‘八木田杏子’ タグのついている投稿

八木田杏子 12年3月17日放送


Philofoto
イラリア・ヴェントゥリーニ・フェンディ

フェンディ創始者の孫娘、イラリアは
モードの世界に疑問を抱いた。

コレクションに発表したら、
翌日はもう古いものになる。

タイトな時間感覚から離れて、
農場経営をはじめたイラリアは、
ファーストレディが手にするバックをうみだす。

ブランドのテーマは、
not charity, just work

アフリカの女性たちの自立支援として、
ミシンを配り、廃材でバックをつくる。
イラリアのデザインで、美しく仕上げていく。

モードへの疑問と
フェンディで磨いた腕をもつ
彼女だからできること。

topへ

八木田杏子 12年2月18日放送


ミシア・セールの芸術

19世紀のパリで
社交界のミューズとよばれていた、ミシア・セール。

ココ・シャネル、ロートレック、ディアギレフ。
当時、芸術を志す人々はミシアのサロンに集まり
作品を生み出していった。

ミシア自身も才能のあるピアニストといわれ
ドビュッシーやラヴェルと共演もしているが
彼女の名声はもっぱら
多くの芸術家のパトロンとしての活動にある。

ピアニストとしてのミシア・セールは
輝く星のひとつだったかもしれないが
パトロンとしてのミシアは
多くの星々を引きつけている渦の中心にいる。



ミシア・セールの女友達

パリの芸術家たちから、
社交界のミューズとよばれていた、ミシア・セール。

彼女の親友だった
ココ・シャネルはミシアをこう語る。

彼女はひとの悪口を言わずにおれないたちなのだ。
それでいて、誰かに何か言ったり、
他人に悪いことをしたりすると、
たちまちこわくなって、犠牲者のところへかけつける。
たっぷり愛情をそそいで、言い訳をする。

朝からミシアがやってくると、
ココ・シャネルはこう言って迎えたそうだ。

昨日、わたしのことを何て言ったのよ。

憎みつつ愛しつつ、ふたりの友情は生涯つづく。



ハーバード大学の教え

ハーバード大学の学生たちが詰めかけた
「人生を変える授業」。

講義をするタル・ベン・シャハーは、
「成功しているけれど、幸せではない人」を
たくさん観察してきた。

ポジティブ心理学の第一人者である彼が
最高学府の学生に教えたのは、
まず感謝すること。

ちょっとしたことでもいいので、
感謝できることを5つほど書く。

少なくとも週に一度、これをすることで
物事が好転すると彼は語る。

ありがとうを言いなさい…
最高学府の教えは、母の教えに似ていると思う。



ウォルト・ディズニーの憧れ

漫画家に憧れていた若かりし日の
ウォルト・ディズニー。

自分が描いた漫画のまわりに新聞記事を印刷して
新聞に掲載されたかのようなサンプルをつくっていた。

それでも新聞社から仕事をもらえなかったウォルトは、
カンザスシティ・スライド社で漫画を描く仕事に就いた。
会社はやがてスライドからフィルムによる広告に重点を移し
ウォルトは夢中になる。

