‘古居利康’ タグのついている投稿

古居利康 12年8月25日放送



ドナルド・エヴァンズの国へ ①

ドナルド・エヴァンズは画家だった。
その絵はすべて、
切手のかたちで描かれた。

どこにもない国の、
だれも行ったことのない風景。
だれも食べたことのない果物。
だれも会ったことのない動物。

そんな絵を、
ちいさく緻密に描いて切手にした。

31年という、
決して長くないその生涯において、
42の架空の国をこしらえて、
その国々で発行された切手を
4000枚以上遺した。

ドナルド・エヴァンズは画家だった。
こどもが切手をあつめるように、
切手の絵だけを描きつづけた画家だった。



ドナルド・エヴァンズの国へ ②

1945年、
アメリカ・ニュージャージー州の
モリスタウンで生まれた画家、
ドナルド・エヴァンズ。

女王エリザベスⅡ世が1953年に
戴冠したとき、8歳のエヴァンズ少年は、
架空の記念切手をつくった。

野球やオートバイや女の子・・。
おなじ世代のアメリカの男の子たちが
夢中になるものよりも、
地図や百科事典が好きな少年だった。

10歳のころ、どこにもない国の切手を
すでにつくっていた。

その国に名前をつけ、
その国の風景を想像し、
その国の歴史や言語まで発明した。

15歳になったとき、
15の国と1000枚の切手ができていた。
ドナルド・エヴァンズは
それを3冊の切手アルバムに
だいじにおさめていた。



ドナルド・エヴァンズの国へ ③

ドナルド・エヴァンズは、
じぶんの頭のなかでこしらえた想像の国で
使われている切手だけを、生涯描いた画家だった。

たとえば、
中南米のどこかにあるかもしれない
架空の国、バナナ共和国。

バナナ共和国で実るフルーツ。
バナナ共和国に生きている動物・鳥・虫。
バナナ共和国に生えている花・樹木。
バナナ共和国で暮らす人々の日用品。

外国資本によるプランテーションをめぐって
つねに政治闘争に明け暮れている、
という想定でつくられた国。
しかし、その国の切手はどれも牧歌的だ。
もしかしたら、どこかにあるかもしれない国の、
ふしぎなリアリティがそこにあった。



ドナルド・エヴァンズの国へ ④

どこにもない国。
でも、どこかに存在していても
ふしぎじゃない国。
そんな国を想像力でつくりあげ、
その国の風物を絵にして、切手をつくった、
切手の画家、ドナルド・エヴァンズ。

スカンジナビアのどこかにある
というイテケ王国は、女王イテケの国。
美しい舞踏家、イテケ・ヴァーテボルグを
モデルに、女王の肖像画を36枚描いて
切手にした。

パスタ自治区という国は、
エヴァンズのパスタ好きが高じて生まれた。
絵柄はもちろん、スパゲッティやマカロニ。

宋栄(スンソン)王朝は、
エヴァンズが好んで収集していた
中国・宋時代の陶磁器から命名。
漢数字をデザインした。

フランス領アミとアマンとういう双子の島。
雷で打たれ、焼け焦げたヤシの木だけを
20枚描いて、切手にした。

ドナルド・エヴァンズが夢想した国。

フランディア。
スロボヴィア。
ジェルメンド。
オランダ領アハターデイク。
リュプス王国。
東クンストランド。
西クンストランド。
トロピデス諸島。
アジュダニ。 
グノーティス。
  ・
  ・
  ・

どの国も、
匂いや音や手触りをもっている。
ドナルド・エヴァンズの想像力は、
つねに具体的だった。



ドナルド・エヴァンズの国へ ⑤

ドナルド・エヴァンズは、
画家を志して大学に入り、
ニューヨークに出て働きながら
絵を描いていた。

あるとき、3冊の切手アルバムを
友人に見せた。おどろいた友人は、
きみはこれをつづけるべきだ、と言った。

やがて、ドナルド・エヴァンズは
オランダに渡る。
レンブラントやフェルメールの国で、
再び切手の絵を描きはじめる。

ヨーロッパの小国、ナドルプ。

マレー半島にあるスラマット・マカン共和国。

敬愛する作家、ガートルード・スタインを
モチーフにしたスタイン国は、
文芸独裁制という独特の政治をおこなう国で、
切手にはスタインの文章がそのまま
書かれていた。

国は次から次へ生まれ、切手が増えていった。



ドナルド・エヴァンズの国へ ⑥

「切手というものは、」

と、ドイツの文明批評家、
ヴァルター・ベンヤミンが書いている。

 「大きな国が、子供部屋で差し出す名刺である。
  こどもはガリヴァーとなって、切手の国々や
  民族を訪ね歩く。」

画家ドナルド・エヴァンズが
つくった切手は、
どこにもない国へつづく、
ちいさな入り口なのかもしれない。

paloetic
ドナルド・エヴァンズの国へ ⑦

切手の画家、ドナルド・エヴァンズは、
1977年、アムステルダムの友人の家で
火事に巻きこまれて焼け死んだ。

31歳。
オランダに渡って5年後のことだった。

詩人、隆は、
ドナルド・エヴァンズが残した
切手の世界にどうしようもなく惹かれ、
二度と戻らない旅に出てしまった
ドナルド・エヴァンズに宛てて、
何枚も葉書を書いた。

たとえば、こんな葉書を。

『あなたが描いた四千枚の切手、
 それを描くことでつくられていった
 空想の四十二の国々と、
 その気候、風物、通貨、言語、そして人々。
 あなたはそれらを、充分に秩序立てて
 描いたばかりではなく、
 あなたにとっての唯一の書物ともいうべき
『世界のカタログ』の中に、
 それらの発行にかんする詳細なデータを付して、
 封じ込めていった。あなたが描くたびに、
 その書物はふくらみ、ひとたびあなたが
 描かなくなると、増殖と飽和の果てで
 中断された書物は、かえって、世界という
 吹き曝しの地平をひろげてみせるようです。』

そんな葉書を186通あつめたうつくしい本、
平出隆の『葉書でドナルド・エヴァンズに』。
本の帯にはこんな惹句が載っている。

  「架空の国の切手の、
  架空の国々への、
  ほんとうの旅」

topへ

古居利康 12年7月21日放送


Philipp Salzgeber
コメットイケヤを見つけに ①

1963年1月3日午前5時5分。
静岡県浜名郡舞阪町在住、
河合楽器浜松工場ピアノ鍵盤工の池谷薫が、
星座表にない一つの星を発見した。

それは、
南の空に輝く乙女座の主星スピカから
20度東南にあって、南南東へ移動していた。

1月5日、
コペンハーゲンの国際中央天文局で
その星は、正式に新彗星と確認され、
発見者の名前をとって
池谷彗星=コメットイケヤと名づけられた。

池谷薫、19歳。
毎朝、太陽が昇る前に屋根にのぼり、
星空を見ることを生きがいとする少年だった。
手にしていたのは、じぶんで組み立てた
手づくりの天体望遠鏡。
コメットイケヤは、その望遠鏡で
見つけた初めての彗星だった。


