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名雪祐平 12年10月28日放送


hiabba
ばかばかしい質問 ミック・ジャガー1

ローリング・ストーンズ、
ミック・ジャガーへの
インタヴュー。

Q.紅茶派ですか? コーヒー派ですか?

 紅茶もコーヒーも飲むよ。
 同時に飲むことはまずないが。

Q.あなたのいちばんイギリス的なところは?

 俺のすべてがイギリス的だ。

Q.あなたのいちばんアメリカ的なところは?

 俺のすべてがアメリカ的だ。

Q.有名になったことでいちばんいいところは?

 ただで飲めることだ。時々ね。

Q.いちばん悪いところは?

 飲み過ぎることだ。時々ね。

Q.お気に入りのビートルズ・ナンバーは?

 ああ、だめだ、だめだ、次の質問。

Q.答えてくださいよ。

 無理だ。

Q.そんな。

 「愛こそすべて」だと言っておく。
 この曲が特別だと思うからじゃない。
 ビートルズの曲はどれも好きだ。
 終わり。

Q.ミスター・ジャガー、
  すべてはロックンロールにすぎないのでしょうか?

 すべてが、すべてがだ。
 ちょっとばかげたことを言おうか。
 いいか。俺はそれが好きなんだよ。

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名雪祐平 12年10月28日放送


MaWá
ばかばかしい質問 ミック・ジャガー2

ローリング・ストーンズ、
ミック・ジャガーへの
インタヴュー。

Q.ステージで言ってしまった
  もっとも間抜けなことは?

 「ハロー、ミラノ」
 そのときチューリヒにいたんだ。

Q.あなたのもっともばかげた
  ニックネームは?

 学校で、俺はジャガーをザ・ジャガーって
 言ってたな。

Q.自分のことを最後にバカだと思ったのは
  いつですか?

 このインタビューのあいだじゅう。

ばかばかしい質問に、
ばかになってこたえる。

ザ・サービス精神。

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名雪祐平 12年10月28日放送


marcokalmann
ばかばかしい質問 カール・ラガーフェルド

シャネルのファッションデザイナー、
カール・ラガーフェルドへの
インタヴュー。

Q.おつむの弱い、美しい人間を
  ご存知ですか?

  いい質問だ。
  自分をインテリだと思うような、美しくない人間たちは、
  美しい人間は頭が悪ければいいと思っている。
  しかし、ことはそんなに単純じゃないさ。
  ある種クリエイティブな知性とは、年月を経て、
  人を磨き上げ美しくしてゆくものだ。
  遺伝子的美しさはただ衰えていくだけだが。

ばかばかしい質問を
いい質問に変えてしまう。

知性がなければできない。

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名雪祐平 12年10月28日放送



ばかばかしい質問 ヒラリー・クリントン

アメリカ合衆国の元ファーストレディで
政治家のヒラリー・クリントンへの
インタヴュー。

Q.元大統領との、
  最近した夫婦げんかの理由は何ですか?

 夫との会話については、
 決して教えたりしません。

Q.いちばん最近あなたが示した愛の証は?

 教えません。

Q.夫と1日だけ、携帯電話を交換する勇気は
  おありですか?
 
 いいえ。
 二人とも機械にあまり強くないので。

Q.3つの単語で、お嬢さんに彼女の父親のことを
  説明するとしたら?

 a good father(良き父親)

