漫画家水野英子ができるまで
小学校3年生の時、「漫画家になる」と決めた。
独学で、鉛筆で漫画を描き始めた。
中学生の時から漫画雑誌に投稿した。
しかし「水野英子」の名前はいつも入賞一歩手前の佳作どまり。
卒業すると、高校へは進まず、地元下関の水産会社に就職した。
採用通知とほぼ同時に、一通の手紙を受け取った。
東京の出版社からだった。
漫画家水野英子ができるまで
小学校3年生の時、「漫画家になる」と決めた。
独学で、鉛筆で漫画を描き始めた。
中学生の時から漫画雑誌に投稿した。
しかし「水野英子」の名前はいつも入賞一歩手前の佳作どまり。
卒業すると、高校へは進まず、地元下関の水産会社に就職した。
採用通知とほぼ同時に、一通の手紙を受け取った。
東京の出版社からだった。
漫画家水野英子ができるまで
出版社からの依頼で、小さなカットを描いた。
いくつも案を作って送ると、
便せんにびっしり書かれた感想やアドバイスが返ってきた。
東京の編集者との間で分厚い封筒のやりとりが続いた。
漫画家水野英子が生まれようとしていた。
初めて完徹をしたときは、
祖母がずっとそばで消しゴムかけの
アシスタントをしてくれた。
夜明けの空がとてもきれいだったという。
yoppy
漫画家水野英子ができるまで
山手線の目白駅からバスに乗って10分。
椎名町4丁目の停留所でおりる。
停留所の先が三つ叉交番で、そこを右に入って、
二つ目をまた右へ曲がると左手に「トキワ荘」と書かれた看板が見えた。
水野英子、18歳。
はじめての上京である。
ぎしぎしと鳴るアパートの階段を上がりながら、胸がときめいていた。
漫画家水野英子ができるまで
短めのオカッパ頭にシューベルトのような丸ぶちめがね。
セーラー服に黒ズボン。
肘を張った右手で前髪をかきあげながら、
「水野です、よろしく」
とぺこんと頭を下げた。
その姿は、少女というよりはむしろ少年のようだったという。
目の前には同じトキワ荘の住人、
石森章太郎と赤塚不二夫が座っていた。
漫画家水野英子ができるまで
トキワ荘の部屋は四畳半。
家賃、月3000円。
トイレ、台所は共同。
石森章太郎、赤塚不二夫、水野英子の3人は、ここで
「U・マイア」というペンネームで漫画の合作をした。
仕事の合間に映画を見たり、夜遅くまで漫画の話をしたり、
仲間と過ごす毎日は刺激と楽しさでいっぱいだった。
七ヶ月をトキワ荘で暮らして、水野はいったん下関に戻る。
だがその七ヶ月は何年分にも相当する素晴らしい時間だったという。
正岡子規が大好きだったベースボール
正岡子規、幼名のぼる。
故郷松山を出て上京し、第一高等学校に通ううち、ベースボールを知った。
下宿の部屋で、手を挙げて高く飛んだり、手を下げて体を落としたり、
面白そうに球の受け方の真似をしていたという様子が伝えられている。
球うける極秘は風の柳かな
フライを受けるコツを詠んだ句だと思われる。
正岡子規が大好きだったベースボール
正岡子規、幼名のぼる 。
ベースボールの面白さにはまり、寄宿舎の友人たちを集めてチームを作った。
門前の道路を隔てた空き地が彼らのフィールドだった。
子規のポジションはキャッチャー。ときどきピッチャー。
左利きだが、投げるときは右だった。
九つの人九つの場を占めてベースボールの始まらんとす
プレー前のはやる気持ちが伝わってくる。
正岡子規が大好きだったベースボール
正岡子規、幼名のぼる。
当時ベースボールの何たるやをほとんど知らなかった日本人のために、
「よし、ここは一つ、あしが」と、一文を書いてそのルールや楽しみ方を紹介した。
直球、打者、走者、飛球、四球などの用語は子規がその時考え出したもので、今でも使われている。
今やかの三つのベースに人満ちてそゞろに胸のうちさわぐかな
満塁のチャンスの興奮をうたった歌である。
正岡子規が大好きだったベースボール
正岡子規、幼名のぼる。
ベースボールが大好きだった子規は、
「野球」と書いて「のぼーる」と読む筆名を名乗ったことがあった。
帰省した時には、松山の後輩たちにベースボールを教えた。
河東碧梧桐と高浜虚子もその中にいた。
若人のすなる遊びはさはにあれどベースボールに如くものもあらじ
ベースボール好きが増えることが子規はうれしかったに違いない。
正岡子規が大好きだったベースボール
正岡子規、幼名のぼる 。
病気を発症してからも、子規はベースボールのグラウンドに立つことをやめなかった。
いよいよ病気が重くなって、一人で歩くこともできなくなると、
病床の中で寝たまま、ベースボールの歌や俳句を詠んだ。
夏草やベースボールの人遠し
野を跳ねるボールを、のぼるは追いかけていたのだろうか。
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