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名雪祐平 11年9月25日放送



山と死 ジョージ・マロニー 1

なぜ、あなたはエベレストを目指すのか?

そこに山があるからだ。

この有名な言葉は、
1923年、ニューヨーク・タイム紙の記者の問いかけに、
イギリス人登山家ジョージ・マロニーが
こたえたものとされている。

そのわずか1年後、
彼はエベレストの頂上付近で消息を絶ち、
二度と帰らなかった。

果たして彼は、
頂上にたどりついたのかどうか。
登山史上最大のミステリーは、
いまも結論が出ていない。



山と死 ジョージ・マロニー 2

登山家ジョージ・マロニーが
残した言葉。

そこに山があるからだ。

この言葉には、
もうひとつ別の意味がひそんでいないだろうか。

そこに死があるからだ。

命を賭けるほどの魔力をもつ山が、
登山者を引き寄せていく。

エベレストで遭難した
ジョージ・マロニーの遺体が発見されたのは、
行方不明になってから実に75年後のことだった。

その姿は、まるで山肌に取り憑いたような
うつぶせの状態だったという。



山と死 エドモンド・ヒラリー

地球上に、3つの点がある。

北極点、南極点、
もうひとつは、標高の最高地点である
エベレスト山頂。

20世紀初頭、
北極点と南極点到達の競争に敗れた
イギリスは、国の威信を
エベレスト征服にかけようとした。

1921年に第一次エベレスト遠征隊を派遣してから、
いくつもの遭難事故や、戦争をはさみ、
とうとうその時が来るまで、32年間かかった。

1953年5月29日午前11時30分、
イギリス隊のエドモンド・ヒラリー、
そしてチベット人シェルパ、テンジン・ノルゲイが
人類初のエベレスト登頂に無事成功。

のちに、ヒラリーはこんな言葉を残している。

もし山に登っても、
下山中に命を落としたら何もならない。
登頂とは、登って
また生きて帰ってくることまでをふくむのだ。



山と死 加藤文太郎

大正・昭和期の革命的登山家、
加藤文太郎。

それまで非常識とされた単独行によって、
登攀記録を次々と打ち立て、
「不死身の加藤」として名をはせた。

しかし1936年、槍ヶ岳での猛吹雪によって
わずか30歳で、その命は燃え尽きた。

孤立することを常に不安を感じながら、
しかし、究極的にはいつも孤立することを選んだ、
と評された加藤。

その劇的な生涯は、
新田次郎著『孤高の人』のモデルとなり、
いまも読み継がれている。



山と死 トッド・スキナー

その登山家が書いたのは、
一流といえるビジネス書だった。

著者は、
26カ国で300本以上の初ルートを開拓した
伝説のフリークライマー、トッド・スキナー。

究極の山から得た教訓が並ぶ。たとえば。

 怖くないのだとしたら、
 選んだ山が楽すぎるのだろう。

 山を低くするのは無理なのだから、
 あなたは自分を高めなければならない。

 あなたの経歴など山の知ったことではない。

著書『頂上の彼方』は、
アメリカのビジネスマンに根強い人気となった。

しかし、当の本人に悲劇は起こる。

クライミング中、
身体を確保するハーネスというベルトが
劣化のため破断し、
150m以上落下してしまったのだ。

神がかった業績を持つトッド・スキナーさえ、
滑落死するとは・・・。

彼が書いた教訓のひとつひとつが、
より強い意味を帯びてくる。



山と死 杉本光作

明治生まれの登山家で、
谷川岳の登山道を開拓した杉本光作。

当時は、軽量化された化学繊維や素材もなく、
登山の装備は、非常に重いものだった。

ある日、谷川岳に向かうとき、
杉本は仲間にこう言った。

 梅干の種は抜いてきたか。

必要ないものは徹底的に削いで、削いで、
命がけで山に向かう覚悟。

装備が軽量化されたいまでも、
学ぶことが多い言葉ではないだろうか。



山と死 富山県警 山岳警備隊

3000m級の北アルプスを抱える
富山県警 山岳警備隊。

1965年結成。

延べ救助者数3000名。

殉職者数2名。

日本最高峰の救助隊のひとつである
彼らの言葉がある。

 苦しくても、苦しくない。
 
人命救助という厳しい使命と、
崇高な精神性をもつ
この言葉が胸につきささる。



山と死 ラインホルト・メスナー

世界の8000m峰14座。