フィルムの上でものを動かすトリック、
これがわたしをとらえて離さなかった。

まだ専門的な技術をもつ者が
ほとんどいなかったアニメーションに、
のめりこんだウォルト・ディズニー。
憧れていた新聞漫画を捨て
アニメーションに人生を賭ける。



ウォルト・ディズニーのガレージ

ウォルト・ディズニーの初めてのアニメーションスタジオは、
父親のガレージだった。
仕事から帰ると、すぐにスタジオにこもった。

そんな彼を見て、
いっしょに暮らしていた叔母のドロシーはこう語っている。

彼は子どもの時から、
いつもなにかに熱中していまいた。
その頃も休む間もなく忙しそうでしたが、
大したことをしているようには思えませんでした。

家族に理解されなくても、仕方がない。

ウォルトは、まだ存在していない職業、
アニメーターを目指していたのだから。



ロートレック

ロートレックが描く女性たちは、
すこし変な顔をしている。

ムーランルージュで歌い、踊る
女性たちが舞台で見せる笑顔ではなく、
ふと見せる素の表情を描こうとしたのだ。

舞台に立つ彼女たちの姿に、
楽屋で見せる顔を描く。

すると、一枚のポスターから、
踊り子の人柄や人間模様が見えてくる。

ムーランルージュをこよなく愛して、
足繁く通っていたロートレックだからできること。



モーツアルトの結婚

モーツアルトの初恋の相手は、
妻のコンスタンツェではなく、その姉のアロイジア。

人気ソプラノ歌手だった彼女の声を思い浮かべながら
作曲したアリアを捧げても、想いは叶わなかった。

その数年後、モーツアルトは、
初恋の女性の妹、コンスタンツェに目をとめる。
自分の父親と姉に反対されても、結婚にふみきった。

結婚して間もないころに作曲した「きらきら星変奏曲」の、
楽しそうに弾む音符たちが、彼の心情を語っている。

一途に想っても叶わぬ恋から、
すこし目をそらして出会った愛に、
モーツアルトは幸せを感じていた。

topへ

八木田杏子 11年10月8日放送



名和晃平のリアル

アートに正解はないように。
アートの感じ方にも正解はない。

キャプションや解説をほとんど掲示しない
名和晃平の個展は、アートの解釈を解放する。

まずは、できるだけ情報を与えずに、
作家の意図を気にせずに作品にふれてもらう。

出口に辿りつくと、そこで
キャプションが記載された紙をわたして、
もういちど作家の言葉と共に作品を見てもらう。

そうして名和晃平は、
受け手のリアルな感覚を呼び覚ます。

デジタルとアナログの間を揺れ動く
感性のリアリティを表現する
名和晃平ならではの気遣い。



ゴッホを画家にした男

フィンセント・ファン・ゴッホは、
27歳のときに画家になろうと決意する。

画廊に6年勤めていたが解雇され、
教師、伝道師などの職を転々としていたゴッホ。

西洋美術の知識と、
趣味として絵を描いた経験はあっても、
美術教育を受けたことがなく、
才能の片鱗すら見られなかった。

そんなゴッホに、画家になることを
勧めたのは弟のテオだといわれている。

テオは兄に生活費を送り、
創作活動に打ち込めるようにした。

わずか23歳で画廊の支店長をまかされる
テオだけは、兄の才能を見抜いていたのだろうか。



ゴッホと日本

ゴッホは浮世絵に衝撃をうけ、
日本をユートピアとして思い描いた。

彼はこんな言葉を残している。

あらゆることに極限の明瞭さをもつ
日本人を羨ましく思う。
彼らの作品は退屈だということが全くなく、
決して大急ぎでやったようにも見えない。

画商だった弟テオと共に
浮世絵400点を買い集めて
パリのカフェで展示会を開いたゴッホ。

背景を浮世絵で埋め尽くした肖像画を描き、
まばゆい色彩と奇抜な構図を
自らの絵にも取り入れるようになる。

日本人が憧れるパリの芸術家が、
これほど日本に憧れていたとは。



ゴッホの独学

正式な美術教育を受けなかった
フィンセント・ファン・ゴッホは、
独学の画家とみなされている。

遠近法や解剖学の書籍を読み、
著名な芸術家による版画を模写して、
デッサンの訓練を積む。

色彩理論を学び、
力強い色使いを自分のものにする。

感銘をうけた芸術家とふれあい、
思想や画法を取り入れる。

その貪欲さと柔軟さが、ゴッホを進化させていく。

ゴーギャンから
記憶や想像で描くことを勧められると、
ゴッホは椅子だけの肖像画を完成させる。

肘掛つきの優雅な椅子を描くことで、
いつもそこに座っているゴーギャンの人物像を表現した。
ひとの顔を想像させる肖像画を描き上げたのだ。

自ら命を絶つ、その日まで。
ゴッホはデッサンの練習をし、
技法を磨くことで前に進みつづけた。



ゴッホと岡本太郎

麦畑のちかくで
腹部をピストルで撃った、ゴッホ。

息をひきとったのは、その二日後。

煙草をくゆらせて死を待つ間、
ゴッホはやっとつかんだ新しい芸術の世界を、
弟のテオに聞かせていたらしい。

肉体を殺し、
絵を描くことから解放されたときに
初めて達する境地がある。

ゴッホの死に感銘をうけた岡本太郎は、
それでも生きることを選んだ。

行きづまりに追われたら逃げないで、
むしろ自分自身を行きづまりに突っ込んでいく。
強烈に行きづまった自分に闘いを挑んでいくことだ。
行きづまりをこえ、うれしく展開さえてゆくんだ。

生きぬいて、切り拓く。
その覚悟が、岡本太郎の表現を強くする。



北斎の寿命

葛飾北斎は、長寿の画家である。

90歳まで絵を描き続け、
3万点をこえる作品を世に送りだした。

北斎75歳のときに出版された絵本「冨嶽百景」には、
こう記してある。

73歳にして、ようやく禽獣虫魚の骨格や、
草木の生え具合をいささか悟ることができたのだ。
だから、80歳でますます腕に磨きをかけ、
90歳では奥義を究め、100歳になれば、
まさに神妙の域に達するものと考えている。

北斎が画家として生き長らえたのは、
この心持ちがあればこそ。



写楽の寿命

東洲斎 写楽は、わずか1年で姿を消した。

役者を美しく描くのではなく、
役者の本質を描き出そうとした写楽。

目の皺や鷲鼻を強調した顔。
歪むほど捻じ曲げられた手。

芝居の筋と人間の生き様を描写するために
デフォルメされた大首絵は、かつてないものだった。

黒雲母がきらきらと輝く大判の錦絵
28枚とともに写楽は華々しくデビューする。

200年経った今でも高く評価される作品は、
江戸の人々からは好まれなかったようだ。

その後の写楽の作品は、
みるみる強烈な個性を失っていく。
役者を美しく描くありきたりな絵となり、
安い紙に刷られて売られていく。

145点あまりの錦絵を世に送りだして、
姿を消した写楽は、こう語られた。

あまりに真を画かんとして、
あらぬさまにかきしかば、
長く世に行なわれず、
一両年にして止む。

江戸では1年しか生きられなかった写楽は、
200年たった現代を生きている。

topへ

八木田杏子 11年8月13日放送



佐藤初女

どんなに心と体が弱っていても、
佐藤初女のつくるものは、食べられる。

自然のいのちを料理にこめて、
手渡してくれるから。

その作り方を、教えてもらいました。

素材の気持ちになって、
常に心を通わせることを大切にしています。

それだけで、お浸しも煮物も、
まったく味が違ってきます。

料理をすることは、いのちを預かること。

レシピだけを見ていると、
いのちの抜け殻を、食べることになる。



エジソンの母

エジソンの最終学歴は、小学校中退。
わずか3カ月しか学校に通っていない。

先生に教えられたことを暗記するより、
自分が素直に感じた疑問を口にした少年、エジソン。

なんで、風は吹いてくるの?
なんで、空は青いの?

