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古居利康 12年11月11日放送


Helge Øverås
左手の話 ⑤デヴィッド・ボウイ

「左手で絵を描いたり字を書いたりすると、
まわりの連中が『こいつは悪魔だ!』と、
私をからかったことを、
いまでもはっきり覚えている」

そう語ったのは、デヴィッド・ボウイ。
左利きであるだけで差別を受けた
みずからの経験。
こんなことも語っている。

「教師は右利きにさせようとして
私の手をひっぱたいたものだ。
そう、かつてはイギリスでも
左利きは忌まわしいものとされていたんだ」

左利きをむりやり右利きに直されたのは、
英国王だけではなかった。

箸をもったり、鉛筆をつかったりするのは
右手で。という社会通念が、
かつて日本にもあった。漢字もひらがなも
右手で書くことを前提につくられている。
左手で毛筆をもって縦書きの文字を綴るのは
なかなか難儀なこと。そんな文化のありようが
左利きをあまり歓迎しなかった。

英国の場合、宗教上のなんらかの理由もあり、
左利きの存在をゆるさない空気があった。

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古居利康 12年11月11日放送



左手の話 ⑥大統領たち

歴史上の人物が
右利きだったか、左利きだったか、
特定するのは容易ではない。

画家や音楽家であれば、
筆遣いや楽譜の筆跡、演奏の特徴など、
文字どおり“手がかり”があって、
推論を立てることができる。

アメリカ大統領の場合は難しい。
20世紀以前の大統領は、
左利きであることを証明できる
資料が存在しない。

2012年現在、
直近の7人の大統領のうち、
5人が左利きと伝わっている。
フォード、レーガン、ブッシュ父、
クリントン、そしてオバマ現大統領。

なぜ近年、大統領に左利きが多いのか。
諸説あるが、いまだ定説はない。

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古居利康 12年11月11日放送


A. Vente
左手の話 ⑦ジミ・ヘンドリックス

ジミ・ヘンドリックスは、
右利き用のギターを、
わざわざ左右さかさまにして
右手で弦を押し、左手で弦を弾いた。

だからジミヘンは左利きなんだ、
と誰もが思っていた。

けれど、文字は右手で書いた。
食事も右手をつかった。

ギターの天才は、左利きか、右利きか。
いまとなっては永遠の謎。

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古居利康 12年11月11日放送


DanieleDG
左手の話 ⑧二刀流の男

宮本武蔵といえば、二刀流。
左右に二本の刀を構えた。

武蔵は水墨画でも名を残したが、
その作品の筆致を見ると、
左手優位の痕跡がある。

それをもって、宮本武蔵は左利きだった、
と唱える歴史家もいる。
もしかしたら、武蔵は左右両方、
同等に使えたのではないかという説がある。

武士は左の腰に二本の刀を差す。
右の腰に差すのは許されなかった。
左利きに生まれても、武家のこどもは
必ず右利きに直された。

宮本武蔵の二刀流は、
右も左も同等に力を出すための剣法だ。
二本の刀を構えたとき、
左手が弱ければ、敵の攻撃を受けることも
跳ね返すこともできない。

武蔵はたぶん左手を、右手と同等に使った。
でなければ、二刀流は不可能だった。
左利きかどうかは定かでないとしても。

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古居利康 12年10月14日放送



もうひとりのわたし 平井太郎の場合

平井太郎は、20代のほぼ10年間、
いろんな職場を転々とした。

印刷工。図書館の貸し出し係。
英語の家庭教師。タイプライター販売員。
新聞記者。化粧品会社の宣伝部。
映画の弁士までやった。

しかし、彼には志があった。
探偵小説という志が。

『二銭銅貨』という短編で
デビューしたとき、平井太郎は、
「江戸川乱歩」になった。

探偵小説の祖、エドガー・アラン・ポーの
名をいただいた。「おれは日本のポーになる」、
という強い意志がそこにあった。

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古居利康 12年10月14日放送



もうひとりのわたし 長谷川海太郎の場合

長谷川海太郎は、
まず、「谷譲次」という名前で、
米国に生きる日本人、
当時メリケンジャップと揶揄的に
呼ばれた男たちを主人公にした小説を書く。
米国に留学し、全土を放浪した経験が
作品に生きた。