Ashley Dace
コメットイケヤを見つけに ②

1950年代の終わり、
前衛的な短歌や戯曲で登場し、
映画の脚本やラジオドラマでも
活躍していた寺山修司。

寺山は、
池谷彗星の発見者・池谷薫に会いに、
たびたび浜松に出かけていって、
「なぜ星を探すのか」という質問を
繰り返した。

コメットイケヤを題材に、
ラジオドラマを一本つくろうとしていた。

19歳の若者による彗星発見、
という見出しが躍った新聞の片隅に、
或るサラリーマンの失踪という
小さな記事を発見した寺山は、
何の関係もない2つの出来事のあいだに
因果関係を見ようとしていた。

「私たちが何かを発見したときには、
 同じ世界の中で何かを失わねば
 ならないのではないか。」

というのが寺山のモチーフだった。


Ben McLeod
コメットイケヤを見つけに ③

寺山修司が書いたラジオドラマ、
『コメット・イケヤ』には、
アマチュア天文家・池谷薫本人の肉声が
刻まれている。

「なんか薄い雲の切れっぱしが通ったような
 気がしたんです。確かに視界の上の方に
 スゥッと薄いのが通ったように思った
 もんですから、そこをよく見たら
 たしかにあるんです。何回か確かめて
 確かに動いてるってとこを見てから、
 スケッチをして、電報を打ったんです。
 まだ暗いうちに。」

失踪者の行方を探すストーリーと、
池谷薫の彗星発見という現実の出来事が、
寺山修司のイマジネーションによって、
不思議に溶け合っていた。

「無人島の少年が沖を見張るように、
 はてしない空を見張り続けているうちに、
 彼は、『星座表』にない新しい星を発見して、
 たちまち天文学界の話題になった。」

と、寺山は書いている。


Ferny71
コメットイケヤを見つけに ④

1966年のラジオドラマ『コメット・イケヤ』。
演出を担当したのは、当時NHKのラジオ文芸部にいた
佐々木昭一郎だった。

佐々木が寺山と組むのは、初めて演出した
『おはよう、インディア』、吉永小百合の20歳を記念して
企画された『二十歳』につづいて、3度目だ。

あるとき、NHK浜松放送局から、池谷薫を取材しないか、
という誘いを受けた佐々木昭一郎は、
19歳のアマチュア天文家・池谷薫の自宅を訪れる。

「彼は想像通りナイーヴで礼儀正しい好青年であったが、
 彼にとって“星空”は私の考えていたような
 センチメントなど立ち入る余地もない、苛酷なものだった。
 気温零度以下の天候でも、彼はいつ現れるのか全く予測も
 出来ないホーキ星のかすかな光を探し続けるのである。」

と、佐々木は書いている。

「彼の現実は、私の貧弱な想像力をはるかに超越していた
 のだ。それをうまく言葉で表現する事は出来ないが、
 私はそこに何か、“狂的”(或いは熱狂的というべき)な
 現実を感ぜずにはいられなかった。」

この現実に斬り込むには、鋭いフィクションの武器が
必要だ。それをもっているのは寺山修司以外にない、
と、佐々木昭一郎は考えたのだった。


zAmb0ni
コメットイケヤを見つけに ⑤

「きいていい? 池谷さん。」
と、盲目の少女が言う。

「はい、なにをですか?」
と、ていねいに答える池谷さん。

「池谷さん! ほしって何ですか?」
と、少女。

「ほしはいつでも見えてるんですけど、
 そのほしがそこに輝いている
 っていうことに気がついたひとだけに
 見えるんです。
 たとえ目が見えなくても、
 そこにほしがあるっていうことに
 気がついていれば誰でも見えるんです」

と、池谷さん。

ラジオドラマ『コメット・イケヤ』は、
アマチュア天文家・池谷薫の
演技ではない、ほんとうの言葉を引き出して、
ストーリーに取り込んだ。

台本、寺山修司。演出、佐々木昭一郎。
2人のイマジネーションが、
稀有なドラマを生んだ。


Philipp Salzgeber
コメットイケヤを見つけに ⑥

池谷さん、
彗星って何ですか?

それは、
岩石と塵にまみれた氷の玉。

何十年、何百年の周期で
太陽系のまわりをまわっていて、
太陽に近づくと、氷の一部が蒸発し、
ガスと塵の混合物が気体になり、
尾っぽになって流れていきます。

池谷さん。
天上に新しい彗星を発見するとき、
地上でなにかが失われるって、
ほんとですか?

・・さぁ、
わたしにはわかりません。



コメットイケヤを見つけに ⑦

2010年11月3日午前4時58分。
池谷薫は、新しい彗星を発見した。
2002年に発見して以来、8年ぶりのことだった。

1963年、初めて彗星を発見したあの日から、
47年と10ヶ月。池谷薫、66歳。
その人生で出会った7つめの彗星だった。

池谷薫は、いまも毎日、手づくりの望遠鏡を覗いている。
それはニュートン式反射望遠鏡で、2枚の鏡から
できている。池谷薫は、鏡をひたすら自分で磨いてきた。
望遠鏡をじぶんでこしらえる、ということは、
反射鏡をじぶんで磨く、ということなのだ。

鏡の品質によって、望遠鏡の精度が変わってくる。
鏡の研磨によって、見える星の数もちがってくる。

いま、池谷薫は『池谷光学研磨研究所』を主宰し、
多くのアマチュア天文家に、鏡を研磨する技術を
伝授しようと努めている。

磨く、と言っても、ただ布でこするだけ、
というような単純な作業ではない。
いろんな道具や材料を使い、複雑な工程を経て
鏡を加工していく技術。

池谷薫は、ただひとり孤独に、
夜空を見つめているのではない。
星を見つめるひとを見つめる、
もうひとつの目を彼はもっているのだ。なる。

 

topへ

古居利康 12年2月19日放送



雪の殿様・その1

いまから百八十年ほど前、
下総国 (しもふさのくに)・古河(こが)に、
「雪の殿様」と呼ばれた大名がいた。

19世紀はじめ、文化文政の時代。
古河藩七万五千石の藩主だった、土井利位(どい としつら)。

徳川譜代の名門に生まれた利位は、
オランダ渡りの顕微鏡を使って、
雪の結晶を観察し、
約20年間にわたって
克明なスケッチを残した。

そんな彼を、
ひとは「雪の殿様」と呼んだ。



雪の殿様・その2

下総国古河藩主、土井利位。
雪に魅せられた「雪の殿様」。

彼は雪の結晶を、
雪の華・雪華(せっか)」と名付け、
「雪華図説」という本を著した。

ひとつとして同じかたちのものは
ないけれど、
どれも六方対称のかたちになる。
そんな雪の結晶のふしぎな成り立ちを、
彼は解き明かそうとした。

大気中の水蒸気の流れ。
天空に雪の生ずるからくり。
そして、手に受ければたちまち
溶けてしまう六角形の結晶を
溶かすことなく採取する方法。

「雪華図説」は、単なる雪の結晶の
スケッチ集ではなかった。
それは、当時最新の格物窮理(かくぶつきゅうり)、
すなわち物理学の書物だった。



雪の殿様・その3

雪のふしぎに取り憑かれ、
雪のうつくしさの虜になった「雪の殿様」。
土井利位が書いた「雪華図説」は、
物好きな殿様の趣味の域をはるかに超える、
本格的な物理学の書であった。