学校教育の枠にはまらず、
先生から煙たがられ、
エジソンは落ちこぼれとされた。

小学校教師だったエジソンの母親は、
わが子を自らの手で育てることにする。

エジソンが「なんで?」と言うと、
親子はいっしょに実験をし、百科事典を調べ、
答えを見つけていった。

落ちこぼれた子に寄りそって、のびやかに育てる。
それが、天才を育てあげる方法のひとつ。



エジソンの言葉

エジソンの言葉は、
しばしば誤解されて伝わっている。

天才とは、1パーセントの閃きと、
99パーセントの汗である。

今でもよく聞く、この言葉。
汗をかくことの大切さばかりが伝わることを
エジソンは懸念した。

無目的の努力だけでは
大海をさまよう小船のごとく、
あるいは密林の中を迷い続ける迷子のように
いつか力尽きる。
ときどきでいい、閃きを考えてみてくれ。
それが羅針盤となって方向を示してくれる。
99パーセントの汗が実るのは、
1パーセントの閃きを大切にしたときなのだ。

汗をかくのをお休みして、
のんびり閃きを待つ時間、つくっていますか。



山本周五郎と原田甲斐

極悪人とされてきた男を、
山本周五郎は、
まったく逆の視点で書き上げた。

江戸時代前期、
伊達六十二万石を滅亡に追い込む
内紛をおこした伊達藩の家臣、原田甲斐。

伊達騒動として歴史に残る事件の
中心人物だった原田は、
極悪人の烙印を押されてきた。

山本周五郎が
歴史的事実を紐といて描いたのは、
真逆の人物像。

それは、
汚名を背負うことで、
伊達藩を守ろうとする忠臣、原田甲斐。

藩内の悪評を恐れずに
陰謀の中心に飛び込んでいく、
孤独な美学をまっとうした男。

断片的な情報がつむぎだす人物像は、
悪人にも善人にもなりうる。

悪口を言われているその人は、
憎まれ役を買って出ている人なのかもしれない。



J. K. ローリング

ハリーポッターの作者、J. K. ローリングは、
ハーバード大学を卒業したのに、
ホームレス一歩手前のような暮らしに陥ったことがある。

結婚が上手くいかず、仕事もなく、
生活保護をうけながらハリーポッターを執筆していた。

そのときのことを、彼女はこう語っている。

最も恐れていたことが現実となりましたが、
それでも私はまだ生きていました。
私には愛する娘がいて、
古いタイプライターと、
途方もないアイデアが残っていました。
そのどん底の状況が、
私の人生を立てなおす強固な基盤となりました。

