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古居利康 11年5月8日放送



一番 セカンド ジャッキー・ロビンソン

1947年4月15日。
アメリカ・メジャーリーグ、
ブルックリン・ドジャースの開幕戦。
フィールドに飛び出した9人の中に、
1人だけ肌の色の違う男がいた。

男の名は、
ジャッキー・ロビンソン。
半世紀のあいだ閉め出されてきた
アフリカ系アメリカ人が、
初めてメジャーリーグの舞台に立った
瞬間だった。



二番 キャッチャー ブランチ・リッキー

ブルックリン・ドジャースの
ブランチ・リッキーは、
メジャーリーグきっての敏腕GMだった。

マイナーチームを
メジャー傘下に組み入れたのも、
開幕前のキャンプを
暖かいフロリダでおこなったのも、
リッキーが最初だった。

しかし、黒人をチームに加える、
という大胆な試みは、
全米の白人社会から猛反発を受けた

彼は、慈善運動家でも
黒人解放の活動家でもなかった。
ただ、ブルックリン・ドジャースを
強くしたい一心で、
ジャッキー・ロビンソンという
有能な若者をチームに入れた。



三番 ファースト ジョージ・シスラー

シスラーは、現役引退ののち、
ドジャースでスカウトになった。

メジャーのシーズン最多安打記録を
もっていたことより、
それをイチローに破られたことで
有名になった、あの、ジョージ・シスラーだ。

メジャーで通用する能力をもち、
かつ、どんな差別に遭っても耐えられる
強い精神をもった黒人選手を探せ。

それが、
ブランチ・リッキーから与えられた
ミッションだった。

ジャッキー・ロビンソンは、
ニグロリーグの名門、
カンザスシティ・モナクスというチームにいた。

知性。情熱。身体能力。
この青年は、すべてをもっている。
彼に出会ったシスラーは、そう確信した。



四番 サード レオ・ドローチャー

ドジャースの選手の中には、
ロビンソンと同じグラウンドに立つことを
嫌う者もいた。

バラバラになりかけたチームに、
監督レオ・ドローチャーは、
こう宣言する。

「私は、
 選手の肌が黄色であろうと黒であろうと
 構わない。優秀な選手であれば使う。
 もし反対する者がいたら、
 チームを出ていってほしい」



五番 ショート ピー・ウィー・リース

当時、ドジャースのキャプテンだった
遊撃手ピー・ウィー・リースは、
人種差別の激しいケンタッキー州ルイビルで生まれた。
彼自身、差別意識と無縁ではなかった。

あるとき、敵地で激しい野次が飛んだ。
ロビンソンにではなく、リースに、だ。
「南部出身の白人のくせに、
 なぜ黒人なんかと野球をやっている!」

リースは黙ってロビンソンのところに
歩いていって、彼の肩を抱いた。

静かな、しかし強い意志表示に、
観客席はシーンとなった。

その後も、ロビンソンに対する嫌がらせは、
あとを絶たない。
球場に来たら射殺してやる、という、
物騒な脅迫さえ何度もあった。

そんなとき、リースが冗談めかして言った。
「ジャッキー、俺から離れてよ!
 撃つやつが下手だったら俺に当たるだろう」

チームの誰かがそれに答える。
「だったら、チーム全員で背番号42を着ればいい!
 そうすれば誰がロビンソンかわからなくなる」

差別や迫害は、かえって
チームの結束を強くしていった。



六番 レフト ロバート・B・パーカー

15歳の少年が、
ブルックリン行きのバスに乗る。
乗客は、少年以外、すべて黒人だ。

ひとりの女性が話しかける。
「何をしに来たの?」
「ぼくはドジャースファンだ。
 ボストンから、ジャッキーを見に来た」
女性が大声で仲間に言う。
「この子はね、われらがジャッキーを見に、
 はるばるやって来たんだよ!」

少年の名は、
ロバート・B・パーカー。
後年、ハードボイルドの作家になる。

この話は、
『ダブルプレー』という小説に登場する。
ロビンソンを命がけで守る
クールなボディガードの話だ。



七番 センター ウォルター・オマリー

1947年シーズン、
ドジャースはリーグ優勝。
ロビンソン在籍の10年で
優勝6度を数えた。

しかし、球団オーナー、
ウォルター・オマリーは、
観客動員数の飛躍を求めて、
1958年、球団をロサンジェルスに移転。

すべてのブルックリン市民が
悲嘆にくれた。



八番 ピッチャー 野茂英雄
九番 ライト レイチェル・ロビンソン

ロサンジェルス移転から37年後。
1995年、ドジャースに野茂英雄がやってくる。
球団オーナーは、ウォルターの跡を継いだ
息子、ピーター・オマリーだった。

野茂は、この年、
全米に旋風を巻き起こし、新人王に選ばれる。

ジャッキー・ロビンソンがデビューした
1947年に、初めて制定された新人王。
その第一回受賞者がロビンソンだった。
それを記念して、1987年からは、
新人王の別名がジャッキー・ロビンソン賞になる。