なにゆえ、ひとりの殿様にそんな書物が書けたのか。
オランダ渡りの顕微鏡など、どこで手に入れたのか。

古河藩の家老に、鷹見泉石(たかみせんせき)という人物がいた。
泉石は、早い時期から海外事情に関心を寄せ、
地理・天文・暦学・物理の道に通じていた。
交友範囲もきわめて幅広く、
川路 聖謨(としあきら)、江川太郎左衛門ら幕府の要人、
渡辺崋山、桂川甫周(ほしゅう)といった蘭学者から、
地理学者・箕作(みつくり)省吾、砲術家・高嶋秋帆(しゅうはん)、
画家・司馬江漢に至るまで、
当代第一級の知識人との付き合いが深かった。

ヤン・ヘンドリック・ダップル、
というオランダ名までもっていた鷹見泉石は、
蘭学仲間から得た知識を、
主君・土井利位に伝授したのだろう。

蘭鏡(らんきょう)と呼ばれるオランダ製顕微鏡も、
泉石が独自のルートから手に入れたもの
だったのかもしれない。



雪の殿様・その4

徳川幕府が国を閉ざして、二百年余。
19世紀、帝国主義の時代を迎えた西洋列強は、
極東の小さな島国のドアをノックする。

1804年、ロシアのレザーノフが来航。
1808年、英国の軍艦フェートン号が入港。

唯一、世界に開かれた長崎の港が騒然とする。
幕府は対応に苦慮する。

下総国古河で雪の研究をしていた土井利位。
そのブレーンだった家老・鷹見泉石には、
時代に対する危機感があった。
蘭学を通して、地理・天文・物理を学ぶことは、
西洋の現在を知ることでもあった。



雪の殿様・その5

下総国古河藩主、土井利位は、
33歳で藩主となったのち、寺社奉行、大坂城代、
京都所司代など、幕府の要職を歴任。

大坂城代の任にあった天保8年、1837年、
土井利位は、大塩平八郎の乱に遭遇する。

1830年代、天保年間。
長年つづいた天候不順から日本全国が凶作となった。
米不足から飢饉が起こり、各地で一揆が頻発。
大坂では毎日150〜200人を越える餓死者が出たという。
暴騰する米の値段をいいことに、米を買い占める
豪商のふるまいに、民の怒りが爆発。
その先頭に立ったのが、大坂町奉行所の元与力、
大塩平八郎だった。

決行の日は、175年前の今日、2月19日。
豪商と奉行所を襲い、焼き打ちにする計画は、
密告によって頓挫。武装蜂起は鎮圧される。
大坂市中に身を隠した首謀者、大塩平八郎の所在が
大坂城代・土井利位のもとに通報される。
大塩捕縛に向かったのは、家老・鷹見泉石率いる
古河藩の一軍だった。

こののち、土井利位は、幕府老中に登りつめ、
水野忠邦と共に、「天保の改革」の中心人物となっていく。
日本で初めて雪の結晶を顕微鏡で見た「雪の殿様」は、
時代と政治のまっただ中にいた。



雪の殿様・その6

下総国古河、現在の茨城県古河市は、
決して雪深い土地ではない。

土井利位が生きた19世紀前半は、
いまよりもはるかに寒冷で、
世界的にも、洪積世氷期が終わって以降、
最も寒冷な時期にあたり、
小氷期と呼ばれている。

零下10℃以下でなければ観察は不可能、
と言われる雪の結晶のスケッチを、
土井利位は、古河でも、大坂でも、
京都でも欠かさずつづけている。
この頃の冬は、それくらい冷え込んでいた、
ということの、それは証拠である。

雪の結晶の観察を可能にした寒さは、
しかし、同時に、凶作をもたらす寒さでもあり、
人々を追いつめる大飢饉の元凶でもあった。



雪の殿様・その7

土井利位が著した「雪華図説」は、
いまで言う自費出版だったので、
庶民の目に触れることはなかった。

これを一躍有名にしたのが、
越後の商人、鈴木牧之(ぼくし)が書いた北越雪譜(ほくえつせっぷ)
という本だった。

雪深い越後の暮らし、産業、伝承に加え、
土井利位が描いた雪の結晶の絵が35点、
掲載された。

当時としては破格の700部が売れ、
土井利位は、「雪の殿様」と
呼ばれるようになった。



雪の殿様・その8

「雪の殿様」土井利位は、
みずからスケッチした雪の結晶を図案化し、
印籠や刀の鍔、着物の柄に散りばめた。

一方、「北越雪譜」に掲載された
35種類の雪の結晶図は、またたく間に
江戸の庶民を魅了し、やがて、テキスタイルの
ニューモードを生み出すことになる。

土井家の当主は、
代々、大炊頭(おおいのかみ)という官職名を名乗る。
土井利位が描いた雪の結晶図から生まれた
テキスタイルの文様は、
彼の官職名をとって、大炊模様(おおいもよう)と
呼ばれるようになる。

渓斎英泉(けいさい えいせん)の美人画、歌川国貞の役者絵など、
江戸後期の浮世絵に、「大炊模様」の着物柄が
数多く見られる。その流行ぶりは、
「雪の殿様」本人の想像を超えるものだった。

topへ

古居利康 12年1月15日放送


Festival Karsh Ottawa
グレン・グールドというピアニストが、いた。 ①

1964年以降に生まれたひとは、
グレン・グールドが
生でピアノを弾く姿を見たことがない。

なぜなら、1964年、このピアニストは、
コンサート活動のいっさいから
身を引いてしまったから。

かれは、1946年、まだ14歳のとき、
トロント交響楽団と共に舞台に立った。

クラシックの世界において、
早熟の天才は決してめずらしいものでは
ないけれど、しかし、かれの場合、
早くから芽生えた
コンサートに対する疑問が、
その後の生きかたを
きわめてユニークなものにした。


Piano Piano!
グレン・グールドというピアニストが、いた。 ②

32歳のとき、ライヴ演奏から
ドロップアウトしたグレン・グールドは、
50歳で亡くなるまで、
どんなに請われてもコンサートへの
出演を断わりつづける。

けれども、こんにち、
われわれは、スタジオにおかれた
一台のスタンウェイに向かうかれの姿を、
映像で見ることができる。

何本もドキュメンタリー映画ができるくらい、
グールドが残した映像は数多く存在する。

床上35.6cmという、異様に低い椅子。
猫背で前のめりになったグールドの
顔と手の距離がきわめて近い。
ピアノにすがりつくように構えた両肘は、
鍵盤よりも下に位置している。

