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小林慎一 16年7月17日放送

160717-07
USFWS Headquarters
自然とパイ篇

円周率パイは、円の幾何学に由来する数字だ。

円周の直径に対する比率が3より少し大きいということは
古代インドやバビロニアでも知られていた。

3.14159・・・・
現在では13兆桁以上まで計算されている割り切れない数は、
科学研究の様々な局面で顔を出す。

ケンブリッジ大学教授のハンス・ヘンリック・ステルムは
いろいろな川の長さと、水源から河口までの直線距離の比を求めてみた。

その数字は、ほとんど、円周率と等しかった。

川は常に曲がろうとする。
川はカーブの外側の流れが速いため侵食が進み
川のカーブはさらに急になる。
このようにして川はどんどん曲がっていく。

しかし、川は曲がるほどにバイパスができやすくなり
バイパスができると川はまっすぐになり
取り残された部分は三日月湖になる。

カオスと秩序のせめぎ合いの数字が
3.14からつづく無理数なのだ。

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小林慎一 16年7月17日放送

160717-08

スパイと数学篇

純粋数学は現実世界には応用するのは難しい分野だか
素数理論はそれができる数少ない領域である。

1977年マサチューセッツ工科大学の
ロナルド・リヴェストのチームは
暗号に関する画期的なアイデアを思いついた。

暗号用の鍵をつくる際に、素数を二つ用意し、
それを掛け合わせて大きな非素数にする。

通信文を暗号化するには、
この大きな非素数が分かっていればよい。
一方、暗号化された文を復元するするには
もとになった2つの素数を知らなければならない。

例えば、
589になる2つの素数を突き止めるのには
家庭用のパソコンで3分もかければ
素数が31と19であることが分かる。

だが、実用化されている非素数は100桁を超えるため
世界一性能のいいコンピューターを使っても数年かかる。

年に1度、暗号鍵を変更すれば、
敵のスパイはまた計算を最初からやり直さなければならない。

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小林慎一 16年5月15日放送

160515-01

フェルマーの最終定理 300年間解けない問題

17世紀から20世紀にかけて。
あらゆる科学の分野は、飛躍的に発展した。
17世紀、
人の体質は4つの体液の配分で決まるという体液説が主流だった。
20世紀には遺伝子組み換えが可能になった。
ガリレオが月を望遠鏡ではじめて観測し、天体であることが分かり、
その300年後、人類は月に降り立った。

しかし、数学では、人類の知識の進歩に
300年間耐えてきた問題がある。

フェルマーの最終定理。

Xn+Yn=Zn

nが2以上の場合、nは整数の解を持たない。

この問題の起源は、ピタゴラスの時代にまで遡る。

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小林慎一 16年5月15日放送

160515-02

フェルマーの最終定理 ピタゴラスというはじまり

紀元前6世紀を生きたピタゴラスは
古代バビロニアとエジプトを20年間にわたり旅をし
当時の世界に存在した数学の規則をすべてを身につけた。

その後、ピタゴラス教団を設立し
600人の弟子とともに数論の研究を行った。

彼らは、数と数の関係を理解することが
宇宙を理解することにつながると信じていた。

例えば、約数の和とその自身の数が同じになる
完全数というものがある。

神が天地を6日間で創造したのは6が完全数だからであり、
月が28日で地球を周回するのは28が完全数だからとされた。

また、複数のハンマーの重さが整数の比である時、
調和した和音が生まれることを発見した。

ピタゴラスは、自然現象の背後に
数学的規則があることをはじめて明らかにした。

なかでも有名なのは直角三角形の斜辺の2乗は、
他の2辺の2乗の和に等しいことを示した式。

X2+Y2=Z2
だろう。

いわゆる、ピタゴラスの定理だ。

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小林慎一 16年5月15日放送

160515-03

フェルマーの最終定理 天才のアマチュア

ピエール・ド・フェルマーは1601年にフランスで生まれた。
彼は裁判所の仕事に忙殺されていたが
わずかな暇を見つけては数学の研究に没頭した。

数学者のどの団体にも属さず
自分が解いた証明を解いてみろと様々な数学者に手紙を送った。
そして、フェルマーは自分が解いた答えを誰にも明かさなかった。

フェルマーと定期的に親交があったのは
数学の最新の発見を伝えてくれたメルセンヌ神父と
確率論を一緒につくりあげたパスカルだけであった。

フェルマーは一冊の本も、論文も発表していない。
彼の長男であるクレマン・サミュエルが、
父の手紙やメモや「算術」という
数学書の余白にかかれた走り書きをまとめた。
それによりフェルマーの驚くべき数学的発見が明らかになる。