人は逆境で試されて初めて、
真の自分自身や人間関係の強さを知るのです。

人生の失敗から這い上がるチカラを、
J. K. ローリングは言葉にこめて、わけてくれる。



ダイアナ・ウィン・ジョーンズ

映画「ハウルの動く城」の原作者、
ダイアナ・ウィン・ジョーンズが
まだ少女だったころ。

父親の書斎にあるギリシャ神話や古典文学は、
男性が主役のものばかりで、
読みたい本が手に入らないことをもどかしく思った。

いつしか自分で物語を創作するようになり、
妹たちを楽しませるようになっていた。

ダイアナは、父の書斎にないものを
自らの手で創りだす喜びを堪能した。

欲しいものすべてを買い与えられなかったから、
ダイアナは小説家になれたのだ。



天童荒太「悼む人」

まわり道を恐れないから、
予想もつかない物語が生まれる。

直木賞作家、天童荒太は、
300枚もの原稿をすっぱりと捨てて、
書き直しをする。

物語の終わりへの見通しがついて、
予定調和になる予感がしたとき、
その原稿を捨てたのだ。

僕自身が、
これはどう書いていいかわからないという
着想を乗り越えたときに、
新しい感動を読者に届けられるのではないか。

直木賞を受賞した
「悼む人」を書き上げるのに
天童荒太は7年をついやした。

見ず知らずのひとの死を悼む主人公は、
死者と縁のある人に、こう尋ねる。

亡くなった方は誰を愛し、
誰に愛され、感謝されていたのか。

天童荒太自身も、
新聞記事で見つけた死者を悼むことを日課として、
誤魔化しのない物語の結末へ、辿りつく。

topへ

八木田杏子 11年6月18日放送



ルイス・キャロルとアリス

不思議の国のアリスは、
ひとりの少女のために紡がれた物語。

当時10歳の実在の少女アリス・リデルに
「何かお話を聞かせて」とせがまれて、
ルイス・キャロルは、思いつくままに話しはじめた。

目の前にいるアリスがはっと息をのみ、
ころころと笑うために。

ルイス・キャロルの想像力は広がっていく。
人間のような動物たちが、
不思議な物語をくりひろげていく。

その3年後、物語は本になり出版されたが
即興のストーリーを書き留めるように頼んだのも
アリスだった。

不思議の国のアリスは
最初の出版から150年にもなるが
いまだに音楽、絵画、文学など芸術の世界に影響を与えつづけている。



ロミオとジュリエット

ロミオとジュリエットは、もしかすると
悲劇ではないのかもしれない。

シェイクスピアの四大悲劇といえば、
ハムレット、オセロー、マクベス、リア王。
ロミオとジュリエットは、そこには入らない。

純粋なまま美しく終わる恋は、
悲劇ではないのかもしれない。

家族からの圧力や
すれ違いから生まれる亀裂で、
恋心が擦り切れていくほうが悲劇なのかもしれない。

ロミオとジュリエットのように
美しく終われない物語を、私たちは生きていく。

いつ終わるかわからない物語を、
ハッピーエンドにしたいと願いながら。



チャップリン

喜劇王とよばれたチャップリンは、
幼い頃はまさに悲劇の主人公だった。

芸人だった父は酒におぼれ、
女優だった母は精神の病を患う。

食べるものも乏しい家で、
母が披露してくれる芝居や朗読に、
チャップリンは魅了された。

やがて彼も、喜劇やものまねで、
笑いをとるようになる。

5歳で初舞台を踏んだ彼は、
12歳になると新聞で名子役と評されるほどになる。

悲劇を生きぬいたチャップリンは、
こんな言葉を残した。

人生は近くで見ると悲劇だが、
遠くから見れば喜劇である。



まど・みちお「ぞうさん」

誰もが口ずさんだ童謡、「ぞうさん」。

リズム感のいいやさしい言葉に、
詩人まど・みちおの想いが宿っている。

ぞうさん ぞうさん お鼻が長いのね
そうよ 母さんも長いのよ

小ゾウは、長い鼻をからかわれても、
大好きなお母さんの長い鼻を思い出して、
むしろ誇らしそうにする。

この歌は、
「ゾウに生まれてうれしいゾウの歌」だと
まど・みちおは語る。

違いがあるから素晴らしいのに、
人と比べて一喜一憂してしまうのは、
もったいない。
その想いから、「ぞうさん」はうまれた。

まど・みちおの童謡が心地よく響くのは、
しらずしらずのうちに、
その想いを感じているからかもしれない。



まど・みちお「散歩」

詩人まど・みちおは、ゆっくり歩く。

家からポストまで、
さぁっと歩けば20分ほどの距離を、
あっちを見たり
こっちを見たりしながら
一時間かけて歩く。

まど・みちおには、世界はこう見えている。

いつも通っている道、
見慣れた景色だと思っても、
もうほんとに驚くことばかり。

アリだってちゃんと
影を連れて生きてるのを発見したときは、
なんだか花束でももらったみたいな気分でした。

いつもの道を、ゆっくり歩く。
そんな贅沢を味わってみませんか。

せめて、お休みの日だけでも。



葛飾北斎

葛飾北斎は、
30回も名前を変えている。

自らの過去にとらわれない
新たな作品を世に送りだすために。
思うまま生きるために。
北斎は名前を変えていく。

美人画、風景画、漫画。

筆のおもむくままに、
湧き上がるものを表現するには、
30もの名前が必要だった。

明日は、日曜日。
仕事も本名もお休みにして、
新しい名前を使えるとしたら。
さて、何をしましょう。



白雪姫

白雪姫は、過ちを繰り返したから、
王子様に出会えた。

魔女が化けたお婆さんから、
ドレスを飾る美しい紐を買って、
胸をきつく締めあげられる。
毒のある櫛を使って、倒れてしまう。
小人に助けてもらっても、また騙されて、
毒りんごを食べて死んでしまう。

