‘佐藤理人’ タグのついている投稿

佐藤理人 18年5月19日放送

180519-01

意外な発明 「プラマーの錠前」

1784年、イギリス人の農夫の息子、
ジョセフ・プラマーがある錠前を作った。

それまでの錠前はどんなに高価なものでも、
練習すれば誰でもこじ開けることができた。

しかしプラマーが作った円筒形の錠前には、
4億9400万通りもの組み合わせがあった。

 見事開けた者には賞金を出そう

このプラマーの申し出が破られたのは、
それから67年後のこと。

アメリカ人の錠前師が一ヶ月間苦労して、
ようやく鍵をこじ開けた。

プラマーの発明は今も世界中で、
多くの宝物を守っている。

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佐藤理人 18年5月19日放送

180519-02

意外な発明 「ケンベレンのチェス人形」

1769年のウィーンで不思議なからくり人形が生まれた。

作ったのはウォルフガング・フォン・ケンベレン男爵。
人形はトルコ人の格好をしたチェスの名手で、
エカテリーナ女帝やナポレオンなど、
ヨーロッパの王侯貴族をことごとく打ち負かした。

毎回試合の前に男爵は人形の前の箱を開け、
歯車など中の機械をすべて見せた。

しかし実際はその奥に小柄な人が隠れていて、
チェス盤の下から駒を操作していたのだった。

1804年に男爵が亡くなるまで
トリックは見破られなかった。

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佐藤理人 18年5月19日放送

180519-03

意外な発明 「アルキメデスの熱光線」

太陽光を初めて利用したのはアルキメデスだった。

紀元前215年、ローマ帝国の艦隊が
彼の住むシラクサを攻撃した。

アルキメデスは大きな鏡を何枚も並べて
兵士たちに命じた。

船の黒い部分に光を当てよ!

すると船は数分で燃え上がった。

話を聞いたローマのマルケッルス将軍は、
彼を生け捕りにするよう命じた。

ローマ兵が家にきたとき、
アルキメデスは砂に描いた図形を前に考え事をしていた。
名前を聞いたが無視された兵士は彼を殺してしまった。

アルキメデスの最期の言葉は、

 図を壊すな!