次に、「林不忘」という名前で、
時代小説を書く。主人公『丹下左膳』は、
隻腕隻眼のニヒルなヒーロー。
作者よりも有名になる。

それだけではなかった。

「牧逸馬」という3つめの名前で、
こんどは欧米の犯罪小説の翻訳をやったり、
昭和初期の都市風俗小説を書いたりした。

3つの名前を自在に操り、
大衆文学界を縦横無尽に走り抜けた快男児。

その生涯、たった35年。
35年で3人分の人生を生きた。

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古居利康 12年10月14日放送



もうひとりのわたし 津島修治の場合

津島修治が「太宰治」になるにあたっては、
紆余曲折、幾春秋あった。

旧制弘前高校にいたころから、
同人誌に小説を書いていた。
「辻島衆二」という、
本名とほぼ同じ音をもつ名前を用いたかと
思えば、「比賀志英郎」になったり、
「小菅銀吉」という、掏摸の親玉じみた
名前もなぜか使った。

「太宰治」という筆名は、
『列車』という短編で初めて登場する。

この「太宰治」の由来が、
諸説ふんぷんあって、定説いまだ定まらない。

いわく、京大教授でフランス文学者、
太宰施門に由来するのではないか。
いやいや、太宰府天満宮からさ。
あのね、弘前高校の同級生に太宰友次郎、
ってやつがいてね・・。

ここだけの話、津島修治って、
「ツ」と「シ」と「ジ」でできているから、
東北訛りが出やすいんだ。
「ツスマスンズ」・・。
などと言い出す者もあらわれ、
ドイツ語で現存在を意味する
「ダーザイン」だの、ダダイズムの駄洒落だの、
どうも人騒がせなことになるのも、
太宰らしいといえば、らしいのかもしれない。

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古居利康 12年10月14日放送



もうひとりのわたし ヘンリー・ジェイムス・ブラックの場合

ヘンリー・ジェイムス・ブラックは、
1858年、オーストラリアで生まれた。

父は、日本初の英字新聞
「ジャパン・ヘラルド」の記者だった。
ブラック少年は、7歳のとき、来日。

18歳で奇術師の弟子になり、
西洋奇術を演じるようになる。
その後、講釈師を経て、落語家になり、
「快楽亭ブラック」を襲名。

碧い眼に似合わぬべらんめえ調で
クマさん八ツァンを演じた。
その不思議な存在感は、
明治の寄席で異彩を放っていたという。

日本人女性と結婚して帰化。
本名を「石井貎刺屈(ぶらっく)」として、
いまは横浜の外人墓地に眠る。

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古居利康 12年10月14日放送



もうひとりのわたし 渡辺昇の場合

渡辺昇は、「安西水丸」になる以前、
絵本を一冊出している。
渡辺昇著、『夏の終わり−少女』。
1969年、限定300部、自費出版。

「安西水丸」の本名、渡辺昇は、
村上春樹の、1985年以降の小説の中で
本人とは別の世界を生きていく。

『ファミリーアフェア』という短編では、
主人公の妹の婚約者。
『双子と沈んだ大陸』では、翻訳会社の共同経営者。
『象の消滅』では、動物園の象の飼育係。
『ねじまき鳥と火曜日の女たち』では、
猫の名前であり、妻の兄の名前でもあった。

どう考えても同一人物ではない、
カタカナの「ワタナベノボル」。
あたかも「渡辺昇」という俳優が、
いろんな役柄を演じるように登場した。

『「ワタナベノボル」という名前には、
 普通じゃないものを感じる。』
『村上朝日堂』や『夜のくもざる』といった仕事で
コンビを組むことの多い安西水丸に、
村上春樹はそう語ったという。

その後、「ワタナベノボル」は、
『ノルウェイの森』においては
「ワタナベトオル」に変化し、
『ねじまき鳥クロニクル』においては
「ワタヤノボル」に変貌し、
村上春樹における「ワタナベノボル」時代の
終焉を告げている。

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古居利康 12年10月14日放送



もうひとりのわたし 樋口奈津の場合

いまでは、名前と言えば、
苗字と名前をあわせて姓名とするのが
あたりまえだが、江戸時代までは、
苗字をもたないひとの方が多かった。

明治の世になって
誰もが苗字を持つことになっても、
女性だけは苗字を用いる習慣があまりなかった。
結婚すれば変わってしまうものを、
嫁入り前の娘が用いるべきでない、と考えられた。

後世、「樋口一葉」として知られる女性作家は、
原稿にただ「一葉」と署名した。

戸籍名、樋口奈津。

「一葉」は、ダルマさんに由来する。
と言うと、なぞかけのようだが、
経済的に困窮していた樋口家のことを
「お足がない」と引っかけ、
手足のない達磨大師が、一枚の葦の葉に
乗って中国へ渡った伝説になぞらえた
と伝えられる。

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