そのすべてを無酸素で完全制覇した
イタリアの登山家、ラインホルト・メスナー。

偉業のあとに書き上げた本のタイトルは、
『生きた、還った』

『登った』と、業績を誇るニュアンスではなかった。

目の前で弟が雪崩にのみこまれ、死なせた過酷な経験や、
崖を墜落した時の自らの臨死体験もあり、
メスナーはこう語っている。

 人間は実は2つの違う次元を生きています。

 私は「死」こそ生を充実させる最も重要な
 要素だと考えています。

山、死、そして生きることに直面した男の
掛け値なしの言葉。

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名雪祐平 11年8月28日放送



訃報 ニコライ・ペトロフ

8月3日
ロシア屈指の名ピアニスト
ニコライ・ペトロフが亡くなった。

まるまると太った体で、
鋼鉄のタッチと、万華鏡のような音色をくりだし、
ロシアが誇る精密大型重戦車と呼ばれた。

音楽においてミスタッチほど劣悪なものはない
と言い切る完璧主義者。

リストのパガニーニ練習曲の初版という、
最も難しいといわれる楽曲も、
人間業とは思えない技巧でノーミスに奏でた。

けれども、健康については
完璧主義者にはなれなかったようだ。
多くのファンが彼の太りすぎを心配していたのだが・・。

演奏旅行中に脳卒中で倒れ、
68歳で亡くなった。



訃報 ジョー山中

ジョー山中 8月7日 永眠

アメリカ兵の父親のことを知らずに育ち、
小学校時代には母を亡くし、
自宅まで火事で全焼した。

何もかもなくした。
でも、彼には、
3オクターブの美しい声があたえられた。

母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね

♪『人間の証明のテーマ』Mama~

1977年、彼は西条八十の詩『帽子』を英語に訳し、
歌ったこの『人間の証明のテーマ』は、
50万枚を超える大ヒットとなった。

彼が亡くなっても、
魂の叫びが伝わってくるような歌声は
時代に刻まれている。



訃報 松田直樹

あるサッカー選手が戦力外通告を受けた。

練習が休みの日にロッカーを整理するために、
独りクラブに来た。

それを手伝い、見送る男がいた。

当時横浜マリノスの不動のレギュラー、
松田直樹だった。

 プロは厳しい世界だけれど、
 プロだから優しくしたいとも思う。

そう繊細に語った。

日本代表で活躍し、ミスターマリノスとまでいわれた
その松田自身が戦力外通告を受けるとは
本人も思いもしなかったのかもしれない。

2011年、松田は松本山雅FCに移籍。
J1より、J2より下位組織のJFLのチームを選んだ。

長くマリノスの同志だった中村俊輔が訊いた。
チームをJ2に上げるのか、と。
松田は力強くこたえた。

 バカ、J1だよ。

40歳を超えても現役でいたかった男の
34歳という早すぎる死。

松田が旅立った8月4日を
サポーターは決して忘れないだろう。



訃報 平光清

平光清は、
26歳でプロ野球の審判として採用され、
それから54歳まで続けた。

1992年の阪神対ヤクルト戦では、
幻のホームラン事件が起こった。

平光の微妙なホームランの判定が、
選手の抗議により二塁打に覆った事件だった。
もめにもめ、ゲームは37分中断した。

二塁打とされた阪神側の監督に、平光が言った。

 俺がやめるから、どうにかおさえてくれ。

誤審の責任を取るかたちで、
このシーズン限りで審判を引退した。

しかし、通算3060試合に出場した功績は
失われるものではない。

平光清 8月9日 永眠



訃報 前田武彦

昔、テレビの司会といえば、
台本通りに読み上げる人だった。

そんな司会の常識をひっくり返したのが、
フリートークの天才、前田武彦。

台本を無視したトークは、
1960年代当時は斬新で大人気となった。

歌番組の司会では、
毒舌のせいで若い女性歌手を泣かせることもあった。

前田は予定調和でないやりとりによって、
遠い存在だったスターの人間性をあぶり出し、
視聴者の目の前に差し出したのだ。

ある日、前田は自らもさらけ出した。

番組のエンディングで、
支持する政党の立候補者の当選に対して
万歳をしたのだった。
それが問題となり、
番組を司会を降ろされた。
その後の数年間にわたって、
前田がテレビに出る機会はほぼなくなってしまった。

