが浜田彦蔵になり、
アメリカでカトリックの洗礼を受け、
ジョセフ彦(Joseph Hico)と名乗る。
帰化して日本へ戻ると、
アメリカ彦蔵と呼ばれた。

日本で初めて新聞を発行し、
のちに「新聞の父」として歴史に名を刻む。

もし彼が生きていたら、今日という日を誰よりも祝うだろう。
7月4日、アメリカ独立記念日を。

彦蔵は、ボルチモアの農場で飲んだミルクの味を生涯、忘れなかった。


6

漂流する男の話  仙太郎

江戸時代、
ペリー率いる艦隊に
ただ一人、乗船を許された日本人、仙太郎。
彼は、仲間のアメリカ人に、こう呼ばれていた。

「サム・パッチ」

なにかあるたびに「心配、心配」と呟く仙太郎の声が、
アメリカ人には「サム・パッチ」に聞こえたそうだ。

かっこいいあだ名には大抵、
かっこ悪い理由がある。

7

漂流する男の話  音吉

13歳のとき船が難破し
太平洋を彷徨いながら14歳になる。
名も知らぬ島に辿り着き
原住民に助けられたと思いきや、
イギリス船に売り飛ばされる。
マカオから船に乗り
喜び勇んで日本に帰る寸前、
江戸湾で砲撃を受け
ついでに鹿児島でも門前払いされ、
マカオに舞い戻る。

それが江戸時代の漂流民、音吉(おときち)の人生。

故郷の地を踏むことは二度となかったが、
日本から流れ着いた多くの同胞たちに
救いの手を差し伸べている。

プロの漂流民とは、彼のことを言う。

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佐藤延夫 09年6月6日放送

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アントニオ・ストラディヴァリ                

いつからか私たちは、
呼吸するかのように電気を使い
携帯電話に縛られ、
パソコンに囲まれ、
毎日を生きている。

だからこそ、この音色を耳にすると
無類の喜びを感じるのでしょうか。

アントニオ・ストラディヴァリ。
彼の手掛けた数々の楽器は
今もなお音楽の世界を支配しています。

そうか。
21世紀になっても
私たちは、ルネサンス時代の技術を超えられないんだ。

そう思うと、なんだか痛快ではありせんか?

今日、6月6日は、楽器の日です。

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ジャクリーヌ・デュ・プレ                  

ジャクリーヌ・デュ・プレ。

天才と呼ばれたチェリストは
わずか42歳で、その生涯に幕を下ろしました。

彼女が亡くなった翌年、
透き通るような白い花を咲かせるバラに
こんな名前が付けられています。

ジャクリーヌ・デュ・プレ。

伝説になり、花にもなった、チェリスト。

今日、6月6日は、楽器の日です。
習い事は6歳6ヶ月の6月6日から始めると上達する。
そんな言い伝えがあります。

ジャクリーヌが音楽の道を志したのは、
ラジオでチェロの演奏を聴いたとき。

まだ4歳でした。

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ジネット・ヌヴー                   

情熱を音に変えるヴァイオリニスト、ジネット・ヌヴー。
ある人は、彼女の演奏を聴いて、こんな言葉を残しています。

ジネットは、聴く者を催眠にかける。
   だから聴衆たちは思わず信じてしまうのです。
    この曲にはこの解釈しかあり得ない、と 

それもそのはず、まだ10歳のころ
ジネットは、ヴァイオリンの先生に言いました。

わたしは、自分が感じたようにしか、弾けません

今日、6月6日は、楽器の日。

たまには、思うまま楽器を演奏してみませんか。
ジネットのように、自由に。

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ディヌ・リパッティ                      

誰かが、彼のことを、地上の天使だと言いました。

どこまでも透明で、
繊細で、完璧なメロディ。

ルーマニアが生んだピアニスト、ディヌ・リパッティの演奏です。

優れた曲に対しては、尊敬ではなく、愛しなさい

そんな言葉を残し、33歳の若さでこの世を去りました。

今日、6月6日は、楽器の日。

しばらく、この音色に身を任せましょうか。
彼の紡ぎ出す愛を感じながら。

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マルセル・モイーズ     

水曜日にコンサートが終わると、
車を飛ばし、木曜日の朝には580キロ離れたジュネーブへ。
その日の午後は生徒たちのレッスンに費やし、
夜になればまたパリに向かう。
金曜日、朝9時のリハーサルに辛うじて間に合う。

