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古居利康 19年11月23日放送



シャーロック・ホームズの死

名探偵シャーロック・ホームズの生みの親、
アーサー・コナン・ドイルは、
1893年の短編『最後の事件』で
ホームズを殺してしまう。

宿敵モリアティ教授との対決で滝から転落。
それで最後にするつもりだった。

1886年の登場以来、人気沸騰中だったホームズ。
雑誌連載の挿絵がたまたま美青年だったせいか、
女性読者から大量のファンレターが届いたり、
実際の事件解決の依頼状が来たりした。

ドイルはうんざりしていた。
ほんとうに書きたかったのは
探偵小説などではなく、歴史小説だった。

ホームズを終わりにして、歴史をやろう。
ドイルはそう考えたのだ。

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古居利康 19年11月23日放送



コナン・ドイル炎上

シャーロック・ホームズの生みの親、
コナン・ドイルはロンドン市民を敵に回していた。
1893年の短編『最後の事件』で
名探偵を殺したからだった。

「この人でなし!」
「おまえの死か、ホームズの生還か、
 どちらかを選べ」

脅迫状が山のように届いた。
シティのビジネスマンたちは喪章をつけて出勤し、
ドイルの自宅の周りではホームズの葬儀が
毎週のように行われた。

シャーロック・ホームズはとっくに
作者のもとを離れ、独り歩きしていたのだ。

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古居利康 19年11月23日放送



シャーロック・ホームズ復活

シャーロック・ホームズは、
1893年の『最後の事件』で
宿敵モリアティ教授と争って滝から転落した。

しかし、実はその際、
巧みに危地を脱して生き残っていた。
1903年の短編『空き家の冒険』で
ホームズ自身が語っている。

「われわれは滝の崖っぷちで取っ組み合ったまま
 よろめいた。だがぼくは、これまでにも何度か
 役に立ったが、日本の格闘技であるバリツの
 心得があったので、相手の腕をさっとすり抜けた。」

名探偵は、日本の格闘技“バリツ”のおかげで
助かったと言う。それにしても、バリツとは何か。
なぜロンドンの探偵が、日本の格闘技だったのだろう。

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古居利康 19年11月23日放送



バリツとは何か

シャーロック・ホームズは
日本の格闘技バリツの使い手だった。
それは、ドイル苦肉のアイデアにも思える。

バリツのおかげで、宿敵モリアティ教授との
争いにも生き残ることができた。

バリツとはいったい何か。
長年論争になってきた。
それは「バーティツ」のことではないか。
ウィリアム・バートン=ライトという英国人が
英国にもともとあったステッキによる護身術と
日本の柔術を組み合わせて考案した武術、
「バーティツ」。
それが近年定説になってきた。

短編『空き家の冒険』が書かれる
前の年、1902年は、折しも、
日本と英国が日英同盟を結んだ年だった。

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古居利康 19年11月23日放送



コナン・ドイルと日本

名探偵シャーロック・ホームズの
生みの親、コナン・ドイル。

家が貧しく、
幼少時は裕福な家に預けられた。
この家にほぼ同い年の少年がいて、
終生の親友になった。

その親友、ウィリアム・K・バートンは
1887年、上下水道の技師として、
日本に旅立つ。やがて、
日本名「バルトン」で親しまれ、
浅草十二階などを設計する。

ホームズが身につけていた日本の武術、
バリツの創設者バートンと、
日本に渡ったまま帰らなかった
幼なじみバートン。

同じ名をもつ二人のバートンと、日本。
名探偵生みの親は、
奇妙な因縁を感じていたかもしれない。

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古居利康 19年5月25日放送



英一蝶・島一蝶

元禄十一年。
江戸の絵師、英一蝶(はなぶさいっちょう)が島流しに遭った。

行き先は三宅島。
その罪状は諸説あって定まらない。

時の権力者、柳沢吉保が
おのれの出世のために、
自分の娘を公方様に差し出した。
そんな醜聞を揶揄する絵を描いたのが
致命的だったんだ。

いやいや、
生類憐れみの令で禁じられていた
魚釣りをしたせいさ。

当世の人気絵師を襲った過酷な運命。
口さがない江戸っ子の噂が噂を呼んだ。

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古居利康 19年5月25日放送



英一蝶・島一蝶

英一蝶という絵師がいた。
四十七歳で三宅島へ島流しになった。

島へ送られるその日、
江戸霊岸島に大勢の見送りが詰めかけるなか、
一蝶はこんな約束をする。

「島に行ったら、
 干物をつくって生計を立てる。
 その魚のエラに必ず松の葉を入れておく。
 松の葉の入った干物を見つけたら、
 わたしが生きている証しと思ってほしい」

三年後、
じっさいに松の葉が入った干物を
見つけた男がいる。
松尾芭蕉の一番弟子、宝井其角。
英一蝶の、無二の親友だった。

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古居利康 19年5月25日放送


Norio.NAKAYAMA
英一蝶・島一蝶

江戸の人気絵師、
英一蝶は島流しに遭った。

島にいても絵をあきらめなかった。

江戸の友人たちに
絵の具の仕送りを頼んだらしい。
流人であっても、手紙や物資のやりとりは
許されたのだろうか。
一蝶は絵を江戸に送った。
その絵は珍重され、高値で取引された。

島の人にも観音様や天神様の絵を進呈した。
この時代の英一蝶の作品は
のちに「島一蝶(しまいっちょう)」と呼ばれるようになる。

島一蝶の作品で財を成したのか、
英一蝶は罪人の身でありながら島の娘と
所帯をもって、子どもを二人ももうけた。

江戸の人気絵師は、
ころんでもただでは起きない、
したたかな男だった。

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古居利康 19年5月25日放送



英一蝶・島一蝶

江戸の人気絵師、
英一蝶が島流しに遭ったのは、
元禄十一年。

その三年後、浅野内匠頭が
江戸城殿中で吉良上野介に斬りかかる。
その次の次の年、浅野の元家臣四十七名が
吉良邸を襲撃し、主君の遺恨を晴らす。

世に言う、赤穂浪士の討ち入り。
三宅島にもその知らせは届いていただろうか。
英一蝶、齢、五十をとおに越えていた。

その後、徳川綱吉が亡くなる。
将軍逝去の恩赦で無罪放免となり、
英一蝶は江戸に帰れることになった。

島には十二年いた。
江戸帰還の二年前、親友其角が亡くなっていた。
酒好きで、豪放磊落で、憎めない男だった。
二度といっしょに遊べないことが悔しかった。

帰りの船のなかで一頭の蝶を見つける。
これは自分だ。自分は生まれ変わって
生きなおすのだ。

そう思った男は、古い名を捨て、
「英一蝶」の名をはじめて名乗った。
五十八歳になっていた。

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古居利康 19年5月25日放送



英一蝶・島一蝶

江戸の人気絵師、
英一蝶は島流しに遭って十二年後、
将軍逝去の恩赦で江戸帰還をゆるされる。

不在の十二年を埋めるかのように。
精力的に絵を描いた。

この時期の作品で、
『雨宿り図屏風』という絵がある。
降り出した雨を避けて、大きな屋敷の
庇の下に人々があわてて駆け寄る図。
侍。あきんど。お坊さん。遊女。
老人も子どもも野良犬もいる。
夕立は身分の上下に関係なく、
平等に降ってくる・・。

十七の時、狩野派に入門しながら、
すぐに破門された英一蝶。
市井の絵師として、人間の愛らしさや
滑稽さを描いてきた。

江戸に帰って十五年後。
残りの人生をめいっぱい使いきって、
英一蝶死す。七十三歳だった。

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