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大友美有紀 20年8月2日放送



「金銀の日」 人見絹枝

今日は金銀の日。
その由来となった一人、陸上選手・人見絹枝。
1928年、昭和3年の第9回オリンピック、アムステルダム大会。
陸上競技への女子選手の参加が初めて認められた大会で、
銀メダルを獲得しました。
本命の100メートル走では準決勝敗退。
走る予定はなかった800メートル走にも
エントリーしていたことから、
出場を決意しました。そして結果が銀メダル。

その雄姿は、オリンピックを題材にした大河ドラマで描かれ、
21世紀のこの時代においても多くの女性に勇気を与えました。

帰国してからは、日本の女子陸上競技の振興のために
精力的に活動し全国を飛びまわりました。
そして、銀メダル獲得後わずか3年で、
その生涯を終えてしまいます。
けれども
人見の命をかけた活動があったからこそ、
今の女子アスリートの活躍があるのでしょう。
その系譜を継ぐ女子選手の姿を、早く見たいですね。

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大友美有紀 20年8月2日放送



「金銀の日」 内藤克俊

今日は金銀の日。
1928年、アムステルダム・オリンピックで
日本人選手が、金銀のメダルを獲得したことを記念しています。

その4年前のパリ大会で
銅メダルを獲得した日本人がいたことは、
あまり知られていません。
内藤克俊、レスリングの選手です。
アメリカ、ペンシルバニア州立大学に留学し、
レスリング部の主将を務めていた内藤は、
駐米大使の推薦で日本選手団に加えられました。

知られざるオリンピアンの活躍、
もっと知りたくなります。

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大友美有紀 20年8月2日放送



「金銀の日」 バロン・ニシ

今日は金銀の日。
1928年、アムステルダム・オリンピックで
日本人選手が、金銀のメダルを獲得した、その記念です。

かつて、オリンピックの最終種目は、
馬術の障害飛翔と決まっていました。
1932年のロサンゼルス大会、
コースは難易度が高く、失格が続きました。
そんななか金メダルを獲得したのは、
30歳の陸軍中尉、西竹一とウラヌス号。
日本馬術、唯一の金メダル。
バロン・ニシの愛称を持つ彼は、
勝利後の記者会見で「We won.」と
簡潔に答えました。

Weとは、自分と馬、なのか
私たち日本人、なのか。
真意は時の彼方です。

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大友美有紀 20年8月2日放送



「金銀の日」 友情のメダル

今日は金銀の日。
1928年、アムステルダム・オリンピックで
日本人選手が、金銀のメダルを獲得したことを記念しています。

銀と銅のメダルを半分に割り、一つに組み合わせた、
友情のメダルと呼ばれるものがあります。

1936年のベルリン大会の棒高跳び。
1位のアメリカ人選手は4メートル35、
日本人の2選手、西田修平と大江季雄(すえお)が、
ともに4メートル25の記録で試合終了。
2人とも銀メダルだと思っていたけれども、
翌日の表彰式では、西田が2位で大江が3位。
ルールでは同記録は同順位のはずでした。
納得がいかない2人は、ルールを正すために、
銀銅のメダルを分け合ったのです。

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大友美有紀 20年8月2日放送



「金銀の日」 熊谷一彌

今日は金銀の日。
1928年、アムステルダム・オリンピックで
日本人選手が、金銀のメダルを獲得した、その記念です。

それに先立つ1920年、アントワープ大会。
2つの銀メダルを獲得した日本人選手がいました。
熊谷一彌。テニスのシングルス、ダブルスで2位。
しかし熊谷は、この成績を「一生の不覚」と悔いたそうです。
連日の雨で、決勝当日思うようにプレイできなかった。

熊谷は、その後デビスカップなどで活躍。
銀メダルの無念を晴らすかのようでした。

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大友美有紀 20年8月2日放送


Ed Yourdon
「金銀の日」 新規採用競技

今日は金銀の日。
1928年、アムステルダム・オリンピックで
日本人選手が、金銀のメダルを獲得したことを記念しています。

今年延期になった東京オリンピックでは、
サーフィン、スケートボードなど、
今まで、遊びや趣味としてしか
捉えられなかったスポーツが
新規競技として採用されています。

新しい競技に、登場するヒーローは誰か。
楽しみですね。

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大友美有紀 20年7月5日放送


jun560
江戸切子の日  魚子文(ななこもん)

今日は江戸切子の日。
江戸切子の代表的な文様に
「魚子文」(ななこもん)があります。
「なな」と「こ」の語呂合わせから、
江戸切子協同組合が、
7月5日を記念日に選びました。
魚の子と書いて、ななこと読ませる文様。
魚の卵をモチーフにした魚子文は、
シンプルだけれども、
職人の技量が試される
難しい柄のひとつと言われています。
細部にまでこだわり抜く、
職人魂への思いがこもった記念日です。

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大友美有紀 20年7月5日放送



江戸切子の日  加賀屋久兵衛

今日は江戸切子の日。
その歴史は、天保5年、1834年に
大伝馬町の加賀屋久兵衛というビードロ屋が、
金剛砂(こんごうしゃ)でガラスの表面を彫刻したのが
始まりだったと伝えられています。

明治6年、1873年には品川興業社硝子製造所が開設。
明治14年にはガラスカットの指導者として、
英国人のエマニエル・ホープトマンを招き、
十数名の日本人が指導を受けました。
そして現在に伝わる江戸切子のガラス工芸技法が
確立されたのです。
その後、国内のガラス製造がさかんになり、
ふだん使いの食器として切子が作られるようになります。
美術品ではなく、日用品。
江戸切子のある暮らしは、庶民のものでした。

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大友美有紀 20年7月5日放送


Norio.NAKAYAMA
江戸切子の日  江戸切子と薩摩切子

今日は江戸切子の日。
薩摩切子は、透明なガラスの表面に厚めの色ガラスを被せ、
切り込み具合によって「ぼかし」を生み出すのが特徴。
町民文化から生まれた江戸切子と違い、
薩摩切子は藩直轄で発展しました。

1846年、薩摩藩第27代藩主、島津斉興(なりおき)の時代、
薬品を入れるガラス瓶製造のために、江戸からガラス職人を呼び寄せました。
それが江戸ガラスの創始者加賀屋久兵衛の徒弟、
四本亀次郎(しもとかめじろう)でした。
次の藩主、斉彬(なりあきら)は
薩摩の色ガラスを日本の特産品にしようと、研究を重ね、
薩摩切子を誕生させました。
ところが斉彬の急逝によって薩摩切子は衰退。
あわや幻になって消えるかと思われたそのおよそ100年後
薩摩ガラス工芸の設立によって
薩摩切子は再び世に出ました。

江戸と薩摩、歩んできた道のりは違うけれども、
切子の美しさを競い合う良きライバルです。

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大友美有紀 20年7月5日放送



江戸切子の日  西洋から江戸へ

今日は江戸切子の日。
江戸後期、オランダから長崎に
カットガラスが入ってきました。
表面に繊細な文様が彫られているガラスで
これを真似て作られたのが、切子です。

江戸切子の代表的な文様、魚子(ななこ)は、
18世紀から19世紀かけての
イギリス、アイルランドでもよく見る、
典型的なカット模様だとか。

西洋の美を取り込んで、江戸で花開いた切子。
スカイツリーのエレベーターにも使用され
海外の人の目を楽しませています。

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