フルートの巨匠と言われる
マルセル・モイーズは、教育にも情熱的でした。

いや、独創的と言うべきでしょうか。

この言葉を聞けば、彼がいかに魅力溢れる指導者だったか、わかります。

メトロノームを、朝食のメニューに加えなさい

今日、6月6日は、楽器の日です。

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ジョージ・ルイス                      

クラリネットは、歌うものだったんだ。

ジョージ・ルイスの演奏を聴くと、そう思えてきます。

1963年に初来日。
本場のニューオリンズ・ジャズが、日本人を熱狂させました。

のちに彼は、若いミュージシャンに、こんな言葉を残しています。

Keep playing. とにかく演奏し続けることさ

今日、6月6日は、楽器の日。

もしも、むかし諦めた楽器がそばにあったら、
もう一度、触ってみませんか?

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アマティの行方                       

コントラバス奏者で、のちに指揮者になったセルゲイ・クーセヴィツキー。

どこのオーケストラにも属さない、
コントラバスのソリスト、ゲーリー・カー。

64歳も離れた
このふたりを結びつけたのは、
コントラバスの名器、アマティでした。

ある日、ゲーリーの演奏に感動したセルゲイの未亡人は、
亡き夫のアマティを譲ります。
第一線から退くまで、ゲーリーは、その名器だけを使い続けました。

今日、6月6日は、楽器の日。

名人に愛された楽器は、愛すべき者に渡り、また愛されていく。

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佐藤延夫 09年5月2日放送

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岡本一平 偶然

偶然。

その言葉は、どこか曖昧でありながらも、
不思議な説得力を持つ。

大正時代の漫画家、岡本一平は
偶然にも、ひとりの娘と出会う。

大貫かの子、のちの岡本かの子である。

肉感的な立ち居振る舞い。
その反面、
ときおり見せる、あどけなく可憐な仕草。

一平はやがて、かの子の虜になっていく。
かの子は、多くの男を虜にしていく。

偶然と運命は、いつも折り重なって存在するのか。

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岡本一平 恋愛

恋愛。

その関係は、いつでも対等の立場であるはずがない。

手紙のやりとりから始まった
岡本一平とかの子の恋。

かの子の筆遣いは大胆にして
生きた感情を包み隠すことなく、ぶつけてくる。

あらためて一平は、かの子の魅力に引き込まれていった。
したためる言葉も、変わっていった。

“これは僕が落とした涙の跡です”
“かわいそうだと思って、会ってくれ”

一平はすでに、かの子の奴隷になっていた。

服従。それも恋愛の、ひとつの形。

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岡本かの子 才能

才能。

ときにそれは、努力では覆いきれないほどの力を持つ。

画家の卵として、細々と仕事を続ける岡本一平。

妻のかの子は、すでにその限界を察知していた。

“一平は人間としては誠に面白いかはり、到底一生凡俗以上に
 なり得ないと見極めが付いたやうに感ぜられます”

兄に宛てた手紙には、そう綴られていた。

一平が、洋画家ではなく、漫画家として脚光を浴びるのは、
ほんの少し、先の話になる。

“お父さんは、絵が下手だねえ”

のちにそう言ったのは、長男の太郎。
岡本太郎だった。

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岡本一平 立場

“総理大臣の名前は知らなくとも
岡本一平の名を知らぬ者はいない”

洋画家から漫画家に転向した岡本一平は
世間にそう言わしめるほどの売れっ子になっていた。

そして1921年の今日、5月2日。
日本初の物語漫画「人の一生」の連載を始める。

“この仕事は、僕にとって、僕の生涯を掛けた芸術の一大投機です。”