ばかばかしい質問は、
相手のユーモアの実力を試してしまう。

残念ながら、インタヴューに、
ゴーストライターは同席しない。

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名雪祐平 12年9月30日放送



パラリンピックの父、子 ルートヴィヒ・グットマン①

戦争は、殺す。
そして、障害を負わせる。

第二次大戦中、爆撃で脊髄を損傷し、
下半身不随になった兵士たち。

彼らが次々と運び込まれる病院が、
ロンドン郊外にあった。

ストーク・マンデビル病院
国立脊髄損傷センター。

責任者は、ナチスの迫害から逃れ、亡命した医師、
ルートヴィヒ・グットマン。

ベッドで身動きとれないまま床ずれになる
若者たちの姿勢を変える作業を夜通ししながら、
グットマンは一つの信念をもつ。

 やがて戦争は終わる。
 そのとき、この若者たちは自分で生活を送れるように
 なっていなければいけない。

その信念によって、グッドマンは
やがてパラリンピックの父となっていく。

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名雪祐平 12年9月30日放送



パラリンピックの父、子 ルードヴィヒ・グットマン②

第二次大戦のせいで下半身不随となり、
入院してくるイギリス人兵士たち。
人生に自信を失っていた。

医師ルードヴィヒ・グットマンは、
病室に女性ラインダンサーを招待し、
若者たちを奮い立たせた。

 失ったものを数えるな。
 残されたものを最大限に活かせ。

そうグットマンは訴えつづけた。
若者たちは車椅子に乗り、
病院の庭に出て、遊び始める。

ポロ、バスケットボール、やり投げ、アーチェリー。

車椅子でスポーツに打ち込むことで
身体的に、精神的にだんだんと自信がついていった。

スポーツこそ、最適なリハビリテーション。
そう考えたグットマンは、
入院患者が参加するスポーツ競技会を始める。

これがパラリンピックの起源となる。

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名雪祐平 12年9月30日放送



パラリンピックの父、子 ルードヴィヒ・グットマン③

64年前も、ロンドンオリンピックだった。

1948年。つい3年前までの第二次大戦で国のために戦い、
下半身不随となった若い障害者たちに、
イギリス社会は目を閉ざし、
華やかなオリンピックのほうばかり見ようとしていた。

若者たちの医師であった
ルードヴィヒ・グットマンは真剣に企んでいた。

 世界が戦後初のオリンピックに沸く。
 車椅子の若者にも参加する資格がある。

そう考え、自分たちのストーク・マンデヒル病院で
車椅子の患者による競技会を開催した。

それはまさしく1948年7月28日。
ロンドンオリンピック開会式と同じ日だった。

参加選手はわずか16人。
それでも、その後も毎年開催された。

4年後の1952年。オランダを加えた国際大会となった。

12年後の1960年。オリンピックが開催されたローマで、
23カ国400人が参加。
これが実質、第1回パラリンピックとなった。

64年後の2012年。
発祥の地に戻ってきたロンドンパラリンピック。
史上最大の164の国と地域、4280人の選手が参加した。

すでに他界していたパラリンピックの父、
グットマン医師はいなかった。

けれども、16人で始まったパラリンピックのふるさと、
ストーク・マンデヒル・スタジアムには
グットマン医師の娘エバさんが姿があった。

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名雪祐平 12年9月30日放送



パラリンピックの父、子 ルードヴィヒ・グットマン④

障害者のスポーツ競技会を提唱し、
パラリンピックの父といわれる
ルードヴィヒ・グットマン医師。

グットマン医師が生前、
戦争や交通事故で下半身不随になった
患者たちに向かってよく言った言葉。

 もう一度、税金を納めるようになれ。

そう口癖のように励ました。

その励ましのなかに、
障害者が普通に暮らしていく社会を実現させたい
というグットマン医師の強い情熱があふれる。

パラリンピックが発祥した
ストーク・マンデヒル病院の隣にあるスポーツ施設では
障害がある人も、ない人も
一緒にスポーツを楽しんでいる。

子どもたちが自然に、
車椅子と過ごして育っている。

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名雪祐平 12年9月30日放送



パラリンピックの父、子 伊藤智也選手

34歳の時、突然、原因不明の病に襲われた。
多発性硬化症。
1万人に1人という難病。

医師から「余命3年」と宣告された。
これから、体の自由が効かなくなる。

注文した車椅子を間違えてしまい、
ある日届いたのは、競技用の車椅子。

まったくの偶然だった。
いや、運命だったのか。

リハビリのつもりが、競技に目覚め、
どんどん夢中になっていった。

ロンドンパラリンピック。
陸上男子で伊藤智也選手は
3個の銀メダルを見事獲得した。

400mレース後には
明るく素直な言葉が弾んだ。

 最高やね!最高にストレートにうれしいね! 
 男、伊藤智也は絶好調です。

最後の200mレース後には、こう言った。

 悔しさはないね。もうほんと精いっぱい走ったし、
 僕は僕なりのオンリーワンなパラリンピックだった。

それは現役を締めくくる、
引退の弁でもあった。

3年の命、といわれた日から15年。
全力で走りきった、最高の49歳。

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名雪祐平 12年9月30日放送


Karva Javi
パラリンピックの父、子どもたち オスカー・ピストリウス選手

南アフリカの男子陸上選手、
オスカー・ピストリウス

ロンドン大会で
両脚義足の陸上選手では初めて
オリンピック、パラリンピック出場を果たした。

先天性の障害をもったこと。
義足の優位性への批判。
出場ルール、標準記録との闘い。

これまで、
いくつもの乗り越えなければならない壁が
ピストリウスの前に立ちふさがってきた。

それでも、彼は言う。

 敗者とは一番最後にゴールする人のことではなく、
 最初から挑戦することそのものを
 諦めてしまう人のことだ。

ピストリウスがいた夏、
障害がある者も、
障害がない者も、
分け隔てなく競う、その歴史的地点に
わたしたちは立ったのかもしれない。

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