もうひとりのわたし 山田梨紗の場合
樋口一葉が亡くなってから、
約100年後に生まれた山田梨紗は、
「綿矢りさ」という名前で
小説家になった。
「綿矢」という苗字は、
高校の同級生の名前を参考にした。
「一宮りさ」という別案もあったが、
姓名判断の結果、「綿矢」を採用した。
「綿矢りさ」は17歳でデビュー。
「樋口一葉」よりも3歳早く世に出た。
もうひとりのわたし 山田梨紗の場合
樋口一葉が亡くなってから、
約100年後に生まれた山田梨紗は、
「綿矢りさ」という名前で
小説家になった。
「綿矢」という苗字は、
高校の同級生の名前を参考にした。
「一宮りさ」という別案もあったが、
姓名判断の結果、「綿矢」を採用した。
「綿矢りさ」は17歳でデビュー。
「樋口一葉」よりも3歳早く世に出た。
ROSS HONG KONG
もうひとりのわたし 色川武大の場合
色川武大は、
「阿佐田哲也」という名前で、
麻雀小説を量産した。
「阿佐田哲也」以前に、
麻雀小説というものは存在しなかった。
文章と文章の間に麻雀牌の状況図を挿入する
前代未聞の小説。
「阿佐田哲也」は、
関東で9番目に強いプロの雀師だったという。
欲望。駆け引き。やっかみ。裏の裏。
麻雀を題材にしながら、人間というものの
わけのわからなさを描いた。
そんな阿佐田哲也が、
本名である「色川武大」にもどって、
自伝的な小説を書き始める。
元海軍中佐だった父との確執。
ナルコレプシーという睡眠障害に悩み、
白昼夢のごとき幻覚に苦しむ狂人としての自分。
亡くなる直前、妻にこう言った。
「阿佐田哲也君をやれば、
なんとか生活はしのげるが、これからは
純文学一本に絞っていこうと思う。
オレにはもう時間がないんだ」
1989年、昭和の最後の年、
色川武大と阿佐田哲也はこの世を去った。
次男がつくった日本 ①坂本龍馬
坂本龍馬は次男だった。
坂本家は、
呉服商や酒造業など手広く営む
土佐の豪商、才谷屋の分家で、
龍馬の曾祖父の時代に、武士に取り立てられた。
父の死後、
坂本家の家督を継いだ長男・権平の下に、
3人の妹と、弟が1人いた。
21歳年の離れたその弟が龍馬だった。
家は、兄が守っている。
末っ子の龍馬は、
藩にも家にも縛られることなく、
やがて広い世界に飛び出していく。
次男がつくった日本 ②坂本龍馬・続
坂本龍馬は、次男だった。
10代の終わりと20代の初め、
二度にわたって江戸に出て、
剣術修行に励んだ時期、
費用はすべて実家の兄が負担した。
神戸で海軍の学校に入ったり、
土佐を脱藩したり、
長崎で海外貿易の結社をつくったり、
京都で薩長同盟に奔走したり…。
坂本龍馬は、
武士という身分にいささかもとらわれず、
土佐藩という枠組みも超え、
この国の古い価値観から自由だった。
故郷土佐で坂本家を継いだ
兄・権平の経済的援助。
そして、3人の姉たちの慈愛。
家族の存在がなければ、
坂本龍馬の、確信にみちた行動は
なかったかもしれない。
次男がつくった日本 ③吉田松陰
吉田松陰は、次男だった。
父は長州藩の下級武士、杉百合之助。
長男は家を継ぎ、次男は養子に出される。
それが、この時代の倣いだったが、
松蔭も例外ではなく、6歳のとき、
叔父・吉田大助の養子となる。
幼少時から学問に励み、神童とうたわれた
松陰は、12歳のとき、アヘン戦争の結果を知って、
危機感を覚える。日本も中国のように
西洋列強に蹂躙されてしまうのではないか、と。
23歳のとき、黒船来航に衝撃をうけ、
二度外国への密航を企てるが、二度とも頓挫。
鎖国の御法度に触れ、幽閉の罰を受けることになる。
思い立ったらすぐさま行動に移さずには
いられない血の気の多さ。
武家社会の枠組みを軽々と超えてしまう大胆さ。
やがて実家・杉家の敷地内にひらいた
松下村塾では、学問だけでなく、
登山や水泳などの授業もおこなったという。
松陰の好奇心は、つねに、書物をはみだしていった。
そんな師匠に薫陶を受けた弟子が、
行動的にならないわけがない。
高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋…。
松下村塾から、幕末の活動家が巣立っていった。
30年に満たない短い生涯において、