昔、テレビがおもしろくておもしろくて
たまらない時代があった。

そのまん真ん中にいた希代の司会者が、
8月5日永眠した。

それは、地上アナログ放送が終了して
まもなくのことだった。



訃報 日吉ミミ

恋人にふられたの
よくある 話じゃないか

どこか投げやりな詞で始まる歌が
1970年にヒットした。

歌ったのは、日吉ミミ。
独特の鼻にかかった声と
見た目のかわいらしさのギャップで
人気者になり、
その後もヒット曲がつづいた。

2009年、すい臓癌がみつかった。

 私は強く生きるのよ

と、病床でもデビュー45周年に向けて、
活動再開を強く願っていたが
かなわなかった。

8月10日、夫や親族に見守られながら
息を引き取った。



訃報 正力亨

8月15日終戦の日、
実業家で、読売ジャイアンツの元オーナー
正力亨が亡くなった。

ジャイアンツを愛してやまない男だった。

バックネット裏から
「長嶋くん、次はバントだ」
と大声で指示を出すなど純粋すぎるほどだった。
一番のジャイアンツファンでもあったのだろう。

しかし純粋ではすまされない事件も起こした。
1978年、ドラフト前日の「空白の一日」を悪用した
江川事件では、世の中から厳しく批判された。

日米野球やアジア各国との交流など、
国際的な視野ももっていた。

まちがいなく、野球の黄金時代を気づいた
名物オーナーだった。



訃報 髙城淳一

8月18日、一人の名脇役が亡くなった。

俳優、高城淳一。享年86歳。

映画『戦争と人間』『華麗なる一族』『不毛地帯』
ドラマ『事件記者』『西部警察』などで活躍した。

腹に一物ありそうな、
知的でクールな悪役がよく似合った。
ジャン・ギャバンがひいきだったのも、
うなずける。

演技だけでなく、日本俳優連合の理事として、
失業保険や労災もなかった俳優の地位向上のために
積極的に貢献してきたという。

 私のこれまでの役者人生、
 これっぽっちも後悔してないさ。

晩年のインタビューで、
そうきっぱりこたえていた。

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名雪祐平 11年7月31日放送



見る モンドリアン

世界は、最低いくつの色で
あらわせるだろうか。

オランダの抽象画の巨匠、
ピエト・モンドリアンは、
赤・青・黄のみで世界を見ることができた。

三原色と
垂直線と水平線を用いた
徹底的にストイックなスタイル。

あたりまえのように
はめられていた額縁からも、
絵を取り出し、解放した。

見えるこの世界に、
額縁など存在しないのだから。



見る ドガ

フランスの印象派の天才、
エドガー・ドガ

特にバレエの踊り子を
好んで描き、
なかでも『エトワール』は傑作とされる。

大胆な構図。
瞬間的な肉体の躍動感。
衣装の絶妙な表情。

奥にはパトロンの姿も描かれ、
シビアな現実も容赦なく表現している。

その絵は、
物の形の見方があり、
社会の形の見方がある、一枚の芸術。



見る アンディ・ウォーホル

ポップアートの鬼才、
アンディ・ウォーホルは、

機械になりたい。

と言った。

アトリエをファクトリーと呼び、
工場の流れ作業のように、
アート作品を大量に生産した。

難解な芸術ではなく、
選んだモチーフも、日常的なもの。

キャンベルスープの缶詰、
コカ・コーラ、
ドル紙幣、
有名人など、
ありふれたものたちが、逆に衝撃的だった。

これはいったい…何なのか。

とまどい、深読みしようとするインタビュアーに、
ウォーホルはこたえた。

表面だけを見てればいい。
それが僕だ。
裏には何もかくされていない。

つまり、

スープは、スープ。



見る マネ

フランス印象派の大スター、
エドゥアール・マネは語った。

不必要なものはすべて、
私に吐き気をおこさせる。
しかし、必要な存在だけを
見るのはむずかしい。

真実を見つけ出す、たった一つの方法は
他人の意見にまどわされずに
己の意志をつらぬくことだ。

なぜ、マネはその思いに至ったのか。

女性のヌードの描き方が不道徳だと
激しい反感を生んだ作品
『草上の昼食』『オリンピア』によって
社会に辟易した末の達観だったのかもしれない。

現在、その2作はまぎれもなく、
傑作と評価されている。



見る イサム・ノグチ

ただの石、
自然のままの石が、
すでにできあがった彫刻なのであると、
彫刻家イサム・ノグチは言う。

しかし、と彫刻家はつづける。

肝心なのは見る観点だ。
どんな物をも、一足の古い靴さえも
彫刻となるものは
その見方と置き方なのである。

それはおそらく、
マルセル・デュシャンが
男性用便器を横に置き、
『泉』と名付けたようなことなのだろう。

ふと、目の前のある物が
彫刻になるだろうかと
あれこれ思考をめぐらせてみるのも
おもしろい。

見方と置き方、
ミカタトオキカタ…

なかなかむずかしいけれども。



見る クレー

芸術の本質は
見えるものをそのまま
再現するのではなく
見えるようにすることにある。

スイスの画家、パウル・クレーの言葉である。

音楽一家に生まれ、
クレー自身も才能あふれるバイオリニストであったため、
たびたび色を音にたとえて、
色彩の理論研究をすすめていた。

たしかに、クレーの『魚たちのまじない』からは、
色の和音が幻想的に聴こえてきそう。

見えないものを見えるようにする、だけでなく、
聴こえるようにする。
クレーはそれができた
唯一の芸術家だったのかもしれない。



見る フランシス・ベーコン

アイルランド出身の孤高の画家、
フランシス・ベーコン

グロテスクな人物画を多く描いた。

歯をむきだし、絶叫する表情。
激しくゆがめられた肉体。

でも、彼は語る。

ぼくの絵は
いまの世界の恐怖にはかなわないよ。

見て学ぶことだ。
なすべきことは
ただひたすらに見ることだけなのだ。

世界で何が起こっているか。
ぼくはただその恐怖を
再現しようとしたんだ。

きっと彼は、
描かずにはいられなかった。
世界の叫びを
代弁するかのように。



見る サヴィニャック

フランスのポスター作家、
レイモン・サヴィニャックが
たいせつにしていたこと。

ポスターは、見られなくてはいけない。

通りを行く人に、ほんの一瞬のうちに、
伝えたいことがわかるかどうか。

そのためにサヴィニャックは
大胆に本質だけを表現した。

薄切りハムのポスターでは、
豚の胴体をそのまま輪切りにしたハムに。

ユーモアたっぷりに一目でわかる。
大絶賛された。

さて。

情報ぎゅう詰めの近ごろ、
気になるポスターはありましたか?

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名雪祐平 11年6月26日放送



北原白秋 1

二歳の男の子が
腸チフスにかかり、高熱にうなされた。

忙しい母の代わりに、
乳母がつきっきりで必死に看病した。

男の子の命は助かったけれど、
乳母が腸チフスに感染し、
亡くなった。

自分から出た、凄まじい熱で、
代理の母親を焼き殺してしまった。

いつか、
本当の母親にもそうしてしまうのか…。

母殺しの恐怖とコンプレックスを抱えた男の子、
北原隆吉は、やがて、
北原白秋となる。



北原白秋 2

文学に熱中する息子を
父親はけっして許さなかった。

酒造りの商売を継がせるために、
商業高校に進学させなくてはならない。

文学書を読むことを一切禁じてしまった。

それでも息子は、
石垣のすきまや砂の中に
本をかくして読んだ。

けれども、限界はくる。
父親に無断で卒業間近の中学を退学し、
福岡の柳川の家を出たのだった。

行き先は、東京。

北原白秋、十九歳の旅立ちだった。



北原白秋 3

二十二歳の北原白秋が、
師事する与謝野鉄幹、晶子夫婦を訪ねた。

便所を借りたとき、
信じられないものを見た。

自分たち若手の没原稿が、
落とし紙として箱に積まれていたのだ。

人が心血をそそいた原稿で、
あの夫婦は尻をぬぐっていたのか!