ニュートンに影響を与えた微積分法、
保険会社の基礎となった確率論。
新しい友愛数の発見。素数定理などなど。

フェルマーの発見した定理は
ひとつづつ検証され証明されていった。
しかし、ひとつだけガンとして証明を拒んだ定理があった。

Xn+Yn=Zn nが2以上の場合、nは整数の解を持たない。

フェルマーのメモにはこう書かれてあった。
私はこの命題の真に驚くべき証明を持っているが
余白が狭すぎてここには記せない。

フェルマーの最終定理。
人類300年の挑戦がはじまった。

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小林慎一 16年5月15日放送

160515-04

フェルマーの最終定理 200年間の攻防

フェルマーの最終定理において
フェルマーは、大きなヒントを残していた。
n=4の場合には解がないことを証明していた。

アルゴリズムを開発した18世紀最高の数学者オイラーは、
n=3の場合を証明した。

100年間で証明されたのはたったのひとつの数の場合だった。

19世紀に入り、ソフィー・ジェルマンがおおきな成果を上げる。
彼女は女性であるがゆえに大学で研究ができなかったが、
彼女の開発した方法を元に
n=5の場合とn=7の場合が証明された。

n=7の場合を証明したラメは、
その数年後に完全な証明を発表するが
クンマーにより重大な欠点を指摘されてしまう。

その指摘は、当時の数学テックニックでは
フェルマーの最終定理を証明できないことを
示すものだった。

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小林慎一 16年5月15日放送

160515-05

フェルマーの最終定理 失恋が生んだ光

20世紀に入り、
数学者の関心はフェルマーの最終定理から離れていった。

しかし、新たな光を当てられるようになったのは
とある失恋がきっかけだった。

パウル・ヴォウルスケールは
ドイツ有数の資本家であり数学者でもあった。

ある日、彼は女性にふられてしまう。
絶望の淵に沈んだ彼は、自殺を決意する。
綿密に計画を立て日取りを決め
深夜零時にピストル自殺をすることを決める。

自殺決行の日時までに、
残された仕事をし、手紙を書き、遺言を書く。

しかし、零時前にすべてのことが終わってしまうと、
彼は数学の本を読み始めた。

その時、ラメが行ったフェルマーの最終定理の証明についての
クンマーの反論にギャップを見つけると
ヴォウルスケールはその検証に没頭しはじめた。
結果、クンマーの反論は揺るぎないものであることが分かったが、
気がつくと世が明けていた。

ヴォウルスケールは遺言を破り捨てた。

そして、フェルマーの最終定理を証明した者に
財産の大部分をあてた懸賞金を与えると発表した。

送られてきた証明のファイルは30年で3メートルになった。

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小林慎一 16年5月15日放送

160515-06

フェルマーの最終定理 極東の2人の天才

志村五郎は第二次世界大戦中は、
飛行機を組み立てる工場で働いていた。

実験室も器具もいらず、
教科書があれば学べるからと、数学を勉強した。

戦争が終わり東京大学に入学し、谷山豊(とよ)と出会う。

志村は几帳面だったが、谷山はずさんだった。
緻密にものごとを進める志村は、
過ちを犯しながらも大胆に真理に向かう谷山が羨ましかった。

極端な対称性を示すモジュラー形式という領域が19世紀に生まれた。
谷山はその生まれたばかりのモジュラー形式を
ピタゴラスにまで遡る由緒ある楕円方程式と
実質同じではないかという仮説を唱えた。

この異端な説の味方は志村だけであった。
志村は友人の説を裏付ける研究に取りかかる。

しかし、将来への自信を失ったという理由で、
谷山は自ら命を絶ってしまう。

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小林慎一 16年5月15日放送

160515-07

フェルマーの最終定理 つながる2つの世界

数学者・志村五郎は、
プリンストン大学で2年間客員教授を務めると日本に帰国した。

彼は、亡くなった彼の親友である谷山が唱えた
モジュラー形式と楕円方程式の関係性について
もてる力をすべて注いで研究した。

志村はひとつづつ証拠を積み上げ、
モジュラー形式と楕円方程式の理論は
広く受け入れられるようになった。

モジュラー形式と、楕円方程式という、
別々だと思われていた世界がつながることは
非常に意味があった。

その理論は数学界のロゼッタストーンと呼ばれ
谷山・志村予想と呼ばれた。

1987年。
ゲルハルト・フライはシンポジウムで驚くべき発表をした。
谷山・志村予想を証明することは
フェルマーの最終定理を証明することにつながる、と。

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小林慎一 16年5月15日放送

160515-08

フェルマーの最終定理 つながる2つの世界

アンドリュー・ワイズは
10歳の時にミルトン通りにある小さな図書館で
フェルマーの最終定理に出会った。

彼はすぐさま、証明に取りかかったが
もちろん正解は得られなかった。

それから30年後。
ワイズは、ケンブリッジのニュートン研究所で、
チョークを走らせている。

聴衆は歴史的瞬間に立ち会えると緊張し、興奮していた。
3枚ある黒板がすべて数式で埋まり、
最初の一枚が消され、また、数式で埋まった。
最後の一行を書くとワイズはチョークを置いてこう言った。
「ここで終わりにしたいと思います」

ワイズの証明は論文にすると200ページあった。
そこには、あらゆる分野の古典から最新の数学が
駆使され深められていた。

ワイズの論文を読んだ数学者は言った。
数学者は各々バラバラに目標をたて研究をしていたが、
実は、みなフェルマーの最終定理に取り組んでいたんだ。

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