手を尽くしても生き返らなかった白雪姫を
七人の小人がガラスの棺に納めたとき
王子さまがやってきて
白雪姫は息をふきかえす。

過ちを3回も繰り返して、
やっと王子様に出会えた、白雪姫。

賢いお姫様だけが、
幸せになれるわけではないのだ。

過ちを悔いる夜は、きっと
白雪姫がなぐさめてくれる。

topへ

八木田杏子 11年4月30日放送



スティーブ・ジョブズのフォント

人生の役に立たなそうなもの。
それでも、強く興味を惹かれるもの。

それが、未来をつくる
きっかけになることがある。

スティーブ・ジョブズが
ふと興味を惹かれた大学の授業は、
カリグラフィーだった。

そこで彼はフォントのつくり方を、学問として学んだ。

言葉を美しく見せるための書体について習い、
文字と文字のスペースを整えることを覚えた。

スティーブ・ジョブズは、その緻密さに魅せられた。

それから10年経って、
マッキントッシュ・コンピューターをつくるときまで、
フォントの知識が役立つときがくるとは思っていなかった。

Macのフォントは美しい。
それは緻密な計算から生まれている。



自閉症の作家 東田直樹

自分はどうして、人と違うのだろう。
どうしたら、分かってもらえるのだろう。

そう思うところから、
文学は生まれるのかもしれない。

自閉症の高校生、
東田直樹は作家でもある。

自閉症の人はカレンダーが好きな人が多いと
語るときに彼は、こんな言い方をする。

数字はそれ自体が、一つのことしか表しません。
見ていて安心します。

なぜ、そんなにうれしいのかが、
普通の人から見ると、
とても奇妙に思えるかもしれません。

東田直樹は、
人と違う自分を押し殺すことも、
押しつけることもせず
そっと生きている。



田坂広志

おなじ仕事をしているのに、
辛そうな人と、幸せそうな人がいる。

その違いを田坂広志は、寓話で語る。

ある町の建設現場で働く、二人の石切り職人に、
旅人が聞きました。

あなたは、何をしているのですか。

ひとりは、
石を切るために悪戦苦闘していると答えた。
もうひとりは、
素晴らしい教会を造っていると答えた。

目の前の作業を見ているか、
その先の未来を見ているか。

目線がすこし上がると、
仕事の充実感が変わると田坂は語る。

あなたは、何をしているのですか。

一週間たっぷり休んだ後に
そう聞かれたら、
いつもと違う答えが浮かぶかもしれません。



遠山正道 「Soup Stock Tokyo」

新しいアイデアは、なかなか理解されない。

きょとんとする人たちを、味方にするために。

スープ専門店「Soup Stock Tokyo」を
世に送りだした遠山正道は、緻密な企画書を書いた。

戦略や数字ではなく、
頭のなかにあるイメージをふくらませて
ショートストーリーのように綴ったのだ。

秘書室に勤める田中は、
最近駒沢通りに出来たSoup Stockの
具だくさんスープと焼き立てパンが大のお気に入りで、
午前中はどのメニューにしようかと気もそぞろだ。

誰が、どんな顔をして、どう行動が変わるのか。
遠山のイメージを細部まで丁寧に描いた
22ページの企画書には、リアリティがあった。

めざす未来がくっきりすると、
きょとんとする人にもわかりやすくなる。

1997年に遠山が綴った企画書どおりに
Soup Stock Tokyoは誕生し、
今では都内のあらゆる場所で
お店を見かけるようになった。

子どものように夢を思いつき、
大人としてイメージを緻密に描く。

楽しい妄想を膨らませると、
夢を叶える味方がふえてゆく。



山本周五郎

あの人はどうしようもないと、皆が口をそろえて言う。

そんな人間が変わるために、
必要なものはひとつだけだと、
山本周五郎は考えていた。

それを、小説「山椿」で
堕落した男を立ち直らせた主人公に、
語らせている。

信じただけだよ。

信じられるくらい
人間を力づけるものはないからね、
彼は自分で立ち直ったんだよ。

信じてくれる人がいるだけで、
人は変わることができる。

少なくとも山本周五郎は、そう信じている。



谷川俊太郎のグルメ

大人になると苦みや渋みが、美味しく感じる。

舌で感じる味覚だけでなく、
心の感覚もそんな風に変わっていくのかもしれない。

詩人の谷川俊太郎は、
「苦しみのグルメ」になることを勧めている。

苦みや渋みや刺すような辛さに
かすかな甘みがまじっている
その複雑な味を知ると、
喜びの味も深まるからね。

人生の苦みや渋みも
美味しく味わえる大人になりたい。



小川糸 「食堂かたつむり」

好きな仕事をする人は、強くなる。

小川糸の小説、
「食堂かたつむり」の主人公は、
料理をつくることで人生を変えてゆく。

恋人に裏切られたショックで、
言語障害になった彼女は、
田舎町にもどって小さな食堂をひらいた。

言葉を話せなくなった彼女にできる、唯一のこと。
生きることにうんざりしながらも、諦められないこと。

それは、自分の店を持って、料理をつくること。

お客様は、一日ひと組だけ。
その人の身体と心にしみる料理を考えて、
お皿にもりつけていく。

そして、前菜を口にするお客さまを、
おそるおそるカーテンの隙間から覗き見る。

メインディッシュを残さず食べてもらえると、
こみあげてくる幸せが涙になってこぼれないように、
こらえながらアイスクリームをつくる。

やがて彼女は、
苦手だった母親のためにも、腕をふるうようになる。

言葉にできない想いを料理にこめて、
人とつながりなおしていく。

好きなことを突きつめて、人に喜んでもらえる幸せ。
その味わいが、人を強くする。

それは、言葉を書く仕事をすることで、
小川糸が感じていることかもしれない。

topへ

八木田杏子 11年03月26日放送


ベートーヴェンとエリーゼとテレーゼ

「エリーゼのために」という曲は、もともと
「テレーゼのために」だったという説がある。

エリーゼとは誰かについてはいろいろ取り沙汰されているが
ベートーベンの主治医の姪である
テレーゼ・マルファッティという説が有力だ。
ベートーベンは40歳のときに
18歳のテレーゼに結婚を申し込んでいるし
なによりその楽譜を所持していたのが
テレーゼ・マリファッティなのだから。

ではなぜ、テレーゼがエリーゼに?