白秋は激しく怒った。

鉄幹に対しては、
ほかの疑惑もふくらんでいた。

若手が身を削って表現した中心部分が、
いつのまにか鉄幹に流用されているのではないか。

もう、冒涜されるのはたくさんだ。

白秋ら7人の若手は
鉄幹が主宰する文学雑誌から
一気に脱退したのだった。

世の中の、
師匠と呼ばれるみなさまへ。

こんな
紙のリサイクルと、表現のリサイクルは
最低です。

つつしみましょう。



北原白秋 4

 母の乳は枇杷より温く
 柚子より甘し

という出だしから、

 母はわが凡て

と結ぶ最終行まで。

北原白秋の詩『母』には、
母の愛を求める情熱が示される。

けれども、白秋には
トラウマがあった。

幼い日、自分の病気が伝染し、
愛する乳母を死なせてしまったトラウマ。

自分の情熱によって、
相手を破滅させてしまうのではないか。

白秋にとって、恋愛の相手もそうだった。



北原白秋 5

明治時代、東京・原宿に
松下俊子という人妻がいた。

その隣りに暮らしていた、
独身、北原白秋。

憧れの美しい人妻と、
新進気鋭のハンサムな詩人。

恋に堕ちないわけがない。

けれど俊子の夫から、姦通罪で告訴され、
逮捕されてしまう。

輝く文壇から、
暗い牢屋の中へ、まっさかさま。

あとで示談が成立し、
二人は正式に結婚することになるが、
事件後の白秋は半狂乱になり、死まで考えたという。

 雨は降る降る 城ヶ島の礒に

白秋作詞の『城ヶ島の雨』は、
俊子との新生活を
三浦半島の三崎でおくっていたころのもの。

雨のなかで、
失意と希望が混じり合う。

白秋の心情が浮かぶ。



北原白秋 6

 君と見て
 一期の別れする時も
 ダリアは紅し
 ダリアは紅し

不倫スキャンダルの直後、
北原白秋は歌集『桐の花』で
再び評価をえる。

けれど、正式に結ばれた
松下俊子との結婚は長く続かなかった。

自分の情熱は
相手を破滅させてしまうものなのか。

いや自分のほうも
相手に疲れ果てていたのだった。

それは、相手にさめる
という破滅の1種。

もう、ダリアは紅くない。



北原白秋 7

二度失敗した北原白秋の
三度目の正直。

その相手が、
佐藤菊子だった。

童謡『ゆりかごのうた』は、
二人の間に生まれてくる
わが子を思って
作ったとされる。

数々の童謡の傑作をのこした白秋。

菊子夫人の温かい人柄や
2人のこどもに恵まれたことが
動機ともいわれている。



北原白秋 8

青より白。
春より秋。

北原青春より、北原白秋。

白秋とは、
青春の逆の方位、逆の境地を
意味するといわれる。

ものすごく早熟な中学生は、
青春まっただ中で、
自分のペンネームとして
白秋とつけたのだった。

そして晩年に、
青春前の
童謡をたくさん書いた白秋。

五十七歳という若さで亡くなったが、
最期の言葉は、

「ああ素晴らしい」

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名雪祐平 11年5月1日放送


シャガール 1

ピカソは、こう言った。

 私は探すのではない。
 見つけるのだ。

それに対して、シャガールは言った。

 この私、私は待つのだ。

いったい、何を。
それは愛の表現だったのかもしれない。

ロシア革命に失望し、
移住したパリではナチス侵攻があり、
亡命したアメリカで最愛の妻を
亡くした、シャガール。

画家は歴史の中を生き、
その時代に描いた愛を
いま私たちは
受け取っているのかもしれない。


シャガール 2

ロシア生まれの画家、
シャガールは22歳の時、
14歳のベラに出会い、恋に堕ちる。

労働者階級出身のシャガール。
一方、裕福な宝石商の娘で、
才色兼備のベラ。

家柄の差もあり、ベラの両親をはじめ、
結婚には猛烈な反対をされてしまう。

けっきょく、出会いから6年の歳月がかかり、
二人は結ばれた。

シャガールは、二人をモデルに
いくつもの絵を描いた。

空を飛ぶ花婿花嫁。

舞い上がる絶頂の気持ちが
キャンバスからあふれそう。


シャガール 3

ロシアの貧しい事務員の息子として
生まれた、マルク・シャガール。

父と同じような職業につくこと。
それが当時の階級社会の
習わしだった。

 ママ、ぼく、画家になりたいんだ。

息子の希望に、母はこう言った。

 ママはあなたに才能があると
 信じているわ。
 でも、もしかすると、
 事務員という職業があなたには
 合っているかもしれないと
 思うのよ。

才能を認めてもなお、
母親は、平凡で幸せな人生を望んでしまう。

それでも息子はあきらめず、
母親を説得し、絵の塾に通わせてもらうことで、
事務員への運命を避けることが
できたのだった。


シャガール 4

シャガールは、
76歳の時にパリ・オペラ座の
天井絵の依頼を受けた。

納得いくまで何度もやり直したという。
うまく描けないといって、
声をあげて泣くほど鬼気せまる姿があった。

何歳になっても、大御所になっても、
既存の方法への敵意を常に持ち続けた。

“敵意”というほどの強烈なエネルギー。
だからこそ生まれた傑作の数々。

 まず感動することだ。
 感動がないなら、やめたほうがよい。

97歳で亡くなるまで、
その姿勢を貫いた天才だった。


サガン 1

その小説は、
こんな書き出しではじまる。

 ものうさと甘さがつきまとって
 離れないこの見知らぬ感情に、
 悲しみという重々しい、
 りっぱな名をつけようか、私は迷う。

作者はパリの18歳の女子大生、
フランソワーズ・サガン。
処女作『悲しみよ こんにちは』である。

1952年の初版は、わずか三千部。
それから部数を伸ばしたのは、
皮肉にも、その新しい文体に猛反対した
批評家たちのせいだった。

批評が、分別くさい大人の意見であればあるほど、
「小娘の小説」と反対すればするほど、
逆にサガンの新しさ、瑞々しさを証明することになり、
人々は興味津々になった。