その独特のフォームについて、
レナード・バーンスタインはこう言った。

「まるでかれ自身がピアノになろうと
 しているように見えた」


patte-folle
グレン・グールドというピアニストが、いた。 ③

1955年、
22歳のグレン・グールドは、
コロムビアレコードで
バッハの『ゴルトベルグ変奏曲』を録音する。
これがレコードデビューとなった。

よりによって、『ゴルトベルグ』か。
なんの山場もない、ややこしいだけの
アリアの変奏曲じゃないか。

プロデューサーは選曲に反対した。
ピアニストは、この曲にこだわった。

グールドは、6月にもかかわらず
マフラーを巻いてオーバーを着込み、
手袋をして録音スタジオにあらわれた。

いきなり洗面所にこもって、
両手を30分もお湯につけたまま出てこない。
ピアノの前に坐ったかと思えば
いきなり奇声を発したり、
スタジオの中をうろうろと歩き出して、
ぷいっと外へ出てしまう。

やがて首を激しく振りながら戻ってきて、
何の前触れも合図もなく演奏が始まる。
その手首が、飛び魚のように鍵盤上を
飛び跳ね、うつくしい音がやってきた。

録音室にいた誰もが唖然として、
音に酔いしれた。



グレン・グールドというピアニストが、いた。 ④

グレン・グールドは、
聴衆の存在は、音楽の邪魔である。
とまで言い切った。

そんなかれについて問われた、
ほかのピアニストたちは、
たいてい、やや当惑ぎみに小声で言い添える。

けれど、観客との一体感から生まれる歓びは
ピアニストにとってなにものにも代えがたい、と。

グレン・グールドは違った。
やりなおしのきかないライヴ演奏では、
理想の音楽がつくれない。
スタジオなら、納得いくまでテイクを録って、
最良の演奏が選べるではないか。

かれは、繰り返し、そう主張した。



グレン・グールドというピアニストが、いた。 ⑤

映画『羊たちの沈黙』に登場した殺人鬼、
ハンニバル・レクター博士が、
娘を誘拐された上院議員に情報を提供する
見返りに、ある音楽テープを要求する場面がある。

レクターが欲しがったのは、
グレン・グールドの『ゴルトベルグ変奏曲』。

ヨハン・セバスチャン・バッハが
2段鍵盤付きのチェンバロのためにつくった
『アリアと種々の変奏曲』。
不眠症に悩んでいたある貴族の依頼で作曲し、
バッハの愛弟子であるゴルトベルグが
演奏したため、『ゴルトベルグ変奏曲』という
通称で知られるこの曲。

おなじアリアが、30もの変奏で、
微妙に描き分けられる複雑さと長大さ。
ピアノではなく、チェンバロのための曲だった
こともあって、弾きこなすのは容易ではない。

あるピアニストは、こう言う。
誰もグレン・グールドのように
『ゴルトベルグ』を弾くことはできない。
せめて、指が6本ほしい、と。

ちなみに、映画では描写が避けられたが、
『羊たちの沈黙』の原作となったトマス・ハリスの
小説において、レクターは左手だけ、
指が6本あったとされている。



グレン・グールドというピアニストが、いた。 ⑥

グレン・グールドは、
夏目漱石の『草枕』の愛読者だった。
ラジオの番組で朗読までしているから、
相当な入れ込み方だ。

「四角な世界から常識と名のつく一角を
 摩滅して、三角のうちに住むのを
 芸術家と呼んでもよかろう」

といった部分に、グールドは深く共感していた。

「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。
 意地を通せば窮屈だ。とかくこの世は住みにくい。
 住みにくさが高じると、安い所へ引っ越したくなる。
 どこへ越しても住みにくいと悟った時、
 詩が生まれて、 画(え)が出来る」

冒頭の、あまりに有名なこの一節は、
グレン・グールドの生きかたそのものに
思えてくる。



グレン・グールドというピアニストが、いた。 ⑦

グレン・グールドの録音に
耳を澄ますと、うなり声が聞こえる。
うなり声というより、主旋律を歌う、
グレン・グールドの鼻歌だ。

グレン・グールドのスタジオ録音は、
聴衆のいないライヴ録音のようなものだ。
かれの息づかいが生々しく刻まれている。

CDジャケットの裏に、こう書いてある。
『グールド自身の歌声など、一部ノイズが
 ございます。どうかご了承ください』



グレン・グールドというピアニストが、いた。 ⑧

グレン・グールドは、よくひととぶつかった。

レナード・バーンスタインとは、
ブラームスの協奏曲第一番の解釈をめぐって対立。
演奏会の冒頭で、バーンスタイン自身が、
じぶんはグールドの演奏に賛成しかねる、と
表明してから指揮をはじめる、異例の事態を招いた。

クリーブランド管弦楽団の指揮者、
ジョージ・セルは、リハーサルのとき、
30分間も椅子の高さを調整していたグールドに、
激怒。指揮棒を放り投げてしまう。

けれど、バーンスタインはその後、
「グールドより美しいものを見たことがない」
と、グールドの才能を認め、
セルも、「あいつは変人だが、天才だよ」と脱帽。

グレン・グールドとの
うつくしい共演盤を残したヴァイオリニスト、
ユーディ・メニューインは、こう言った。

「結局、かれは正しかった。」

topへ

古居利康 11年12月31日放送



一休さんの話 一

一休は、六歳のとき、
禅宗の名刹、安国寺に入った。

寺の書庫を常の住処とし、仏典に没頭。
座禅に励む日々を重ねた一休の眼に、
だんだん現実が見えてくる。

僧侶どうしの言い争い。
「自分は源氏の出である」
「わたしは公家の血筋である」

少年一休は、一編の漢詩をつくり、
これを批判する。

「法を説き 禅を説いて 姓名を挙ぐ
 人を辱しむるの一句」

仏門に帰依した身で、現世の出自を
自慢しあう。恥ずかしいの一言だ。

一休の失望は日増しに深くなっていく。


murata
一休さんの話 二

一休は、十七歳のとき、
謙翁 (けんおう) という僧に出会う。

西金寺 (さいこんじ) という
苔むした貧乏寺にあって、
政治にすり寄らず、権威におもねず、
純粋禅として孤高の道をゆくその姿に、
一休は心打たれる。

この方こそが、
自分の求める禅の師匠だ。

一休は、雨露をしのぐていどの
粗末な寺に住み、
謙翁とともに街を歩く。
托鉢だけで暮らしたため、
日々の食事にも事欠く始末。

清貧のなかで、
謙翁の指導は峻烈を極めた。
一休は、禅の真髄に近づいていく。



一休さんの話 三

一休は、父を知らない子どもだった。
母とも、六歳のときに別れたきりだ。

母は、伊予の局という名の
やんごとない姫だった。
藤原一門の公家、日野家に生まれ、
御所にあがっていた。

父は、その伊予の局に手をつけた
後小松天皇そのひとではないか。
という、まことしやかな御落胤説がある。

長くつづいた南北朝の争いは、
後小松帝在位のとき、統一を見た。
以後、南北、交互に帝位を継いでいく、
という約定が交わされた。

一休が生まれた1394年は、
そんなナーバスな出来事の渦中にあった。
幼い一休が寺に出された背景にも、
どこか、きな臭い空気が漂っていた。



一休さんの話 四

あるとき、将軍・足利義満が
一休を試すべく、無理難題をもちかける。
「屏風の絵の虎が毎晩抜け出して
 往生している。虎を縛ってくれないか」

一休は縄を持って屏風の前に立って言う。
「では虎を捕らえましょう。どなたか、
 屏風から虎を追い出してもらえませんか」

少年一休の利発さを伝える、この種の挿話は、
江戸時代になって『一休噺』として集められ、
「とんちの一休さん」が一人歩きしていく。

だが、室町の乱世にあった現実の一休は、
幕府の庇護をかさに権威を振りかざす
禅宗に対する批判者として生きた。

ボロボロの法衣をまとい、なぜか、
腰に朱塗りの木刀をぶら下げていた。
生の魚も食らう。飲み屋にも花街にも通う。
法事の場でお経を唱える代わりに、
おならをして顰蹙を買ったりもした。