悪筆で名高いベートーベンが書いた作品のタイトルは
ドイツで筆跡鑑定をしてみた結果
エリーゼともテレーゼとも読めるそうなのだ。
ベートーベンは悪筆に屈することなく
女性に手紙を送り、曲をささげている。

ところで、ベートーベンの生涯にはもうひとりのテレーゼがいる。
こちらは伯爵令嬢のテレーゼ・フォン・ブルンスウィク。
美しく才気にあふれ多くの人々を魅了したといわれる女性だ。

こちらのテレーゼに捧げられた曲は
「ピアノソナタ24番 テレーゼ 作品78」というタイトルで
幸いに名前も読み間違えられずにテレーゼのままだ。

のびやかでエレガントなその曲は女性が弾くのにふさわしいが
少女たちの人気はエリーゼに傾いている。


鴻上尚史の孤独

ひとりぼっちにならないために、
ケータイを握りしめる、

孤独にならないようにしても、
ふと一人になったときに、不安はこみあげてくる。

劇作家の鴻上尚史は、
孤独と向き合う方法を教えてくれる。

人間は、一人でいるときに成長するのです。

一人は少しも悪くない。恥ずかしくない。みじめじゃない。
一人になりたいと思って一人でいることは、
とても快適なことだ
とあなたは、胸を張って、自分自身に言えばいいのです。

そう思うことで、
無理に話を合わせて愛想笑いをしなくなり、
30人に一人の本当の味方に出会えると、鴻上は語る。

明日は日曜日。

携帯電話を忘れて、
一人でふらっと出かけてみませんか。


フジ子・ヘミングの音色

60歳を越えてから、
ピアニストとして活躍のときを迎えたフジ子・ヘミング。

天才少女と呼ばれ、
日本で脚光を浴びていた彼女は
留学のときに国籍がないことが発覚。

その後、難民としてベルリンに留学し
優秀な成績をおさめたが
最大のチャンスを前にして聴覚を失ってしまう。

突然中断されてしまった演奏家としてのキャリア。
しかしフジ子はあきらめなかった。
働きながら耳の治療をつづけ
ピアノ教師の資格を得た後は、
ピアノを教えながら演奏活動を再会するようにもなった。

一流演奏家への道は
二度と開かれることはないはずだった。
しかし、1999年
フジ子・ヘミング67歳のときにチャンスがやってきた。
数年前に日本に戻っていた彼女のドキュメントが
テレビ番組として放送されたのだ。

その番組のなかでフジ子・ヘミングはピアノを弾いた。
その姿にも音にも
フジ子・ヘミングの人生がにじんでおり
それ見て涙した多くの人がフジ子のファンになった。

topへ

八木田杏子 11年01月23日放送


クララ・シューマン

シューマンの妻、クララ・シューマンは
少女のころから天才ピアニストとして知られていた。

クララのプロデビューは1828年、9歳のときで
モーツァルトのピアノコンチェルトのソリストをつとめ
人気を博した。

そんなクララの家に
父の弟子としてシューマンが住むようになったのは
1830年のことだった。

20歳の大学生と11歳の天才ピアニストは
兄と妹のように仲が良かった。

その出会いが逃れられない運命の出会いだと
ふたりが気づくまでに、まだ数年の余裕がある。


シューマンの才能 

クララの父の弟子としてやってきた
20歳のシューマンは、焦っていた。

大学を辞めて本格的にピアノを学び始めた彼は、
指の訓練のための練習曲を弾かされていた。

となりでピアノを奏でる11歳のクララは、
ソロコンサートのための曲を弾いていた。

やがてシューマンは、
演奏よりも作曲にのめりこんでいく。

1年ほど作曲理論を学んでから
書き上げた作品は出版され、独創的と言われた。

ピアニストとしては
シューマンが足元にもおよばなかったクララが、
彼の音楽に夢中になる。

彼女は自作の曲をシューマンに捧げて、
書き直してほしいとねだった。

シューマンの旋律に導かれて、
クララの初恋がはじまる。


クララ・シューマンの自由 

婚約から3年。
シューマンとクララの結婚は長い道のりだった。

クララの父親が、結婚に反対したのだ。

すでにピアニストとして一世を風靡していた
クララのキャリアが
結婚によって終わってしまう。

父の心配にクララの気持ちは揺れる。

シューマンは辛抱強く待ちつづけ
愛を伝える手紙を書き送った。
父はシューマンをあきらめないクララを責めた。

やがて…
19歳になったクララは、父親の助けを借りずに、
パリの演奏旅行へ出発する。

独りぼっちの不安と負担で、不眠と頭痛に苦しんだけれど
ピアノの音色は澄み切っていた。

父親に見捨てられても自分の足で立てる。
その自信が、クララを自由にする。


クララ・シューマンの結婚生活 

1840年、やっとシューマンと結婚をしたクララは
次々と子供を生み育てながらヨーロッパをめぐって
演奏活動をつづけた。

忙しかった。
その忙しさはクララ自身の日記にも記されている。
それでも妻になる幸せは、クララの想像を超えていた。

この幸福を知らない人たちを、
わたしはどんなに気の毒に思うことか。
それでは半分しか生きていないと同じではないか。

ピアニストとして名を馳せ、
作曲家としても後世に名を残し
シューマンの妻であり、
大勢の子供たちの母だったクララの
忙しく幸せな日々をを喜びたい。


クララ・シューマンとヨハネス・ブラームス

シューマンが亡くなったとき、
未亡人になったクララと残された家庭を支えたのは
ヨハネス・ブラームスだった。

家族の一員のようになっていたブラームスに
クララは夫の楽譜や蔵書を自由に使わせた。
ブラームスはクララを尊敬し
作品ができあがるとまずクララに見せるのを習慣にした。