それは、サガン自身が
時代の主人公になっていくという、
ストーリーの書き出しでもあった。


サガン 2

フランソワーズ・サガンの
『悲しみよ こんにちは』は、
フランスで100万部、
それから25カ国以上に翻訳され、
500万部の大ベストセラーになった。

時代の寵児となった18歳に、
大人の質問は退屈だった。
大金持ちになった感想とか、
ワンパターンにおちいった質問ばかり。

サガンはこんな言葉を返した。

 お金は持っている側だけでなく、
 持っていない人をも支配してしまいます。

お見事。


サガン 3

フランソワーズ・サガンは、
まるで自分の小説の登場人物のようだった。

22歳の時、
愛車アストン・マーチンで転落事故。
「サガン即死」というニュースが
流れるほどの瀕死の重傷を負う。

23歳の時、20歳年上の男と結婚。
ルーレットで8に賭けて
800万フランを当て、別荘を購入。

酒、麻薬、ギャンブル、クルマ、
そして男にのめり込んだ。

肉体的にも精神的にも、
過剰なものがあると休まる。

と語ったサガン。

それは深い孤独を埋めるための
過剰だったのだろうか。


サガン 4

科学的に、考えよう。
合理的に、考えよう。

でも、いつのまにか
人の心がないがしろになっていないだろうか。

フランソワーズ・サガンは警告する。

 思いやりのない頭の良さというのは
 なんとも危険な兵器よ。

合理的に考えた時の、
選ばれる何かと、
切り捨てられる何か。

その両者の間を
私たちはどれだけ思いやり、
埋めることができるだろうか。

この、不安定な時代にこそ。

文学的に、考えよう。

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名雪祐平 11年3月27日放送


サガン 4

フランソワーズ・サガンは、

 孤独というものは、
 平等に訪れる。

という。
優雅な人にも、優しい人にも、
恐ろしい人でも、鬼のような冷たい人にも、
孤独は、平等に訪れる、と。

その孤独と向き合うのは、
たったひとりの自分。

だから、その自分だけは
けっして裏切らないように、と。

『愛と同じくらい孤独』
というサガンの本のタイトルのように、
孤独と同じように、
愛も、平等に、今夜世界中に訪れますように。

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名雪祐平 11年01月30日放送


長谷川町子1

14歳の少女が、
飴をしゃぶりながら寝ころがって、
つぶやいた。

田河水泡の弟子になりたいな。

漫画のらくろで
当時、日本一人気だった大漫画家の
弟子になりたい、と
ぽろっと言っただけ。

すると、母がすぐこう言ったのだ。

それはいい。早速頼みに行きなさい。

未来を変える一言だった。

やがてサザエさんを描く少女、
長谷川町子が、
夢をつかむまで、あとすこし。


長谷川町子2

のらくろで有名な漫画家、
田河水泡は編集者に言った。

うちには女の子の弟子がいるよ。
珍しいでしょう。

そう聞いて
興味が湧かない編集者はいない。

少女の名前は、長谷川町子。
わずか15歳で、
雑誌・少女倶楽部に『狸のお面』
でデビューする。

漫画家人生が順調に
はじまった。

けれど、
どんなに才能があっても、
紙が不足しては描けない。

戦争が激しくなっていた。
サザエさん誕生は、戦争のあと。


長谷川町子3

サザエさんのふるさと。
それは福岡県百道(ももち)の海。

戦争で疎開した漫画家、長谷川町子が
よく散歩したことから、
海にちなんだ名前ばかりの
サザエさんのアイデアは生まれたという。

それから新聞の四コマ漫画を28年。
ほぼ休まなかった。

長谷川は、いつもこう言っていた。

漫画は面白くなくては駄目なのよ。

このあたり前のような言葉は、
マンネリに陥らないための
自分への戒めだったのかもしれない。

サザエさんは、戦わない。
宇宙を飛ばない。
お城に住まない。

それでも1回1回
シャキッと見事に終わらせる。

長谷川が胃を壊しながら、
格闘して描き続けたのは、
ごくごく普通の主婦が主人公という
画期的漫画だった。

その主婦が、
戦後日本を代表する大ヒロインになったのだ。


長谷川町子4

サザエさんで国民的人気を得た
漫画家、長谷川町子。

健全な漫画。
ヒューマニズム…。

そんな作風に自分で飽きてしまい、
まったく違うヒロイン像を
考えつく。

それが『いじわるばあさん』。

いじわるを漫画にするのは、
いたずらを考えるようなもの、
かもしれない。

だから、毒があっても、辛辣でも、
いじわるばあさんは、
人々の気持ちをとらえ、ヒットした。


長谷川町子5

1920年の今日、1月30日。
漫画家、長谷川町子は生まれた。

終戦直後、
26歳で『サザエさん』を発表。

以来、新聞連載で、単行本で、テレビで
ずっと愛され続けている希有な漫画である。

60年間以上、サザエさんは28歳のまま。
でも、作者は歳をとる。

生涯独身だった長谷川は、