その後、一平は「第二の夏目漱石」と評され、
絶対的な地位と名声を手に入れる。

しかし妻かの子との関係は
もはや修復できないほどになっていた。

新しい立場と、消えゆく立場が揺れていた。

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岡本かの子 奇妙

奇妙。

それは一般的な常識や概念とズレが生じたものを指す。

たとえば岡本一平とかの子の夫婦関係は、
奇妙と言わざるを得ない。

一平のほかに、
かの子が愛した男たちは皆、岡本の家で暮らしていた。

早稲田大学の学生、堀切茂雄。

二十年にわたり
身の回りの世話を買って出た恒松安夫。

かの子の手術を執刀した医師、新田亀三。

三人とも、亭主である一平の許可のもと、
半生をかの子に捧げた。
いくつもの奇妙な愛が、岡本家を包んでいた。

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岡本一平 変化

変化。

それはときに、思いもよらない結果をもたらす。

昭和13年の春、意識不明となった岡本かの子は、
翌年、帰らぬ人となった。

夫の一平は、こう語っている。

“ああ、何で人生にはこんな酷い出来事が構へられてあるんだ”

そんなとき、一平の体を気遣う娘がいた。
かの子の兄の忘れ形見、鈴子だった。

一平は、鈴子に心惹かれ、結婚を願い出たが
認められる筈もなかった。

かの子が亡くなった、その秋の出来事である。

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岡本太郎 巴里

巴里。

岡本太郎は、18歳から29歳まで、
この地で暮らしている。

ある日、ラ・ボエッシー街の画商でピカソの絵を見たとき
太郎は、溢れ出る涙を、抑えることができなかった。

“これこそ、自分が突き詰める道だ”

私生活では、生涯独身を通している。
両親の影響を受けたのかと思えば、そうでもない。

“世界中にこんなに沢山すばらしい女性がいるのに、一人だけ指定席に。
 あとはシャット・アウトなんて。そんなことできない。フェアーじゃない”

彼が生涯の伴侶にしたものは、
芸術だけ、だったのかもしれない。

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佐藤延夫 09年4月4日放送

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アンドレイ・タルコフスキー
         
“水は動きを、深さを、変化や色彩を、反映を伝えます。
  これは地上で最も美しいもののひとつです” 

ロシアに生まれた映像詩人、アンドレイ・タルコフスキーは
人間の意識を、水や水滴で表現しました。

1972年の作品、「惑星ソラリス」。
それは、海そのものが理性を持つ惑星。

1983年の作品、「ノスタルジア」の中で主人公は言います。

「芸術を理解するには、国境をなくせばいい。」

そういえば彼の故郷には、
ロシアの母なる川ヴォルガが流れていました。

川に国境なんて、ない。
 

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サマセット・モーム                 

「月と10ペンス」で有名なイギリスの小説家、サマセット・モームは
10歳のとき一家離散の憂き目に遭い、
孤独な幼少期の中で、作家になることを決意します。

作家活動を始めると、旅行好きであることを利用され、
戦争では軍部の諜報機関に配属。

のちに病気でスパイ活動をやめると
ようやく自由の身に。

アメリカ、タヒチ、日本、中国、シンガポールなど
世界中を旅してまわりました。
のちに彼はこう語っています。

“ 人生とは面白いものです。
  何かひとつを手放したら、それよりずっといいものがやってくるものです ”

なるほど、そうでしたか。

 
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川端康成
                       
“ 別れる男に、花の名をひとつ教えておきなさい。
  花は毎年、必ず咲きます ”

ノーベル賞作家、川端康成の言葉です。

もしもあなたが、別れる相手に後ろ髪をひかれる、
あるいは、ささやかな復讐心を持っているなら、
ぜひ試してみてください。

その花が咲く季節になると、
彼はあなたのことを、きっと思い出すでしょう。

でも、セントポーリアや、ストレリチアを教えるのは、
いささか意地悪かもしれません。

なぜって
一年中咲く花ですから。








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レイモン・ラディゲ
          
“ ふたりの幸せは、砂の城だった。
  ぼくは、満ち潮ができるだけ遅くやってくるように願っていた ”

