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佐藤理人 13年11月10日放送



ナディア・コマネチ③ 「モントリオール」

 「コマネチサルト」「コマネチおり」

自分の名がついた体操の技を2つ持つ選手、
ナディア・コマネチ。

彼女は現在でも最高難易度に属するその技を駆使し、
1976年のモントリオールオリンピックで
完璧な演技を披露した。

しかし電光掲示板の点数は1.00。
どういうことだ?コーチが向き直ると、
審判は指を10本広げてみせた。
当時の掲示板には10点を表示する機能がまだなかった。

その後さらに6つの満点をとり、
史上初の快挙を7回も成し遂げたナディアは、
一夜にして世界のスーパーアイドルになった。

しかし彼女は何とも思わなかった。
彼女にとってオリンピックは
競技会の一つに過ぎなかった。

それもそのはず。ルーマニアでは
政府が認めたTV番組しか流せなかったため、
彼女はオリンピックの存在を知らなかったのだ。

私はただいい演技をしただけなのに。
みんなの驚く顔が、彼女にはむしろ驚きだった。

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佐藤理人 13年11月10日放送


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ナディア・コマネチ④ 「モスクワ」

共産主義国家で10代を過ごすのは楽じゃない。
金メダリストなら尚更だ。

モントリオールオリンピックの後、
ナディア・コマネチは荒れた。

厳しい練習。国からのプレッシャー。
国家の英雄とは思えない貧しい暮らし。
報われない虚しさが彼女から
体操への情熱を奪い去った。

彼女は10代の少女らしく、
毎日を勝手気ままに過ごした。
しかし一度特別な世界を見た者が
普通の暮らしに満足できるはずがない。
心はいつも空虚だった。

1980年のモスクワオリンピックに出よう。

 コマネチは終わった

と言うマスコミが間違ってると証明するために。
そして辞めよう。新しい人生を始めるために。

結果は銀メダル。
彼女は体操にもう何の未練もなかった。

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佐藤理人 13年11月10日放送



ナディア・コマネチ⑤ 「アメリカ」

 ルーマニアに帰るか。
 それともアメリカに残るか。

ツアーでニューヨークを訪れた日の夜、
コーチにそう尋ねられ、体操の金メダリスト
ナディア・コマネチは答に詰まった。

1980年代、ルーマニアは酷い飢餓状態にあった。
大統領ニコラエ・チャウシェスクが
国の借金返済のため食料品をすべて輸出していたのだ。

でも、家族を置いて亡命なんてとてもできない。

 国に帰ります

彼女はそう答えるのが精一杯だった。

翌朝、コーチ夫妻は姿を消した。
その日からナディアの生活は一変した。
亡命の危険性がある要注意人物として
国から徹底的にマークされた。

6歳から苦楽を共にしたコーチが去った今、
どうすればいいか教えてくれる人は
もう誰もいなかった。

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佐藤理人 13年11月10日放送



ナディア・コマネチ⑥ 「決意」

エドヴァルド・ムンクの「叫び」。

 あの絵に描かれた男性の気持ちが
 私にはわかる。

体操の金メダリスト、
ナディア・コマネチは言う。

コーチ夫妻が亡命した後、
彼女は何年間も電話を盗聴され、
24時間秘密警察に見張られた。

 白い妖精

と呼ばれたかつての英雄は、
今や囚われの反逆者だった。

このまま負けっぱなしなんてイヤだ。

亡命という今までで最も難しく
危険な技に挑むため、
彼女は秘かに助走を始めた。

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佐藤理人 13年11月10日放送


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ナディア・コマネチ⑦ 「亡命」

どんな高いジャンプだって恐くなかった。
でも今は目の前にある数mの鉄条網が恐ろしい。

体操の金メダリスト、ナディア・コマネチは
ルーマニアの国境で怯えていた。
背後から国境警備隊に射殺されたらどうしよう。
残した家族が秘密警察に拷問されたらどうしよう。