70歳になって姉と3つ約束する。

 どんな病気にかかっても入院しない

 手術は受けない

 葬儀・告別式はしない
 また死後、納骨が済むまでは公にしない。

もう、覚悟があったのかもしれない。
1992年、長谷川は72歳で永眠し、
約束通り、納骨式の翌日まで
その死は公表されることはなかった。

人見知りな、最期だった。

人見知りなど縁のなさそうな、
サザエさんが
今週もテレビで笑っている。


田河水泡1

ちょっと間抜けで、ユーモラス。

田河水泡の漫画『のらくろ』シリーズは、
戦前に大人気になった。

主人公、のらくろは、日本軍の二等兵。

天涯孤独の野良犬が、
軍隊で失敗ばかりしながら、成長していく物語。

しかし。

犬の分際で、兵士とは何事か!

とうとう軍部の圧力がかかり、
連載中止へ追い込まれた。

娯楽作品であり、また
戦争の風刺などとんでもない時代に
生まれた意義深い作品だった。

一人の漫画家の勇気が
そこにあった。


田河水泡2

『のらくろ』シリーズの漫画家、
田河水泡には、多くの弟子があつまってきた。

でも実は田河先生は、教えない先生だった。
だから、大きく育ったのかもしれない。

『サザエさん』の長谷川町子。
『あんみつ姫』の倉金章介。
『猿飛佐助』の杉浦茂。

弟子たちはいつも、こう言われていた。

漫画はね、
人の言うことを聞いたりしちゃだめだよ。
強烈に自分の個性を発揮しなくちゃ。
下手でもいいんですよ。
人まねはいけない。

昨今、何でも教わりたがる
風潮にいる現代人には
耳が痛いお言葉。


漫画家の墓

思わず、微笑みたくなるお墓がある。

漫画家たちのお墓がそう。

田河水泡のお墓には、
のらくろが笑って寄り添っている。

藤子・F・不二夫のお墓にも
ドラえもんがいる。
四次元ポケットに名刺を入れられる。

石ノ森章太郎のお墓には、
サイボーグ009や仮面ライダーが
オールカラーでりりしい。

さすが、漫画家。
亡くなっても、キャラクターの墓守が
サービス精神を発揮している。

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名雪祐平 10年12月26日放送



チャールズ・M・シュルツ1

子どもの頃の自分をモデルに、
ストーリーを作り続けることは、
楽しいだろうか。
苦しいだろうか。

それを50年間続けた漫画家がいる。

チャーリー・ブラウンと
スヌーピーの生みの親、
チャールズ・シュルツ

描き続け、
彼自身が老人になればなるほど
どんどん子どもに戻って
漫画の中で遊んでいたのだとしたら、

やっぱり、なんだか楽しそうだ。



チャールズ・M・シュルツ2

スヌーピーの生みの親、
チャールズ・シュルツは、
内気でダメな子どもだった自分を
忘れていなかった。

漫画に登場する
小学生チャーリー・ブラウンたちは、

やれやれ。

お手上げだよ。

と、よく愚痴や弱音をこぼす。

でも必ず、
困った問題を乗り越えようと悩んだり、
一歩一歩進もうと、がんばるのだ。

スーパーマンはいない。
でも、内気だった漫画家だけが描ける
主人公たちは、
世界中のアイドルになった。



ムハマド・ユヌス1

バングラデシュの大学教授が、
貧しい農村に調査に行った。

42人の村人の話を聞き、
いま必要なお金はいくらかを
訊ねてみた。

合計、たった27ドル。

竹のカゴをつくる材料を買うための、
わずかな現金さえなかったのだ。

教授はポケットマネーから
27ドルを貸した。
少しずつ返してくれればいい、と。

のちに全額きれいに返済された。

お金を借り、貧しい人たちは
自分の仕事と活力を手に入れた。
食料を買った。
石鹸や鉛筆も買えたかもしれない。

これはとても良いことだ。
貧困を救うための画期的な銀行を作ろう。

ムハマド・ユヌスは大学教授を辞め、
グラミン銀行を創設した。



ムハマド・ユヌス2

そんなもの、誰も見向きもしない、
ということに世界で初めて取り組む人がいる。

ムハマド・ユヌスはグラミン銀行を作り、
ほんの少ないお金を貧困に苦しむ人たちに
無担保で貸すことを始めた。

どうせ返せっこないさ。

そんな偏見も、見事にひっくり返った。
返済率は99%に達するほどだった。

グラミン銀行は
世界の貧困で苦しむ人々の向上心を信じ、
救い続けている。

誰も見向きもしなかった事業に、
いま、世界中が注目している。



ムハマド・ユヌス3

世界一尊敬されている銀行家は誰か。

数百億円という年収をふところに入れた
アメリカの銀行家より、
数ドルがなくて困っている人たちを救った
この人かもしれない。

ムハマド・ユヌス
グラミン銀行総裁。

彼の言葉がある。


 どんなことでもいい。
 きみのすぐ目の前にある問題から
 はじめればいいんだよ。
 どんなことでもいい。
 きみの手の届く範囲ではじめればいい。

目の前の貧しい人たちに自分の27ドルを貸したこと。
その小さな一歩が、
グラミン銀行のきっかけとなり、
いま、約10万カ所に上る相談センターで
貧しい人たちにお金を融資している。