コクトーに見いだされた若きフランスの小説家、
レイモン・ラディゲの作品「肉体の悪魔」。

第一次世界大戦のさなか、
魅力的な年上の女性マルトと恋に落ちる15歳の「ぼく」。

この小説は自身の体験を元にしたとも言われています。

40歳のような視点を持つと言われたラディゲは、
「肉体の悪魔」を発表した年、
腸チフスに罹り、20歳の若さでこの世を去りました。

“ 死が悲しいのは、生命と別れることでなくて
  生命に意義を与えるものと別れることである ”

確かにそうですね。

 
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アルチュール・ランボー                   

早熟の天才詩人と言われる
アルチュール・ランボー。

18歳のときに、詩人ヴェルレーヌとパリで出会い、
ブリュッセル、ロンドンなどを放浪。

2年後、関係が悪化したヴェルレーヌに別れを告げると、
拳銃で左手首を撃たれてしまいます。

“ 僕は自分の空想と追憶を
  埋葬しなければならなくなった ”

新作「地獄の季節」を出版したのち、
ランボーは、完成した本を焼き払い
詩人としての自分と決別します。

わずか21歳だったのに。

 
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ジェーン・グドール                  

東アフリカ、タンガニイカ湖のほとりに
ゴンベの森があります。
イギリスの動物学者ジェーン・グドールがこの地に立ったのは
26歳のとき。

彼女は、長い月日をかけチンパンジーと交流し
顔を見分け、ひとりひとりに名前を付けました。

“ 長い間、自然の森の中で暮らしていると
  本当は「死」というものがないんだ、ということがよくわかってきます。
  あるのは命の循環だけなのです ”

今、ゴンベの森に行ってもジェーンに会うことはできません。
森林とチンパンジーを保護するため
世界中で講演活動を行っています。

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バーナード・ハーマン
         
ヒッチコックに数多くの楽曲を提供した
アメリカの作曲家、バーナード・ハーマン。

彼はヒッチコックの記念すべき50本めの映画の制作中に
監督と激しく対立し、
生涯、袂を分かつことになります。

映画のタイトルは「引き裂かれたカーテン」

使われなかったハーマンの音楽を
ためしにつけてみた映像特典つきのDVDが
数年前に発売されたようです。 

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アガサ・クリスティー                    

イギリスの推理作家、アガサ・クリスティーは
24歳で空軍将校と結婚し、
38歳のとき離婚。

亭主の浮気に腹を立て、
置き手紙を残し、失踪騒ぎを起こしています。

その2年後に一緒になったのは、14歳も年下の考古学者。
彼女は、嬉しそうに語っています。

“ 考古学者は、どんな女性にとっても最高の夫です。
  妻が歳をとればとるほど、より一層、興味を持ってくれるから ”













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レオポルド・ストコフスキー                

ロンドンに生まれ、アメリカで活躍したオーケストラ指揮者、
レオポルド・ストコフスキーは
音楽活動の傍ら、メディアにも積極的に進出しました。

ディズニー映画への出演のほか
オーケストラで初の電気録音を行い、のちにステレオ録音にも挑戦。

本業の演奏スタイルも独創的でした。

決してタクトを振ることのなかった彼は、
口癖のように、こう語っています。

“ 1本の棒よりも、10本の指のほうが
  遥かに優れた音色を引き出せる ”

納得できる言葉です。

 
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聖徳太子                         

今から1400年以上も前、
推古天皇の時代。
淡路島に、ひと抱えもあるほどの香木が流れてきました。

その木片を火にくべると
なんとも良い香りがしたので
朝廷に献上したそうです。

その香木で聖徳太子が観音像をつくったとも言われています。
手を合わせると、香りでも癒してくれそうです。

4月には、お香の日という記念日があります。
 
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