表では澄ました顔で仏法を説く坊主が、
裏では生臭い振る舞いに及んでいる。
一休はその放蕩無頼によって、
身をもって僧侶の腐敗を天下にさらした。
そんな意図を察した名もなき庶民は、
一休を生き仏と崇めるようになる。



一休さんの話 五

一休は、七十七歳のとき、恋に落ちる。
森(しん)、という名の、盲目の美女だった。
ふたりは小さな庵で同居を始める。

一休が遺した『狂雲集』という漢詩集に、
森との交情が謳い込まれている。

「森也 (しんなり) 深恩 (ふかきおん) 若 (も) し忘却せば 
 無量億却 畜生の身」

森の深い愛情を忘れたら、未来永劫に
畜生道に堕ちるでしょう、と。


crowbot
一休さんの話 六

一休は、ある年の正月、杖の先に
髑髏をぶらさげ、「ご用心、ご用心」と
唱えながら街を練り歩いた。

こんな歌を遺している。

「門松は冥土の旅の一里塚
 めでたくもあり めでたくもなし」

元旦生まれのせいでもあるまいが、
めでたいめでたい、とひとが笑う日に、
一休は、人生の無常をつねに思っていた。

1481年、一休、死す。享年八十八。
臨終に際してこう呟いたと伝わる。

「死にとうない」

生涯、飾らず、奢らず、悟らず、
ありのままを生きた一休らしい、
未練の呟き。

topへ

古居利康 11年11月13日放送



①ジーン・セバーグのベリーショート

ひとつの髪型が、
世界を変えることもある。

1957年、『悲しみよこんにちは』という
アメリカ映画に登場した
ジーン・セバーグのベリーショートが、
世界中の女の子に、ブームを巻き起こす。

女の子だけではなかった。

映画を見て彼女に魅了された
ジャン=リュック・ゴダールは、
長編デビュー作『勝手にしやがれ』に、
セバーグを起用する。

世界の映画の流れを変えた
ヌーヴェルヴァーグの第一波は、
ジーン・セバーグの髪型と共にやってきた。



②アンナ・カリーナの時代

「ほれぼれするほど美しい女を出演させ、
その相手役に『あなたはほれぼれするほど美しい』
と言わせること。これが映画なのだ」

と、ジャン=リュック・ゴダールは言った。

美しい女に出会うこと。
それがかれの映画最大のモチベーションだった。
1960年代のゴダールは、アンナ・カリーナという
女性との出会いぬきには語れない。

『小さな兵隊』、
『女は女である』、
『女と男のいる舗道』、
『はなればなれに』、
『アルファビル』、
『気狂いピエロ』、
『メイド・イン・USA』。

これら7本の映画は、
アンナ・カリーナという女性の、
ハタチから27歳までの、
美しいドキュメンタリーのように見える。



③アンナ・カリーナの誕生

コペンハーゲンで生まれたアンナ・カリーナは、
17歳の冬、パリに出る。ほぼ一文無しだった。

あるとき、〈カフェ・ドゥ・マゴ〉のテラスに
坐っているところを写真に撮られる。
その写真が縁でココ・シャネルに出会う。

「ハンヌ・カリン・ブレーク・バイヤー」
というデンマーク語の本名をもっていた彼女に、
「アンナ・カリーナ」という名前をつけたのも
ココ・シャネルだった。

アンナ・カリーナとなった彼女に、
雑誌やコマーシャルの仕事が入る。
石けんの広告にセミヌードで出演していた彼女を見て、
この娘なら服を脱がせてもよかろう、と思った
ゴダールが、『勝手にしやがれ』の出演を打診する。

「きみには脱いでもらう」
黒眼鏡の男ゴダールがぶっきらぼうに言う。
「いやです。脱ぎません。」
憤慨したアンナ・カリーナは席を蹴って帰ってしまう。

主演はジーン・セバーグに決まっていた。
アンナ・カリーナに依頼したのは、
ほんの小さな役にすぎなかった。



④アンナ・カリーナと赤いバラ

『勝手にしやがれ』を撮り終えた
ジャン=リュック・ゴダールから、
アンナ・カリーナのもとに再び出演依頼がくる。

「こんどはヒロインの役だ」と、ゴダール。
「また脱ぐの?」と、アンナ。
「いや、こんどは脱がなくていい」と、ゴダール。

数日後、黒眼鏡には不似合いの、
真っ赤なバラを50本抱えた
ジャン=リュック・ゴダールが、
アンナ・カリーナのアパートにやってくる。

こうして、ゴダール2本目の長編映画、
『小さな兵隊』への出演が決まる。



⑤ドルレアック姉妹

姉、フランソワーズ・ドルレアックは、
1942年にパリで生まれた。1年7ヶ月後、
妹、カトリーヌ・ドルレアックが生まれた。

父は映画俳優、母も舞台俳優
という芸能一家に生まれた姉妹だった。
姉は、10歳のとき、子役でデビュー。
あるとき、ある映画で、じぶんの妹役に実の妹を推薦し、
妹をデビューさせてしまう。

姉、フランソワーズは、
1963年、フランソワ・トリュフォーの長編第4作、
『柔らかい肌』に主演。
妹、カトリーヌは、母の旧姓だったドヌーヴを名乗り、
カトリーヌ・ドヌーヴとして、
ジャック・ドゥミ監督のミュージカル、
『シェルブールの雨傘』で主演。