ハーブ・リッツ1

ある日、無名の2人の若者が
ドライブに出かけた。

途中、タイヤがパンクしてしまった。

修理中のひまつぶしに
1人がもう1人を撮影した写真が
全米の雑誌に掲載されることになった。

写真に写った若者、リチャード・ギア
写真を撮った若者、ハーブ・リッツ

俳優としてギアが成功するにつれ、
リッツも大人気のプロカメラマンとなった。

タイヤのパンクから、
運が走り始めた。



ハーブ・リッツ2

クリスマスから一夜明けた
何でもない、12月26日。

アメリカの写真家ハーブ・リッツが
50歳で他界した。2002年のこと。
エイズだった。

「最も写真を撮ってもらいたい写真家」
そう呼ばれた。

ずばり、それは
自分を美しく撮ってくれるから。
マドンナを筆頭に、
セレブたちからオファーが殺到した。

逆にリッツが
「最も写真を撮りたかったモデル」は、
誰だったのか。

未発表の彼の傑作を
モデルとなった恋人だけが、
眺めているかもしれない。



ゴルバチョフ

クリスマスから一夜明けた
何でもない、12月26日。

ソビエト連邦は崩壊した。1991年のこと。


 蒔けるだけ種を蒔いておきたい。

その言葉の通り、
国家改革ペレストロイカを進めていた
ゴルバチョフだったが、
ソ連崩壊前日には大統領を辞任した。

それが本望でなくても
怒濤の時代の真ん中に彼はいた。

40年以上続いた冷戦を終結させた
その名前は、
とっくに教科書に載っている。

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名雪祐平 10年11月28日放送



星野哲郎

11月15日、
作詞家・星野哲郎が亡くなった。
85歳だった。

告別式で、
歌手の水前寺清子は、
生前に星野から託された
未発表の詩を読み上げた。

詩の冒頭は、こう始まる。


 あけみちゃんてば あけみちゃん
 再婚しようよ 天国で

それは16年前に先に亡くなった
妻へ伝える、
情感あふれる詩だった。



アーネスト・シャクルトン1

20世紀の初め。
ロンドンの新聞に載った広告が
話題をさらった。


 探検隊員求む。至難の旅。
 わずかな報酬。極寒。暗黒の長い月日。
 絶えざる危険。生命の保証無し。
 ただし、成功の暁には名誉と賞賛を得る。

これは、探検家アーネスト・シャクルトンが掲げた
南極探検隊員の募集広告。

この文を読んで、
心を熱くした者だけが
苦難を乗り越えられる資格をもつ。

この広告で、
シャクルトンの卓越したリーダーシップが
すでに発揮されていたのだった。



アーネスト・シャクルトン2

アーネスト・シャクルトン隊長は、
隊員27人を率いて
南極横断の探検に出発した。

そこは一夜にして
数十キロの海が氷るような極寒地。

南極を目前に巨大な氷に阻まれ、
船が座礁してしまった。

ついに沈没した船から脱出し、白い地獄を彷徨う。
それから20カ月も氷の上を漂流し、
耐え続けることになろうとは…。

絶望的な危機に、
隊長は考えた。

全隊員に生きる希望を与え続けよう。
希望とは仕事だった。

毎日時間割で仕事を担当させ、
使命と責任、緊張を維持した。


 人は命令では動かない。
 人は階級では動かない。

机上のリーダー論では命を守れない。
生きるんだ。

そしてシャクルトン隊長は、
素晴らしいリーダーシップで
一人も犠牲者を出すことなく、全員生還させたのだ。



ロッシーニ

tournedos rossini
牛ヒレ肉のロッシーニ風

この“ロッシーニ”とは
イタリア最高の作曲家ともいわれる
ロッシーニのこと。

フォアグラやトリュフを使ったレシピを考え、
料理に自分の名がつくほどの
美食家であった。

ある日、知人の家でご馳走になった後、
「また食べにいらして」と言われて、こう返した。

今でもいいのですが…。

古今東西、食いしん坊はどこか憎めない。



ラブレター1 カフカ

過去にもらった、
あのラブレターは、
いまどこにあるだろう。

作家カフカは、
恋人ができると情熱的に、
短期間に何百通も手紙を送った。

恋人たちは、まだ無名だったカフカからの
手紙を捨てずに、
別れてもずっともっていた。

きっと、カフカの手紙には言葉に命があった。
捨てられない。大切に残したい。
そんな魅力でいっぱいだったに違いない。

カフカの死後、多数の手紙は、
受け取った恋人の名前がつく本となった。
『フェリーツェへの手紙』は700ページ、
『ミレナへの手紙』は400ページを超えた。

逆にカフカ自身は、恋が終わると
女性から受け取った手紙は処分していたという。

だから、まさか自分が書いたラブレターが
世の中に公開されるとは。

天国で顔を赤くしたかもしれない。



三船敏郎

映画俳優、三船敏郎は、
『スター・ウォーズ』と
『スター・ウォーズ/ジェダイの復讐』
の出演依頼を2度とも断った。

いろいろな理由があったにしろ、
『七人の侍』の菊千代そっくりと言われる
一本気な性格が、どこかで影響してしまったのか。

それにしても…

仮面をかぶらないダースベイダー、
三船がライトセーバーを振り回す姿。

