『津軽』を行く
津軽線は、青森駅を出発すると、
津軽半島の東海岸を北上し、終点の三厩(みんまや)駅に到着する。
昭和19年、このルートを太宰治が旅をしている。
小説『津軽』の取材のためだ。
ただしその頃はまだ津軽線は開通していなかった。
太宰はバスで青森を出発して北へ向かった。
見送りに来てくれた幼なじみの友だちに、
「きみも一緒に行かないか」
と言いたくて、言えなかったと『津軽』に書いている。
『津軽』を行く
津軽線は、青森駅を出発すると、
津軽半島の東海岸を北上し、終点の三厩(みんまや)駅に到着する。
昭和19年、このルートを太宰治が旅をしている。
小説『津軽』の取材のためだ。
ただしその頃はまだ津軽線は開通していなかった。
太宰はバスで青森を出発して北へ向かった。
見送りに来てくれた幼なじみの友だちに、
「きみも一緒に行かないか」
と言いたくて、言えなかったと『津軽』に書いている。
くろふね
『津軽』を行く
青森駅を出てしばらくすると、
津軽線の車窓からは、左手に梵珠山脈が見えてくる。
「この山脈は津軽半島の根元から起ってまっすぐに北進して
半島の突端の竜飛岬まで走って海にころげ落ちる。」
と太宰は『津軽』の中で書いている。
つまり梵珠山脈は津軽線といっしょに走るのである。
太宰が乗ったバスの窓からも見えていたに違いない。
太宰の生まれ故郷の金木はこの山脈の向こう側にある。
AK
『津軽』を行く
津軽線は、蟹田駅までは電化されているが、
そこから先はディーゼルだ。
太宰は蟹田に着くと当地に住む古い友人と再会した。
友人は太宰の好物の蟹を小山のように積んで待ち受けてくれていた。
その日は西風が強く吹いて、家の戸障子をゆすぶったという。
今、駅のホームには記念碑が立っており、そこに『津軽』の中の一節が書かれている。
「蟹田ってのは、風の町だね。」
『津軽』を行く
蟹田の町はずれに観瀾山(かんらんざん)という小山がある。
この山に太宰は友人たちといっしょに登った。
青森湾の向こうに夏泊岬が見え、平館海峡を隔てて下北半島が見えた。
みんなで花見を楽しみ、文学の話をした。
現在、この山には文学碑が建てられている。
「かれは人をよろこばせるのが何よりも好きであった」
と書かれている。
Rsa
『津軽』を行く
津軽線の終点、三厩(みんまや)。
太宰と友人たちは、途中で買った二尺の鯛をぶら下げて、宿に着いた。
部屋からは目の前に海が見えた。
宿の女中に鯛を手渡し、
このまま塩焼きにして持ってきてくださいと頼んだところ、
5切れの塩焼きになって出てきた。
太宰はおおいにくやしがったという。
「いま思い出しても、あの鯛は、くやしい。」
と『津軽』に書いている。
1978年のスワローズ その1
1978年のスワローズ
1978年は特別な年だった。
球団創設以来一度も優勝したことがないスワローズは、
その春アメリカ・ユマでキャンプを行っていた。
そこに1人のアメリカ人選手が、バット1本を持ってやってきて、
入団テストを受けた。
選手の名前はデーブ・ヒルトン。
脚を大股に開き、背中を大きく丸めた打撃フォームが独特だった。
テストに合格したヒルトンは、
内野手・一番打者としてチームに加わった。
彼は、オープン戦から打ちまくった。
そのプレーは、泥臭く、常に全力疾走で、気迫にあふれていて、
チームに影響を与えた。
Stembridge
1978年のスワローズ その2
1978年のスワローズ
4月1日の開幕戦。
1回、先頭打者のヒルトンは、
鋭い音を響かせてレフト線にヒットを打った。
全力疾走で一塁ベースを回り、二塁まで達した。
シーズンはここから始まった。
開幕3連戦を、スワローズは18得点を挙げて勝利した。
万年負け犬だったチームが今年はどこか違う。
新しいスワローズにファンは目を見張った。
そのときの開幕戦を、
神宮球場の外野席でスワローズファンの村上春樹が見ていた。
ヒルトンが二塁打を打った瞬間、
彼は「小説を書いてみよう」と思い立ったのだという。
Stembridge
1978年のスワローズ その3
1978年のスワローズ
スワローズのクリーンアップは個性派ぞろいだった。
三番、小さな大打者、若松勉(つとむ)31歳。
四番、怒れる赤鬼、チャーリー・マニエル34歳。
五番、月に向かって打つアッパースイングの大杉勝男33歳。
広岡達朗監督の管理野球のもとで、
ベテランたちはのびのびと自分らしくバットを振った。
3人合わせて86本塁打、271打点を挙げた。
このシーズン、スワローズの全130試合のうち、
無得点に終わったのは1試合だけだったという。
リーグ最強にして、もっとも個性的で、
もっとも恐れられたクリーンアップだった。
1978年のスワローズ その4
1978年のスワローズ
シーズン後半、
スワローズはジャイアンツと激しい首位争いを演じていた。
一度も手にしたことのない優勝がちらちらと視野に入る中で、
苦しい戦いが続いた。
万年Bクラスの弱いスワローズを引っ張ってきた
エースの松岡弘(ひろむ)が、ジャイアンツを完封し、
チームに勇気を与えた。
六番杉浦亨が逆転サヨナラ3ランホームランを打ち、
3試合連続サヨナラ勝ちをして、チームは加速した。
優勝が決まった瞬間、松岡がマウンドでカエルのように跳ねた。
その姿が選手たちの背中ですぐに見えなくなった。
彼らはもう負け犬ではなかった。
1978年のスワローズ その5
1978年のスワローズ
リーグ優勝をしたスワローズは、日本シリーズに進み、
ブレーブスを破って日本一になった。
多くの人々が、スタンドで、テレビの画面でそれを見守った。
1978年は特別な年だった。
スワローズの選手たちにとってだけでなく、ファンにとっても。
村上春樹は、その年の秋のことをこう書いている。
「素晴らしい天候が続く、とりわけ美しい秋だった。
空が抜けるように高く、絵画館前の銀杏並木が
いつにもましてくっきりと黄金色に輝いていた。」
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