クララはブラームスの楽譜を、心待ちにしていた。
彼の音楽を誰よりも深く愛し、
美しく奏でられることを誇りにしていた。

音楽家としても人間としても
ふたりは支えあいながら、年を重ねていく。

クララが70歳までピアニストでいられたのも、
ブラームスが60歳を超えても作曲を続けたのも、
ふたりの親密な友情があったから。

60歳になったブラームスは、
「ピアノのための6つの小品」を作曲して、
74歳のクララに捧げた。

叙情的でおだやかな
長い友情にふさわしい曲である。


クララ・シューマンの生き様 

クララ・シューマンは、
100マルク紙幣の顔になっている。

彼女は、夫であるロベルト・シューマンが入院したときも
病院で息をひきとったときも
友人からの援助はすべて断り、苦境に立ち向かった。

ピアニストとして演奏活動をつづけながら
シューマンの作品を世に出すことにつとめ
シューマン全集の編纂にもあたった。

ピアノを弾いていると、
過度の苦しみを背負ったわたしの心が、
まるでほんとうに大声で泣いたあとのように、
軽くなるのです。

ドイツはクララ・シューマンの生涯をたたえて
その肖像を100マルク紙幣に残した。


ヨハネス・ブラームス

20歳のヨハネス・ブラームスは、
自分の作品とシューマンの曲は似ていると感じた。

ためらいがちに自宅を訪ねていくと、
ブラームスの曲を、まずシューマンが絶賛し
その妻クララも、若き才能に惚れこんだ。

シューマンは華々しくブラームスを紹介し
それがきっかけになって
やがてベートーベンの後継者とまでいわれるブラームスの
大作曲家への道がはじまる。

若いみずみずしい感受性は、
シューマン夫妻の刺激になっただろうけれど
ブラームスがシューマン夫妻に被った恩もまた大きい。


シューマン夫妻の交換日記 

シューマン夫妻は、
伝えきれない想いを、交換日記につづった。

ピアニストである妻のクララと共に
ロシアの演奏旅行に出かけたとき、
シューマンは発熱やめまいに苦しんでいた。

一方クララは演奏会の拍手を一身に受け、
華やかな貴族の夜会に出かけていく。

シューマンは何も言わずに、ひとこと日記に書いた。

この苦痛とクララの行動にはもう我慢ができない。

それを読んだ彼女も書いた。

わたしはしばしば、あなたを怒らせていたようだ。
ただわたしの至らなさと鈍感のせいだ。

シューマンが忙しくなったときは
クララが寂しさを日記にぶつけた。
そのとき夫は、妻への愛を書きしるした。

やわらかく傷つきやすい心は
口に出す言葉より日記の文字をラクに受け入れるのだろうか。

topへ

八木田杏子 10年11月07日放送



近藤京子


 音痴な人なんて、いません。

ヴォイストレーナーの近藤京子はそう言って、
歌うことが苦手な人を変えてきた。


 あなた、それじゃあ、ただ上手いだけよ。

近藤京子はそう言って、
歌うことが得意な人を変えてきた。

音楽の授業では、音程をとる上手い下手で
成績がつけられていたけれど。

彼女は、音程よりも声量よりも、
気持ちが伝わることを大切にする。

想像力と身体のすべてをつかって、
歌に想いをのせるための
アドバイスはシンプルだ。


 話すように、歌いなさい。
 歌うように、話しなさい。



ハインリヒ・フォン・クライスト

ドイツ語による最も美しい散文と称された
クライストのエッセイ「マリオネット芝居について」。

その中で彼は、ある少年が
無垢な優美さを一瞬にして失う様を描いている。

少年が足を拭こうとして足代に足をのせた瞬間、
大きな鏡をチラと一瞥して、
自分の姿が彫刻のように美しいと意識する。

もう一度それを人に見せるために
ふたたび足台に足を上げると、
もはや違う動きになっていた。

こんなエピソードをもちいて
クライストは語る。


 意識が人間の自然な優美さに
 どんな混乱を惹き起こさせるかは心得ている。

魅力や長所は、意識した瞬間に、自惚れや気取りになる。

そのときに失うものはあまりにも大きい。



サトウハチロー

 
サトウハチローの「小さい秋見つけた」という詩には
子供の視点で発見した秋が描かれている。


 呼んでる口笛 もずの声
 
 お部屋は北向き くもりのガラス
 
 はぜの葉あかくて 入り日色

この歌を口ずさんでいた子供のころ、
秋はもっと手に取りやすいものだった。

落ち葉をふみしめながら、どんぐりを拾ったり
赤い紅葉を本にはさんだり。

もくもくしていた入道雲が、
薄くとけたような空をながめたり。

大人になって、
夏の締めくくりと冬の支度に気を取られていると、
秋はするりと逃げていく。

サトウハチローが50歳をこえてから作詞した
「ちいさい秋みつけた」は、
忙しい大人が
秋を見つけるための歌なのかもしれない。



島田紳助

「学ぶ」の語源は、「マネブ」。
「真似る」から派生したものだという説がある。

島田紳助がまだ駆け出しのころ。

彼は、過去の漫才をできる限り集めて、
面白いと思うものを2種類にわけた。

マネできるものと、マネできないもの。