ぜひ観たかったもの。

映画ファンとして、
ほんとうに惜しいエピソード。



江戸川乱歩

平井太郎は、
貿易会社で働き始めたが
1年しか続かなかった。

それから、いろいろな仕事に手を出した。
古本屋、新聞記者、ポマード工場の支配人。
チャルメラを吹いて夜泣きそばを
売り歩いたこともあった。

そして、何度目かの失業のとき、
賞金目当てで小説を書き始める。

2週間で書き上げた処女作『二銭銅貨』は
見事雑誌に掲載されたのだった。

こうして平井太郎は、江戸川乱歩になった。

就職できても、
天職にめぐりあうまで
シューカツは続くのかもしれない。
乱歩のように。



ラブレター2 短い告白

一枚の便せんに
太宰治が書いた、
たった4文字のラブレター。

「こひしい」

はるか遠く、
南極越冬隊の夫にあてた妻からの、
たった3文字のモールス信号。

「あなた」

日本中で
送受信されているかもしれない、
たった2文字のメール。

「すき」

たったそれだけの、
すばらしい言葉。

さて、1文字だったら…
と考えながら、
夜は深まって。

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名雪祐平 10年10月23日放送


熊谷守一 1

自分の絵は、売るためのものではない。
描きたいときに描くもの。

画家、熊谷守一はそう考えていた。
けれど、絵が売れなければ、貧しい。

4歳の息子が肺炎になっても十分な治療ができず、
命をなくした。

その死に顔を、
画家は描いたのだった。

絵を描かずに死なせた息子の亡骸を
描く自分に愕然とした。

それでも、
売るための絵は描けなかった。

画家は筆をおいた。


熊谷守一 2

絵が描けない画家、熊谷守一。

貧しさから
次々と子どもたちを病で失ったが、
売るための絵は描けなかった。

ようやく60歳近くになって、
書や墨絵にめざめ、
こんどは娘の死をきっかけに
再び“絵を描く画家”に生まれ変わったのだ。

この後、画家は自宅の門から外へは
30年間出なかった。

小さな庭が画家の宇宙になり、
そこに息づく草花や虫、
生き物たちの命とたわむれ、
一日中眺め、
画家は唯一絶対の画風を
獲得していった。


熊谷守一 3

熊谷守一の絵は、
独特である。

単純な色と線で、
対象物の内面まで表現する。

なにしろ、対象物への
愛情にあふれている。画家は言う。

 絵でも字でも
 うまく描こうなんて
 とんでもないことだ。

名誉やお金にはまったく無頓着。
文化勲章も
「これ以上人が来るようになっては困る」
と辞退した。

97歳の死の直前に描いた名作『猫』は、
その自由で、のびやかな猫の表情が
まるで熊谷の自画像のようにも
思えてくる。


アンデルセン

童話の父、アンデルセン。

若い日には、
オペラ歌手をめざしたり、
バレエ学校にも在籍したものの
失敗と挫折を繰りかえした。

その経験が、のちの
『みにくいアヒルの子』を生んだ
ともいわれる。

作家として大成功し、
まさしく美しい白鳥となったアンデルセンだったが、
女性に対しては醜いアヒルのように
モテることなく、生涯独身でおわる。

葬儀は、デンマークの国葬をもって
おこなわれた。

女性との縁に恵まれなかったが、
葬儀には王族からホームレスまで、
もちろん子どもたちも参列した。

たしかに、アンデルセンは
たくさんの人々から愛されたのだった。
そしていまも、
世界中の子どもたちを夢中にさせている。


ディオゲネス

ギリシャの哲学者、ディオゲネス。

みすぼらしい路上生活を送り、
どこでも平気で物を食べた。
そんな彼を見て、
人々は「まるで犬だ」とののしった。

ディオゲネスはこう言い返した。

「人が物を食っているときに集まってくる
 おまえらこそ犬じゃないか」

食べることがおかしなことでなければ、
どこで食べてもおかしなことではない。

それが彼の哲学。

さて、現代。
道ばたで、地下鉄の中で、
物を食べている人々も哲学、
しているのだろうか。


エルンスト・ルスカ

ノーベル賞の条件。
それは長生きすること。

功績をあげてからの最長記録は
55年後の受賞。

その1人、エルンスト・ルスカは
25歳の年に電子顕微鏡を開発し、
80歳の年にノーベル賞物理学賞を受賞した。

今の研究開発が
未来のノーベル賞かもしれない。

みなさん、長生きしましょう。


ムンク

孤独と不安。

それらを絵で表現するとしたら、
どんな色だろう。
どんな形だろう。

1つの見事な答えがある。
ムンクの『叫び』

不気味な赤い空。
ミイラのような男のゆがんだ表情。

自然をつらぬく、けたたましい、
終わりのない叫びに耐えかねて
男は耳をおさえている。

なぜ、ムンクには叫びが聴こえたのか。

 病と狂気と死が、
 私の揺りかごを見守っていた黒い天使だった。

そんなムンクの孤独と不安が
世界の叫びと激しく共鳴したのだろうか。

ムンクの『叫び』
それはまるで1枚の音。

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