そして、そのジャック・ドゥミの次の作品、
『ロシュフォールの恋人たち』に双子の姉妹役で共演。
姉妹は、フランス映画の最前線に立った。

しかし、姉、フランソワーズ・ドルレアックは、
1967年、不慮の交通事故で、その短い生涯を終えた。

妹、カトリーヌ・ドヌーヴは、その後大成し、
ヌーヴェルヴァーグの枠におさまらない女優として、
いまもなお現役で輝きつづけている。



⑥ベルナデット・ラフォン・18歳

25歳のフランソワ・トリュフォーが
つくった短編映画、『あこがれ』。

18歳のベルナデット・ラフォン演じる  
美しい年上の娘にあこがれ、
あとをつけまわす、5人の悪戯っ子たち。

真っ白なシャツにスカートをなびかせ、
自転車で疾走するラフォン。
彼女が自転車を降りた隙に、
サドルの残り香をかいでうっとりする少年。

若い生命の輝きと、思春期のめざめを、
白という色で表現した作品。
それは、フランソワ・トリュフォーという
映画監督がもっていた
無限の可能性の色でもあった。



⑦ベルナデット・ラフォン・33歳

『勝手にしやがれ』は、もともと、
フランソワ・トリュフォーが発案した
ストーリーだった。

じぶんで監督するつもりでいたが、
事情があって盟友ゴダールに譲った。
もし実現していたら、主役は、
ベルナデット・ラフォンになるはずだった。

その穴埋めに、
トリュフォーは、短編映画『あこがれ』から
15年後、33歳のラフォンを主役に映画を撮る。

『私のように美しい娘』
というのが、その映画の題名だ。



⑧男と男とジャンヌ・モロー

『大人は判ってくれない』、
『ピアニストを撃て』につづく、
フランソワ・トリュフォー3本目の長編映画、
『突然炎のごとく』。

21歳のとき、
原作となった小説を読んで以来、
映画にしたかったが、
ルイ・マル監督の『死刑台のエレベーター』で
 強烈な存在感を示した
女優ジャンヌ・モローとの出会いが、
10年越しの構想に道を開いた。

男と、女と、男。
女が複数の男を同時に愛しつづけることは可能か。

説明してしまえばただの俗っぽい話。
自堕落に見えても不思議はないこの女性の役を、
ジャンヌ・モローの知性と美しさが救った。

この作品に刺激されて、
ゴダールは『気狂いピエロ』という映画をつくる。

ヌーヴェルヴァーグは、
かくのごとく、波となって連鎖する。

topへ

古居利康 11年9月11日放送



テン・イヤーズ・アフター ①ジョージ・ウォーカー・ブッシュ

2001年9月11日。
ブッシュ大統領の緊急声明より、抜粋。

「国民の皆さん。
本日、わたしたちの日常生活において、
ほかならぬわたしたちの自由が、
テロリストの攻撃を受けました。

旅客機の中で、オフィスの中で、
ビジネスマン、軍や政府の公務員たち、
母親たち、父親たち、そして、友人たち、
わたしたちの隣人が犠牲者となりました。

何千もの命が、卑劣極まる残虐行為によって
突然終止符を打ったのです。

いままでアメリカは敵を粉砕してきました。
そして、今回もわたしたちはそれを実行します。」



テン・イヤーズ・アフター ②リック・リスコラ

ワールドトレードセンターの中に
オフィスを構えていたモルガンスタンレーの
警備主任、リック・リスコラは、
1993年に起きた、ワールドトレードセンター
爆破事件の教訓を忘れなかった。
不意打ちの避難訓練を頻繁におこない、
しばしば社員に煙たがられ、変人扱いされた。

2001年9月11日、
リスコラの恐れは現実となったが、
かれの冷静な避難誘導によって、
モルガンスタンレーの社員2700人のうち、
2687人は、無事だった。

その日、かれは妻に電話をかけている。
「どうか泣かないでほしい。
もし、ぼくの身に何か起こったら、
きみがぼくの人生のすべてだった、
ということを覚えていてほしい」

そう言い残して、かれは
まだビルの中にいる社員を救出するために
炎と瓦礫の中にとって返し、二度と帰らなかった。



テン・イヤーズ・アフター ③ノーマン・メイラー

権力のありかたを、
生涯、厳しく問いつづけた
小説家、ノーマン・メイラーは、
2001年9月13日、
タイムズ誌にこう語っている。

「アメリカは攻撃の精密さに
恐怖を覚えた。これがアメリカのような
若い国につきもののパラノイアに
火をつけるだろう。」

「なぜ、アメリカは、
このようなテロがおこなわれるほど
人々に憎まれているのか、理解しなければ
ならない。世界の多くの国々、
とりわけ発展途上国では、アメリカは
文化的な抑圧者であり、
美的な侵略者と見られている。
世界で最も貧しく、ちっぽけな国の
首都の空港の周囲に、
高層のホテルや建物が並ぶまで、
高層建築を増やしたがる。」

「アメリカが押しつけている
アメリカ風の生活スタイルや、
巨大な利益を上げつづける生活スタイルは、
世界の大部分の国には、必ずしも
ふさわしいものではない。
そこを理解しないと、アメリカは、
世界で最も憎まれる国になるだろう。」



テン・イヤーズ・アフター ④エドワード・サイード

キリスト教徒のパレスチナ人として
エルサレムで生まれた文学者、
エドワード・サイードは、2002年9月、
9.11以降の対テロ戦争は世界を安全に導いたか、
という質問にこう答えている。

「より危険になったと私は感じる。
突発的なものであれ、国家によるものであれ、
以前より暴力に支配され、
人々は安全でないと感じている。
それはテロのせいではなく、
米国が交戦状態にあるからだろう。
テロという抽象的な悪との戦いは、
終わることも勝利することもありえない。」



テン・イヤーズ・アフター ⑤カート・ヴォネガット

小説家、カート・ヴォネガットは、
2005年に出版された最後の著作、
『国のない男』のなかでこう書いている。

「マーク・トウェインとエイブラハム・リンカンは
いまどこにいるのだろう。
いまこそ必要なときだというのに。
ふたりとも、中部アメリカの出身だった。
ふたりのおかげでアメリカ人は己の愚かさを
笑うことができるようになったし、
本当に大切で、本当に道徳的なジョークのよさが
わかるようになったのだ。今日、ふたりがいたら、
いったい何を語るだろうか。」

そして、1848年、まだ大統領になる前の
リンカンの演説を引用する。

「糾弾を免れるために、彼は、国民の目を
華々しい戦いの輝ける栄光に向けておいた。
あの魅力的な虹は血の雨のなかのみかかる、
と知っていながら、破壊へと人を招き寄せる
ヘビの目をぎらつかせて、
彼は戦争へと突入していったのだ。」

「彼」とは、当時の合衆国大統領、
ジェイムス・ポークのことだ。
かれがはじめた戦争、
アメリカがカリフォルニアやテキサスを
手に入れた対メキシコ戦争を、
リンカンはアメリカの恥だと考えていた。



テン・イヤーズ・アフター ⑥大江健三郎

エドワード・サイードの友人、
大江健三郎は、2003年9月11日、
新聞にメッセージを寄せている。

「暴力をしずめるためには、
暴力ではなく言葉こそが力をもつと、
いま本当に必要な心のノートを書くなら、
私は広島と長崎からの言葉が
伝えられねばならぬと思います。」

「二年前の『9.11』に私らをとらえた沈黙、
考える言葉に向けてそれぞれにした手探り。
そこに立ち返ってみなければなりません。
あの時、世界じゅうの人間の心が
一致したとすれば、暴力をしずめる言葉を
作り出すことこそ文化だったという、
苦しい反省ではなかったでしょうか?」



テン・イヤーズ・アフター ⑦村上春樹

『9.11』後の世界について、
村上春樹はこう語っている。

「今の世界というのは、
実は本当の世界ではないんじゃないかという、
一種の喪失感。
…リアリティーの欠損なんですね。…
もし9.11が起こっていなかったら、
今あるものとはまったく違う世界が
進行しているはずですよね。
おそらく、もう少しましな、正気な世界が。」