だった。

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佐藤理人 18年5月19日放送

180519-04
ちゅらさん
意外な発明 「アペルの缶詰」

缶詰はナポレオンの願いから生まれた。

1792年、外国で戦争に明け暮れる彼は、
栄養価の高い新鮮な食料の確保が、
兵士の士気を高めるのに不可欠だと考えた。

しかし当時の食料は薫製や酢漬けが中心で、
味が悪く腐敗も早かった。

1804年、フランス人ニコラ・アぺルが、
加熱殺菌の原理を発明した。

 加熱こそ偉大な自然殺菌者である
 どんな防腐剤も殺菌剤も熱にはかなわない

食べ物をガラス瓶に入れて密封し、
煮沸した彼の瓶詰めは、
赤道の横断実験で高い評価を得た。

新聞は、


 アペルは季節を容器に封じ込める方法を発見した
 農産物が畑のある状態で保存できる

と絶賛。彼は今にち、

 缶詰の父

と呼ばれている。

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佐藤理人 18年5月19日放送

180519-05

意外な発明 「ウォーターマンの万年筆」

万年筆はある男の怒りから生まれた。

1884年、保険のセールスマンの
ルイス・エドソン・ウォーターマンは、
大勢の競争相手を出し抜き大口の契約を取り付けた。

契約書にサインしてもらおうと、
羽ペンとインクつぼを出すと、
インクが書類に飛び散った。

あわてて新しい書類を持って戻ると、
契約は競争相手に横取りされた後だった。

その後、ウォーターマンは、
液体が繊維の中を上昇する毛管現象を利用すれば、
インクの流れを調節できることを発見。
世界初の万年筆を開発した。

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佐藤理人 18年3月17日放送

180317-01

豊臣秀吉「兵糧攻め」

豊臣秀吉は城攻めの達人だった。

1577年、播磨の別所長治を討ち取ったときのこと。
秀吉は食糧を買い占め、城を何重にも包囲した。

兵糧攻めは2年続いた。
城の兵はあまりの飢えに草や木をかじり、
壁の中の藁をむさぼり、人肉さえ食べた。

餓死者が1000人を超えたところで、
秀吉は城主の切腹を条件に降伏を許した。

合戦だけが戦じゃない。
味方の損害を出さず、敵の自滅を待つ。
それは農民出身の秀吉だからこそ選べた、
自由な戦い方改革だった。

今日は豊臣秀吉の誕生日。

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佐藤理人 18年3月17日放送

180317-02
金城典子
豊臣秀吉「王と玉」

将棋の「王将」という駒を作ったのは豊臣秀吉だった。

一般的に対局では格上が「王将」を、
もう一人が「玉将」を使用するのがルール。

しかし元はどちらも「玉将」だった。

将棋は本来、財宝を取り合うゲーム。
玉は金や銀と並んで「最高の宝石」を意味した。

しかし秀吉は部下に命じた。

 玉では宝という意味になってしまう!
 王にしろ!

どちらも同じでは混乱するという理由だったが、
そこには、

 王は二人いらない

という本音があった。

お金より名誉を選ぶ。
今日は豊臣秀吉の誕生日。

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佐藤理人 18年3月17日放送

180317-03

豊臣秀吉「禿げ鼠」

信長が秀吉につけたあだ名は猿ではなかった。

秀吉は妻の寧々を深く愛していたが、
無類の女好きでもあった。

側室13人は戦国武将中トップクラス。
見かねた寧々は夫の浮気癖を信長に直訴した。

後日、信長から寧々に手紙が届いた。

 そなたのように美しく立派な妻は
 あの禿げ鼠にはもったいない。
 だからつまらないよその女に
 嫉妬などするものではない。

さらに最後に、

 この手紙は秀吉にも見せること

と書いてあった。

文春砲ならぬ信長砲に、
秀吉はさぞ肝を冷やしたことだろう。

今日は豊臣秀吉の誕生日。

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佐藤理人 18年3月17日放送

180317-04
Komatta
豊臣秀吉「能」

豊臣秀吉の最後の趣味は能楽だった。

戦国時代、能は茶道に並ぶ武将の社交場。
秀吉は千利休に切腹を命じたのち、
その記憶を振り払うように能に没頭した。

武将自らが舞う能のことを

 大名能

という。その間は無礼講で身分の上下は問われない。

秀吉は徳川家康や前田利家に声をかけ、
3日間に及ぶ演能の舞台を開催。
自分でも16回も舞う熱の入れようで、
現代の「フェス」の先駆けとなった。

さらに彼は自分の一生を題材に、
その業績を褒め称える作品をいくつも作らせては、
自ら演じた。

足利義満や徳川綱吉など能を愛した権力者は数多い。
だが秀吉ほどエゴに踊らされた者は他にいない。

今日は豊臣秀吉の誕生日。

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佐藤理人 18年3月17日放送

180317-05
Rama
豊臣秀吉「槍」

1568年、新年会で織田信長が尋ねた。

 長い槍と短い槍、どっちが強い?

槍名人の上島主水は短い槍、豊臣秀吉は長い槍を選んだ。
二人は50人の足軽を率いて試合をすることになった。

主水の隊は3日間猛特訓を重ねた。
秀吉の隊は飲んで遊び呆けた。

当日、秀吉の隊は三方向から一気に襲いかかった。 
長い槍で突き伏せ、なぎ倒し、叩く。

個人戦ではなく団体戦に持ち込んだとき、
すでに勝負はついていた。

その後、秀吉と主水はよき友人になったという。

今日は豊臣秀吉の誕生日。

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