野茂英雄にトロフィーを手渡したのは、
亡きジャッキー・ロビンソンの妻、
レイチェル・ロビンソンだった。

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古居利康 11年02月13日放送


浜松の男、本田宗一郎。

浜松の中心部から北へ25キロ、
天竜川をさかのぼった、
山あいの村に生まれた本田宗一郎。

1917年。11歳のとき、
町に飛行機がやってくる。
少年は、父の自転車に
無断でまたがって、
夢中でペダルを漕いだ。
飛行機見たさの一心だった。

こうして、本田宗一郎は、
自動車より先に飛行機を見た。


浜松の男、本田宗一郎。

浜松の男は、前のめりだ。
独立心。挑戦心。負けず嫌い。
やってみもせんで何がわかる。
という本田宗一郎の口癖を、
短く言い直せば、
やらまいか、という浜松弁になる。

京と江戸を結んできた東海道。
木曽の山から遠州灘に注ぐ天竜川。
陸の道は文化を伝え、
川の道は豊富な木材を運ぶ。
ふたつの道が交差するところに
浜松という町がある。

情報と物資が忙しく往来する
この町で、
本田宗一郎は大人になった。


浜松の男、山葉寅楠(やまはとらくす)。

ペリー来航の2年前。
紀州の武士の家に生まれた山葉寅楠が、
明治の世になって、日本で初めての
ピアノづくりに成功する。

山葉寅楠は、浜松の地で、
のちにヤマハとなる日本楽器を立ち上げる。
この町には、ピアノ製造に欠かせない
良質の木材が豊富に集まってくるからだ。

和歌山生まれのこの男を、
浜松は決して排除しなかった。
よそものをよそものと呼ばない、
おおらかに開かれた気風が、
この町の風通しを良くしている。

徳川幕府260年のあいだに、
浜松城主は24人を数える。
将軍が15人だから、この数は少なくない。
家康のもとの本拠地だったこともあって、
松平、水野、青山、井上、太田など、
三河以来の譜代大名が、かわるがわる着任し、
そのつど、家臣団も入れ替わった。
殿様の交代に慣れっこになった
町人百姓のなかに、
新参者に寛大なメンタリティが
根をおろしていったのか。

寅楠は、そういう町でピアノに出会った。


浜松の男、河合小市(かわいこいち)。

江戸時代からつづく
職人の家に生まれた河合小市は、
10歳にして、大人を驚かせるほどの
腕前だった。

山葉寅楠は
35歳年下のこの少年に
ピアノづくりの基礎をたたきこむ。
わずか半年で、
ピアノが1台、できあがる。
すばらしい音だった。

のちに河合楽器をつくる
河合小市は、
このとき、まだ12歳だった。


浜松の男、高柳健次郎。

1918年、この町に
浜松高等工業という学校が生まれる。
全国で13番目に創設された、
国立の高等工業学校だ。
校門も塀もない自由な校風と、
進取の精神に富んだユニークな授業で、
あまたの人材を世に送り出した。

浜松の男は、ときに、
独創的な機械をこしらえたり、
驚くような大発明をやってのける。
そのことと、この学校の存在は、
決して無関係ではない。

一時期、本田宗一郎も学んだこの学校に、
1924年、ひとりの若い教師が着任する。
高柳健次郎。浜松生まれ。
その2年後、世界で初めて、ブラウン管による
テレビ画像の受像に成功する。
映したのは、カタカナの「イ」の文字。
高柳は、1937年の時点で、
当時の世界最高水準の走査線441本
という本格テレビをすでに完成させていた。
戦争にその後の研究を阻まれた高柳の才能は
戦後、いっきに花開いていく。


浜松の男、古橋廣之進(ひろのしん)。

浜名湖のほとりにある、
雄踏町(ゆうとうちょう)で生まれた古橋廣之進は、
みずうみで泳ぎを覚えた。

「私は毎日、魚に負けるものか、と、
自分が魚になったつもりで泳ぎました」
と、少年時代を振り返っている。

1949年、
全米水泳選手権に遠征した古橋は、
1500メートル自由形で、
当時の世界記録を40秒近くも更新して
優勝する。

あまりの圧勝に驚いたアメリカは、
彼を「フジヤマのトビウオ」と呼んだ。


浜松の男、本田宗一郎。

「日本人はアメリカに負けて
すっかり自信をなくしている。
けれど古橋は裸一貫、がんばった。
オレも世界一になる!」

古橋廣之進の快挙に興奮し、
わがことのように喜んだのが、
本田宗一郎だった。


浜松の男、河島兄弟。

兄・喜好(きよし)は、
水泳の名門、旧制浜松二中で
古橋廣之進の一級上にいた。
浜松高等工業にすすみ、本田技研に入社。
1973年、2代目の社長になる。

その4年後、
ふたつ下の弟・博が日本楽器の社長になる。

戦争中、飛行機のプロペラ製造に
事業を広げていた日本楽器は、
戦後、二輪車の分野に進出していた。
博が社長になったとき、
ヤマハは、世界市場で、
ホンダを猛追する
ナンバーツーの位置にいた。

ホンダとヤマハの、
シェア争いが激しくなる。
世界をまたにかけた兄弟喧嘩だった。
浜松の男どうしの、
ヤケドするような戦いだった。

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古居利康さん参戦

1月から参戦します。
古居利康さんです。

http://www.01-radio.com/archives/11717

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