テン・イヤーズ・アフター ⑧バラク・フセイン・オバマ

2011年5月2日。
オバマ大統領の緊急声明より、抜粋。

「こんばんは。
今夜、わたしはアメリカの人たちと世界に、
作戦実施のご報告ができます。
アメリカは、何千人もの罪なき人々や子供たちの
殺害に責任のあるアルカイダ指導者、
オサマ・ビンラディンを殺害しました。

アメリカ人に対する史上最悪の攻撃によって、
まぶしい9月の日が闇に落とされたのは、
10年近く前のことでした。

2001年9月11日のあの日、悲しみの中で
わたしたちアメリカ人は団結しました。

わたしたちは一致団結して、自分たちの国を守り、
この残酷な攻撃をおこなった者たちに
正義の裁きを下すのだと決意を固めました。

そして、愛する人を喪った家族の皆さんに、
こう言うことができます。

正義は、遂行されました。」

topへ

古居利康 11年8月20日放送



エッフェル塔を見上げて ①ロラン・バルトのまなざし

フランスの思想家、ロラン・バルトは、
『エッフェル塔』という本の冒頭を、
こうはじめている。

「モーパッサンは、しばしばエッフェル塔の
レストランで昼食をとったが、しかし彼は
この塔が好きだったわけではない。
『ここは、エッフェル塔を見なくてすむ、
パリで唯一の場所だからだ』と彼は言っていた」

1889年、フランス革命100周年を記念して
パリで開かれた万国博覧会のために建てられた、
鉄骨の塔。建設当初は、地上312.3メートル。

高い建築物などなかった19世紀末のパリの
ひとびとにとって、それは想像を絶する高さだった。

そして、問題は、鉄だった。
鉄骨で組み上げたエッフェル塔は、
長い歴史をもつ石の街、パリにおける
巨大な違和感だったのだ。



エッフェル塔を見上げて ②モーパッサンの畏れ

小説家、ギィ・ド・モーパッサンは、
1886年、当時まだ建設中だったエッフェル塔について
早くも警告を発している。

「この怪物は、悪夢のように視線を追い、
精神に取り憑き、純朴でかわいそうな者たちを脅かす」

それは、敵意に近かった。
エッフェル塔の登場を畏れているようにも見えた。

フローベールゆずりの自然主義を信奉し、
古き良き19世紀を生きてきたモーパッサンにとって、
無粋な鉄の塊にすぎないこの建造物は、
みずからの美学に、まっこうからノン!を突きつける
存在なのかもしれなかった。

モーパッサンだけではなかった。
エッフェル塔のデザインに対し、
何人もの作家・画家・彫刻家・建築家が、
連名で抗議文まで提出する騒ぎになった。



エッフェル塔を見上げて ③アポリネールの発見

19世紀の知識人たちには理解不能だった
エッフェル塔を、興奮と熱狂で受け入れた
若者がいた。

ギョーム・アポリネール。
のちにシュールリアリズムの詩人となる
この若者は、1900年、万博を見るために
パリにやってくる。まだ無名の19歳だった。

この鉄の塊にこそ、新しい美がある!
これは20世紀の美だ!

1850年生まれの小説家にとって、
不愉快な怪物だった鉄の塔は、
1880年生まれの詩人にとって、新しい世紀の
開幕を象徴するランドマークとなった。

石・対・鉄。自然・対・人工。
調和的な美・対・挑戦的な美。

ふたつの陣営が
312.3メートルの塔をはさんで対立した。
それは、美学と美学の衝突であった。



エッフェル塔を見上げて ④ギュスターヴ・エッフェルの確信

エッフェル塔に名を残すギュスターヴ・エッフェルは、
塔の建設を発案した設計技師にして、
2年2ヶ月に及ぶ工事を請け負った建設業者でもあった。

「同じ素材を用いるならば、われわれが先人よりも
はるか遠くまで進むことはほぼ不可能だと思われる」

エッフェルは1885年の時点でそう語っている。
「同じ素材」とは、石のことだ。
石を使って何百メートルもの建造物をつくるのは、
重力的に危険である、というのが彼の持論だった。

万博にふさわしいモニュメントを、という
コンペティションは、いっとき700を超えるアイデアが
集まった。やがて案は絞られ、エッフェルの鉄の塔と
最後まで決定を争ったのは、高さ360メートルの
石造りの塔だった。

エッフェルは、鉄橋や駅舎など、鉄道関係の仕事で
多くの実績を積んでいた。鉄は耐久性と弾力性を
あわせもつため、高所の強風にも強い。加工も自在で、
石よりも軽いから工事もスムーズ。工期が短くなれば、
人件費も削れる・・。

デザイン以前に、工期やコストという
ビジネスの角度から見て、その主張には説得力があった。
明らかに、鉄というモダンな素材には未来があった。
時代はエッフェルの味方になった。

かくして、250万個のリベットで溶接された
鉄柱の塔が、パリの街に出現することになる。



エッフェル塔を見上げて ⑤夏目漱石の驚き

1900年、英国留学の途上にあった
夏目漱石がパリのリヨン駅に降り立った。
万博見物が目的だった。

尋常でない数の人でにぎわうパリの街に、
「停車場を出でて見れば
まるで西も東も分らず恐縮の体なり」
と、日記にしるした33歳の漱石は、
エッフェル塔の印象を妻・鏡子に書き送っている。

「名高き『エフエル』塔に登りて、
四方を見渡し申し候。これは三〇〇米の高さにて、
人間を箱に入れて綱にて吊るし上げ吊るし降ろす
仕掛けに候。」

明治維新から、30年余り。
近代化を急ぐ日本の、はるか先をゆくヨーロッパ。
エッフェル塔のエレベーターの中で、漱石は、
東洋と西洋の差に愕然としたのではないだろうか。



エッフェル塔を見上げて ⑥トリュフォーのパリ

エッフェル塔建設から、43年後に
モンマルトルで生まれた映画監督、
フランソワ・トリュフォーは言う。

「わたしにとって、
パリはエッフェル塔なのです」

生まれたときからそこにあって、
どこにいても空の一角にそびえるエッフェル塔。

デビュー作『大人は判ってくれない』は、
街を歩く少年の視点で、
近づいてきたり、遠ざかったりする
エッフェル塔の映像からはじまる。

その後、彼の映画には、
当たりまえのようにエッフェル塔が
登場することになる。



エッフェル塔を見上げて ⑦ふたたび・ロラン・バルトのまなざし

ロラン・バルトの文章の、
官能的な修辞の連なりを要約することほど
愚かしいことはないけれど、
エッフェル塔をめぐる彼の本には、
たとえば、こんなことが書いてある。

「つまり、人がそれを眺めているときは対象(オブジェ)であるが、
そこに登ると、こんどは塔が視線となり、さきほどまで
塔を眺めていたあのパリを、塔の下に集まり
広がっている対象(オブジェ)に変える」