面白いと思えて、
自分にもマネできそうな漫才だけを分析した。

なぜ、ウケるのか。
セリフが上手いのか、間の取り方がいいのか。

そこから紳助が創り上げた漫才は、
若い世代を虜にした。

大物芸人の最初の一歩は、
マネからはじまったのだ。



大平健

精神科医である大平健は、童話をつかって治療をおこなう。

心の病の原因や対処法を、
患者自身に気付いてもらうために、物語をつかうのだ。

たとえば、
老後のくらしが不安で眠れなくなった67歳の老婦人。
夫と老人ホームに入って、
新しい暮らしを始めるのが不安な彼女には、「ももたろう」。

子どものいないおじいさん、おばあさんが、
尋常ではない方法で子供を授かるこの物語。

年をとっていても希望はもてる、
老婦人がそう思えたとき、睡眠薬はいらなくなった。

不登校になった女子高生には、「ねむり姫」。

どんなに手を尽くして防ごうとしても
100年の眠りにおちてしまった眠り姫のように、
予想外の問題は誰にでも起こる。
それでも、最後には幸せになれる。

そう思えたとき、
不登校の女子高生と母親は快方にむかった。

先人の知恵がつまった童話を紐解くと、
絡まった心の紐のほどき方が
見えてくるのかもしれない。



アルフレッド・ノーベル

ノーベル賞は、ダイナマイトを実用化した
アルフレッド・ノーベルの遺言からはじまった。

という話は有名だが、
ノーベル賞に数学賞がない理由は、
あまり知られてはいない。

数学を重要な学問だと思っていなかった、
数学者が嫌いだったなど、諸説がある。

ノーベルの恋敵だった
ミッターク・レフラーが数学者だから、
という説もある。

想い叶わず生涯独身を通した彼は、
ノーベル賞が恋敵に贈られるのはたまらなかった。

だから数学賞が、存在しないのだ。

そう考えると、
ノーベル賞のいかめしさが消えて
親しみやすくなる。



村上隆

芸術に、評価基準なんてない。
そう思うのは、素人なのかもしれない。

村上隆は、美術界の歴史を読み解いて、
次の手を戦略的にうつ。

新しい、美しいだけでは、作品は売れない。
過去の評価基準の先にある新しい価値を
プレゼンテーションして、売るのだ。

彼は、こう語る。


 世界基準の文脈を理解するべきである。

 価値をうむのは、才能よりサブタイトル。

それが東京芸大の博士課程をおえたあと、
コンビニの賞味期限切れ弁当を食べて暮らしながら
作品をつくりつづけた村上の結論。

若いうちに奔放にのばした才能を、
戦略的にパッケージングしたから1億円で売れたのだ。



カラカウワ王

フラダンスは踊りながら、話している。

ひとつひとつの動きに意味があるフラダンスは、
まるで手話のよう。
踊りながらハワイの自然の美しさを称え、
恋人への想いを伝え
古い伝説も語り継いでいく。

今では癒しの象徴とされるこのダンスは、
アメリカ人の宣教師たちに
異教の踊りとして半世紀近くも禁止されていた。

フラダンスを復活させたのは、
外交に長けていたハワイ王国のカラカウワ王。

近ごろでは日本でも学ぶ人が多いフラダンス。
滅びなくて本当によかったと思う。

topへ

八木田杏子 10年09月11日放送


あるお婆さんと蝉

都会と田舎では、セミの鳴き方も違うらしい。

青森の八戸から東京に来たお婆さんは、
排気ガスに咳き込みながら、
セミの鳴き声が違うことに気がついた。

わずかに残された木々にしがみついて、
せわしない鳴き声をたてる東京のセミ。

そんなセミも、
山にかこまれた田んぼが青々と広がる場所では、
のんびりと鳴いているらしい。

明日は日曜日。
せめて、一日のんびりと過ごしませんか。


ある教師の宿題

夏休みを振り返ってみよう。

頑張った夏は、これからのチカラになる。
さぼった夏は、これからもずっと足をひっぱる。

ある小学校の先生は、
漢字ドリルをやらなかった子供に、
その何倍もの夏休みの宿題を出していた。

おどろいた親に、先生はこう言った。

私は厳しいから、
そのときは恨まれるけど、
あとから感謝されるんです。

やり残した夏の課題は、ありませんか。
まだきっと、間に合いますよ。


ある歌手とサトウキビ

昭和20年の夏
沖縄には270万発の銃弾と6万の砲弾が撃ち込まれた。
ロケット弾は2万、機関銃の弾はおよそ3000万発だそうだ。

それでも沖縄の海は青い。
空も高くぬけるように青い。
あの年の夏も、きっと青かっただろう。
さとうきび畑の風も
きっと同じように吹いていただろう。

沖縄から生まれたバンド「かりゆし58」は、
「ウージの唄」に想いをこめる。

ウージの小唄ただ静かに響く夏の午後
あぜ道を歩く足を止めて遙か空を見上げた
この島に注ぐ陽の光は傷跡を照らし続ける
「あの悲しみをあの過ちを忘れることなかれ」と

沖縄に行くと、誰もが癒される。
その居心地のよさは、
辛い体験をした人たちが、破壊された土地の上に
もう一度築きあげてくれたもの

それを忘れないようにしたい。

もうすぐ、65年目の夏が終わります。

topへ


login