吉田松陰は、この国に革命の種を蒔いたのだ。
次男がつくった日本 ④近藤勇と土方歳三
近藤勇は、三男だった。
土方歳三は、10人兄弟の末っ子だった。
どちらも長男ではなかった。
そして、どちらも武士ではなく、
農民の子として生まれた。
長男以外は家を出て、
新たに一家をなさねばならない。
武士も農民も事情は同じだった。
無為に過ごせば“穀潰し”、と罵られかねない、
ということで言えば、武士よりも
農民の方が苛烈かもしれない。
2人の強烈な上昇志向は、
幕末の混乱期を生き抜く原動力となった。
たとえそれが旧体制を守ろうとする、
負のエネルギーだったとしても。
次男がつくった日本 ⑤福沢諭吉
福沢諭吉は、次男だった。
下級武士の家に生まれ、思うがままに
他国へ旅立ち、信ずるところに従って
学問に励んだ、という点で、
その経歴は吉田松陰や坂本龍馬に極めて近しい。
いささか異なるのは、
1860年の時点ですでに、この若者が米国を
旅していた、ということだ。
日米修好通商条約の批准のために、
幕府が米国に使節を派遣することになった。
オランダに発注してつくらせた咸臨丸という
蒸気船に、96名の使節団が乗り込んだ。
その中に、中津藩士の諭吉がなぜかいた。
艦長・木村摂津守の従者として、渡航を許されたのだ。
さかのぼること6年前、
闇にまぎれて小舟で外国船に近づき、
強引に乗船を迫って逮捕された
吉田松陰にくらべて、なんと恵まれた境遇。
福沢諭吉、25歳、渡米。
アメリカの初代大統領ワシントンの
子孫の所在を誰も知らない、ということに
衝撃を受ける。それがデモクラシーというものか、と。
選挙。法律。株式会社。
アメリカ社会のしくみをつぶさに見聞した
諭吉は、日本という国がいかに立ち後れているか、
痛感せざるをえなかった。
次男がつくった日本 ⑥五代友厚
五代友厚は、次男だった。
父は、薩摩藩士、五代直左衛門。
14歳のとき、父が一枚の世界地図を広げて見せた。
薩摩はおろか日本国は影もかたちもなかった。
けれど、同じ小さな島国である英国は載っている。
なぜ? 少年の心に芽生えた疑問は、
イギリスという国への興味に育っていった。
26歳のとき、薩摩藩の英国留学生に選ばれて、
念願の英国行きを果たす。
かの地でかれは理解した。大きな国土をもたない
英国が、なにゆえ世界に冠たる帝国を築いているか。
経済だ。経済がこの国を大きくしている。
帰国後、五代の才能を認めた薩摩藩は、
藩の経済をこの若者にまかせた。
維新後は、大阪に株式取引所や商法会議所を設立。
日本経済の重鎮となった。
次男がつくった日本 ⑦前島密
坂本龍馬は、この国をまるごと洗濯しようとした。
吉田松陰は、革命の教師になった。
福沢諭吉は、新しい社会システムの構築をめざし、
五代友厚は、経済の近代化を先導した。
それぞれが、それぞれの道で、
この国の新しい時代をつくろうとした。
前島密の場合は、郵便だった。
切手を貼れば全国に手紙が届く、
英国のような国にしたいとかれは考えた。
その前島密もまた、次男だった。
次男がつくった日本 ⑧三遊亭円朝
三遊亭円朝は、次男だった。
父は初代橘家圓太郎。加賀藩の武士の家に
生まれたが、生来放蕩の癖(へき)があり、
天保年間に刀を捨て噺家に転じた物好き。
ちょうどその頃生まれたのが、
のちに三遊亭円朝となる次男、次郎吉。
長男は父の放埒ぶりを嫌って出家してしまった。
その代わり、かどうかは定かでないが、
次郎吉は二代目円生の弟子にされ、
7歳のときから高座に上げられた。
10歳で二つ目に昇進。16歳で円朝を襲名、
またたくまに真打ちになってしまった。
それが、1855年、ペリー来航の翌年のこと。
円朝は坂本龍馬や土方歳三の4つ年下だった。
黒船だ、尊王攘夷だ、と、物騒な世の中をよそに、
円朝は名人の道を極めていく。
噺も巧いが、新作をこさえても右に出る者がいない。
『芝浜』『文七元結』『鰍沢』『怪談牡丹灯籠』。
いまも古典の名作とされる噺ばかり。
円朝の高座を速記した文章は、
二葉亭四迷に影響を与え、言文一致の小説の誕生に
たいそうな影響を与えたそうな。
Copyright ©2009 Vision All Rights Reserved.