パリに住むひとびとから“見られる存在”としての
エッフェル塔は、同時に、パリ全域を視野に
入れることのできる“見る存在”でもあるということ。

「エッフェル塔を訪れるひとは・・
パリの空高く昇ることによって、何百万という
人間の私生活を覆い隠している巨大な蓋を持ち上げる
ような錯覚をもつ」

と、バルトは言う。鳥の眼か、神の眼か。
天空からひとの生活を鳥瞰し、俯瞰する。
そんなエッフェル塔にバベルの塔を重ねるひともいた。

ギュスターヴ・エッフェルは、
エッフェル塔とニースの天文台を除けば、
ほぼ、橋しかつくらなかった。
自然に抗って対岸を結び、ひとびとの交通を促す。
エッフェル塔は橋にほかならない。
それは、直立して天と地をつなぐ橋。

そんなふうに、ロラン・バルトは考えるのだ。

topへ

古居利康さんのリレーコラム

東京コピーライターズクラブ、今週のリレーコラムは
Visionメンバーの古居利康さんです。
こちらからどうぞ。
http://www.tcc.gr.jp/index_column.html


topへ

古居利康 11年7月3日放送



高峰秀子が乱れるとき その1

映画『乱れる』は、1964年1月15日、
東宝の正月番組として封切られた。
監督、成瀬巳喜男。
主演、高峰秀子、加山雄三。

昭和39年。
秋に東京オリンピックの開催を控えたこの国の、
町のかたちや家族のありようが
大きく変わろうとしている頃。

11歳年の離れた兄嫁と弟が交わす、
ゆるされない愛を描いた映画だ。



高峰秀子が乱れるとき その2

『秀子の車掌さん』
『稲妻』
『浮雲』
『口づけ』
『妻の心』
『流れる』
『あらくれ』
『女が階段を上る時』
『娘・妻・母』
『妻として女として』
『放浪記』

そして、『乱れる』

監督・成瀬巳喜男は、その生涯に、
高峰秀子を主演に17本の映画をつくる。
とりわけ1950年代半ばから、
その主要な作品のことごとくに
高峰を起用するさまに、
ひとりの女優に取り憑かれた、
ひとりの映画監督の、
執念にも近い惑溺が見てとれる。



高峰秀子が乱れるとき その3

女優・高峰秀子は、5歳のとき、
子役でデビュー。
10歳までに30本以上の作品に出て、
『デコちゃん』の愛称で
戦前の日本に愛された。

一種のアイドル映画として企画された
『秀子の車掌さん』で成瀬巳喜男と出会った
17歳の年は、山本嘉次郎監督の『馬』に出演して、
演技に目覚めた年でもあった。

成瀬は、高峰秀子が大人になるのを
待っていたのか。
戦後7年を経て、『稲妻』という作品で
28歳になった彼女と出会い直す。

その3年後、成瀬にとっても、高峰にとっても
それぞれのキャリアのピークとも言える
『浮雲』が完成する。相手は、森雅之。
高峰秀子が演じたのは、年上の妻子持ちとの
破滅的な愛に身を焦がし、愛に果てる女性。

このモノクロフイルムに漂う
生々しい息づかいと肌ざわり。ただごとではない。

このとき、高峰秀子、31歳。



高峰秀子が乱れるとき その4

そして、1964年、成瀬巳喜男監督の『乱れる』。

高峰秀子演じる兄嫁、森田礼子は37歳。
19の年に嫁に来たが、半年後、夫は戦争にとられ、
帰らぬひととなる。独身のまま酒屋を切り盛りし、
18年の歳月が過ぎた。

加山勇三演じる弟、森田幸司は25歳。
高峰が嫁に来たとき、まだ7つのこどもだった。
大学を出て就職するが、転勤を拒んであっさり退職。
自堕落な毎日を送っている。

義理の姉と弟…
そのままの関係がつづけばホームドラマ  
しかしそうではないことを
「乱れる」という映画のタイトルが告げている。



高峰秀子が乱れるとき その5

映画『乱れる』の舞台は、
静岡県の清水という地方都市。
駅前に店を構える森田酒店が、
新たに進出してきたスーパーマーケットに
圧迫され、時代の変化に巻き込まれていく。

結婚して家を出た2人の妹たちは
店をスーパーマーケットにする計画を立てるが、
兄嫁・高峰秀子の存在が邪魔になり、
再婚話をもちかける。

体のいい追い出し工作とも思える
家族の企みに、ひとり猛反対する弟・加山雄三。
事情をぜんぶ飲み込み、
みずから身を引こうとする兄嫁。

思いあまった弟が告白する。
ねえさんのことがずっと好きだった、と。
義理の弟のあまりにまっすぐな思慕に、
義姉はうろたえ、取り乱す。

映画の空気は、ここで一変する。

ほかの登場人物は、もう、ほとんど出てこない。
義姉と弟、ふたりだけを追いかけ、追いつめる。



高峰秀子が乱れるとき その6

夕食のとき、
じぶんの食べかけのおかずに
箸を伸ばす弟をたしなめる。

大雨の日、
配達からずぶ濡れで帰ってきた弟の
雨合羽を脱がせようとして、
気がつけば抱擁のようなかたちになって、
思わず後ずさりする。

じぶんのサンダルを平気で履く弟に、
壊れちゃうからやめて、と抗議する。

成瀬巳喜男監督の映画「乱れる」

義理の弟とはいえ
家族と思っていたときはなんでもなかった
さりげない身体の触れあいが
愛の畏れを喚び覚ます。

義姉・高峰秀子の、
弟・加山雄三への過剰な意識が、
映画『乱れる』を
思いもよらない方向へ導いていく。



高峰秀子が乱れるとき その7

これ以上、
ひとつ屋根の下に暮らしていると、
きっとまちがいが起きる。
そんな予感に苦しみ、
じぶんの気持ちの乱れを畏れる
義姉・高峰秀子は、とうとう家を出る。

清水の駅から準急に乗って、
故郷・山形県新庄に向かう列車のなかで。

ふと見ると、弟・加山雄三が乗っている。

成瀬巳喜男監督の映画「乱れる」
物語は、姉と弟という安定した関係をつづけようとする女と
それを拒否する男の結末に向かって進む。



高峰秀子が乱れるとき その8

映画『乱れる』、最後の21分間。

清水発14時35分。
弟・加山雄三の姿におどろき、とまどう
義姉・高峰秀子。空席はない。通路に立つ弟。

小さな川を渡る列車。3つ前の席に坐っている弟。
目が合って、かすかに微笑む義姉。

大きな川に架かった鉄橋を渡る列車。
斜め後ろの席にいる弟。

列車の疾走をカットバックし、
車内の映像に戻るたびに、 義姉の席に近づいていく弟。

上野着23時50分。

東北本線に乗り換えたふたりは、
もう、向かい合わせの席に坐っている。

やがて夜が明けて、目の前で眠る弟の寝顔に、
義姉は静かに涙を流す。そして言う。
「幸司さん、次の駅で降りましょう。」

義姉と弟が二日目の夜を過ごす場所は、
列車の中ではなかった。

残酷な結末に向かって、
映画は北へ北へと疾走しつづけて、
ついにその動きを止めない。

topへ


login