©️saito taku
遠足
遠足というと、近頃は秋に行われることも多いですが、
もともとは春に行われる行事であったといいます。
昭和のはじめの頃の唱歌に「遠足」という題の歌がある。
鳴くやひばりの 声うららかに
かげろうもえて 野は晴れわたる
と絵のように美しい春の景色から始まるこの歌には、
昔も今も変わらない遠足の楽しさが歌われている。
菜の花におう里 見下(みおろ)して
笑いさざめく ひるげのむしろ
遠足の日のお弁当の味は特別。
©️saito taku
遠足
遠足というと、近頃は秋に行われることも多いですが、
もともとは春に行われる行事であったといいます。
昭和のはじめの頃の唱歌に「遠足」という題の歌がある。
鳴くやひばりの 声うららかに
かげろうもえて 野は晴れわたる
と絵のように美しい春の景色から始まるこの歌には、
昔も今も変わらない遠足の楽しさが歌われている。
菜の花におう里 見下(みおろ)して
笑いさざめく ひるげのむしろ
遠足の日のお弁当の味は特別。
©️saito taku
遠足
遠足は、俳句では「春・晩春」を表す季語。
春もたけなわとなって
萌え出た青草を踏みながら歩き回る喜びを、
昔から人は愛してきたようです。
晩春といえば、まさにちょうど今頃。
外で遠足の列を見かけることも多いのではないでしょうか。
野の道で、街で、電車の駅で。
意外なところで遠足に遭遇した驚きを俳句が伝えている。
遠足の列恐竜の骨の下 山尾玉藻
雨のあと遠足が来て駅濡らす 鷹羽狩行
遠足
遠足と聞くと、大人たちは、
「おやつは300円以内」とか、
「バナナはおやつに入りますか」とか、
そんなやりとりを思い出してつい騒いでしまう。
遠足でどこへ行ったのかは忘れても、
お小遣いを握りしめて買い物したときのワクワクは
忘れないようです。
最近の子どもたちの遠足事情は少し変化してきているそうです。
おやつは禁止だったり、
学校から一律に支給されるというところも多いという。
おきて破りのバナナの味は遠くなりました。
007 Tanuki
遠足
遠足のルーツはいつ頃?
学校行事としての遠足が始まったのは明治時代と言われています。
しかしそれよりもさらに前、江戸時代に、
群馬県の安中藩で「安政の遠足(とおあし)」というイベントが
行われたという記録がある。
殿様のかけ声により、藩士96人が、
安中城から碓氷峠の熊野権現まで
距離30キロ、標高差1000メートルを駆けたという。
無事ゴールした者には餅などがふるまわれたそうですが、
これはもう遠足と言うよりも日本のマラソンの発祥ですね。
遠足
卒業をひかえた高校生たちが「歩行祭」という遠足行事に参加する。
『夜のピクニック』は一昼夜ただ歩くだけの青春小説だ。
学校生活の思い出や卒業後の夢などを語らいながら、
親友たちと夜を徹して歩く男女の高校生。
そのうち彼らには、いつもとは違う青春の姿が見えてくる。
「並んで一緒に歩く。ただそれだけのことなのに、不思議だね。
たったそれだけのことがこんなに難しくて、
こんなに凄いことだったなんて」
遠足は特別な体験をプレゼントしてくれる。
走り出す 用意ドン
「位置について、用意、ドン」
というスタートの合図、
いったいいつ頃から使われていたのでしょうか。
明文化されたのは1929年発行の陸上競技規則だったという。
ではそれよりももっと前は、どんな合図が使われていたのか。
1883年(明治16年)に行われた東京大学の運動会では、
「いいか、ひいふうみい」
で走り出していたと伝えられている。
ちなみに翌年は、
「よろしゅうごわすか、用意」
そのほか「位置について」を指示するかけ声で
「腰を上げて待てえ」
「おんちゃなケツあげい」
なんてのもあったといいます。
走り出す タクリー号
日本の最初のガソリン自動車は、
自転車の輸入販売業者であった吉田真太郎らの手によって作られた。
アメリカ車を見本にしながら、いろんな部品を工夫して、
どうにか組み立てられた自動車。
ガタクリガタクリ走るので「タクリー号」と呼ばれた。
1907年(明治40年)のことである。
タクリー号は高価であったため
事業としては成功しなかったというが、
ともかくここから日本の自動車の歴史がガタクリと走り出したのである。
一方で吉田真太郎は事業に失敗し、変転の多い人生を送った。
最後に手がけたのは温泉掘削事業であったという。
走り出す 圓太郎バス
東京の町中を元気に走っているバス。
いつ頃から走り出したのだろうか。
1923年(大正12年)、関東大震災に襲われた東京。
市内交通の要めであった市電は
レールが壊れるなど壊滅的な被害を受けた。
復旧の見通しも立たなかった。
東京市は、その頃まだ一般的ではなかった乗り物自動車に注目。
アメリカからT型フォード・トラックのシャーシを輸入し、
国内で急造したボディを載せてバスに仕立てた。
その姿が明治時代のおんぼろ馬車「圓太郎馬車」に似ていたので、
市民から「圓太郎バス」と呼ばれて親しまれた。
これが東京の市営バス、現在の都営バスの原点となった。
走り出す 競走馬の試験
馬にも試験があります。
競走馬がデビューするために必ず合格しなければならない超難関、
ゲート試験。
気性の荒い馬ほど難関度が増すという。
落ち着いてゲートに入れるか。
ゲート内に入ってから暴れないでいられるか。
ゲートが開いたらスッと出られるか。
そういう競馬馬として最低限のスタートが
きちんとできるかということがテストされます。
不合格の場合はどうなるか。
再試験です。
合格するまではデビューできない。
走り出すまでは馬もたいへんなんだな。
走り出す 大師電気鉄道
今からちょうど120年前。
1899年(明治32年)1月21日、
1両の電車が満員の乗客を乗せて
六郷橋から川崎大師へ向かって走り出した。
多摩川と平行に走る約2kmの単線。
日本で3番目の営業運転電車、大師電気鉄道の開通である。
この日以来、川崎大師へは毎年各地からの参詣客で
大いに賑わうこととなった。
電車に乗って初詣をする日本人の
新しい習慣はここから始まったという。
大師電気鉄道は後に京浜急行と名前を変え、
品川から横浜、そして三浦半島までを結ぶことになる。
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