吐き気をもよおすほどの恐怖と闘いながら、
彼女は6人の仲間とともに暗闇を6時間走り続けた。

しかしようやく辿り着いたハンガリー警察は、
無名の一般人には冷たかった。

 君はいいが、残りは強制送還する。

体操には団体競技としての側面がある。
個人の点数はチームに加算されるのだ。

幼い頃から常に「チームプレイヤーであれ」
と教えられてきたナディアは思わず言った。

 全員が残れないなら、私も残りません。

ハンガリー警察は全員の亡命を認めた。

人生を賭けた大勝負で、彼女は見事、
10点満点のウルトラCを成功させた。

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佐藤理人 13年11月10日放送


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ナディア・コマネチ⑧ 「帰国」

亡命から5年後、
ナディア・コマネチはルーマニアに帰った。

チャウシェスクは処刑され、
秘密警察も消えた。でも彼女は恐かった。

国を捨てた裏切者

そう呼ばれるんじゃないか。

飛行機を降りた彼女が見たもの。
それは勇気ある一人の女性を出迎える
数千人の姿だった。

ナディアは今、優れた指導者として
子供たちにスポーツという「希望」を
贈り続けている。

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佐藤理人 13年10月20日放送



フェルマーの遺産「フェルマー」

17世紀フランスの法律家、
ピエール・ド・フェルマー。

大の数学好きだった彼は、
読んだ数学書の余白に数多くのメモを残した。

彼の死後、それらは全て解明された。
たった一つを除いては。

 3以上の自然数 nについて xn + yn = zn となる
 0 でない自然数 ( x, y, z ) の組は存在しない

これが

 フェルマーの最終定理

と呼ばれるもの。

 この定理に関して
 私は真に驚くべき証明を見つけたが
 この余白はそれを書くには狭すぎる

そう記してこの世を去ったフェルマー。

それから350年もの間、
自分のメモが数学史上最大の謎として
大勢の人生を狂わせることになるとは、
彼は夢にも思わなかったに違いない。

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佐藤理人 13年10月20日放送



フェルマーの遺産「谷山と志村」

戦後の日本でいち早く復興したのは
数学だった。

1955年の国際シンポジウムで、
東京大学の谷山豊は楕円曲線について
ある重要な発表を行う。

しかし3年後、
谷山は自らの説を証明することなく、
謎の自殺を遂げる。

谷山の遺志を継いだのは、
東大の先輩、志村五郎。

彼はそれから10年もの間、
親友が打ち立てた理論と取り組み、
遂に証明を完成させた。

この

 谷山=志村予想

こそ、
350年間誰も解くことのできなかった
フェルマーの最終定理に、
初めて風穴を開けた画期的な理論だった。

世界中の数学者を飲み込んできた魔の山に、
遂にルートが見つかった。

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佐藤理人 13年10月20日放送



フェルマーの遺産「ワイルズ① 登頂前夜」

1963年、10歳のアンドリュー・ワイルズは、
図書館で「フェルマーの最終定理」に出会った。

 いつか自分が解いてやる

そう誓った彼はケンブリッジ大学に進む。
しかし教官は無茶な夢は捨てるよう諭した。

1986年、「谷山=志村予想」が証明できれば
「フェルマーの最終定理」も証明できることを
アメリカの数学者ケン・リベットが発表する。

ワイルズの全身に震えが走った。
33歳の少年が夢に向かって再び歩き始めた。

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佐藤理人 13年10月20日放送



フェルマーの遺産「ワイルズ② アタック開始」

イギリスは冒険家の国だ。

クック、スコット、リビングストン、ヒラリー。
冒険に命をかけて死んだ男たちの血が、
数学者アンドリュー・ワイルズにも流れていた。

断崖絶壁に囲まれた数学史上最高の未踏峰、
「フェルマーの最終定理」。

ワイルズは誰にも内緒で証明を開始する。
数学者のキャリアを溝に捨てる恐怖と闘いながら、
彼は何年間も考えつづけた。

論文も書かず、学会にも出席しない彼のことを、
同僚たちは「ワイルズは終わった」と笑い者にした。

7年目、ようやく光明が訪れた。
不得意な幾何学をかなり駆使したが、自信はあった。

1993年、ワイルズは突然講演会を開き、
満員の聴衆の前で史上最大の難問を解き始めた。

終わりに近づくにつれてシャッターの音が増え、
シャンパンの栓が抜かれた。

いつまでも止まない喝采の中、
ワイルズは静かに証明を終える。

しかし、本当の試練はこれからだった。

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